平家物語(語りのテクスト)  兵藤裕己  ちくま書房

 

王化(天皇の支配力)が直接的におよぶ秩序的空間、畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)

聖なる空間は疎外者・敗者達の怨霊ひしめく辺境の地の存在によって相対化される。

畿内と幾外の狭間、現世と他界、今と昔の時空の境界から発せられた琵琶法師の語りの声、鎮まらざるモノ達のカタリ。

平家一門のなにがしかの昔語りは異界との接点、逢坂山・明石の河原・辻・寺社などで琵琶法師のふたりの元祖、蝉丸・覚一によって集成された。

原作本の成立から百数十年を経た南北朝時代、明石の琵琶法師・覚一によって生成された“平家”語りの最初のテクスト(正本)は現在一般に読まれている平家物語の祖本である。

筆者兵藤氏がこの語りのテクスト生成を遡行する作業を通して現在日常性のあやうい構造を読み解く。

“祇園精舎”で有名な序章は“おごれる”“たけき”者に無常・必滅の理法を説き聞かせる。

“これこそ平家の悪行のはじめなれ”

序章に語られる平家滅亡を説明する因果論は平家物語の枠組みを明示しながら直接清盛・平家の魂を糾弾する。

王法・仏法の破壊者・清盛を弾劾する悪因悪果のイデオロギーは寺院権門に軸足をおいた院政期国家のイデオロギーと重ね合わされている。

“徒然草”は天台寺座主慈円の扶持をうけていた遁世した文人官僚“信濃前司行長”によって平家物語は作られ“生仏”という盲目に教え語らせたという。

事実はすでに歴史の彼方にあるが、何れにしろ平家物語生成の背後に仏教組織があり国家イデオロギーが有った事は十分推察される。

朝家を軽んじる平家、それに“いましめを加へ”るべく没落の身から立ち上がる源氏。

いうまでもなく頼朝の幕府はけっして“朝家のお守り”として存在したのではなかった。

挙兵は東国の反乱と言っても良いかも知れない、頼朝の狙いは権門国家の枠組みを超えた朝廷から独立した国家内国家の樹立であったろう。

しかし物語は言う、頼朝の功績は“不忠の者を退け奉公の者を賞した行為であり、平家のみならず義仲・義経らの”一族のおごれる”者を鎮め“仏法を興し、王法を継”いで王朝の秩序を回復せしめた。

悪因悪果・善因善果の因果論を説明原理とした源平盛衰の“歴史”が構想されたのである。

勿論、“朝家を守る武士”“仏法を興し王法を継”ぐ武士という“語り”が空論に過ぎない事、平家物語の作者自身誰よりもよく知っていたと思われる。

しかし王朝の政治秩序を価値基準とした源平盛衰の“歴史”は、それが語り物として流布・浸透した事で同時代の現実を越えた“歴史”的役割を担う事になる。

反北条(平家)の内乱を糾合した足利・新田(源氏)、織田の平家、徳川の源氏自称による平定、現代の運動会・歌合戦などにつながる紅組白組対抗の祝祭。

現実の武家政権を王朝の政治秩序に組み入れる神話の成立。

政権をめぐってどんなにはげしく争っても、それが源平合戦の物語に支配されている限り、日本社会という全体の枠組みはこわれない日本的イデオロギー。

“語り”がイデオロギーを生成し、イデオロギーが“歴史”を形作る過程を見る筆者・兵藤氏の世界です。

確かに平家物語の枠組みは悪因悪果の因果“物語り”であるが、それだけならこれ程に民衆に受け入れられただろうか。兵藤氏は平家物語の成立史に今ひとつの論点を提供する。

作者によって意図された“歴史”の構想が、“語る”行為を通して相対化されていくのである。

物語は因果論的秩序への順逆を説く作者の意図を越えて動き出す。

終末へむけて動き出したのは単に武家の一権門としての平家の運命なのではない。

仏法・王法ともに衰微する末世世相の不安。

王朝の歴史的持続と、それをささえる畿内中央の時空そのものが崩壊する兆し。

“平家”は語り手の外側に文字テクストとして在るのではない。それは“声に出したり口に吟”じるその都度語り手の意識に呼び起こされる。

霊媒的職能を想起させる琵琶法師の“語り”

文字テクストは語る行為をとおしてふだんに相対化されていく。モノの鎮めの“歴史”テクストが、鎮まらざるモノたちの語りによって相対化される。

柳田国男は俊寛の物語が“有王”を称する宗教民の口語りとして発生したと言う。

兵藤氏は平家物語がもともと念仏聖、憑巫(よりまし)、琵琶法師など遍歴芸能民等“語りのネットワーク”によって生成されたとする。

“物語り”=“霊(モノ)語り”

本来徐災招福のホカヒ(祝福芸)を本業とする琵琶法師の福演出としての語られた“平家”

非業に倒れた武将の霊に同化語らせる事で霊を慰め鎮め疫病・虫害などの災厄を依代に転移させ共同体の安寧秩序を維持させようとしたとの事である。

平家物語を構成する鎮まらざる霊の物語郡は念仏聖や尼または琵琶法師らによって寺院に運び込まれた。

それらは寺院社会(それ自体権門体制下の国家、例えば“行長入道”)によって悪因悪果の物語として編集・再構成され琵琶法師によって語り継がれていく。

しかし語り手は寺院本所への隷属をしだいに稀薄にし、座としての結合・自立をふかめていく。

兵藤氏は覚一本の定着にいたるまでの語りのテクスト生成を“平家”語りが自らのスタイル(鎮まらざる霊の物語りとして)を自律的に回復していく過程と位置付ける。

宗盛、重衡、惟盛などの告白懺悔の物語は琵琶法師を通して語られる鎮まらざる敗者のリアリティに充ち満ちている。

そして覚一本末尾に特別立てられた秘曲“灌頂の巻”、生きながら六道を体験した建礼門院の語り。

後白河法皇の存在に象徴される国家的作善回向(怨霊鎮魂)の論理に対置されたのは、悪因悪果ならず、罪業を逆縁とした女人(悪人)往生の物語りであったのだ。