明治維新 18581881 坂野潤治+大野健一  講談社

 

1858年 日米修好条約を皮切りに蘭露英仏との通商条約が相次いで調印された

1881年 “明治14年政変”を機に憲法制定・議会開設・産業民営化に向かっての路線が確定

1858年以前を開国以前、18581881年を“開国の衝撃を受けての変革期”、1881年以降を実践期とする

1858年日米修好条約締結は別として、1881年の年号は私ども素人にはちょっと馴染みの薄い年号である

1868年(明治元年)、1872年(廃藩置県)1877年(西南戦争終結)でもなく1889年(憲法発布)でもなく

大隈重信敗れ伊藤博文・井上薫らにより憲法制定・国会開設への工程に決着を見た1881年を維新“変革”の終了とされている点、まずもって著者のユニークな視点が有る

“ここで云う“変革”とは開国のインパクトに対応するために政治体制を再編し、国家目標を立て直し、

 その具体的内容、優先順位、工程表及び実施者につき合意決定する過程をさす“

日本は“明治維新”によって圧倒的な欧米圧力に対峙しながらも政治的独立を守り、社会を西欧化・近代化する事で逸早く欧米列強にキャッチアップ出来た

近代化と云うよりも極めて短期間に“富国強兵”を実現できたことは奇跡的驚異であり、中国・朝鮮等東アジア諸国の羨望の的にもなった

明治時代が“排他的・強権的な藩閥政権”による経済・軍事の近代化であったとする通説がある

著者は反論する

明治の変革は(第2次世界大戦後の東アジア諸国に見られた強権的近代化)=“東アジア型開発独裁”によるものでない

では日本が明治維新で“開国”・“近代化”に成功した理由は何か

著者はその秘密を国家目標が“富国強兵”“公儀輿論”二つに軸足を持っていた事に求める

二つの軸足をめぐって苛烈な“権力闘争”が戦われたが、紆余曲折を経ながらも国家全体としてバランスのとれた近代化路線を引く事が出来たとするのである

“富国強兵”路線の裏に“公儀輿論=明治デモクラシー”あり

2つ或いは4つの国家目標が拮抗する柔軟性、それを可能にした変革リーダー達の柔軟な戦略、幕末“藩”組織の合従連衡

著者は日本の変革主体がこの様な柔らかな“構造”を持っていた事が近代化を成功裏に導いたと考える

その視線は柔らかい社会的・精神的構造から硬質的な構造に陥った昭和の歴史への反省であり、昨今情報遮断・反政府に対する弾圧を繰り返しながら“近代化”を勝ち取ろうとしている“独裁国家”に対する警鐘である

 

さて 著者による維新変革主体の構造分析である

明治革命主体の圧倒的部分は士族(サムライ)であるが、変革に向けての人材育成・ネットワーク形成の孵化器の役割を果たした有力藩主の役割を大きく評価する(特に島津久光・松平春嶽・山内容堂らは封建商社の設置についても封建議会の準備においても強いリーダーシップを発揮した)

もとは旧制度の枠内に有った下級藩士や雄藩藩主が幕藩体制の外圧に対する軍事的無力・保守性に国家崩壊の危機を認識、権力闘争の中で覚醒して行ったと云う所だろうか

旧体制に帰する公卿、幕府学者、在野学者、豪商、豪農等や一般大衆の政治的貢献は余り評価していないが、

著者の“構造”からの分析視点が新鮮だ

“構造”を視る対象は、当時の時代背景からどうしても“藩”が中心になる、一方藩から独立した(見捨てられた?)“竜馬”らの役割は幾分軽視される結果になった

もっとも“竜馬”の思想は勝海舟・横井小南など革新官僚の思想を“柔軟に”取り入れた事に特徴が有り、その見事な実践的手腕は薩長等諸藩を動かす事によって果たされた事を見ても、著者の分析手法は理にかなっていると云えよう

著者は明治日本の国際統合が成功した理由は、それが国際社会への受動的な“組み込まれ”ではなく、能動的な“翻訳的適応”として実行されたからだとする

翻訳的適応=“既存のシステムの担い手が、西欧文化=文明の各要素を自らの世界観のなかで読み換えて理解し、既存の制度をずらしながらもその原理を維持し、それに対応=適応してきた”

能動的“翻訳的対応”はどの様にして成し遂げられたか?

黒船来航と云う外的ショックを前に、幕末変革勢力の戦略は公儀輿論と富国強兵(現代風に云えば日本が民主主義を導入する事で経済大国・軍事大国になる事)だった

この目標は政争の過程で四つの目標、四つの勢力を形成する

@   憲法制定(木戸派)

A   議会創設(板垣派)

B   殖産興業(大久保派)

C   対外進出(西郷派)

特徴的な事は、これらの国家目標が同時並立的に追及された事、諸藩の合従連衡(例えば薩長同盟や薩土盟約)連携の組み換えの中で追求された事又リーダーたちによる目標の優先順位の自由な変更の下に追及された事である(良く云えば状況適応悪く云えば状況に応じてブレまくったかも知れない)

一つの目標の挫折は他の目標推進でカバー、一つの勢力の突出は他の連合で封じ込めると云う“柔構造”によって達成された

“柔構造”故に政治闘争は長期の内乱突入、その隙に乗じて外国勢力の介入と支配を招くと云った事態を回避できた

“柔らかい”変革の運動を少しだけ見て見よう

@   公儀輿論の追及

合議政体を最終的に完成させる事は新政府にとって革命に正統性を与える政治的条件と見なされていた

封建議会論(諸藩合議制から藩主・藩士の二院制)

→近代的憲法制定と議会開設へ

A   富国強兵の追及

封建商社(各藩の開港場での商会、分権的重商主義)を創設する事で経済力・軍事力を充実した雄藩が倒幕勢力となり明治政府の中枢に座る→中央集権的殖産興業政策

→一方王政復古・廃藩置県を達成した後の“革命軍”は外征に目標転嫁

→“富国派”と“強兵派”の財政的対立(73年征韓論、74年台湾出兵、75年江華島事件)

→旧長州藩(木戸・井上)と旧土佐藩(板垣)が立憲制への移行を条件に富国派支持にまわる(大阪会議)

→憲法派の木戸は更に大久保に近づき、大久保は強兵派・西郷鎮圧(77年・西南戦争)

→殖産興業路線の勝利と挫折(財政・外貨危機)、憲法派と軍部(山県)の復権

→資本形成は民間に移管され、松方デフレ以降1880年代後半、日本の産業革命が本格化する

 

何故日本は“柔構造”を持ちえたか?

江戸時代は決して閉鎖的硬直的な社会ではなく、市場経済・手工業の発展により近代的条件が徐々に醸成されつつあった

そこにもって外圧を契機とする徳川政権の軍事的無力露呈更に外交的・政治的・経済的失策である

旧来の幕藩体制や身分秩序に縛られない政治闘争を許容する社会的環境はすでに生み出されていたのだ

 

@   日本と西欧が広大なユーラシア大陸の東と西両端に位置する地理的条件に注目、大陸から遠すぎも近すぎもしない絶妙な距離が先進文明の吸収及び侵略と破壊からの防衛と云う2つの目的に極めて有利な条件を提供してきたとする(梅棹理論)

A   両者に見られる封建制(土地に対する権益の授受を媒介とする主従関係)は地方勢力の割拠の下に政治経済力の底上げを可能にし、近代的工場制工業の成立にとっての前段階を提供した

B   日本は外的要素の吸収と内的転換の繰り返す事で累積的重層的な社会構造を作り上げて来た

古い要素と新しい要素の柔軟な共存させながら、民族的アイデンティティを保持できた(翻訳的適応)

良く云えば柔軟性・包容性・プラグマティズム、悪く云えば原理の欠如・節操の無さ・雑種性

このような条件のもとに

@   諸藩士の上下の交流、有力藩間の左右の交流による協力関係が形成されていた

A 遠心的政治闘争は、支配階級の一部を構成する下級武士及び知識階級である豪農、豪商、在村知識人らが広く共有するにいたった民間ナショナリズムと云う求心的な精神基盤の中で進行したため、最後の一線を踏み越えることなく国家利益を目的に競われた

 

幕末維新期、変革指導者たちは国家目標を例えば“富国強兵”に絞らず、複数目標を視野に入れていた

自分達グループだけで権力を握ろうとせず、いつも競争相手との合従連携に努めていた

彼ら自身どこに本音があるか疑わしくなるほどの柔軟性を身に着けていた

著者は変革期においては組織が“柔構造”である事の“強み”を五大藩・比較分析によって立証する

何故薩摩藩と長州藩が維新政権の中核に据わり、土佐藩がそれに一歩を譲り、越前藩と肥後藩が勢力を失って行ったかを分析する

下記三点に付き各雄藩を採点する

@   目標の複合性(目標が硬直的であっては駄目と云う事)

A   合従連衡 

B   指導部の安定性と可変性(最も大きなウエイトをおく)

越前藩 富国強兵路線は不安定であり一貫していたのは公儀輿論のみ、指導部の安定性にも弱点

土佐藩 二つのグループ(公武合体派と倒幕派)が別々の盟約を結んでいた(一体性がなかった)

長州藩 同志的結合は優るとも、国家目標の複数制、合従連衡に柔構造を欠く

(ナショナリストによる富国強兵路線)

薩摩藩 殆ど完璧な柔構造を備えていた(西南戦争で崩壊し、政府内での力関係で長州が優位に成る)

 目立つのは意見の対立を乗り越えての同志的結合の強さである

(著者は薩摩藩においては情報が共有されていた事、意見の相違が行動の分裂を齎さなかった事を例示する)

 同志的結合が強ければ個々には違う連携相手(薩会同盟、薩土同盟・薩長同盟)も

グループ全体としての多様性と柔軟性のある合従連携を可能にする

対象的なのは佐賀藩である

 自藩だけで“富国強兵”を実践し得た佐賀藩は他の雄藩との連携を必要とせず、

その藩士は共同作業・連携組み換えの訓練を受けなかったが為

過激・単独プレーに頼る傾向が有り明治政府で重要な位置を占め得なかった(大隈重信・江藤新平等)

 

ここまで来ると薩摩藩は何故強かったか?越前藩・佐賀藩は何故弱かったかの下世話話のようにも思えた

寺田屋騒動、薩会同盟、薩土同盟、薩長同盟、西南戦争等を乗り越えて権力を握った薩摩の同志的団結は“公儀輿論”に裏付けられたと云えるようなものだったろうか?

島津久光の権力志向、大久保利通の怜悧、西郷隆盛のダンマリは、権力のせめぎ合いの中でやむを得ず取られた“柔軟な”戦略(変わり身の早さ・巧妙さ)の様にも思えるのだ

そうであるならば、“公儀輿論”は外面だけ、権力の頂点に達すれば“公儀輿論=デモクラシー”を政策目標にするとはとても思えない

確かに“可変”しても“安定”している”柔軟な“運動体が強いのは当然だが、著者の云う”明治デモクラシー”が、日本近代化の推進力であったか、時の権力者或いは反権力が本気で“デモクラシー”を信じていたか、何となく著者の“牽強付会”のようにも思える

ならば再び問わねばならぬ、近代化を保証するものは何だったのか?

近代史及び開発経済学の練達の著作を前にして、私の思いは巡る