明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト 原田伊織  講談社文庫

 

徳川将軍略系図

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%AE%B6

1841

天保の改革

1842

天保の薪水給与令

1843

阿部正弘が老中になる

1853

ペリー来航、阿部老中は雄藩に意見徴収

1854

日米・日露・日英和親条約

吉田松陰、密航に失敗投獄

1856

松蔭、松下村塾を開く

将軍継嗣問題の表面化

1858

老中・堀田正睦、条約勅許に失敗

大老・井伊直弼 日米修好通商条約を無勅許調印

金貨流出・物価騰貴

将軍・家茂に

安政の大獄

1859

安政の大獄で松蔭・橋本左内刑死

1860

桜田門外の変

老中・安藤信正は公武合体策提唱

1861

和宮降下

1862

坂下門外の変

土佐家老・吉田東洋暗殺

長州テロリスト(天誅)の横行

会津・松平容保、京都守護職に

高杉晋作、英公使館焼き討ち

長州が朝廷掌握

寺田屋事件

将軍後見職・一橋慶喜、政事総裁職・松平慶永

生麦事件

1863

長州・馬関戦争、薩英戦争

高杉晋作、騎兵隊結成

8.18の政変(公武合体派の薩摩・会津の巻き返し)5郷落ち

天誅組の変、天狗党の乱

新撰組誕生

1864

池田屋事件

蛤御門の変→第1次征長戦争

1865

孝明天皇が条約勅許

土佐勤王党武市半平太処刑

坂本龍馬、薩摩の支援で亀山社中結成

1866

薩長連合

幕府は第二次征長へ

一橋慶喜 将軍に

攘夷佐幕の孝明天皇崩御(暗殺?)

1867

亀山社中は海援隊に、船中八策

山内容堂の進言で大政奉還

倒幕の密勅(偽勅?)

龍馬・中岡慎太郎(陸援隊)暗殺

小御所会議で慶喜は辞官納地

王政復古の大号令

1868

薩摩の挑発に幕府軍・戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)

赤報隊の偽官軍(西郷の策?)

西郷・勝会談、江戸城無血開城

奥羽越列藩同盟

明治元年、五箇条の誓文

1869

上野戦争

会津戦争

箱館戦争

薩長土肥が版籍奉還

東京遷都

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村山たか女 長野主膳の愛人 

  天誅で真冬に生きさらし

三条大橋に生きさらしにされた村山可寿江の図

「幕末天誅絵巻」より(霊山歴史館蔵)

a0045381_7424032.jpg たか女は体に食い込む綱の痛みに耐えた。三条大橋の橋柱に縛り付けられて三日三晩、小柄な彼女の体を、旧暦十一月の真冬の川風が凍りつかせた。

 柱にはたかの”罪状”を記した”捨札”が掲げられていた。

「此女、長野主膳(ながのしゅぜん)妾として・・・」

 安政五年(1858)以来、主膳

の悪巧みを助け大胆不敵の仕業をすすめ、許すべかざる罪科を犯した女である捨札はこう決めつけ

「其身女たるを以、面縛の上、死罪一等滅じ」と女の身にはもっともむごい”生きさらし”の刑に処した理由を述べていた。

 たかを捕えたのは、長州、土佐の激徒たちである。京の尊王攘夷派の志士や公家たちに大弾圧を加えた安政大獄の演出者、大老井伊直弼はすでに二年前、万延元年(1860)三月三日、江戸桜田門外で水戸浪士らに襲われて横死している。その直弼の死後、京にはテロの旋風が吹き荒れた。梅田雲浜(うんぴん)ほか大獄の犠牲者たちを断頭台に送った大老配下の者たちへの尊攘派側により報復である。

 桜田の変から二年。文久二年(1862)七月には幕府側に立っていた九条関白家の家士、島田左近が殺され、その首が四条大橋北1丁目の河原にさらされた。翌八月には彦根で主膳が藩命により斬られた。

 その天誅の風が、たか女の身辺に及んだのは主膳の死から三ヶ月後、同年十一月十四日の夜である。洛西一貫町のたか女の隠れ家をおそった三十人の激徒は、彼女を捕え橋柱に縛り付けた。その翌日、彼女の一子、多田帯刀(たてわき)も三条河原におびき出され、粟田口で斬られた。首は刑場の木に吊るされた。子の死はさらされたたか女にも直ちに伝わっただろう。

 直弼・主膳・帯刀・・・自分よりも若くそれぞれに肉体と血によって結ばれていた、これら三人の男たちの相次ぐ非業の死は、たかから生きるすべての力を奪った。「死罪一等滅じ」と記された札の下で生きさらしの彼女は死をこそ望んだだろう。それでも死ぬことのできない自分の命の強さ・・・生きねばならないおのれの業の深さを、五十三歳のたか女はそのとき呪っていた。

悲運結んだ赤い糸

直弼の兄、十二代彦根藩士、井伊直亮(なおあき)ほか、金閣寺の僧、その坊官多田某・・・など、多彩な男性遍歴をたどらねばならなかったたか女だが、彼女の生涯を決めた直弼、主膳の二人とは、その生い立ちから相似た”運命”を分け合っていた。

 彦根第十一代の藩主、井伊直中(なおなか)の十四男坊に生まれた直弼が十七歳から三十二歳まで十五年、わずか三百俵の扶持(ぶち)で自ら名付けた埋木舎(うもれぎのや)に、その青春と人生を埋めねばならなかったのは、今さら言うまでもない。

  一方直弼と同い年の主膳は、その妻の墓に「初代長野主膳」と刻まねばならなかった男である。”初代”すなわちその祖先を名乗ることもならず、父祖の存在を我が手で彼は否定した。あるいは西国の名門の出といい、また幼い頃母に見捨てられたとも語られ、二十五歳までの前半生が全く謎のまま残る彼の生い立ちの秘密を、それは暗示するかのようだ。

 たか女の出生も、またこれに変わらない。しばしば言われる一つは近江犬上郡の多賀大社の社僧と彦根尊勝院の長老と同大社・般若院の娘との間の子、ともいう。ただいずれにも一致するのは、幼い彼女が父と呼べなかった、ということだ。僧籍の身のため世間をはばかった父親は、たかを養女に出した、と語られる。彼女もまた待ち望まれた子ではなかった。

 だが、主膳、直弼・・・三人をやがて結びつけたいくつかの理由のうち、一つにはいずれも背負わねばならなかった生い立ちの重いうめきがあったかもしれない。あるいはそれこそ、動乱の時代に運命を共にした三人を結ぶ一筋の赤い糸だったのかもしれない。

遍歴の終章は幕末のスパイ

「色の白い小柄で面長な美しい姿」(土佐藩士・依田珍麿)だったかは、ひたすらな生き方の女だった。彼女のことを語ったと推定されている直弼の手紙がある。それは嘉永四年八月四日付。兄の死によって埋木舎の時代には思いもよらなかった彦根藩士の地位についた翌年、彼の三十七歳の手紙である。もはや何の心の隔たりもない腹心、長野主膳にあてるその文面で、直弼は「極密内々尋申候」・・ごく内密で話したい、と書き起こし、

 かの婦人(たか女)はどうしているか。彼女はいったいに心得がよくなく、かって自分が関わりを持ったことで今ではひたすら後悔しているが・・・と筆を進めていく。

 直弼の非難がましい口調にさらされているたか女だが、二人の出会いのはじめは兄、直亮の侍女だった彼女が、埋木舎にあった不遇の直弼を訪ねるうち結ばれたともいわれる。五歳年長のたか女の恋は未来が閉ざされていた時代の直弼に注がれたものだった。

 それがやがて十余年の後。彦根三十五万石のトップの座に昇りつめた時、直弼はこの過去の多いたか女との関わりを”汚名”とまで言い切るようになる。「世間へもれ候ては一大事」と書く直弼はその昔たかを向かい入れた埋木舎の彼ではなかった。七年後に安政の大獄で示される権力主義者へと変身しつつある彼だった。

  それでもたか女は、直弼を裏切ることはなかった。安政五年(1858)、四十四歳で直弼が大老の位に就き、将軍家跡継ぎと日米修好通商条約の調印問題をめぐり、水戸や京への反対派への弾圧を開始したとき、たかは主膳とともに彼の手足となった。

 同年八月、京に入った長野主膳と前後して、同じく入洛した彼女は「言語道断実に神州一の大逆此上有べからざる者」と、梅田雲浜らからののしられた主膳と行動を供にし、志士・公家らの情報収集、主膳と九条家の島田左近との間のレポ(連絡)役などに当たった。

 そのころ京には彼女のことを、昔、御所の官女に仕え、先代彦根藩主に仕えるうち主膳と密通、いわば京に駆け落ちした者とのうわさが流れていた。

 しかしそんな風聞とは別に、宝鏡寺の茶室で、あるいは祇園の茶屋で情報を交わすひとときのうち、危険なスパイ活動に従う二人の間で最後の恋があったとしても不思議ではない。

 だがたか女のひたむきな動きも二年で終った。直弼の死である。思いを寄せた男性、またわが子と身辺に多くの死を見ながら、それでも一人生きねばならなかった彼女は、三日三晩の生きさらしから解き放たれた後、洛北・一乗寺の金福寺を最期の地にした。

 妙寿尼と名をかえ、同寺に入った彼女は、六十歳をはるか超えるまで生き続けねばならなかった。自分の幸福と不幸の根源が、生まれ年の巳の”宿命”にあることを見たかのように、彼女はそれをかたどった品々を残している。

 生涯、自分が背負わされた人生とひたむきに戦い抜いてきた中に、伝説の世界で知恵と生命力の力を表すとされる"巳”は、まことにふさわしいシンボルだったかもしれない。

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小御所会議  西郷(ドス1本あれば、事足りるではないか!と煮え切らぬ容堂達を脅した?)

http://45ryouma.jugem.jp/?eid=64

まず、「小御所会議」までの流れを簡単に振り返ってみよう。

慶喜が将軍職についたのは、12月5日。14代将軍・家茂の死から、5ヶ月たった時点だった。それほど、拒みつづけた理由。それは、幕府そのものが「死に体」だったということだ。火中の栗をひろう。そんな状況であることは、誰の眼にもみえていた。周りからの執拗な説得。「じゃあ、仕方ない。そんなに言うんだった、なってやるか!だけど、どうなっても責任はとれないよ!」。すでに慶喜、将軍職就任前から予防線をはっていたということだろう。

徳川幕府にとって、当面片付けなければならない問題は2点あった。

ひとつは、「第二次長州征伐」停戦後の長州藩をどうするか。

もうひとつが、「神戸港」開港問題。

第二次長州征伐で、幕府雄藩連合は個々の戦で負けつづけた。しかし、持久戦になれば様相は一変する。そう、本腰をいれて戦うとなれば、フランス軍の協力も考えられるだろう。だから「負け戦さ」ではない。ただ、家茂の急死によって、止めただけだ。そんな思いは、慶喜のみならず幕臣・諸藩にあったことは事実だろう。

だが、そうはいっても財政は火の車だ。あえてまた戦うなど意味がない。これもまた事実だった。

慶喜はあえて結論を性急には出さない方針だった。差し迫っていた「神戸港開港問題」を優先しようと考えていたようだ。しかし、薩摩藩の意見はちがっていた。慶応3年(1867)5月の四侯会議以後、その対立が鮮明となる。

薩摩は、長州の名誉回復のため、雄藩に働きかけた。そして実現したのが四侯会議。松平春嶽(前越前藩主)・島津久光(薩摩藩主の父)・山内容堂(前土佐藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)は京で一堂に会する。この会議は表向きは、公家職のひとつ「議奏(ギソウ」の欠員は誰にするかではあったが、本当の狙いは「長州問題」を俎上にのせることであった。

四侯会議後、彼らはすぐに慶喜との話合いの席をもつ。しかし、四侯(とくに久光)の説得にもかかわらず、慶喜は開港問題を先決するという自身の主張をまげない。すぐに会議は暗礁にのりあげた。

慶喜にとって、神戸開港は一大問題だったのだ。すでに米英仏との約束の期限は迫ってきている。もし開港できないとしたら、武力で迫ってくることは確かだ。すでにその動きがあった。しかも、そうなったなら彼らの幕府への信頼も失墜する。

また、長州問題を言及することは、どうしても避けたかった。長州への処分の取り下げるということは、これまた幕府の権威にかかわること。二つの案件を同時に決断してもかまわないはずだが、あえてそれを避けたのだ。

神戸開港は、急逝した先帝の考えにより、引き伸ばされていた。有力公卿といえども、そうやすやす覆すことはできない。しかし、昼夜におよぶ議論の末、慶喜は開港の勅許を勝ちとる。ひとまずは、危機を脱した慶喜ではあった。しかし、この慶喜の態度に、諸侯は呆れることになる。時勢を直視しない、煮えきらない言動。ここから、薩摩藩の動きは急転することに。もう、慶喜と、議をつくして国事・国難にあたる、これは無理だ。国政を議論するに、慶喜をはずすしかない。それには、幕府を撃ち、国政の場から追い出すことだ。薩摩藩では、そんな空気で覆いつくされていく。

慶喜の頭には、これより以前から「大君制国家」構想があった。実のところ、龍馬が船中八策で記したとされる「大政奉還論」より前から、着想していたようだ。土佐の後藤象二郎が推しすすめなくとも、政権の返上は考えていたというのが事実である。だから、慶喜はすんなりと意見を聞き入れたのだ。ちなみに、この大君制とは、西周(ニシ・アマネ)が立案、構想。西は、オランダで法学をまなんだ将軍・慶喜の政治顧問であった。国家の三権分立や英国の議院制度などを、将軍に教授している。諸大名や有力士族からなる上下議院制度をつくり、その上に大統領となる「大君」をおくというもの。しかも、朝廷・天皇は、政治の外におかれる。実権は今までどおり、慶喜が握るという計画だった。そして、これはかりに慶喜が政権を朝廷に返上したとしても、朝廷に政治を動かす、そんな力はもうない!そんな読みが背景にはあったということ。実際、大政奉還の受理をめぐって、返上されても困るということで、拒否しようとしたことも事実だった。小松帯刀によって朝廷側はいやいやながら認めたということが、資料からも読み取れるのだ。

朝廷は困って、有力諸侯(大名)を京によびだす。そこで開かれた初めての話合い、『小御所会議』となった。12月9日、京都御所で執りおこなわれる。構成員は、同日付けで発せられた「王政復古」の大号令で、新設された三職からなった。総裁1名・議定10名・参与16名そして天皇の総勢28名。総裁として、有栖川宮熾仁親王(皇族)。議定は、皇族として、仁和寺宮純仁親王・山階宮晃親王の2名、そして公家としては、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之の3名、藩主が、徳川慶勝(元尾張藩主)・松平春嶽(前越前藩主)・浅野茂勲(芸州藩世子)・山内容堂(前土佐藩主)・島津茂久(薩摩藩主)の5名だった。参与は、公家から岩倉具視など5名、藩士としては、尾張から丹羽と田中の2名、越前から中根と酒井の2名、芸州から2名、土佐から後藤象二郎と神山左多衛の2名、そして薩摩から西郷隆盛・大久保利通・岩下の3名だった。

この小御所での会議、その実態は完全なクーデターだった。これは薩摩の当初からの狙いでもある。今後の政局に、将軍を加えない。これを、ねじ伏せてでも天皇・朝廷に納得させる。そんな計画であった。岩倉具視が中心となって大久保利通らと作戦をねって実行したもの。「小御所会議」前後の構想はこうだ。

まず、朝議で「倒幕派公卿と長州藩」の権利回復をはかる。つまり長州・藩主の官位復活と入京許可。そして、「8・18の政変」で追放された三条実美ら5人の公卿の特赦と、岩倉具視ら公卿の謹慎処分解除をおこなう。

つぎに、夜半に摂政の二条斉敬ら親幕派・中立派の有力公卿が退廷後、御所9門を閉鎖するというもの。薩摩藩・芸州藩・尾張藩ら5藩の軍が、出入りを完全に封鎖したものだった。ここで、摂政・関白・将軍職の廃止し、総裁、議定、参与の三職を新設したのだ。

急転直下だった。

この会議で、徳川慶喜の辞官と幕府直轄領の納地が決議される。しかし、すんなりと決まったわけではない。土佐藩前藩主の山内容堂が、これに異議をとなえ、紛叫。議論が縺れに縺れてどうにも進まなくなったときに、ひとまずの休憩。そこで、西郷が発したとされる言葉、それが「短刀が一つあれば、こと足りるではないか!」。そして、「辞官納地」が決まったとする説である。この西郷の「短刀ひとつ」の言。これは後世の創作にまちがいない。まず、武士たるもの、そんな脅しにのっていたのでは家紋が泣くことになる。しかも、当時もっとも力があり、しかも英名をとどろかせた有力諸侯だ。宮中の貴族ならいざしらず、まずありえないだろう。実際、この会議の後も、この慶喜の「辞官納地」案件は揺れ動いた。これを言いだした岩倉具視でさえ弱気になったという事実がある。春嶽が、辞官納地の具体的プランを、岩倉に問いただすと、慶喜は「前内大臣」を名のればよいとした上で、将軍家領地については言及をさけるという態度もとっている。

結局、「小御所会議」は新制度として、「総裁、議定、参与」の三職を新設し、親幕派公卿を排除することに成功しただけだった。

ここで、薩摩や岩倉の構想は行き詰ることになる。この状況を打開したのが西郷の機略だった。

江戸での挑発作戦。これはまさに「謀略」だった。浪士ら雇い江戸市中で放火・暴行・掠奪のかぎりを尽くす。これに怒ったのは、江戸警備をまかされていた庄内藩。幕府側は、まんまと罠にはまり、庄内藩とともに薩摩藩邸を焼き討ちにする。この報をきいた、大阪城にいた会津藩・桑名藩らは激昂・暴発することに。

慶喜は、それまで盲動を止めていた。そして、ほぼ「辞官納地」をうけいれる所まできてはいたが、図らずも鳥羽伏見の戦いへと、流れは進むことになってしまう。つまり、慶喜は、平和裏にことは進めようと、考えを修正していたのだ。しかし、すんでのところで、大規模な戦争、そう戊辰戦争へ時代はながれていってしまうことになった。

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薩長政権のキャラクターは太平洋戦争の基盤要因となった

過激化を極める長州のテロリスト

桂小五郎はテロリストの元締め

肝が小さく見栄っ張りのお坊っちゃん 高杉晋作

桂小五郎 吉田松陰 高杉晋作 久坂玄瑞 井上聞多 寺島忠三郎 吉田稔麿 木島又兵衛

  赤根武人 中村九郎 杉山松助

犯行

徳川から政権を奪うため略奪・放火・暗殺

井伊直弼の彦根藩ゆかりの者の暗殺

彦根藩ゆかりの村山可寿江の生き晒し

京都町奉行所与力やその配下の暗殺(賀川肇など)

幕府に協力的とみた商人への略奪・放火・無差別殺人

佐幕派とみた公家の家臣達の暗殺

学者の暗殺(池内大学など)

その他仲間内でハクを付けるための無差別殺人

 

1862年(文久2年)8・18政変後の長州の反撃侵攻、テロリストの暗躍、

御所焼き討ち、孝明天皇拉致計画

京都守護職として京に入った 会津藩(藩祖・保科正之)松方容保、江戸市中取締・庄内藩(藩祖・酒井忠次)が矢面に

新撰組の活躍で御所焼き討ち、天皇拉致を未然に防げた(池田屋事件)

テロリストの狂気はやまない、1864年蛤門の変(久坂玄瑞、木島又兵衛、真木和泉)

薩長同盟に活躍した龍馬はグラバー商会の下請的存在

薩長は天皇を利用(下級公家・岩倉具視の孝明暗殺、勅書偽造)し、

慶喜・幕末四賢候(春嶽・斉彬・容堂・伊達宗城)は結果的に薩長に益を施した

攘夷偽勅を受け容れた慶喜は譲位を喚く長州の狂夫に加担した小人

慶喜の大政奉還 薩長の軍事クーデター王政復古の大号令 慶喜の反撃

西郷に利用された赤報隊の挑発  薩摩藩邸焼き討ち 薩長の画策で戊辰戦争誘発(1868年)

水戸学に被れた尊攘派の跳ね上がり吉田松陰を祀る松蔭神社(世田谷)と水戸学の犠牲者とも言える井伊直弼が眠る豪徳寺は至近距離にある

現代の吉田松陰像はねつ造である

 叔父玉木文之進(松下村塾)で陽明学を受ける

相馬大作事件(南部藩士下斗米秀之進による弘前藩主暗殺未遂事件)の興味を持ち脱藩

 水戸学・藤田東湖に触れる

 幽閉・出獄後叔父の松下村塾を借りて久坂玄瑞・吉田稔麿・前原一誠らと交わる

 木戸・高杉は門下生と云うよりダチ 伊藤博文・山県有朋らも集まってきた

老中・間鍋詮勝暗殺計画で投獄・江戸送り斬首(井伊も松蔭をよく知らず、長州の斬首やむなしの回答で)

革命・外交思想も稚拙、維新後祀り上げたのは、長州閥元凶・日本軍閥の祖・山県有朋

大東亜戦争に至る過ちは、明治維新そして吉田松陰に始まる

維新至上主義の司馬史観

 日露戦争から大東亜戦争敗戦までの40年を異胎””不連続の歴史とした

 更にこの40年の不連続を昭和元年から昭和20年の20年間、

更には昭和15・6年からの5・6年に圧縮して見せた

司馬が嫌う日本陸軍を創ったのは維新の立役者山県有朋、どうして歴史から切り離せようか

第1次世界大戦後から昭和前期にかけての軍部急進派と右翼国粋主義者による天皇親政による明治精神への回帰運動

 “昭和維新”を喚くばかりに“明治維新”と云う言葉が一般化した

 明治維新と云う程のものは無かった

 もともと維新という言葉は水戸学(藤田幽谷)が産み出した

 攘夷””国体しかり、右翼テロリズムに直結する言葉の多くは水戸学から生まれた

水戸学は理念の展開を歴史と決めつけるから、そこから外れる要素が出てくると歴史そのものを修正しようとする、そこで観念的な精神の高揚が生まれ天誅という名のテロリズムに走ることにつながる

水戸光圀(黄門=中納言)一体感に欠ける家臣団、極度の貧困が原理主義・観念論を育てた

(御三家の見栄で実高10万石を35万石の表高に水増し、半知・売官)

水戸攘夷論の特徴は誇大妄想、自己陶酔、論理性の欠如

阿部正弘が隠居の斉昭を復権させ、海防参与なる遊び玉を与えた

江戸幕府安泰は大型造船保有禁止、鎖国政策、キリシタン禁制、参勤交代制によったと言われる

阿部正弘は水戸藩に軍艦旭日丸建造の許可を与えた、大型造船保有の禁が解かれた

1842年薪水給与令で幕府の実質的公式に対外政策が転換した

鎖国

@ 鎖国は明治期に創られた言説(4つに対外貿易窓口が存在した、長崎口・対馬口・薩摩口・蝦夷口)

A 鎖国令など無かった(ご禁制)、出島ではオランダ国旗をかかげた日米交易も存在した

B 後生所謂鎖国体制は時間をかけて徐々に完成した

C 所謂鎖国は幕府の貿易管理(薩摩は密貿易で財を蓄え、新鋭武器を購入した)

斉昭の復権は失敗であっが瓢箪なまず阿部正弘の功績は

日米和親条約で対外閉鎖体制を終焉させ、講武所・長崎海軍伝習所の設立、西洋砲術の導入推進、大型船建造の禁緩和、若手人材登用で優秀な官僚群を育成(安政の改革)

しかし水戸斉昭、島津斉彬等に幕政参加を行わせ、ペリー来航では周知を求めようとした優柔不断・調整型・八方美人型政治は禍根を残した

斉昭は“権略好き”暴漢、女狂い、公家かぶれ

テロを正当化した水戸学の狂気 王=天皇 幕府=覇王 自らのみは天皇の直臣

大義名分論と天誅に彩られた 水戸光圀が始めた大日本史の精神が斉昭でピークに

幕末の攘夷思想はナショナリズムという可燃性の高い土俗感情に火をつけてまわる事だった、ナショナリズムは本来しずかに眠らせておくべきものなのだ、わざわざこれに火を付けて廻るのは余程高度に悪質な政治意図から出る操作で、歴史はこの手で揺さぶられると1国1民族は壊滅してしまう多くの例を遺している(司馬遼太郎)

尊王攘夷は中国・宋という特殊社会で醸し出された一種の危険思想から輸入された(宋学=朱子学)

第2次長州征討に諸般の戦意が乏しかったのは慶喜の不人気もあったが

小栗上野介の郡県制構想を勝海舟がリークしたため

戊辰戦争 鳥羽伏見の戦い、阿波沖戦争、甲州勝沼戦争、宇都宮戦争、箱根戦争、市川・船橋戦争、

 上野戦争、北越戦争、朝日山戦争、二本松戦争、会津戦争、秋田戦争、箱館戦争

鳥羽伏見の戦い 幕府軍は後詰を怠ったミス、薩長軍は錦旗を偽造、官軍を詐称して勝利

 将軍徳川慶喜は敗戦を見るやいち早く戦線離脱、江戸に逃げ帰った

奥羽鎮撫総督府は会津藩・庄内藩への報復討伐が目的

実権者 薩摩・大山格之助 長州・世良修蔵は特に品性劣悪、横暴、女狂いで仙台藩士に斬首される

世良には奥羽の風土や文化をリスペクトする精神が微塵もなかった

(逆に西郷には時に脅しもいとわぬが、武家の品性が充分備わっていた)

潔癖な東北の武家魂 ならぬことはならぬものです

これを契機に陸奥・出羽国後に越後長岡を加えて会津・庄内藩に加勢、奥羽列藩同盟結成

二本松(先祖は丹羽長秀)戦争(陸奥国南部の小藩、2本松少年隊はじめ全藩総動員で薩長軍と闘った)

二本松少年隊(13歳〜17歳 25名)

 隊長 木村銃太郎(22歳)は 

韮山代官所(江川砲兵塾、江川英龍からは川路聖謨・佐久間象山・大山巌などが学ぶ)で砲学を学んだ

 通常20歳で番入り武士としての職務を与えられるが、

 2本松藩では入れ年(所謂上げ底)で15歳から番入りした(家人も望み少年達も歓喜した)

 責任をとる””スジを通す武士教育

二本松戦争以降の奥羽戦では薩長軍の装備が優勢、一方的虐殺に終わった

 二本松には時限式信管もなく殆どが中実弾、火薬も劣悪だった

 二本松藩は文字通り藩丸ごと討ち死にした

 言の葉の耳に残るや 今朝の秋(上崎鉄蔵の母)

ゲベール銃 80-100m 滑腔式・前装式

ミニエー銃 300-500m 施条式・前装式

スナイドル銃 600-800m 施条式・後装式

スペンサー銃 300-500m 施条式・後装式

前装軽砲 500-800m 中実弾のみ、軽砲

前装小臼砲 500-600m 榴散弾が可、重砲 

前装大臼砲 800-1200m 榴散弾が可、重砲

後装施条重砲 2500-3000m(アームストロング砲、榴散弾、大砲)

三春藩の裏切り、秋田藩の裏崩れ

仙台藩、米沢藩の降伏

会津戦争(会津藩、庄内藩)

 会津戦争を討幕戦争である戊辰戦争の一つに含めるのは間違い、長州の会津に対する私怨を晴らす報復戦

 残虐の限りが尽くされた

 1868年 将軍慶喜の謹慎に応じて会津・松平容保も隠居謹慎恭順の意を示し、和平周旋を朝廷他に懇願

 米沢・仙台藩は会津藩の降伏を受け容れるべく懇願奥羽各藩家老連盟嘆願書を総督府に提出したが

世良修蔵は拒否、世良の残忍強奪・侮辱に怒った仙台藩は世良を斬首、奥羽列藩同盟が成立

 朱雀隊、白虎隊、玄武隊、幼年隊、女子供に至るまで総力挙げて防戦した

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會津藩校 日新館―会津藩・白虎隊の学び舎 >

什の掟―じゅうのおきて

同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくっていました。この集まりのことを会津藩では「什 (じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となりました。

毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ

一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ

一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ

一、弱い者をいぢめてはなりませぬ

一、戸外で物を食べてはなりませぬ

一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

※什により、一つ二つ違うところもありましたが(「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」はすべての什にあったわけではないようです)、終わりの「ならぬことはならぬものです」は、どの什も共通でした。

そして、「お話」に背いた者がいれば、什長はその者を部屋の真ん中に呼び出し、事実の有無を「審問」しました。事実に間違いがなければ、年長者の間でどのような制裁を加えるかを相談し、子供らしい次のような制裁を加えました。

一、無念(むねん)

一番軽い処罰です。みんなに向かって「無念でありました。」と言って、お辞儀をしてお詫びをします。「無念」ということは、「私は会津武士の子供としてあるまじきことをし、名誉を汚したことは申し訳がない、まことに残念であります。」という意味でした。

二、竹篦(しっぺい)

いわゆる「シッペ」です。制裁の重さに応じて、手のひらに加えるか又は手の甲に加えるか、何回加えるかを決めました。

仲がいい相手だからと力を抜くものがいれば、什長は厳しく目を光らせ、すぐにやり直しを命じました。

三、絶交(ぜっこう)

一番重い処罰です。これを「派切る(はぎる)」と言い、いわゆる「仲間はずれ」でした。めったに加えられる罰ではありませんでしたが、一度「絶交」を言い渡された場合には、その父か兄が付き添い「お話」の集まりに来て、什長に深くお詫びをし、什の仲間から許されなければ、再び什の一員に入ることができませんでした。

四、その他

火鉢に手をかざす「手あぶり」や雪の中に突き倒して雪をかける「雪埋め」というような制裁もありました。

子供にとって仲間たちから受ける審問は辛いものではありますが、「お話」も「制裁」もすべて大人たちに言われてつくったものではなく、子供たちが制約や強制を受けずに自分たち自身でつくり、「会津武士の子はこうあるべきだ。」ということを互いに約束し、励み合ったのです。

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子供の躾には親の価値観を押しつけて良いとの事

明日の夜はいずこの誰か眺むらん 馴れにし御城に残す月影(新島八重)

面白い事に 宿敵・薩摩の”郷中教育”も殆ど同じような事を謳っている

@ 忠孝を重んじ、文武を励め。

A 礼儀をたしなみ、親睦、団結を心がけよ。

B 山坂達者であれ。(ウォーキング?)

C 何事も詮議をつくせ、決まったら議をいうな、言い訳するな。

D 嘘をつくな、弱音を吐くな、卑劣なことをするな。

E 弱いものいじめをするな。

F 目上を重んじよ、親に口答えをするな。

G 女と交わるな。

H 金銭を持つな、1人で買い物をするな。

I 酒、煙草をのむな。

煎じ詰めれば他人そして自分に対する”リスペクト”かな?

箱館戦争

会津藩は下北半島に追いやられ、実質45万石と言われた親藩は3万石に(斗南藩)、実質7千石にも足りない飢餓を生き抜くことになる

その中から明治の傑物が出た、山川浩(官)山川健次郎(学)広沢安仁(酪農)永岡久茂(貿易)

薩摩

10代島津斉興は妾腹・久光(12代)を可愛がり、嫡子・斉彬(11代)を憎んだ

    斉彬は曽祖父・重豪譲りの蘭癖、藩政(年間収入12万両に対し借金500万両)

を立て直した調所広郷を老中・阿部正弘と組んで失脚させた  

お由羅騒動  斉彬VS久光・斉興-の対立  西郷・大久保ら斉彬派は壊滅するも

    阿部の後押しで将軍家が強権発動して斉興隠居、藩主は斉彬へ

戊辰戦争後 西郷(農本主義・大義名分論・陽明学はむしろ久光に近い体質)VS大久保(西洋かぶれ)

廃藩置県、廃刀令、秩禄処分

佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱等不平士族の反乱を経て西南戦争へ

西南の役は中世以来の独立圏・薩摩の終焉、主導権は完全に長州へ

不平士族は民権運動へ

われわれが持続してきた文化というのは弥生式時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後崩壊を続け、昭和40年前後にほぼほろびた(司馬遼太郎)