明治維新 司馬史観という過ち  原田伊織 森田健司

 

1.歴史の改竄 戊辰戦争まで

幕府は予想以上に海外情勢を把握していた

鎖国政策が取られた理由  

 欧米列強の選民意識からの支配欲

 対するに武家のアイデンティティからの自信と相手に対する敬意

決してペリーの脅しに屈しなかった

 明治新政府こそ卑しい西洋迎合

薩長いずれも関ヶ原の恨みがあった

長州が躍進した理由 藩主の権力が弱かった 朝廷・水戸との人的繋がり 外に出る荒々しい性格 

新撰組 土方の優れた”組織力”

薩長が恐れた小栗上野介(薩長にはヴィジョンが無かったが小栗は国家を意識していた)

西郷隆盛を生んだ“郷中”教育 “二才(ニセ)頭”

すぐ暴走し始める松陰の思想は陽明学とはかけ離れている

朱子学 格物究理(物事を知って理を極める)

 倫理学や道徳を学んだ上でようやく心は理想的な生まれたままの状態に戻れる

陽明学 心即理(人間の心は生まれながらにして素晴らしく、理と一致する

 知行合一(行動を伴わない知識は未完成)

 致良知(人間が生まれ持っている判断力を発揮せよ)

 朱子学のようなまだろっこしい勉強・修行は不要とされた

 己の心のままに行動する欠点 

現在の日本は長州型政権

見た目のイメージで人気の西郷  “斉彬公以外は主でも何でも無い”

“蘭癖”で内政を顧みない(江戸生まれの江戸育ち)斉彬を著者は評価しない

 薩摩藩の特産品は“密貿易”(重豪の家老調所広郷の功績)

領民を犠牲にして借金返済、調所を自害に追い込んだ斉彬は名君では無い

集成館事業などで富国強兵に努めたが、外国から密貿易で勝った方が安かった

(自国技術蓄積には大いに貢献したのでは無いか)

“久光の率兵上洛が維新の先駆け”という奇妙な説 久光は典型的“尊皇佐幕” 

久光が西郷をいじめたのでは無く、西郷が久光を馬鹿にしていじめていた

久光は意外にやり手、上洛直前に“寺田屋事件”で過激派を一掃して公家衆の人気を得た

(見方を変えれば酷いが、いずれにしろ馬鹿でも凡庸な人でも無かったかのだろう)

生麦事件も筋を通した(イギリス商人に非、但し多額な賠償金を支払った幕府こそイイ面の皮)

薩英戦争でも一歩も引かなかった、和睦交渉で薩英は接近

確かに久光は倒幕派では無かったが、久光の意向とは真逆、

久光上洛・寺田屋事件を契機に西郷・大久保は倒幕に舵を切った

“島津久光と明治維新―久光は何故倒幕を決意したのか“ “島津久光=幕末政治の焦点“

2.士道にもとった戊辰戦争

薩長の私闘だった鳥羽伏見の戦い

明治維新の目玉を慶喜が打った“大政奉還”(実質的に徳川の政権を守ろうとした)と対する“王政復古の大号令”

 とする見方があるが、明治維新は一つの出来事では無い

1867/10/14、岩倉具視や薩長が明治天皇を人質(天皇の政治利用)にしたクーデター

“王政復古の大号令”は失敗、山内容堂ら公武合体派が反発、撤兵要求に岩倉・大久保等は孤立

 山内容堂の勧めで大坂城入した慶喜は敗北したのでは無い

 慶喜は切れ者、海外の受けも非常に良かったが調子に乗る欠点がある、大政奉還・王政復古の取消しを要求

王政復古大号令の失敗で薩長は幕府側から手を出させるしかなかった

 西郷のテロ(挑発行動)と“赤報隊”(維新第一の功労者?)の悲劇→鳥羽伏見(戊辰戦争)の戦い“

アジ演説の翌日、総司令官・慶喜が逃走(頭は良かったし弁も立ったが、武の棟梁としてあり得ない行動)

西郷・勝会談は終戦条件の交渉、江戸城無血開城と言うような美談は存在しない

江戸庶民は慶喜軽蔑、薩長嫌い、官軍を“悪逆”と見抜いた和宮・天璋院の奮闘、吉原でモテた彰義隊

長州の山縣や世良、テロリストを司令官にした東征大総督府

切れ者、長岡藩・河井継之助、何よりも藩と領民の事を考えて居たのに、結果的に大変な被害を与えた

会津戦争は倒幕戦争ではなかった、その前に江戸城入城、倒幕は終わった、会津戦争以降は私怨に基づく復讐戦

二本松少年隊の悲劇、会津戦争での新政府軍の行為は戦争犯罪

新政府軍に負けなかった庄内藩の“鬼玄蕃”酒井玄蕃他、桑名藩立見鑑三郎(後に黒溝台会戦で活躍)本間家

西郷は敗軍に情を尽くした(後々の反乱を避けるための策謀であっても)一方長州人は“恩に着せる”のがヘタ

戊辰戦争最後の箱館戦争、幕府侍の意地を通した土方歳三(まだ戦えるから、戦う場所が合ったから)

大鳥圭介、榎本武揚、いずれも勝算が有ってのことではなかった(武士のアイデンティティを守る為)

新政府の国づくり

西郷隆盛 粘着質(嫌いと思ったらずっと嫌悪)独断性が強い、敵が多い

 フットワークが軽い、情に訴える(二才頭気質)

武家を残したかった西郷の葛藤

(司馬の論に共感、融通が利かなく不器用な西郷にとって“和魂洋才”は納得できなかった)

“政府への尋問の筋これ有り”と西南戦争(長州汚職閥への怒り、“征韓論争”は立て前・看板)

壮大な物見遊山だった岩倉使節団

師を討った山縣の後ろめたさ 憲法制定日に大赦・名誉回復を図った上野・西郷像

(但し 伊藤が陸軍大将にかえて“着流しに犬を連れた”姿にした)

“考える人より動く人”理想的リーダーとして憧れ敬服されながら、余りに器の違いから煙たがられた存在・西郷

3.明治維新というフィクション

吉田松陰はアジテーター

 老中・間部詮勝暗殺計画を自ら藩に告白

 対外膨張構想は大東亜戦争日本軍の侵攻と同じ

 山縣有朋が松陰の偶像化に一役買った(立身出世した山縣が自分の拠り所とした)

“龍馬の薩長同盟“は歴史の捏造

 三者会談以前から薩長は密かに協力関係にあった

 船中八策の構想も龍馬の独創とは言えない(アーネスト・サトウを模したか?)

 大政奉還も大久保一翁や勝海舟の案

 “公武一和”は容堂・久光の推奨していたところ

 決して平和主義者ではなかった(京都見廻組の恨みを買い今井信郎に近江屋で暗殺された)

勝海舟 自分は凄い、ノリでデタラメ発言(西郷すらもて遊んだ)、勝を批判した福沢諭吉もかなり嘘を言う

 但し福沢の本質は武家(名誉第一の精神文化)

武家と言えば、出自百姓の土方歳三がもっとも武家らしい

明治新政府は旧幕臣が支えた(明治は江戸の遺産で成り立っていたー司馬)

 榎本武揚、大鳥圭介、斗南藩(旧会津藩)の山川浩・柴五郎

 小栗上野介(余りの有能を恐れ処刑された)大隈重信、

津田出・陸奥宗光は版籍奉還・廃藩置県・徴兵令をセットした郡県制度を紀州一藩で実現した

(実は廃藩置県まで藩と言う言葉すら無かった、家中)

長州が作った“権力は金になる”政治

 役人は薩長が天下、膨大な報酬(例えば三条実美さえ月給は1200万円)他に裏金

 岩倉使節団は帰るや否や長州連中の腐敗のもみ消しに追われた(木戸の罪)、国家デザインを持たなかった

 山縣の贅を尽くした別邸 椿山荘、無鄰庵、古稀庵

 経済犯罪 山縣の山城屋事件、井上馨の尾去沢銅山事件、木戸孝允=京都三事槇村正直の小野組転籍事件

地租改正で高負担になった農民の一揆

幕末攘夷は反対党を叩きつぶす看板

江戸期の物は全部野蛮とした明治の雰囲気

司馬史観で歴史を学ぶことの危うさ

 大東亜戦争に至る20年あるいは40年を

民族の歴史として連続性を持たない時代(魔法の森・異胎の時代)として排除した(歴史の切断)

明治は透き通った格調の高い精神で支えられたリアリズムの時代(司馬の明治維新史上主義)

明治維新の欠陥の後遺症は、明治には現れず大正末年になって現れた(司馬)

歴史的事件とビルドゥングスロマン(教養小説)の混同(英雄史観)

人間が近づけない畏敬するしかないものを知性で何とかなるように思う過ち

(“知性の過大評価、致命的うぬぼれ”=オーストリア学派の社会主義批判)