未完の明治維新 坂野潤治 ちくま新書
著者は幕末維新史(未完の明治維新)、明治史(明治デモクラシー)、昭和史(昭和史の決定的瞬間)における“デモクラシー”変遷の研究をライフワークとされてきた東大名誉教授です。
“昭和史の決定的瞬間”は先に取り上げました。
今日は本書によって
尊皇攘夷と佐幕開国の対立→尊皇開国→大政奉還→王政復古と討伐→
維新成就の後の
大久保利通(横井小楠)の“富国”派
西郷隆盛(佐久間象山)の“強兵”派
木戸孝允の“立憲”派
板垣退助(大久保忠寛)の“議会”派
四つの目標のせめぎ合いの中での
維新という“武士の革命”に見る“武士デモクラシー”の変遷をたどります
1864年 勝海舟・西郷隆盛の会談
勝と西郷(薩摩藩)の思想は
大久保の“公議会論”象山の“強兵論”小楠の“富国論”が混然一体となった“対等開国論”であり、
その点で幕府の弱腰外交に対立するものだった
しかし“公議会論”は“藩主議会”“藩士議会”論であり
“政府”と“憲法”への言及はなく
新政府を徳川中心に作るか薩摩・長州中心に作るかを鳥羽・伏見の武力決戦で
決めざるを得なかった
1867年 大政奉還
慶喜が返上したのは“将軍”であって、
“藩主議会”で新たに出来る政府の盟主である事を期待していた
(土佐の山内容堂、越前の松平慶永等も同様)
一方 薩摩・長州・土佐の一部・安芸は倒幕に結束(幕府軍の薩摩藩邸焼き討ち)
1868年 戊辰戦争で武力決着→“藩主議会”“藩士議会”論としての“公議会”論は挫折
1871年 廃藩置県断行、大蔵官僚の誕生
伊藤博文・井上馨・渋沢栄一体制は緊縮財政で“富国強兵”に待ったを掛ける
1872年 徴兵令
皇居を守る近衛兵(薩長土の御親兵)、
国内反乱に備える鎮台兵(三藩以外の旧藩兵、戊辰戦争で誕生)、外敵に備える徴募兵
しかし当然農民兵(徴募兵)は対外戦争に駆り出されるのを嫌った
対外戦争に熱心だったのは
徴兵制度に兵士としての特権を奪われる事を恐れた旧藩兵(特に近衛兵)だった
1873年 伊藤・井上・渋沢の緊縮財政から
薩摩閥をバックにした大久保・大隈重信・五代友厚の積極財政へ(富国強兵)
征韓論分裂(西南戦争へ)
西郷の狙いは征韓ではなく台湾出兵だった
西郷敗れ、大久保の“富国論”が“強兵論”に勝利する
4つの政治路線の違いが明確になり対立を深めながら
議会派→立憲派→強兵派→富国派 と政治勢力を失っていきます
1874年 西郷とともに征韓論で敗れた板垣退助は後藤象二郎と“民撰議員設立建白”
租税を徴収する側の藩主・藩士の議会を唱えた幕末議会論とは本質的に異なり
租税を払う農村地主の議会を求めた点で自由民権運動の先駆けと言えるが
“華族会議”“地方官会議”といった維新に貢献した士族豪商の権利を主張するもので、
未だ幕末議会論の痕跡を大きく残すものだった
一方木戸孝允は政府の正当性を保証する“憲法”制定がまず先だと主張、
“議会”派(政府権限の制限を主張)対“立憲”派(政府の兵権と財権を議会から擁護)の対立
欧米留学から帰朝した井上馨が
薩摩勢力の対外冒険主義、要職独占に対する諸方面からの非難を背景に
大久保・木戸・板垣の妥協を求め“立憲政治”樹立に動く
井上主導の船中会議→五者会談→大阪会議(1875年)
しかし新体制は短命に終わり“公議興論”“立憲制”も挫折する
原因
@ 木戸ら漸進論(ドイツ流)と板垣ら急進論(イギリス流)の対立顕在化
A 島津久光等旧藩主の反撃
B 内務卿大久保利通、大蔵卿大隈重信らの不熱心
C 江華島事件勃発、日韓緊迫化、台湾出兵で木戸は立憲制移行を凍結
1876年 日韓修好条規締結で江華島事件を解決した大久保は“開発独裁”で“富国”路線を復活
儲からない戦争、減税を求める議会開設に消極的な大久保は積極財政で“富国”を目指す
一方 地租改正反対一揆で減税を勝ち取り、
更に翌年の西南戦争に起因する米価騰貴で農村地主が力を得、
“公議会論”(藩主議会、藩士議会)を自分たちのものとして再構築
大久保の“富国”路線の阻害要因になる
* 地租改正
地価に対して賦課する事で毎年同額の地租を得る事を図ったが
米価下落で重税を負担せねばならなった農民が猛反発して一揆
西郷の決起を恐れた政府は農民懐柔のため大減税を決断
* 西南戦争
西郷については“アジア主義者”ではなく相当の欧化主義者であり“富国強兵”は勿論
立憲政治の必要も十分理解していた
では何故決起したか?“革命”が勝利して目的を失った“革命軍”の反乱
日中関係・日韓関係の沈静化で西郷としては挙兵の理由が無くなっていた筈
目的を失った薩摩軍団への信義?
積極財政“富国論”の大久保(大隈・五代)対緊縮財政“立憲論”の木戸(井上馨)
西南戦争での紙幣乱発が紙幣価値を下落させ国際収支を悪化させ、米価を暴騰させた
更に物価騰貴が定額地租に頼る政府財政を苦しめる
増税、外債発行いずれも天皇の許すところでは無かった
1880年 農村地主が“国会期成同盟”運動
大久保の遺志を継ぐ五代友厚・黒田清隆による財政再建の最後の手段“米納論”も天皇は不裁可
ここに最終的に大久保路線“富国論”も挫折する
井上馨の“立憲論”も大阪会議前後に比べ大きく保守化、欽定憲法主義が明確になる
議会も華族と士族だけ、或いは旧大名と旧武士だけの“上院”設立が急がれた
“富国論”“強兵論”“立憲論”“議会論”共通する目的は武士階級の権利擁護であり
まさに維新は良きにつけ悪しきにつけ“武士の革命”だったのです
以降運動の主導権は“革命派武士”から“文武官僚”“農村地主”に移る
4人の革命家がかかげた理想は革命的ダイナミズムを失いながらも
合理主義的な実務官僚、実益政党の手に委ねられて
1894年第1次日中戦争になだれ込みます
4人の革命家の理想は実現したのか?
著者は革命家の理想との違いの大きさを強調
革命家の“明治維新”は未完とするのですが
その温度差が何に由来するかは語っていません
私には著者の論述からむしろ“武士の革命”の行き着く所が
“昭和”で有ったような“思い”が生じたのですが
恐らく私が著者の“明治デモクラシー”=“豪農デモクラシー”を
読んでいない為と思われます