中東から見た世界史
プーチンの暴虐(ロシア軍のイスラム国攻めはウクライナ戦争に向けての軍事訓練だったのでしょうか、”ヤクザ者”の加勢はやはり眉唾ですかね)
がトップニュース、イスラーム情勢の情報が薄くなっていますが、ちょっと気がかりなので
2015年頃書いたイスラーム関係ファイルを改めてアップしました
随分時間が経っているので修正せねばなりませんが、取り敢えずはそのまま、お許しください

2015年年頭、イスラム教スンニ派超過激組織ISIS(イラク・シリアのイスラム国)が日本人2名を人質殺害、日本国中を震撼させた
前時代的装いを憚らぬテロリスト集団が勝手に国を名乗り武力で領土を広げている
1948年から73年、イスラエル・アラブ諸国間の4次にわたる中東戦争、1979年イラン革命に続くイラン・イラク戦争、
1990年自称”世界の警察”アメリカ(パパ・ブッシュ)がイラクを叩きのめした湾岸戦争
2001年9:11ニューヨ-クで発生した同時多発テロ(反米テロリスト集団・ビンラディン主導のアルカイダが引き起こしたと云われる)は米ブッシュ・ジュニアを奮い立たせた
アフガニスタンのアルカイダやタリバン殲滅に味をしめたブッシュは”イラクは北朝鮮・イランと並ぶ悪の枢軸国”と定義、対テロ国家撲滅宣言、
2003年パパ・ブッシュが中途半端に収めたフセインのイラク壊滅の”偉業”を成し遂げる
しかしフセインを殺害によってイラクは更に内部混乱、その中から件のテロリスト集団ISISが誕生
2010年北アフリカ・チュニジアに始まりアラブ地区に波及した一連の民主化運動”アラブの春”はリビアのカダフィ政権、エジプトのムバラク政権等長期独裁政権を倒すなどの成果を上げたが
アラブ諸国に更なる混乱を招いた(エジプト・ムバラク政権のムスリム同胞団弾圧、アサド軍事政権対反政府軍の血みどろの内戦等)
国家縦断のテロ組織と統一機能不全に陥った既存国家の対決
この様な対決の構図は一体どの様な経緯で形成されたのか
古来欧米文明の基礎となる程の高度な文明を誇り、豊富な石油資源に恵まれた中東の国々が何故に戦闘と混乱の歴史に翻弄されねば成らなかったのか
素人の手探りで中東地区の歴史をたどり始めたが、実に難しい

有史以来 宗教的対立、民族・言語系の対立、王制・共和制など国家形態の対立、経済的対立等複雑に絡み合っているのがこの地域の特徴だ
様々な対立項を基準にしての弛まない権力闘争、そして欧米諸国の欲望に翻弄された中東
民族は入り乱れ、日本史の様に一応日本列島の日本人の歴史と云う訳にはいかない
私達が慣れ親しむ”国民の歴史”というようなものは成り立たない
セム系、ヨーロッパ系、ペルシャ系、アラブ系、モンゴール系、トルコ系と支配勢力が転々と変わる、その支配範囲もくるくる変わる
国家でも民族でも宗教でも括れないのが中東
叙述するに極めて困難だ、だが結局歴史とはその様なものであろう

いったい”中東”とは何処を指すのか
中東地区なる概念は勿論人為的便宜的な呼称にすぎず、何処まで中東と呼ぶべきか恣意的である
一応wikipediaによる”欧米諸国における「中東」の概念”を見る
”中東は、19世紀以降にイギリスなどがインド以西の地域を植民地化するに当たって考え出された概念である。
元来はイラン・アフガニスタンおよびその周辺を指す概念であり、現在の中東に含まれる地中海沿岸地域は近東と称されていた。
しかし、中東と近東の概念を混同した中近東という概念の登場を経て、第二次世界大戦中にイギリス軍によってはじめて現在の中東の概念が使用されるようになった。
以降、欧米諸国では、「中東」はほぼアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の国々を指す概念として用いられ、
具体的には、アラブ首長国連邦(UAE)、イエメン、イスラエル、イラク、イラン、エジプト、オマーン、
カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、トルコ、バーレーン、ヨルダン、レバノンの諸国、及びパレスチナ自治政府の管轄地域がその概念の中に含まれている”
上記はもっとも狭い概念規定と断られており、広くはリビア・アルジェリア・モロッコ等北アフリカ諸国やパキスタン・アフガニスタン等にも拡大される
日本外務省ではアフガニスタン、アラブ首長国連邦、イエメン、イスラエル、イラク、イラン、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、トルコ、バーレーン、ヨルダン、レバノンを挙げる
それはそれで良いのだが、”中東”とはどういう所かと問われてまず戸惑う、ひとくくり出来る基準がない
一層”イスラム諸国”とか”アラブ民族”とかの歴史と云う風に焦点を絞った方が解りやすい気もするが
勿論、宗教や民族の問題だけで歴史が動いている訳ではない、
特に中東では宗教戦争のようでそうではない、民族闘争のようでそうでもない、あらゆる要因が複雑に絡み合って廻っていく
結局、人為的線引きに惑わされず、漠然とこの辺りの歴史という事になった
何分素人の遅々たる勉強、先生方の解説のスクラップに終始したが、すでに世界の関心は中東からプーチンのロシア、習近平の中国などに移ってしまったきらいもある

http://www2.odn.ne.jp/~cba90330/genkou/html/page076a.html




”よくわかる中東の世界史”より  村山秀太郎



古代・中世のイラク(メソポタミア)・イラン(ペルシャ)地域 エジプト文明(ハム語族系)
 ペルシャ文明の発祥地・イラン、メソポタミア文明の発祥地・イラク、イスラム文明の発祥地・アラビア半島

前70世紀 定住と農耕の開始
前50世紀 灌漑農業 農耕の開始
前40世紀 シュメール人の都市国家(ウル・ウルク等)、メソポタミア文明 古王朝誕生
楔形文字・60進法・銅器の使用
BC20世紀 アッカド人(セム系遊牧民族)が統一王朝
*創世記:ノアの3人の息子(セム・ハム・ヤペテ) 中王国誕生
BC19世紀 アムル人がバビロニア第一王朝建国
ハンムラビ法典 新王国誕生
BC17世紀 ヒッタイト(インドヨーロッパ系)バビロニアを滅ぼす
鉄器の使用
カッシート、ミタンニ王国も活動
BC13世紀 正体不明"海の民”がヒッタイトを滅ぼす
アラム人(内陸貿易)
フェニキア人(地中海貿易)
ヘブライ人 も活躍
BC7世紀 アッシリア人がオリエント統一(含エジプト)
すぐにリディア・メディア・新バビロニア・エジプトに分裂
BC6世紀 アケメネス朝ペルシャ(イラン高原に勃興したインドヨーロッパ語族)がメソポタミアを再統一
ダイオレス1世の最盛期
BC4世紀 アケメネス朝はマケドニア・アレクサンドロス大王に滅ぼされ
大王死後
 アンティゴノス朝マケドニア
 セレウコス朝シリア
 プトレマイオス朝エジプト等に分裂
バクトリア、パルティアが自立
BC3世紀〜AD651 パルティアに替ってササン朝ペルシャ建国、ペルシャ文明復活、ビザンツ帝国を圧迫
アルデシール一世
シャプール一世
ホスロー一世
ゾロアスター教
BC100〜AD300 アラム系隊商国家パルミラなどが繁栄
ペルシャとローマのはざまでシルクロードの宿駅として繁栄(シリア中央部)遺跡は世界遺産
以下は美しすぎる女王・ゼノビアの伝説から
 ササン朝ペルシャ・シャープール1世がローマ皇帝・ヴァレリアヌスを虐殺
 バルミア軍のオダナイトがペルシャに一矢を報い、ローマ皇帝より東方総督の称号を得たが甥に暗殺される
 オダナイトの後妻、ゼノビアが実権を握る
 ”その美に於いては祖先と信じたクレオパトラに劣らず
 貞節と勇気に於いてはかの女王をはるかにしのいだ”(ギボン)
 ゼノビアはローマに反逆を企てアレクサンドリア占領に成功したが
 アウレリアヌスに滅ぼされた
7世紀 イスラム勢力によってササン朝滅亡、アラブ人移住で急速にイスラム化

イスラム世界の台頭
上記の如く中東地区は古代メソポタミア文明、ペルシャ文明の発祥地である
この2大文明の地をアラブから生まれたイスラム文明が取り込んだ、或いは諸民族の瞬く間のイスラム化、支配民族が変わっても民族はイスラム文明を取り込んだ
イスラム文明がグローバルに他の文明と融合・吸収して行った事に注目すべきであろう
7世紀、商人の町メッカの交易商であったムハンマドの唱えたイスラム教を武器にアラブ人が中東を中心に世界を席巻する事になる
ペルシャ人、ギリシャ・ローマ人両勢力の対立、斜陽化を好機として
かって歴史に登場していなかったアラブ人がセム系言語のチャンピオンとして両勢力を粉砕、
”ウンマ”と呼ぶ共同体を支配各地に創り上げ、短期間にシリア・エジプトに勢力を伸ばしていった
アラブ軍常勝の理由
@アラブの商人から身を起したムハンマドは、宗教上の開祖・国家元首・最高軍事司令官の職能をかな備えた天才だった
Aペルシャ帝国とローマ帝国が共倒れ寸前の状態だった
B西アジアに居住するセム系住民たちが、ビザンツ、ペルシャからの解放を切に求めていた
Cムハンマドが良き後継者としての政治家、武人を得た
610 ムハンマド、アッラーから啓示、イスラム教の成立
622 ムハンマド、メディナへ(ヒジュラ)
イスラム教の特徴
@アッラーを唯一絶対神とする一神教(ユダヤ教・キリスト教と同一神)
Aムスリム(信徒)は平等、神の前での平等との建前は一神教として当然ともいえるが
 偶像崇拝を固く禁じ、聖職者を認めず、開祖ムハンマドさえ人間(預言者)と割り切っているのは合理的かも
 但し宗教上の指導者(ウラマー)の影響力は大きく、ムハンマドの後継者(カリフ)の権力争いも熾烈
 (正統カリフ時代、四人のカリフの内三名までが暗殺されている)
B六信(神・天使・啓典・預言者・来世・天命)五行(信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼)の戒律厳しく言行一致を求める
イスラム教は”砂漠の宗教”か?
”沙漠的思考とは何か。それは今まで書いたように明確な寒暖の差、昼夜の差、遮るもののない天と地、
正に典型的な両極的世界。また目に入る物以外のことを考える必要性のない空間の世界。
それゆえすべてが両極的にして中間のない思考の世界。また直線的思考の世界という、日本とは全く異なる世界の中で生まれたものである”(渥美堅持東京国際大教授)
@厳しい自然の中で生き残るための常なる闘争
A厳しさゆえ自然に対する空想幻想を捨て去った現実志向性
B”アッラーは絶対的命令者であり教徒は奴隷である”、”マホメットは預言者であり神では無い”など
中間色の無い直線的思考はセム・ハム語族と云う同根民族ヘブライ人が開発したユダヤ教より徹底している
一方”イスラムは砂漠の宗教”である事を否定する方も多い
”人間がほとんど住まぬ砂漠に高度な文化である宗教の生まれる余地はない。
イスラムは紅海沿岸最大の商業都市メッカを原点とする。従ってイスラムはエルサレムで生まれたキリスト教と同じくまぎれもない都市宗教なのである”(牟田口義郎:物語・中東の歴史)
イスラームが都市宗教である事もゆるがせに出来ない事実である
C交易でもたらされたメッカの未曽有の経済的繁栄は同時に経済格差の拡大、極貧層や道徳的腐敗・都市の荒廃・民族崩壊の合わせ鏡であった
救世主(メシア)待望の宗教はこのような都市型背景にのみ生まれた
632 ムハンマド没し正統カリフ時代(首都はメディナ)
ムハンマドの時代の勢力範囲はアラビア半島のみだったが、
ビザンティン帝国領であったシリア・エジプトを占領、更にペルシャを勢力範囲に置く
651 ササン朝ペルシャ滅亡(カーディシーヤの戦いに敗北)
661-750 ウマイア朝成立(首都シリアのダマスカス) アラブ帝国
第4代カリフ、アリーを葬ったシリア総督ムアーウィヤがウマイア朝を開く、第1功労者はエジプト総督となった名将アムル
中央アジア、アフリカ北岸、イベリア半島を制圧
アラブ至上主義、人頭税(ジズヤ)を収めれば改宗を強制せず、地租(ハラージュ)商業税増収に努める
”剣かコーランか”の2者択一を迫った訳ではない、彼らは”改宗”よりも降伏しての”貢納”こそ求めた
この辺り、イスラムの狂信性否定の論拠と云われるが
見事なほど現実主義的である(現在のISIL人質ビジネスにも通ずるか?)
750-1258 アッバース朝成立(首都はイラク・バクダード)  イスラム帝国
帝国の中心はギリシャ・地中海沿岸から、よりオリエント的な内陸部に移動
アラブ特権を廃する事でイスラム教をイベリア半島・エジプト・西アジア・中央アジアなど広範囲に広げ、イスラム黄金時代を築く
アッバース朝第2代カリフ:アル・マンスール、第7代カリフ:アル・マアムーン
東西交易、農業灌漑の発展させ、首都バグダードは産業革命以前における世界最大の都市となった
”ムスリムは神の前では平等”としてアラブ特権を廃し、ペルシャやギリシャ・ヘレニズム文化・インド・中国など諸文明を融合、
後のヨーロッパ文明の母胎となる”サラセン文明”をイベリア半島から中央アジアまで築き上げた
アラブ人の特権を廃する事で、イスラム世界は歴史上かってない広範囲に拡大した
しかしその事でアラブ人の統治権は衰退、チャンピオンの地位を明け渡す事になるが、すでに中東全般はイスラム化していた
ペルシャ人トルコ人等の伝統的勢力が再び台頭、イスラム帝国は分裂、イスラム内部での熾烈な権力争いが続く事になる
イスラム帝国は大きくなりすぎた
10世紀ごろからペルシャ人・トルコ人の成長が目立ち各地に王朝割拠、アッバース朝のカリフは名目化する
8世紀〜12世紀 イスラムのアッバース朝、ブワイフ朝、セルジューク・トルコが支配

乱立するイスラム王朝
756-1031 イベリア半島 後ウマイア朝が独立(首都はコルドバ)→ムラービト朝→ムワッヒド朝→ナスル朝(グラナダ王国)
909-1171 エジプト ファーティマ朝(テュニジアで建国、エジプトを支配)アリーの子孫を称したシーア派、スンニ派のアッバースから独立
1169-1250 アイユーブ朝(クルド人・サラディンがファーティマ朝を倒して建国、エルサレム王国を滅ぼし第3回十字軍を撃退)
1250-1517 マムルーク朝(アイユーブ朝の軍人奴隷・マムルークが建国してエジプト・シリアを支配、オスマン帝国に滅ぼされる)
*”マムルーク制度”:幼時に遊牧民などから買い取られたには違いないが、子飼いの職業軍人として十分訓練教育され
養子・信頼できる部下或いは後継者的な地位を得る事も有った、勿論人的自由も与えられた
932-1055 メソポタミア・イラン ブワイフ朝(イランに建国、バクダードを占領、アッバース朝カリフを名目化する)
1038-1157 セルジューク=トルコ
(ブワイフ朝を倒し西アジア中央アジアにまたがる大帝国を建国、バクダードに入城してスルタンの称号を得るが
スルタン死後分裂して弱体化
1077-1231 ホラズム朝(トルコ系、西トルキスタンで独立、ゴール朝を滅ぼしアフガニスタンを支配下に、チンギスハンによって征服)
1258-1353 イル=ハン国(モンゴル系、アッバース朝を滅ぼしてフラグが建国、現在のイラン・イラクを支配、イスラムを国教とする)
874-999 中央アジア サーマン朝(イラン系、西トルキスタンで建国)
940-1132 カラ=ハン朝(トルコ系、サーマン朝を滅ぼし中央アジア全域を支配したが西遼に滅ぼされる)
1132-1211 カラ=キタイ(西遼)
1227-14C チャガタイ=ハン国(モンゴル系)
1370-1507 ティムール朝(チャガタイ=ハン弱体化の中でチンギスハンの子孫と称するチムールがチャガタイ=ハン旧領を統一、
イル=ハンも併合、オスマン帝国と対抗して西中央アジアに大帝国を形成)
1501-1736 サファヴィー朝台頭(シーア派イスラム神秘教団を始祖とする、ティムール朝弱体後ペルシャ地区支配してシーア派イスラム教を国教とする、ペルシャ地区はイラン革命後もシーア派の拠点)
962-1186 インド・アフガニスタン ガズナ朝(サーマン朝のトルコ人傭兵がアフガニスタンで建国、北インドを支配)
1148-1215 ゴール朝(トルコ系、ガズナ朝を滅ぼしアフガニスタン・北インドを支配するがホラズムに滅ぼされる)
1206-1526 以後北インドのデリーに諸王朝が興亡
1526-1858 ムガール帝国(トルコ系イスラム王朝)
その他多くの王朝が乱立、争った
勿論争いはイスラム内部だけでは無い、キリスト教徒十字軍への抗戦、モンゴル軍への抗戦で有る

1095-1291 十字軍の中東遠征
セルジューク=トルコのエルサレム占領に端を発したのかもしれない
コンスタンチノーブル攻略をおそれたビザンティン皇帝がローマ教皇に助けを求める
クレルモン公会議における教皇ウルバヌスが呼びかけ第1回十字軍派遣
一旗揚げようと旧フランク諸侯とその騎士団が話に乗った(教皇は権力拡大を求め諸候・騎士団は物欲から)
物欲を批判する訳ではない、封建制の内部に近代的感覚が十分芽生えて来ていたのだ
建前として、キリスト教圏側からすれば聖地奪還戦、イスラム側からすれば蛮族侵略からの防衛戦
平和に暮らしていたエルサレムの現地住民にとっては全く迷惑な話(勿論住民のキリスト信仰は保証されていた)
奇妙な事にアラブ人はそれ程気にしていない(金持ち喧嘩せず?)
勇敢に戦ったのはセルジュークの武将・ザンギー(後にザンギー朝を開設)其の子ヌールッディーン
スンニ派ヌールッディーン配下にしてシーア派ファーティマ朝宰相であったサラディン(後にアイユ―ブ朝開設)
とどめを刺したのはバイバルスなどマムルーク朝初期のスルタンたち
騎士道精神はむしろイスラム側にあった、知略と勇気にあふれたイスラム武将の戦いぶりが牟田口氏の”物語 中東の歴史”に詳しい
*十字軍とモンゴル軍、両強敵に立ち向かい獅子奮迅の活躍を見せたのが中東民族の英雄・バイバルス
 バイバルスはトルコ系キプチャク人クマン族の生まれ、一族をジュチ・バトウのモンゴル軍に蹂躙された末、
 エジプト・アイユーブ朝最後の英君と云われたサーリフのマムルーク(軍人奴隷)に拾われ頭角を現す
1250  第7回十字軍マンスーラの戦いでフランス王ルイ9世を破る
 サーリフの死後、マムルーク内の内紛の後、1260年スルタンになる

モンゴル軍の中東遠征



1257 フラグに率いられたモンゴル軍はバグダードに入城、虐殺と略奪を恣にする
西アジアにムスリムより古くから住む土着のキリスト教徒がフラグにすり寄り先導した
カリフ・ムスターシムは”蒼き狼”の生贄にされアッバース朝は崩壊した
フラグの次の標的はエジプト(遺されたイスラム・最後の砦)
1260 エジプトにはアイユーブ朝最後の英君と云われたサーリフが創り上げ、バイバルスに率いられたマムルーク部隊が待ち受けていた
対モンゴール アイン・ジャールートの戦いでフラグを破り、行く手をはばむ
バイバルスは更に軍備の強化に励んだが、決して武だけの人では無い
フラグのライバル、ジュチ家(キプチャク=カン)の第5代君主・ベルケ(バトウの弟)がイスラムに帰依、バイバルスと手を組んだ
(エジプトーキプチャク同盟が成立)
神聖ローマ帝国(教皇から破門されたフリードリヒ皇帝以来の親交)ビザンツ帝国、
フランク諸侯等に手を尽くして働き掛けモンゴルからの防衛線を引き、ビラの攻防戦で再びフラグを還り打つ
バイバルスは聡明にして慎重、忠実なムスリムとして聖法を守り学問を愛した
金銭には淡白、狩猟やポロ競技を唯一の趣味とし、戦いの決定的瞬間には一兵卒の如く第1線に身をさらした
十字軍はシリア・エジプトの領土から一掃され、モンゴル軍の進撃は永久に阻止された
その後イル=ハン国もイスラム化していく

オスマン・トルコの台頭
世界の戦争・歴史ブログhttp://kh16549.blog.fc2.com/category19-1.html




13世紀末モンゴルから追われ乱立していたトルコ族(モンゴロイド系)の一派が小アジアに建国(戦士隊長オスマン・ベイ)
強大な専制君主権を持つスルタンの下急速に領土を拡大して行った
1453 スルタン・メフメト2世がコンスタンティノーブル攻略、ビザンツ帝国(東ローマ)崩壊、更にバルカン半島を北上
”征服者”メフメトは身分や宗教を問わず人材を登用した、トルコ人だからと云って優遇される事はなかった
結果オスマン・トルコはトルコ民族の国家と云うに憚られるほどの多民族国家として発展した
その寛容・平等の精神はヨーロッパ新教徒に受け継がれ、西欧近世を成立させた2本柱、”ルネサンス””宗教改革”にも影響を与えた
一方 イサベル(カスティーリャ王)とフェルナンド2世(アラゴン王)が結婚して統一スペインを建設
1492 そのスペイン軍がグラナダ王国を攻略、イベリア半島からイスラム勢力を追い出し、レコンキスタ(キリスト教徒の国土回復作戦)完成
レコンキスタはメフメトとは対照的にユダヤ人、ムスリムを追放
同じ年、コロンブスがアメリカ大陸を発見、地中海時代から大西洋時代へ
東西貿易の障害となっていたオスマントルコの存在が、逆に新航路発見への”大航海時代”の幕開けをよんだ
オスマン・トルコの脅威が逆にヨーロッパの近代的発展を促す結果になった
*16世紀初頭から19世紀後半までインド大陸を支配したのはティームール朝の後を継いだムガール帝国だった
アクバル大帝の治世では最盛期を誇ったが、その後分裂、イランやアフガニスタンの侵略を受け衰退
最終的にイギリスが1600年東インド会社設立を橋頭堡としてムガール帝国を滅ぼし英領インド帝国を設立(1877年)
イギリスの極東進出の前に大きく立ちふさがっていたのがオスマントルコの存在だった
1517 オスマン・トルコのスルタン”残酷者”セリムがマムルーク朝エジプトを滅ぼしシリア・エジプトを併合、中東・アラブ世界を制覇
セリムの後を継いだのが”立法者”スレイマン1世、オスマン・トルコの黄金時代を築く
ハンガリーを奪い、サファヴィー朝からイラクを奪取、ブレヴィザの海戦でヨーロッパ艦隊を破り全地中海地域を制圧、キリスト教世界の脅威となる
宿敵はスペイン国王兼神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家のカール5世(カールはイサベル・フェルナンドの子フワナと神聖ローマ帝国マクシミリアンの子)
(スレイマンは反カールのフランス王・フランソワ1世と手を結ぶ)
1529 第1次ウィーン包囲(神聖ローマ帝国攻撃)に失敗
1571 レパントの海戦でオスマン・トルコがスペインに大敗、地中海の覇権を失う
オスマン弱体化の原因は@スルタンの放蕩・国軍の反抗で軍事封建制が動揺A多民族・多宗教を許した事で統治が困難Bサファヴィー朝イランとの対立
1588 スペイン艦隊イギリスに大敗
スペイン弱体化の原因は@外交政策推進の為の蕩尽A”レコンキスタ”と云う非寛容と狂信でムスリムを弾圧追放、結果人的資源が異常出血B労働別紙で国内産業崩壊
1683 第2次ウィーン包囲に失敗
1798-1801 ナポレオンのエジプト遠征
1829 オスマンよりギリシャ独立
1830 オスマンよりエジプト独立、バルカン諸国も独立
1853-1856 クリミア戦争では、英・仏の援助でオスマン勝利、ロシアが挫折
1877-1878 露土戦争、広義には1568年から始まるロシアからの圧迫
1914 衰勢を巻き返すべく、第一次世界大戦にてドイツ側で参戦するも、無残に敗戦それを切っ掛けに新たな政府「トルコ共和国」が誕生し、
帝国は名実ともに消失。後世へ遺産を残すのみとなった
近代のイラクへ
1922 "
オスマン帝国の帝政の廃止とトルコ共和国の建国宣言(ケマル・アタチュルク、トルコ革命)"
その後トルコ共和国は脱イスラム欧米型近代化を推進
英仏は大戦中結ばれたサンクス・ピコ協定に基づきオスマン帝国領を山分け、人工的に国家が作られた
大戦中イギリスはメッカの名門ハシム家フセインにアラブ統一王国実現を約束して味方に引き入れたが、
フセインの次男をヨルダン、三男をイラク王とする事で一応納得させて間接統治、パレスチナは取り敢えず委託統治する
シリアとレバノンはフランス統治(戦前まではシリア・レバノン・ヨルダン・パレスチナ全域が大シリア)
イラクやシリアがオスマン帝国に属している時代、帝国が前述のように民族・宗教に寛容であった為国民は比較的平和に暮らせた
英ソによる人工的線引きに始まる列強の覇権争い、発見された石油資源を巡っての利権争いによって絶え間ない戦争に巻き込まれた
1932 ハシム王家はイギリスの支援のもと中央集権化、油田開発で経済復興、イラクの独立
1945 国連加盟
1946 シリアが仏より独立、共和制へ
1948 パレスチナを与えられたイスラエルと中東戦争(詳細は中東戦争の項)
1958 エジプトのナセルに感化されたカセムのクーデター、ファイサル国王を追放して共和制へ
1958−61年、シリア共和国とエジプト共和国が連合、アラブ連合共和国
1960 イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5ヶ国を加盟国としてOPEC結成
1963 バース党将校のクーデター、カセムを殺害して政権獲得
バース党はシリア・イラクなどアラブ諸国に広まったアラブ社会主義復興党、西欧によって線引きされた既存の国家群を解体、アラブ民族の再統一を目指す
アラブ民族主義とともに社会主義を掲げたが、欧米に抵抗する為ソ連よりの旗色を鮮明にした
このバアス党で出世して指導者になったのがサダム・フセインである
”欧米列強に切り裂かれたアラブ諸国を再び統一し、かつては世界に冠たる文明を誇ったアラブの栄光を取り戻す”
フセインはヒーローとなった
しかしヒーローは典型的独裁者に変貌する、秘密警察を組織して国民を監視し、自分たちを批判する者や権力を脅かしそうな人物は次々と処刑した
一方シリアでもバース党アサドが、1967年第3次中東戦争の敗北を機にクーデターを起こし独裁政権を獲得(やはり秘密警察で国民を監視し、恐怖政治で治安を維持した)
1973 OPECは第4次中東戦争を契機として石油輸出価格決定権を英米国際石油資本からの奪還に動いた
中東石油産出国の反撃、第1次オイルショック、石油価格が急騰、世界経済を震撼せしめた
*国際石油資本7大メジャー(米系エクソン・モビール・ソーカル・テキサコ・ガルフ、英系シェル・BP)
1979 サッダム・フセインが大統領に
1980-88 イラン・イラク戦争(米欧・ソ連・中国などが支援、兵器を供給)
多くのシーア派国民を抱えるスンニ派イラク・フセイン独裁政権にとって1978年に成立したホメイニ師のシーア派イラン革命政権は最大の脅威でもあった(下記ペルシャ地区参照)
石油利権をめぐってイラクがイランに侵攻、
(イラン革命の防波堤として湾岸アラブ諸国もイラクを援助、更に米英もあわよくばイランの石油利権を取り返す事も期待してイラクを援助、イラク軍を訓練、最新兵器を与え続けた)
下記湾岸戦争以降アメリカは悪の帝王・フセイン・イラクの撲滅に乗り出すが
このフセイン・イラクはイライラ戦争を通じてアメリカが育てて来た軍事大国である事、歴史の皮肉である
1990 フセインはイライラ戦争で借りた借金の棒引き更に豊富な石油資源を求めてクエ−ト侵攻、国連・アラブ連合(エジプト・シリア)が非難、湾岸戦争
(フセインの言い分では元々イラクとクエートは一体、イギリスが勝手に分割した)
2001 アメリカでアルカイダが同時多発テロ、イラクは多発テロを喝采、アメリカは対テロ戦争を宣言(下記国際テロリストの項参照)
2003 大量破壊兵器保有疑惑(世紀の大ウソだったらしいが)を口実にアメリカがイラクに侵攻(イラク戦争)フセイン政権崩壊
2004 米英の軍事統治解除
今はスンニ派、シーア派、クルド人三つ巴の内戦状態
アメリカがフセインを葬った後、イラク守護人に目を付けたのが、又もや流浪の民クルド人だった
クルド人は”サンクス・ピコ協定”でも国を与えられずトルコ・イラン・イラク・シリアに跨って離散した”世界最大の国を持たない民族集団”(3000万人)
クルド人はイスラム教徒だが、イスラエルが武器を与えイラク・イランへの抵抗分子・テロリストに育てた
イラク戦争後アメリカはクルド人・タラバニをイラク中央政府の大統領に立て、クルド自治区を事実上独立させた
クルド人自治区は欧米石油資本と連携、イラクの主要な油田を抑えイラク中央政府をしり目に油断開発・都市開発を進めて繁栄を誇る
アメリカの新しい中東拠点となる勢いである

一方ペルシャ地区では(近代イランへ)
1638 オスマン・ペルシャ戦争でサファヴィー朝はオスマンにイラク領域を割譲
1736 アフガン人侵入でサファヴィー朝滅亡
1792 オスマン帝国ロシアに敗れる、ペルシャ地域にカジャール朝(トルコ系)建国、しかしカジャール朝は英露への従属の歴史だった
1804 ロシア・ペルシャ戦争
1826 第2次ロシア・ペルシャ戦争
1838 英国と第1次アフガン戦争、英露による領地浸食、半植民地化がすすむ
1878 第2次アフガン戦争
1905 王党政府は利権擁護に走って外国に追従、財政悪化、反列強・反専制闘争を掲げてタバコ・ボイコット運動や立憲革命
一方英露はイラン政府を介さずイランを3分割する英露協商締結、民主化運動に政府とロシアは露骨な軍事介入、イギリスは黙認
1914 第1次世界大戦でもオスマン対英露の戦場として実質イギリスとロシアに従属、両国に半植民地化
1926 年英ソ両国の思惑のもとで力を得たレザーハーンがイギリス(ロシア革命の勢力がイランに延びる事を恐れた)の援助を受け軍事クーデター軍事独裁政権樹立(国名イランのバーレビ朝)
1945 第2次世界大戦以降、石油資源を利用して急速に近代化
1951 しかし石油産業はイギリスの独占支配のもとにあった、モサデク首相が石油(米ユダヤ系資本アングロ・イラニアン石油)国有化宣言、英・米・仏が猛反発”イランから石油を買うな!)
1953 CIAの支援でクーデター、モサデク失脚、国王はアメリカの傀儡として復帰
1960 イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5ヶ国を加盟国としてOPEC結成
1963 国王自ら白色革命宣言、米国と密着しての近代化促進と反国王運動の弾圧、反政府の陣頭に立ったホメイニ追放
石油資源の利権は再び英米大国の手に落ちる事になり、貧富の格差拡大、アメリカ文明に対する反感
1973 OPECは第4次中東戦争を契機として石油輸出価格決定権を英米国際石油資本からの奪還に動いた
中東石油産出国の反撃、第1次オイルショック、石油価格が急騰、世界経済を震撼せしめた
1974 しかし石油危機で莫大な石油収入を得た政府はその殆どをアメリカ製兵器購入に費消、軍事大国への歩みの見返りに経済運営は失敗、悪性インフレと国家財政破たん
米国が援助する政府は国民弾圧と腐敗を続け、国民は王族や米国に反感
1978 対米依存・独裁・経済政策の失敗が続くシャーの専制政治に対しついに民衆が反乱、シーア派イスラム革命を経て、ホメイニ帰国、イスラム共和国成立
しかし国民の絶対的支持を受けたホメイニ師は革命政権は、
イスラム革命の波及を恐れたアラブ諸国(独裁政権が多い)や石油利権に固執する欧米各国からも孤立する事になった
イスラム革命の特徴
@イスラム人によるイスラムに基づく国家の樹立、”伝統的社会システムの根幹にあるイスラムと近代的制度である共和制を融合させた”
Aアラブ民族主義は独裁政権が西欧列強と癒着する事で民衆を裏切ってしまった、イスラム主義がアラブ民族主義に代わるものとして民衆の期待を集めた
B全く民衆自身によって成就された民主化革命
冷戦下米ソにすり寄り利用される中東各国が多い中で、反米反キリスト教を掲げながらもソ連には依存せず、第3勢力の存在を誇示した
逆に民衆の力を示した事で王政各国に脅威を与えた
Cシーア派イスラム教を原動力としたため、スンニ派イラク等に脅威を与え
欧米風近代化を進めようとしていた傀儡政権バーレビを打倒されたアメリカに大きな衝撃を与えた
D理想通り事が運んだ訳ではない
後述のイライラ戦争、米国からの経済制裁、反政府運動と弾圧等、政治経済はかなり混乱、最近になってやっと落ち着きを取り戻しつつある
1979 第2次オイルショック
テヘラン米大使館人質事件(革命政府が関与していたかどうか、少なくとも黙認する結果になった、アメリカに国交断絶の口実を与え米大統領はカーターから強硬派レーガンに)
1980 イスラム革命の国内波及を恐れるイラクが石油利権をめぐってイランに侵攻、
イランイラク戦争
(イラン革命の防波堤として湾岸アラブ諸国もイラクを援助、更にイランにっくい米英もイラクを援助)
1989 ホメイニ亡くなりハメネイ、ハタミが後継、現実路線へ
2013 イラン(穏健派ロウハニ大統領)・アメリカ(オバマ大統領)間の関係改善の動き
(イランの宿敵にして親米のサウディアラビアは少々不快か)

中東戦争の震源地となるエルサレム・パレスチナ地区を振り返ってみよう

http://ameblo.jp/horichan116/entry-11281707603.html



歴史的シリアと言う歴史的呼称がある、第1次世界大戦後、英仏によるオスマン帝国領分割によって線引きされる前の土地である
現在のシリア・アラブ共和国、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む
イギリスがトランス・ヨルダンとパレスチナ、フランスがシリア・アラブ共和国とレバノンを手に入れた
パレスチナとはイスラエル建国以前は、現在のイスラエルとパレスチナ自治区の両方を含んだ土地を意味するが、1948年以降は現在のパレスチナ自治区のみを指す場合が多い
古代エルサレムは創世記神話の世界である(天地創造、アダムとイブ失楽園、カインが弟アベルを惨殺、ノアの箱舟・バベルの塔、アブラハム・イサク・ヤコブの物語、ヨセフの物語)
エルサレム、聖書ではカナン、シリアとエジプトの中間、西は地中海、東はアラビア砂漠、北はレバノン渓谷、南はガザ谷に至る
アフリカ大陸とユーラシア大陸の交点に位置し、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地を共有

BC17世紀 ユダヤ人の祖アブラハムの誕生から出エジプトまでを”族長時代”という(創世記)
アブラハム(唯一神ヤハウェと契約)一行はウルからハランを経てカナンへ
アブラハム−イサク−ヤコブ−12人の子(ヨセフ他ユダヤ12部族の祖)
ヤコブ(イスラエル)の時代にエジプトに移住するが、子孫はエジプト人の奴隷に
BC13世紀 虐げられたしジプトから
モーセに率いられて”約束の地”カナンに脱出
モーセ十戒を受ける
神との契約、神の与えし土地など、私の様に信仰のない人間からすれば神話や宗教が如何にも人間が創りだしたものの証のようにも思えるが
兎にも角にもユダヤ民族の迫害と抵抗の歴史がここに始まった
BC11世紀 王制始まる(首都エルサレム)
サウル−ダビデ−ソロモン(エルサレム神殿建設)
BC10世紀 統一イスラエル王国の分裂(北王国・イスラエル、南王国・ユダ)
BC722 イスラエル王国がアッシリアに敗れる
BC586 ユダ王国がバビロニアに敗れ、ユダヤ人はバビロンに強制移住(バビロン捕囚)
アケメネス朝ペルシャによってバビロニア滅亡、ペルシャの寛大さはユダヤ民族に一時の平和をもたらした
BC4世紀 アレキサンダー大王によってギリシャの支配
1世紀 一時独立を得るが、ポンペイウスによってローマの支配
ナザレの地に生まれたイエス、各地で伝道の開始、エルサレム入城
AD30 律法主義のユダヤ教徒がイエスを売りローマ総督ピラトによってイエスは十字架に
宗教改革を掲げるイエスをローマ帝国に告訴、銀貨30枚で売り渡したのはユダヤ教徒だった
キリスト教徒のユダヤ民族に対する怨念、或いはその事を口実に
後の十字軍遠征、ロシア正教、ナチス・ドイツ等によるユダヤ民族迫害・虐殺の歴史が続いた
余りにも大きな代償を受ける事になった
パウロの大伝道開始
ユダヤ人のローマ反乱は失敗、エルサレム神殿は焼き払われる
総主教ヨハナン、ガバニエルらのローマ和解、ユダヤ教の立て直し(ヤブネの改革)
ユダヤ教は口伝律法整備、キリスト教は新約聖書を完成(ユダヤ教とキリスト教の対立鮮明に)
AD67 ネロ帝のユダヤ教徒、キリスト教徒弾圧
AD73 ユダヤ戦争でマサダ砦陥落(ユダヤのローマ抵抗戦敗北)
AD250 トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝に続き、ディオクレチアヌス帝のキリスト教大弾圧
AD313 コンスタンティヌス帝の反ユダヤ勅令、キリスト教公認
AD330 ローマからビザンティウム(コンスタンチノーブル)に遷都、東方正教会対西方教会の対立
AD325 ニケーア公会議で三位一体等教義確定
AD362 ユリアヌス帝親ユダヤ宣言、キリスト教徒によって暗殺?
AD392 テオドシウス帝、キリスト教を国教とし、異端・異教を禁止
(ユダヤ教の改革思想としてパレスチナの地に始まったキリスト教はローマに取り込まれた)
キリスト教は完全な勝利を収めた、そしてその反動かのようにユダヤ民族に対する差別と迫害が峻烈に推し進められ
信じられないほど永いユダヤ民族流浪の歴史が始まった(ディアスポラ)
やがて東西ローマ帝国は北方からはゲルマン人、東方からはペルシャ人の圧力を受け滅亡する
以後パレスチナの地は
614-1099 ペルシャの侵攻
636-1099 アラブの支配、イスラム勢力侵入によりサラセン帝国の一部となり、エルサレムはイスラム教第3の聖地となる
ウマイア朝、アッバース朝、ファティマ朝の変遷の中で更にイスラム化
1099-1291 十字軍の支配(ラテン王国)
11世紀ヨーロッパ十字軍の聖地回復の目標値となり、一時はエルサレムを占領されたがサラディンが奪還
一時エルサレムを占領した十字軍であったがイスラム教徒ばかりかユダヤ教徒を虐殺した
中世ゲルマン人の手によってもユダヤ民族迫害はやむことなく増幅された
1291-1516 マムルーク朝の支配
1517-1917 オスマン帝国時代
オスマン帝国の弱体化とともにヨーロッパからのキリスト教伝播、移住が増えてきた
更に帝政ロシアなどから追われたユダヤ人のパレスチナ帰還、ユダヤ国家建設の夢が膨らんでいった
第1次世界大戦ドイツに味方してオスマントルコ敗北、フランスとの密約(サンクス・ピコ協定)でパレスチナは英国統治下に
(以下中東戦争の項)

中東戦争
ローマ帝国、キリスト教十字軍、ロシア正教、ナチス・ドイツ等に住処を追われ世界に拡散したユダヤ民族(ディアスポラ)
彼らは民族の悲運をもたらした神を決して恨むことなく、逆に選ばれた民の神から与えられた試練と受け止めた
差別・迫害・虐殺されるほどに、神が約束された土地・故国への帰還の願いと確信が深まって行った(シオニズム運動)
元々優秀な民族である、米欧各地に散らばってはいても国家なき民族の連帯と経済力・発言力は侮りがたいものが有った
ユダヤ民族迫害に手を汚したヨーロッパ諸国の後ろめたい同情も有った
機は熟して来た、そして大国の”ご都合主義”が近代世界史にアラブ・ユダヤ民族の対立、イスラム圏の西欧に対する決定的不信・怨念の構図を創り上げる事になった
第一次世界大戦中、大国イギリスが何とも卑劣で馬鹿げた事をやってくれた
世に有名なイギリスの”3枚舌外交”
@サンクス・ピコ協定、オスマン領を英・仏・露で山分けを約束
1.シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。(後にシリア・レバノンに分割独立)
2.シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
3.黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。
Aフサイン=マクマホン協定、アラブの王フサインにトルコへの反抗を要請、その見返りにアラブの地に統一国家樹立を約束(その地にパレスティナを含むかどうかは実は微妙)
(後にイラク・ヨルダンを分割、フサインの息子をそれぞれの王として一応約束を果たす)
Bバルファ宣言、軍資金援助の見返りに、エルサレムを含むパレスチナをユダヤ人に委ねると約束
(サンクス・ピコ協定でパレスチナを手に入れたイギリスであったが、その土地を自らの管轄の下アラブとユダヤ両者に与えるとダブルブッキングしたのである)
オスマン帝国は滅亡したが、パレスチナは多くのアラブ人が居住していた(一部にユダヤ人も平和共存していたが)
第2次世界大戦、ナチスから追放されたユダヤ人は大国のお墨付きを得て続々パレスチナへ、銃をもってアラブ人を追い払った
永い永い流浪民族の歴史から、艱難辛苦の末、経済力・政治力を得て、神との約束の地を取り戻したユダヤ人、偉大な民族である
そのこと自体”歴史の奇蹟”ではあるが、現住の土地から突然追い立てられたアラブ人こそ悲劇だった(パレスチナ難民)
こうなってはイギリスもお手上げ、処理を国連に委ねる
1947 国連はパレスチナをアラブ人・ユダヤ人居住区に強制分割、両者の聖地・エルサレムは国連管理地区とする
”ユダヤ人は票になるが、アラブ人は票にならない”時の米国大統領・トルーマンの言葉である、ユダヤ資本の経済力・発言力に牛耳られたアメリカは徹底的にユダヤと一体である
1948 ついにイスラエル国が独立宣言を強行、収まらないのはアラブ、アラブ諸国連合軍(エジプト・シリア・ヨルダン・レバノン・イラク)がパレスチナに侵入、第1次中東戦争勃発
パレスチナはイスラエル・エジプト・ヨルダンに3分割、エルサレムもイスラエル・ヨルダンに分割
1952 エジプトのナセルがクーデターで国王追放、エジプト共和国設立
1956 ナセル・エジプト大統領、スエズ運河国有化宣言
スエズ運河:フランス・エジプトの合弁会社として仏のレセップスが建設、財政難でエジプトが株式をイギリスに売却、イギリスが大株主となり、イギリスの交易要路・収益源となっていた
ナセルは治水の為の急務、アスワン・ハイ・ダム建設への融資をアメリカに求め、拒否されたのでスエズ運河国有化で報いた
イスラエル・英・米・仏が猛攻撃、第2次中東戦争に突入、ナセルは一応スエズ運河国有化を成功させ非同盟諸国首脳会議を主導した
冷戦下ソ連がダム建設融資と戦争援助を申し出てナセル民族主義は社会主義に傾斜
アラブ民族主義によるサンクス・ピコ協定打破を打ち出し、社会主義を唱えるが非同盟、第3世界の雄となる
私事で恐縮だが、其の頃高校1年生の私、先生からスエズ戦争に関する新聞スクラップを宿題に与えられた事が懐かしい、今も大して変わらない
1964 人民軍PLOパレスチナ解放機構結成
1969 アラファトがPLOの実権を握り反イスラエルのテロ闘争激化
1966 シリア革命で左派政権が誕生、アラブ民族主義昂揚にイスラエルが反撃、アラブ=ソ連の抗戦、第3次中東戦争
イスラエル”6日戦争”の奇襲でヨルダン領ヨルダン川西岸、エジプト領ガザ地区・シナイ半島、シリア領ゴラン高原を占領
パレスティナ難民はガザ地区・ヨルダン川西岸を追われ愈々逃げ場が無くなった(PLOは亡命政府としてヨルダン・レバノン・チュニジア転々)
1973 エジプトとシリアがイスラエルを攻撃、アラブ諸国は石油禁輸で抵抗、第4次中東戦争と第1次オイルショック
1977 キャンプ・デービットの和平合意(エジプト・サダト大統領とイスラエル・ベギン大統領)
1981 和平を推進したサダト暗殺
1982 イスラエルのレバノン攻撃(レバノン戦争)でPLO大打撃を受ける
1993 オスロ合意でイスラエルとPLOが相互承認、イスラエルとヨルダンが国交樹立、一方和平推進のラビン首相暗殺、米仲介のキャンプデービット会談は失敗
 ヨルダン川西岸地区及びガザ地区を一応パレスチナ自治区とする
2004 PLOアラファト議長死去
 イスラエルによるパレスチナ侵攻でオスロ合意は崩壊、パレスチナ過激派による抵抗テロが激化
 ヨルダン川西岸は穏健派ファハタ(主流派であったが腐敗)が支配、ガザ地区は原理主義過激派ハマス(ムスリム同胞団パレスチナ支部)が支配、
 パレスチナ内部も分断状態、アメリカ・イスラエルはハマスをテロリストと指定
2006-2009 イスラエルのガザ大虐殺、ガザ地区に隔離されたパレスティナ人を空爆・猛攻
アメリカは常にイスラエルの味方だった
理由はアメリカに在住して富と名声を得たユダヤ人がイスラエル・ロビーとしてアメリカ政界に絶大な影響力を保持しているからである

繰り返しになるが、エジプトの歴史を纏めて見る
BC2686-2185 古王朝 ピラミッドを建設
BC2040-1782 中王朝
BC1570-1070 新王朝 アメンホテプ4世の宗教改革(アモン神→アトン神)
BC525-332 アケメネス朝の支配 ペルシャ王朝
380-642 ビザンチン帝国の支配
639-1250 イスラム帝国の支配 ウマイア朝→アッバース朝→ファーティマ著
1250-1517 マムルーク朝の支配
1517-1805 オスマン帝国の支配
1805-1882 マハンマド・アリーの近代化 オスマンのエジプト総督
1922 エジプト王国成立 イギリスの間接支配
1948 第1次中東戦争敗北 経済悪化、ムスリム同胞団台頭
1953 エジプト革命 ムハンマド・アリー朝打倒、共和制へ
1956 ナセル大統領 アラブ民族主義、第3世界の雄、スエズ運河国有化、第2次中東戦争
1958-1961 アラブ連合共和国 シリアと連合
1962 北イエメン内戦 ソ連とともに共和派支援(王統派サウディ・ヨルダンと対立)
1967 第3次中東戦争(6日戦争)敗北
1970 ナセル→サダト大統領 イスラエルとの融和政策
1971 エジプト・アラブ共和国に改称
1981 イスラム過激派ジハード団がサダト暗殺
ムバラク大統領 対米協調の開発独裁、イスラム主義運動弾圧
2012 ”アラブの春”でムバラク失脚
ムスリム同胞団のムハンマド・ムルシーが大統領に選出
2013 エジプト軍のクーデター ムルシーは大統領職を追われたがムスリム同胞団(ムルシー派)が反抗、内紛状態

親米を貫いて来たアラビア半島はどうだったか
アラビア半島はメッカ・メディナのイスラム二大聖地を持つイスラム教発祥の地であるが
半島そのものは政治的・経済的に見るべきものが無く、16世紀初め一部がオスマン帝国の支配下に入ったものの中小部族が抗争する辺境地だった
大英帝国が対インドへの交易路を確保するためアラビア半島ペルシャ湾岸に目をつけた
アラブ中小部族の抗争を利用して一部の部族長と手を結んだり、お決まりの砲艦外交でこの地をインド大陸支配の戦略拠点とした
アラブ部族の首長たちは大英帝国と手を結ぶ事で他の部族に対する優位を得た
今に至る中東諸国の支配者と欧米巨大国との蜜月の構図である
一方オスマンの支配下、ムハンマド・サウドとムハンマド・ワッハーブ(スンニ派系)が軍事・宗教面で同盟してオスマンに抵抗(トルコ支配へのアラブ民族抵抗の基礎)
第1次ワッハーブ王国1746〜1818年  第2次ワッハーブ王国1823〜1889年→エジプトに滅ぼされる
オスマン帝国は当時の本拠地エジプトから反撃
第1次世界大戦でオスマン帝国滅亡後、大英帝国はアラブの名門ハシーム家にオスマン抵抗の代償としてイラク、ヨルダンを与えて間接支配
1932 サウディ家(イブン=サウード)がハシーム家に対抗してサウディアラビア王国建国(ワッハーブ王国再興、イギリスとサウド家の不協和音に目を付けたアメリカがバックアップ)
米合弁会社アラコムによって超巨大油田を開発、膨大な油田収入で浪費を欲しいままにするサウドから弟ファイサルに政権移転近代化推進(1964年)
ファイサル暗殺され異母弟ハリド、ファハドが王位継承
サウディ家は憲法も議会も認めぬ@封建的王政、シーア派代表イランに対してAスンニ派代表としてイスラム盟主を自認、徹底したB親米政権
1951 米・サウディ間に相互防衛援助協定
アメリカ・サウディ蜜月の理由
@巨大な石油埋蔵量(ペルシャ石油開発は英、イラク石油開発は英仏に独占されていた)が米石油企業とサウディ王家を潤した
A第2次大戦後の冷戦期でエジプト、シリア、イラクが左派アラブ民族政権を樹立して反米・反イスラエル、王政の守護はサウディ王家とアメリカ共通の課題となった
B1973年79年、OPECのとった”石油戦略”は中東産油国にとって両刃の刃だった、中東最大の産油国としてキャスティングボードを握るサウディアラビアがアメリカと仲介
  以後左派民族主義の湾岸諸国にさえ”石油ブーム”とオイルマネー流入による経済開発の恩恵をもたらした
1971 "アラブ首長国連邦建国(アブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジマン、ウム・アル・カイワイン、
フジャイラ、ラス・アル・ハイマ)は富裕国の象徴、イデオロギーより金の力を見せつけた"
独裁政権を倒しても、次の独裁者が登場、国民を恐怖に陥れる
それよりも独裁政権が節制に努める事で、国民に金をばらまく事が出来ればハッピーハッピーだろうか
だがうまく行っているうちは良い、良い事ばかりは続かない
常に支配権転覆を恐れている独裁者は甘くない、経済も甘くない
1979 イラン革命への警戒
ソ連のアフガニスタン侵攻、サウディからアフガンに入ったウサマ・ビンラディンも反ソ・ゲリラ戦(アフガンにワッハーブの影響)
1990 イラクのクエート侵攻ではアメリカと同盟してイラク攻撃
サウディアラビアの富豪オサマ・ビンラディンがサウディ家を批判反米に走らせる、後述の様な紆余曲折を経て国際テロリスト・ネットワーク”アルカイダ”誕生
1996 アフガニスタンにイスラーム原理主義のターリバン政権成立
2001 9.11同時多発テロ、米ブッシュはターリバンの保護下にあるアルーカー=イダが実行者として、アフガニスタン侵攻、ターリバンを追放、しかし未だ混乱状態
同時多発テロを主導したとしてアメリカが反撃、アフガニスタン・イラクに容赦なく侵攻、今日の国家機能を失った中東諸国政府+アメリカ対国際テロ集団の対決となった
又同時多発テロと欧米の反撃で、アラブ諸国のオイルマネーが欧米投資からドバイにつぎ込まれ、湾岸諸国は空前のバヌル景気に沸く
2009 ドバイ・ショック、2008年アメリカのリーマンショックでオイルマネーは再び米に引き上げられ、2009年ドバイ・ショックとなる
サウディアラビアは決して民主国では無い、ビンラディンを生み出した国ながら、
アメリカと云う勝ち馬を後ろ盾にして、王の強権と国教としてのイスラムで国民を統一、豊富な石油資源で国民に福祉を与え現在の所、他の中東諸国に見られない安定を保っている

米ソの対立”冷戦”(1945-1989)が中東に与えた影響
英の政治学者・フレッド・ハリディー
”現在中東を含む西アジアが抱える問題は、冷戦が生んだ二つのゴミに起因する
一つのゴミはソ連から垂れ流される核開発技術や原材料などの大量破壊兵器の拡散で
もう一つのゴミは、アメリカがソ連の影響力を拡大させない為に各地で起用したギャング(ビン・ラディンやサダム・フセインのような)だ”
米ソ2大ボスはなり振り構わず子分を探し出し武器を与え訓練して”代理戦争”に起用した
伝統的に南下を図るソ連、トルコ・イラン・アフガニスタンはアメリカにとって対ソ防衛ラインの最前線だった
ソ連の”民族主義取り込み”戦略にナセル・エジプト(1956年スエズ国有化)をはじめとする中東諸国は左傾化した民族主義で欧米資本と対抗しようとした
当然ソ連から与えられた武器弾薬で軍備を増強した
冷戦が終わると武器と戦力を持って”鬼子”に成長した子分は云う事を聞かなくなる、ブッシュ政権の”テロとの戦い”は実はそうした元子分を処理する過程(酒井啓子先生”中東の考え方”)
米ソだけが悪いのではない、中東諸国の支配層は冷戦構造を利用して超大国と駆け引きする事で生き延びて来た
そして冷戦の終結、勝者アメリカにすり寄るか、アメリカに対抗して生き抜くかの2者択一
圧政のバーレビ王朝を転覆、独自のイスラム共和国を建国したイラン革命(1978年)はアメリカと対抗しながらもソ連をも警戒した
明日は我が身か、イラクのフセインはじめ中東諸王国の独裁者たちを震撼せしめた
もともとシーア派民衆に取り囲まれたフセインにとって政権を維持する手立ては民意統一より大国の援助を引き出す事にあった
イラン・イラク戦争(1980-88)、アメリカはじめ西欧諸国はこぞってイラクを支援、欧米資本の石油利権に抵抗する異質分子イランを壊滅させようとした(今流行りの”集団的自衛権”?)
ソ連、中共までがイスラム革命の波及を恐れてイラクを支援した(共産陣営もイラン革命波及を恐れイラクを取り込もうとしたご都合主義)
イライラ戦争終結まで膨大な武器弾薬がイラク等に流れ、イラクは軍事大国に成長した
その意味で軍事大国イラクはアメリカ等欧米巨大国が育て上げた
今度は軍事大国として増長、支配地拡大に走るフセイン・イラクが邪魔になる
石油資源を求めてのクエート侵攻、たかを括っていた米国が丁度冷戦終結後の中東支配に燃えていた、湾岸戦争でフセインに一矢を報い米の中東直接介入が始まった(1990年、すでにソ連は崩壊)
なかんずく同時多発テロでアメリカに攻め込んだアルカイダに喝采を送るとは何事か
もはや”集団的自衛権”の枠を超え、云う事を聞かぬ”ならず者”は一刻も早く断頭台に送れとイラク侵攻(2003年)
ちなみにビン・ラディンのアルカイダもアフガン戦争(1979年)でソ連と戦いアメリカの支援で軍備と力を蓄えた”元子分”
フセインのバース党軍人もアルカイダも主にアメリカ軍から与えられた武器でアメリカ駐留軍に決死のテロ攻勢を繰り返した
さてフセインやビン・ラディンは”裏切り者”だろうか
もともとフセインもビン・ラディンも反米の闘士、時に応じて米ソにすり寄り武力を手に入れようとし、米ソも味方戦力に取り込もうとしたのも当然の”戦争力学”
免罪する積りはさらさらないが、極めて当然の動きでなかろうか
確かに圧政で権力を守ろうとする独裁者は”ギャング”だろうが、国に踏み込み殺しに来た巨大国にそう呼ばれる筋合いはない
冷戦終結後も次々”仮想敵国”がつくられ”正義”の名の下に戦争が強行されてきた、その殆どは無意味な消耗に終わった
”正義の戦争”などは無い、出来る事なら近寄らぬ事が肝要だ
日本の国際発言権は”戦争をしない国、原爆を身に受けた国”と云う建前は逆に“強み”だった
其の建前を崩して態々”他国に行って戦争も出来ますよ、お味方出来ますよ”と宣言する意味が解らない
確かにプーチン・ロシアや近習平・中国の横暴を見れば”戦争出来ない国”である事に付け入られている様な気もするが、敢えて”戦争力学”に巻き込まれる事が国民を守る道だろうか
”我々はアメリカにお味方して戦争も出来ますよ”と宣言するしか方法が無いのだろうか
アメリカも”正義”ではなく常に自国権益を最大に考えて行動して来た事歴史上明らかだ、現在の勝者アメリカもこれからの事は解らない

アラブの春とその後
2010-2012 北アフリカのチュニジアに始まった大規模な反政府デモ(ジャスミン革命)がアラブ諸国に波及、長期独裁政権を次々に倒した
何故アラブでは独裁政権が長期に及んだのか
オスマン帝国やドイツ帝国の解体で欧米の委任統治下にあったアラブ諸国が第2次大戦後次々独立を果たした
多様な民族、宗教間の争いを抑え込むには”強い力”を必要とした
欧米巨大国は石油欲しさと過激派防波堤として独裁者にすり寄り、独裁政権は欧米の支援で軍備を整え国民の不満を抑え込んだ
アラブ独裁政権と欧米巨大国の利害が一致した
国民の不満が一挙に爆発した”アラブの春”、確かに多くの独裁政権打倒に成功したが、
その後イスラム原理主義過激派の台頭を許し、民主化を求める勢力との内戦、その間をぬっての軍事政権の復活等かえって混乱が続いている
革命とはそのようなものかも知れない
フランス革命のロベスピエール、ロシア革命のスターリン、中国革命の毛沢東、革命には途方も無い代償が必要なのだろうか
と云っても独裁政権の長期化が許される筈も無く、難しいものだ
*エジプト
1981 第4次中東戦争での活躍で大統領になった軍人ムバラク
2011 40年近く独裁の続いたムバラク大統領の退陣、”ムスリム同胞団”の活動家ムルシーが大統領に
かってイスラエルとの妥協を嫌い中東和平を推進したサダト大統領を暗殺したのがムスリム同胞団である
ムバラクは過激派ムスリム同胞団を弾圧する事でアメリカから支援を受けていた
ムバラク退陣で息を吹き返したムスリム同胞団への国民の不安、そしてムルシー大統領は経済失政で失脚
その間隙に軍事政権が復活(シシ前国防相が大統領に)、元のもくあみとなった
*シリア
1970 クーデターでアサド独裁政権成立(現在は息子が世襲)
冷戦時代からのソ連寄り、反米
バース党一党独裁、小数シーア派が国民多数のスンニ派を押さえつける構造
ムスリム同胞団を弾圧
アサド政権(シーア派代表のイランが支援)と反政府勢力(スンニ派代表サウディアラビアが支援)が内戦状態が続いている
近年ISISの支配拠点も急速に広がりを見せている
*リビア
1969 ナセル主義者27歳のカダフィ大尉がクーデターでリビア・アラブ共和国建国
イスラム原理主義・社会主義・ナセル主義を唱え数々のテロ行為を主導して米英に対抗
1986 アメリカがカダフィ暗殺を目的にリビアに空爆
2003 イラク戦争の頃から軟化、アメリカは”テロ支援国家”指定を解除
2011 反政府デモに反撃してリビアは内戦状態に、カダフィは民兵に射殺されたが権威ある政府は未だ成立せず内戦状態が続く
この様な現状に独裁者待望論さえある
*レバノン
フランスの委任統治時大シリア復活を嫌って、シリアとレバノンに分割
反イスラエルの急先鋒、イスラム過激組織”ヒズボラ”をかかえる
ヒズボラは親アサド、反アサドのスンニ派勢力と抗争中
*アルジェリア
1962 フランスから独立、FLN(アルジェリア民族解放戦線)の一党独裁
1988 民主化運動で独裁政権は倒れたがイスラム原理主義勢力が台頭、軍部がクーデターを起こし内戦状態に
その中から更に過激な勢力GIA(武装イスラム集団)誕生
2013 アルジェリア人質事件
”アラブの春”で崩壊したカダフィ政権の傭兵がリビアの新鋭武器を持ってアルジェリアに逃亡、GIAと組んで天然ガス施設を襲撃、日本人も犠牲に
*ナイジェリア
2014 ”ボコ・ハラム”によるナイジェリア女子生徒誘拐事件
”ボコ・ハラム”は”ナイジェリアのタリバン”とも自称、”パキスタンのタリバン”同様女子教育を否定
イスラム教での女子の教育や服装への干渉は”弱い婦女子を守るため”と云う大義名分があるそうだが、
戦前の日本にも見られた女子差別に違いない

国際テロリストのネットワークはどの様に形成されたか
オサマ・ビンラディンはサウジアラビアの富豪だったが
アメリカべったりの国王を激しく批判して国外に追放される
1979 ソ連のアフガニスタン侵攻に対し、助っ人(イスラム聖戦士)として参戦
この聖戦(ジハード)はパキスタンを通してのアメリカ援助(金と最新兵器)で勝利
1989 1989年ソ連は完全撤退
しかし戦後も民族間の主導権を巡る紛争が続いた
隣国パキスタンの後ろ盾で過激派タリバンがアフガニスタン制圧
タリバンはムハンマド・オマルに導かれた神学校生徒(パシュトウ人が中心)、もともと秩序の回復が目的であったが、
真面目すぎる原理主義、イスラム教の戒律を極端に厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真の禁止、
娯楽の禁止、女子の教育の禁止などを強制していくにしたがって、住民たちの失望反発を招いた
ビンラディンが再びアフガニスタンに舞い戻った
かってアメリカの盟友としてソ連と戦ったビンラディンであったが、もともと反米のイスラム聖戦士である
タリバンに接近、国際テロリスト・ネットワーク”アルカイダ”を立ち上げる
アルカイダはアフガン戦争時アメリカ軍から与えられた武器でアメリカ軍に決死のテロ攻勢を繰り返した
現代ISISなどに見られる国家縦断テロ・ネットワークはこのビンラディンのアルカイダを嚆矢とするのだろうか
2001 ジョージWブッシュ大統領は9:11同時多発テロを起こしたのはビンラディンであるとしてアフガニスタン・タリバン政権にビンラディン引き渡しを要請
拒否したタリバンに即刻アフガン空爆、2カ月で壊滅
2003 アフガニスタン壊滅に気を良くしたブッシュは余勢をかって、9:11テロに喝采を送っていたフセインのイラクに侵攻
2006 フセインは逮捕処刑されバース党(スンニ派)は追放されたが国家機能がマヒ
シーア派マリキ政権に対しアルカイダと同盟を組む過激派テロ組織ISIS(スンニ派)が抵抗、内戦状態になる
マリキ政権はアメリカやイランの支援を仰ぐが、ISISはアルカイダ以上に残忍効果的なテロにより勢力を広げる
2011 ビンラディンは殺害されたが、各地に勝手にアルカイダを名乗る反米テロ組織が生まれて来た
ビンラディンの転生と云えば恰好良すぎるが
AQIM(イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ)AQAP(アラビア半島のアルカイダ)パキスタン・タリバン、アルシャバブ等
中東ばかりかヨーロッパからも格差社会で働く場を失った若者たちの就職先にまでなっている
2014 アメリカ軍は2016年にアフガニスタンから撤退を発表してアフガン大統領選挙が行われたがタリバンが妨害
イラクからシリアにまで勢力を広げたISISは行政組織を整え”イスラム国”樹立を宣言、さすがのアルカイダもISISに絶縁宣言
ISIS(ISIL,IS,イラクとレバントのイスラム国,イラクとシリアのイスラム国)
アブ・バクル・アル・バグダディ指揮の下イスラム国家樹立運動を行うアルカイダ系(現在は絶縁状態)イスラム過激派組織である。
イラクとシリア両国の国境付近を中心とし両国の相当部分を電光石火で武力制圧、国家樹立を宣言し、ラッカを首都と宣言している
@イラク戦争でアメリカ製新鋭武器を奪い逃亡或いは拉致して来た元バース党軍人の多くを幹部にしている為、
”プロの殺し屋”として抜群の戦闘力を持った
A西欧が勝手に線引きしたとして”サン・ピコ体制”を否定、イラク・シリアに国家縦断の支配地を広げて行った
Bフセイン仕込みの恐怖統治(比較的効率的な行政力も備えて)でイスラム統一国家の樹立を宣言
Cサラフィー主義(ムハンマドの没後3世代に見られた世の状態が理想的であったとする復古主義的な思想、反シーア派)
異教徒や自分たちが異端とする人々を殺害を含む厳罰を与える事を躊躇しないため、イスラム内部にさえ恐れられる
(シリア内戦では反政府軍に有りながら、他の反政府軍をも攻撃して支配地と武器を奪いむき出しの支配欲をみせつけた)
D古き良き平和なイスラム世界へのノスタルジャに訴えたのであろう
バグダディは、自らが預言者ムハンマドの後継者である”カリフ”であると宣言し、
スンニ派アラブ人のカリフのもとに、イスラム教徒の諸民族や異教徒(キリスト教徒とユダヤ教徒)を支配下におく”カリフ国家制”(武に基づく階級国家体制)を公言
E戦闘と統治の手口は拉致、斬首処刑、略奪、人質ビジネス、改宗強制、拷問、女性の奴隷化などの蛮行を恣にする
昨今チュニジア、クエートにまでテロ旋風を巻き起こし、恐怖の”殺人集団”である事を見せつけて憚らない
西欧の近代戦闘手段が野蛮・残虐でない訳ではない、近代的戦闘手段を持たないからこのようなテロ手段を行使していると云えばそれまでだが
得意の映像やネット技術で広報、敢えて自らの残虐性を誇示している所が有る
事実近代文明のはざまで行き場を見失ってしまった若者たちの一部が、この様な古典的漫画チックにさえ見える闘争ファッションに
訳も無く憧れる事さえあるのは恐ろしい事である

イスラム過激派は何故かくも過激になったのか?
@縷々見て来たようにイスラム社会は常に権力闘争の歴史だった
不安定な権力基盤は勢い独裁制と過激な手段で権力を維持しようとする(独裁と過激性は権力の脆弱性の表れに過ぎない)
その変転極まりなく過激な支配権力(諸王朝等国家権力)が諸々のイスラム宗派と癒着した(国家統一の為宗教が利用されたのかもしれない)
その中で宗教の闘争性が養われた
A更に西欧巨大列強が利権にかられて支配権力を利用し引きまわした(持てる者の悲運である)
一方イスラム民衆に、その様な近代西欧文明に対する根強い反発と恨みが残った、イスラム原理主義がそこに付け込んだ
Bイスラム宗教共同体を名乗る”イスラム国”にしても、その過激性・残忍性はイスラム教から導かれたものでは無く
歴史的に培われた権力闘争から導かれたものであろう、イスラム国でさえ宗教は国家統一のための道具の様な気がする
Cつまりイスラムの過激性は民族気質とかイスラム教の教義とは関係なく、脆弱で変転極まりなかった権力闘争の歴史に由来するのではなかろうか
ただイスラム教自体の中に権力の過激性・闘争性に付け込まれる要因は無かったのか、もう一度考える必要は有りそうだ
それは歴史的考察よりも比較宗教の分野だから、もう少し勉強しないと何とも言えない
回を改めて考えたい

参考:ギリシャ文明
エーゲ文明
BC2000 クレタ文明(語族不明)    エヴァンズ(英)発掘
BC1450 ミケーネ文明(アカイア人)  シュリーマン(独)発掘
BC1150 ドーリア人、”海の民”により滅ぼされ暗黒時代へ
BC800 アテネ・スパルタ等ポリスの成立
アテネを中心とする民主政治の発展と限界
BC620 ドラコン法
BC594 ソロンの改革(貴族制から民主政へ、但し奴隷制に支えられた財産政治)
BC561 ペイシストラトスの僭主政治
BC508 クレイステネスの改革(オストラシズム制度)
BC492-79 ペルシャ戦争(アケメネス朝ダレイオス1世に勝利)サラミスの海戦
@民主政に自信A無産市民の発言力強化
Bアテネを中心にテロス同盟
BC444 ペリクレス時代(アテネ民主政治全盛期)
BC431 ペロポンネソス戦争
アテネの衆愚政治化、貧富格差拡大、
アケメネス朝ペルシャのスパルタ援助で
アテネがスパルタを中心とするペロポンネソス同盟に敗れる
*スパルタ(ドーリア人の征服で成立したポリス)
 ペリオイコイ(半自由民)ヘイロータイ(農奴)
BC338 マケドニア(フィリッポス2世)が勝利して支配(カイロネイアの戦い)
アレクサンドロス大王の東方遠征
(東西融合のヘレニズム文化形成)

ギリシャの文化
喜劇詩人  アリストファネス
悲劇詩人  アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス
哲学     タレス、ピタゴラス、ヘラクレイトス、デモクリトス
        プラトゴラス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス
        ストア派、エピクロス派
歴史家   ヘロドトス(ペルシャ戦争)
        トウキディデス(ペロポンネソス戦争)

参考:ローマ文明

BC800 ローマに都市国家成立
BC509 エトルリア人を追放して共和制
貴族(パトリキ)平民(プレブス)
BC451 十二表法  (法の成文化)
BC367 リキニウス・セクスティウス法
(大土地所有制限、コンスル一名を平民から)
BC287 ホルテンシウス法
(元老院承認なしで平民会決議が国法に)
BC264-146 ポエニ戦争
(ローマ・スキピオVSカルタゴ・ハンニバル)
市民の分解(従軍疲労と奴隷制大農場の圧迫で中小農民が没落)
@ラティフンディア(奴隷制大農場)を経営する閥族
A属州の徴税を請け負う騎士身分の出現
B土地を失い無産遊民化する平民=小農民
BC133 グラックス兄弟の改革失敗
BC88 閥族派スラと平民派マリウスの党争
BC91 同盟市戦争(同盟市自由民にローマ市民権)
BC73 スパルタクスの乱(奴隷の反乱)
BC60 第一回三頭政治(ポンペイウス、カエサル、クラッスス)
BC46 カエサル終身独裁官の改革と元老院による暗殺
BC43 第二回三頭政治(オクタヴィアヌス、アントニウス、レビドウス)
BC27 オクタヴィアヌスの勝利、アウグストウスの称号を得て帝政開始
(アクティウムの海戦)
AD96-180 5賢弟の時代
(トラヤヌス、マルクス=アウレリウス=アントニヌス、ネルヴァ)
軍人皇帝時代→専制君主制
AD284 ディオクレティアヌス帝東方的君主制採用、キリスト教弾圧
AD313 コンスタンティヌス帝、ミラノ勅令でキリスト教公認
AD325 ニケーア公会議(アタナシウスの三位一体説を正統、アリウス派を異端とする)
AD330 ビザンティウム(コンスタンティノーブル)に遷都
AD375 ゲルマン民族大移動、西ゴート族のローマ侵入
AD392 テオドシウス帝、キリスト教を国教に
AD395 帝国分裂
東ローマ帝国(ビザンチン帝国)  1453年滅亡(オスマン帝国)
西ローマ帝国  476年滅亡(ゲルマン人傭兵隊長オドアケル)
ローマを支配したゲルマン人は、やがてキリスト教を取り入れたが、ユダヤ教への迫害は一層強まった

ローマ帝国崩壊の原因
北方からゲルマン人東方からササン朝ペルシャの侵入
傭兵勢力の増大、奴隷の反乱
重税で都市の没落、商業の不振
奴隷供給の途絶でラティフンディア経営からコロナトウス(土地に縛り付けられた小作農制)へ


米同時テロ後、10年間に世界で起こった主な出来事(日経より)

▼2001年
9月 米同時テロ事件発生 同時多発テロ
米連邦準備理事会(FRB)が政策金利を引き下げ(利下げ局面は2003年6月まで)
欧州中央銀行(ECB)が利下げ(利下げ局面は03年6月まで)
12月 中国が世界貿易機関(WTO)に加盟
▼2002年
1月 欧州単一通貨「ユーロ」が現金通貨として流通開始
4月 米格付け会社が日本国債を格下げ。G7で最低に
9月 小泉純一郎内閣で竹中平蔵経済財政担当大臣が金融担当相を兼務、不良債権処理が加速する
▼2003年
2月 ブッシュ米大統領、総額6950億ドルの減税案(2013年まで)発表
5月 米国がイラクでの戦闘終了を宣言
6月 日本の新発10年債利回りが史上最低水準(0.430%)に
▼2004年
6月 国際決済銀行(BIS)が新しい自己資本規制を決定
FRBが約4年ぶりに利上げ(利上げ局面は2006年6月まで)
10月 G7財務相・中央銀行総裁会議(ワシントン)に中国が初参加
▼2005年
7月 中国が人民元を切り上げ。「通貨バスケット制」を導入
12月 ECBが約5年ぶりに利上げ(利上げ局面は2008年7月まで)
▼2006年
7月 日銀、5年4カ月ぶりに「ゼロ金利政策」を解除
11月 月例報告で景気拡大の「いざなぎ」越えを確認、戦後最長に
▼2007年
7月 米格付け会社、サブプライムローンを担保にした証券を大量に格下げ
8月 仏銀大手BNPパリバがサブプライムローンがらみの損失で傘下のファンドを凍結すると発表、「パリバ・ショック」走る
サブプライム問題で各国の中央銀行が緊急の資金供給を実施
9月 FRBが約4年ぶりに利下げ(利下げ局面は2008年12月まで)
▼2008年
3月 ニューヨーク連銀、経営危機に陥った米証券大手ベアー・スターンズに対して緊急融資枠を設定
9月 リーマン・ブラザーズが経営破綻。負債総額は6130億ドルと米史上最大 リーマン・ショック
10月 米、金融安定化法を可決。最大7000億ドルの不良資産を買い取り
11月 中国、57兆円の景気刺激策を発表
12月 FRB、史上初の「実質ゼロ金利政策」を導入
▼2009年
1月 オバマ氏が米大統領に就任。
3月 米連邦公開市場委員会(FOMC)が総額3000億ドルの米長期国債購入(量的緩和の第1弾=QE1)を発表
4月 G20首脳会議(ロンドン)、景気対策として2010年末までに5兆ドルの財政出動目指すことで合意
6月 米GMが連邦破産法11条を申請。米製造業で最大規模の破綻に
8月 衆議院選挙で民主党が歴史的大勝、政権交代が実現
11月 ドバイの政府系持ち株会社、ドバイワールドなどが債務の返済延期を要請。「ドバイ・ショック」に ドバイ・ショック
▼2010年
4月 ギリシャ政府がEUなどに金融支援を要請。ユーロ発足後初 ユーロ・ショック
7月 参議院選挙で民主党大敗。ねじれ国会に
10月 日銀、「包括緩和」を決定。ゼロ金利政策も復活
11月 FRB、量的緩和の第2弾(QE2)を発表。2011年6月末までに6000億ドルの長期国債を購入
▼2011年
1月 チュニジアでジャスミン革命。エジプト、中東諸国にデモ拡大
米S&P、8年9カ月ぶりに日本の長期債格付けを引き下げ
3月 東日本大震災・福島第1原発事故が発生
G7が緊急で電話会議、円売り協調介入を実施
5月 米軍がアルカイダ指導者のウサマ・ビンラディン容疑者を殺害
8月 米国債格付けが最上位の「トリプルA」失う
政府・日銀が為替介入と金融緩和を同時に実施
ニューヨーク外為市場で円が最高値更新(1ドル=75円95銭)