絶対天皇制のカラクリ    伊藤博文と山県有朋

参考
瀧井一博  伊藤博文  知の政治家  中央公論
松本清張  象徴の設計
松本清張  史観宰相論

1878年、大久保利通暗殺後は伊藤が内務卿を継承、陸軍卿・山県有朋と共に大久保の遺志を継ぐ両輪となる
大久保の謹厳にして深沈重厚な性格は陰気で暗い感じも与える
しかし大久保は人材登用主義で藩閥に区別無くこれを活用、日本政治家・官僚の礎を育て上げた
大久保が敷いた近代日本に向けての2つの路線
伊藤は大久保の“富国”面、“開明主義”を継ぎ財政・外交・政党政治等に活躍
山県は大久保の“強兵”面、“抑圧主義”を継ぎ軍隊・警察等を創り上げた
伊藤は洒脱にして開放的、派閥意識が薄く恬淡であった(悪く言えば人材を使い捨てた)
官界入りは木戸の推挽に拠ったが、木戸の政敵とも言える大久保に心酔、木戸から反感を買う事もあった、内務卿を継いだ後、同じく開明路線の大隈重信を排斥追放、維新政府のトップに立つ
趣味は“統治システム創り”と“芸者遊び”と言った所だろうか、伊藤の“好色”は有名である
一方山県は松方正義・桂太郎・寺内正毅・田中義一等多くの“子分”をかかえ面倒を見た
“山県官僚閥の総帥”“陸軍の父”と呼ばれた親分肌、趣味は“庭園造り”“歌道”“槍術”
網野鎌錠氏が山県の“庭園好き”に彼の“孤高”“人間不信”を見ているが、造園家の方々には失礼ながらおもしろい
“庭創り趣味”との関係は兎も角、山県は一見豪放に見えるが結構小心で神経質だった、
その事もあって“政党”を逆賊集団と恐れ、政党人を蛇蝎の如く嫌った
“軍隊という自分のつくった特殊社会に世間の風潮が当たらぬよう極度に気を遣った、民主思想の撲滅は何よりの執念だった“(松本清張)
清張氏の慧眼は大隈重信にも厳しいが山県との比較
“新知識をひけらかす饒舌家、政敵の伊藤や板垣と組んだり結構政界を浮遊した大隈に対し、山県は“政党嫌い”の信念を終生曲げなかった頑固者、面倒見はよいが伊藤や桂に結構嫉妬した、自分は無学ともっぱら聞き手にまわり、しかも疑問とする所は根掘り葉掘り質問する美質を備えていた“

瀧井先生が明治政府第1人者・伊藤博文を絶賛されています
伊藤博文は“民本主義”“法治主義”“漸進主義”を信条として、憲法、帝国大学、帝国議会、立憲政友会、責任内閣、帝室制度調査局、韓国統監府と言った“知のシステム”を創設“国民政治”の実現に邁進した
伊藤博文と言う超多忙な人が通訳並みの語学力を習得、産業知識・憲法研鑽などで日本近代国家建設に貢献した姿にまず驚愕しました
ただ伊藤が“国民のための国民による政治”を目指したとするのは、いささか伊藤の理想化が過ぎるようです
あくまで“皇国の臣民”と言う時代的限定の下で、日本という近代統一国家創出と国力増強に貢献した伊藤博文です
ただ あの時代、“統一国家”の樹立無くして日本の近代化は望むべくもなく、短期に列強の仲間入りする事もあり得なかった
そのうま味に酔いしれた結果、日本は伊藤の“漸進主義”に反して“世界制覇”の夢と挫折にまで突入する訳ですが、戦後の一早い復興も大久保や伊藤が敷いた路線のお陰かも知れません

伊藤博文の生涯を振り返ります(多くを瀧井先生の著書に拠っています)
1841年、周防国・百姓十蔵の長男に生まれ、足軽・伊藤弥衛門の養子となる
1857年、松下村塾に入門、松陰より“周旋家”と評され俊輔の名を得る
しかし塾生の中でも軽輩の伊藤、松陰の謦咳を塾外で立ち聞きしたと言う
“周旋家”と言うのも“精神”を重んずる松陰にとって褒め言葉ではなかった
“実務に勝れた能吏になるだろう”ほどの意味だろうか
同門久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎・井上聞多(薫)らと討幕の志士として活動
公武合体論の長井雅楽暗殺計画、品山御殿山英公館焼打ち、橘次郎斬殺等に参加、
この時点での俊輔未だ一介の“テロリスト”に過ぎなかった
1863年、転機は井上聞多らとイギリス留学によって訪れた
“周旋家”の名に恥じない“実務能力”で語学と見聞を広め、“攘夷”から“開国論”に転ずる
4国連合艦隊下関砲撃の報せに接して急遽帰国、藩主にも“反攘夷”戦争回避を説き
戦後処理に“周旋”能力を発揮する
幕府に屈する保守派を追い遣り長州藩を“倒幕”で統一した高杉晋作の“正義派”クーデターでは力士隊を率いて活躍
1868年、維新政府でいよいよ頭角を現し、初代兵庫県知事時代には“国是綱目”捧呈
参議兼工務卿として殖産興業を推進
引き立てて貰った木戸孝允から離れ、次第に“現実主義”の大久保に傾倒
1871年、岩倉使節団副使としてサンフランシスコでは得意の英語力を駆使して“日の丸演説”、ビスマルクとも会見、帰国後は大久保配下として、西郷“留守政府”の“征韓論”は“時期尚早”と粉砕に活躍
青年期の伊藤博文、松陰が“周旋家”と評した如く並み勝れた語学力・外交力を発揮
“精神主義”を嫌い“西欧文明”を積極評価、“現実主義”“漸進主義”の辣腕をふるう
維新政府は廃藩置県、徴兵令、西南戦争などで中央集権を固め、
1875年には“立憲政体樹立の詔書”布告
1878年、大久保・紀尾井坂での暗殺を受け伊藤博文・内務卿を継ぐ
1879年、“教育議”上奏
1881年、明治十四年政変で“急進論”の参議・大隈重信を追い落とすとともに、憲法発布(1889年)・議会開設(1890年)を日程にのせる
明治14年国会開設の勅諭から23年国会開設までは、高まり行く自由民権運動に対する政府の弾圧と懐柔の時代であった事に注意すべきであろう
憲法起草とか比較的“明”部を伊藤が、民権運動の弾圧など“暗”部を山県が受け持った訳だが、下記詳述する如く山県が直接手を下した民権運動弾圧に伊藤が関与しなかった訳ではない(少なくとも黙認した)
翌年にでも議会を開設すべしと“急進論”を掲げる大隈を政府から追放、更にその大隈が板垣と結びつく事に極度に警戒した
1882年、憲法調査のため渡欧、ドイツ皇帝の“憲法とか議会制度は人民統治にそれ程都合の良いものでは有りませんよ、導入するなら余程気を付けなさい”との助言を受けつつ、独・モッセ、シュタインに師事、“プロイセン憲法”を範として大日本憲法・内閣制度の骨子をかためる
シュタインとの邂逅で“如何に好憲法・好議会を設立しても行政が駄目では国家の不安定を来すのみ、まず行政システムを確立が肝要”との啓示を得る
伊藤は内閣制度・大学制度・枢密院等“行政システム”を確立しながら欽定憲法制定に歩を進めていく
1885年、内閣制度(天皇が指名する総理大臣が内閣を組織)開設と共に自ら初代総理大臣に(勝れた語学力が決め手となった)
宮中(皇居)と府中(政府)を切り離し、一応天皇親政を封じ込めようとした
1886年、帝国大学(東京大学)創設
帝国大学を国家行政を担当するエリート官僚のリクルートシステムと位置づける
福沢の慶応、大隈の早稲田等私学が急進的“政談”に傾斜して反政府運動の拠点になっている事を危惧、“官僚を創るため”の“実務的・科学的”教育を重視
大学制度改革は“官僚国家”創設のため特に意義深いものだった
1888年、初代枢密議員議長となるため首相辞任
枢密院は憲法起草の諮問機関として設立されたが、天皇の政治活動を秩序付ける機関として制度化されていく
そして いよいよ
1889年、大日本憲法発布(黒田内閣の時だが、起草の中心人物は勿論伊藤博文)、自ら“憲法義解”刊行
瀧井先生による伊藤の憲法論
@ 主権帰一論(国家の主権は天皇一身にあり、憲法は天皇自ら制定し臣民に下賜したもの)
A しかし国民の政治参加を保障する“憲法政治”は、国民が自己の利害を主張し、それに立脚して政治活動を行う事を保障した政治のあり方である
B 伊藤はこの矛盾を“社会”と“国家”の二分論で解消しようとする
民間レベルでの利害の自由競争を担保する傍ら、そこから冠絶した政府のあり方を称揚
つまり“超然主義”の主張、政党内閣即行と言う急進論の否定である
“互いに意見を異にするに至りては勢い党派を生ずべし、蓋し議会又は一社会に於いて党派の興起するは免れ難しといえども一政府の党派は甚だ不可なり”
C 但し“政治をして公議の府に拠らしむる”ための“充分の力を養成する事”が達成されるようになれば“政党内閣”導入が可能になる
D 他国と競争して以て独立の地位を保ち国威を損せぬ様なるには人民の学力を進め人民の知識を進めねばならない、国家と国民は“開かれた知”によって進化する
しかし開かれた知は国力の増強をもたらすのみならず、一方で現実の統治を批判する精神をもたらす
そのような批判精神を兼ね備えた国民を前にしての支配形態として“治者と被治者の権限と義務を画定する”立憲政治が不可欠である
E つまり国家の国際競争力強化のために国民の(西欧的・自由民主的)文明的成熟は不可避であるが、それをコントロールする手段として“立憲政治”が不可欠であると言う論理である
瀧井先生はこの事をもって、博文の視野は“急進論”を否定しながらも“国民主体の民主政治”に開かれていたとする
“議会中心の政治体制を確立するという発想は、憲法成立当初から彼の国家構想の中に
インプットされていた“と言われる
確かに“天皇主権”の下での目一杯の“民主政治”志向ではあるが
ちょっと伊藤を買いかぶられている様な気もする
伊藤博文はまこと“国民による国民のための政治”を志向していただろうか(この歴史的段階では望むべくもないが)
兎にも角にも伊藤は近代化・国力増強を目的とした国家統一のため“君主、議会、行政といった国家機関相互の調和と統一”
“政党政治の漸次的育成を通じて国民の政治参加を推進し国民政治と立憲体制の融合を図ること、すなわち国民国家として宥和と協調の政治体制を築く事”を目指した
そして現実に保守政党“立憲政友会”を創設、自ら“藩閥政治”の統領から“政党政治家”に転身する
山県が終生民権運動や政党人を嫌ったのに対し、伊藤は“政党政治”避け得ぬものとして政治を担いうる(悪く言えば自分好み)の政党(政友会)を育成、自ら“議会政治”に道を開く
良くも悪しくも国力増強のための“立憲政治”体制を樹立しようとした
しかしそれとは引き替えに政府批判政党の弾圧・懐柔、党利党略を主とする“二大政党時代”の果てには“大政翼賛運動”への道をも開かれる事になった
1894年、日清戦争、下関条約は第2次伊藤内閣、“三国干渉”に妥協した事で辞任
1898年、第3次伊藤内閣は大隈板垣連合による初の政党内閣に政権を譲る
しかしこの隈板内閣は猟官運動と派閥争いで短期に挫折、山県内閣へ
伊藤自身は本格的政党内閣樹立を準備して遊説活動、又清韓両国に漫遊、戊辰政変に遭遇する
鉄鉱石買い入れで八幡製鉄に貢献するが、康有為らの孔子偏重を嫌い一定の距離を置く
(市場としての中国経済に魅かれるが、清国の統治能力には失望、何か現在の情勢に似ていますね)
1900年、立憲政友会結成して初代総裁に、第4次伊藤内閣
(政党嫌いの山県とは離反して行きます)
伊藤は国民の“政談”を嫌う、観念的ナショナリズムを排斥する
伊藤が重視する教育も非政治的なものでなければならなかった
“文明国”であるには国民は“実業に勤しむ専門的知識人”であらねばならぬ
伊藤が国民に期待するのは“国力”を高める“経済人”である
しかし経済人が経済人としての本分を全うする為に一定の政治性は不可欠である
その政治性を汲み上げる機関として政党・議会がある
初期伊藤の“超然主義”から“政党政治家”への転身
それが伊藤の政治信条に転換があったかかどうかは兎も角
経済の資本主義化を経て国民の政治的覚醒は避けがたいものとなった
その政治的に覚醒した国民の秩序化を図るものとして憲法・議会が位置づけられた
国民のための政治ではなく、“君臣宥和”の為に“憲法発布・議会政治”が必然だった
経済的利害は対立する、“政党”も国民と政府を媒介して国民の諸利害を調整すべき存在として位置づけられた
しかし“政党内閣制”は未だ伊藤の意とする所でない
“政友会”党綱領では
@ 党と内閣・政府との峻別(大臣の選任は天皇の大権、内閣は天皇輔弼の府であり天皇にのみ責任を持つ、国民の利害を代表する政党は内閣に容喙すべきでない、あたかも大学が官僚のリクルート機関と位置づけた如く政党は政治的人材を養成プールするリクルート機関)
A 中央政治と地方政治の区別
政党は地方行政に深入りすべきでないとして政党の地方への影響を遮断
“革命は地方から”、地方政治のコントロールは中央集権にとって不可欠だった
B 党内での総裁の強い指揮権
党首専制
伊藤が政党に求めたものは競争や闘争という行動原理ではなく、妥協と譲歩を活動指針として、民意を秩序だって政治に反映させるものだった
しかし伊藤の理想倒れ、現実はそうも行かなかった
政権獲得のために鎬を削る政党の本質を曲げようもなかった
第4次伊藤の政友会は閣僚の椅子をめぐって迷走、閣内不一致で7ヶ月で退陣
しかし軍部が暴走するまでは、天皇の名において総理を選任する支配階級(元老層)も
党の勢力を意識せざるを得ず、結果的に曲がりなりにも二大政党による政権交代も実現する事になる(伊藤の“立憲君主制”の思想の多く西園寺公望に引き継がれた)
1901年、政権を桂太郎に譲り、政友会総裁を辞任枢密院議長に就任
 改めて明治国制立ち上げに尽力する
@ 帝室制度調査局総裁として皇室制度を確立
皇室を国家の機関と位置づけて制度化する事で、天皇を政治的実権より遠ざける、その事で政治的に無責任な天皇体制を創り上げる
A 内閣総理大臣の権限を強化、軍部の帷幄上奏権の切り崩しを図ったが、山県有朋の巻き返しで譲歩
1904年、日露戦争では桂太郎・山県らに反対、“満韓交換論”等ロシア帝国との不戦を主張、米ルーズベルトに講和斡旋を依頼して終戦処理に当たる
一方韓国を訪問、高宗に日本が導入した西欧文明を唱道、対日協力を迫る
1905年、第2次日韓協約で大韓帝国“保護”を名目に外交事務委任を迫る、伊藤博文は初代統監を買って出る
伊藤は統監として韓国駐留の軍隊に対する指揮権を獲得(文官ながら伊藤が軍をコントロールする事が可能になり、統帥権侵犯で山県と対立)
1907年、ハーグ密使事件(高宗の対日抵抗は失敗、結果的に韓国併合を早める)
1910年、韓国併合
伊藤は韓国統治で日本でも充分成しおおせなかった理想を実現しようとした(日本統治改革へ向けての先例作り)
@ “文明の伝道師”として西欧合理的科学的文明の唱道(結果的に韓国人民の宗教的儒教的伝統文明、ナショナリズムと衝突)
A 国家のために義務を請け負う忠良なる臣民を作り出すための教育改革
B 統監として駐留軍司令権を握り、日本軍部の軍事力拡散を抑制
(韓国併合は満州経営の一時的断念とセットでもあった)
1909年、ハルピンにて朝鮮独立運動家・安重根によって暗殺さる

一方 終生“政党”を嫌い抜き軍と警察を拠点に“反政府”と真っ向対立、弾圧した
山県有朋(1838年生)、この点山県は伊藤より正直だった
足軽以下中間の倅ながら槍術を愛し、幕末は松陰門下生として伊藤と行動を共にする
奇兵隊軍監、戊辰戦争参謀、維新後は大村益次郎の後継者として軍制改革、徴兵制を作り西南戦争では政府軍の実質総指揮者となって西郷軍を鎮圧
大久保亡き後、伊藤共に大日本憲法制定にも携わった維新第2世代
長身痩躯、毎朝の乗馬と槍稽古を日課とする豪傑振り、“庭園造り”“和歌”など風雅を愛し、折り目正しく謹厳な人であったが、一方で自慢の別荘“椿山荘”に美形を侍らせ、お気に入り商人には必ず引見携えた進物を決して拒絶しなかった
“醜を醜とせずこれを近づけ、これを庇護するは山県系政治家の常習”、この意味でも日本の政治家の原型を創ったか
1872年には陸軍出入りの政商・山城屋和助に65万円(国家予算の1%)の公金を無担保融資して焦げ付かせた
当時事件を追及した江藤新平や桐野利明に対し、佐賀の乱や西南戦争で私怨をはらしたと言えば下司の勘ぐり(西郷は山県を守ろうとした)だろうが、少なくとも士族の反乱は
増長腐敗のあげくに自分たちを追い落とした藩閥政府に対する反抗でもあった
山県、翌年には陸軍卿に復帰
1873年、徴兵制に反対する農民の血税一揆
血税一揆は徴兵制により労働力を奪われた農民の怒りであった
“生き血を吸われる徴兵”と言った誤解もあった様だが、金(地租という農民に課せられた重税)も労力も農民から取り上げる新政府への不満が燃え上がった
1875年 新聞紙条例・讒謗律で言論弾圧
1878年、竹橋事件
竹橋事件は西南戦争余波での政府財政難から来る給与減額に不満をもった近衛兵による内乱だった
山県はその背後に自由主義思想・民権運動の影響を見て、自分たちの政府を守るべく自分たちが創り上げた軍隊への民主思想の浸透を極度に恐れた
竹橋事件関与者を即刻厳罰、自ら起草した“軍人訓戒”を陸軍将兵に配布して切に“忠義”を説き、下級者の上級者に対する絶対服従を要請した
自分たちの政府を守るため、また国民の目を外に向けるため軍備は益々拡張せねばならない、自分たちの権力の源泉である皇室財産の保全も至上命令だった、
一方政府は財政難、増税や軍の給与の減額など国民の犠牲は避けられない
国民なかんずく軍の将兵への民権思想・自由思想の浸透は絶対避けねばならない
軍の秩序を維持するため軍人は政治的関心を持ってはならず、経済的欲求を主張してはならないとの訓辞(今でも公務員の政治活動は制限されていると思いますが、山県は軍の統制を一般国民の思想統制、民権運動弾圧にまで拡充、後々の軍部専制への道を開きます)
1880年 国会期成同盟結成に対抗して集会条例
1881年、明治十四年政変で大隈重信下野
1882年、西周(啓蒙哲学者・明六社創設)・福地源一郎(政府御用党・国民党党首)・井上馨(伊藤の盟友・内政外交に活躍)等に下命して“軍人勅諭”作成
“軍人訓戒”は軍の秩序を維持するための“忠義・礼節”を説いたが
神である天皇の命令に理由は不要、“軍人勅諭”は荘厳な命令一色
“朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ”と天皇が統帥権を保持することを明示
“天皇の統帥権”は後々軍の内閣からの独立を保証する事になる
軍人は“忠節・礼儀・武勇・信義・質素”の徳目を誠意をもって遵守実行すべき存在であると命じた
軍人の政治への不関与を命じ、軍人には選挙権を与えないこととした
一方で警察の密偵による“おとり捜査”を駆使して陸軍内急進派や“主義者”を摘発
(山県が創り上げた警察制度、各地に駐在所を置く散兵システムが不穏分子摘発、選挙干渉に力を発揮)
県令・三島通庸の圧政に反発して起こった福島事件で農民党・河野広中を逮捕
また民権運動の首魁・板垣退助を洋行を餌に懐柔、
資金は政府を通して三井から出ていた、三菱をバックに持つ大隈・改進党との告発合戦は泥仕合となり、自由党分裂、間もなく板垣は自由党を解党、大隈も改進党を脱党して国会早期開設要求や民権運動指導を放棄(後に大隈は伊藤第1次内閣の外相となり、板垣も自由党再興、伊藤退いた後の短期隈板内閣を形成)
大隈“積極財政”による好景気は農民を潤し、民権運動家の資金源になっていた
転じて松方正義の“緊縮財政”は民権運動なかんずく地主層を基盤とする自由党の懐を締め上げる効果もあった
1883年、市制・町村制・府県制・郡制を施行、地方への中央支配を固める
1884年、板垣・後藤を“買収”され取り残された地方自由党員のテロ活動頻発(群馬事件、加波山事件、秩父事件、名護屋事件)
1887年 山県は自由党のテロ活動に恐怖、伊藤を叱咤激励して保安条例を公布せしめる
1889年、第1次山県内閣、“超然主義”をとり軍備拡張に勤める
主権線(国境)のみならず利益線(朝鮮半島)確保のための軍事予算拡大を主張
1890年、富山などで米騒動、国民の思想統制を目的とする“教育勅語”発布
山県は陸軍(桂太郎・寺内正毅)・内務省・宮内省・枢密院(清浦奎吾)等にまたがる“山県閥”形成して行く
1894年、日清戦争では自ら戦地で作戦指示
1898年、第2次山県内閣
1899年、文官任用令(政党員の官僚進出を制限)
1900年、軍部大臣現役武官制
治安警察法施行(政治結社・集会の届出制、軍人・警察官・女性などの政治運動禁止、労働組合加盟勧誘制限、ストライキ禁止等)
選挙法改正(大選挙区制・秘密投票)
1910年、大逆事件で元自由党急進派・幸徳秋水処刑
1912年、“陸軍二個師団増設問題”で陸相に辞任勧告、“軍部大臣現役武官制”を楯に西園寺内閣を崩壊せしめ、第3次桂太郎内閣を立てる
しかしその強引な手法は第1次護憲運動を引き起こした(桂内閣倒閣の大正政変)