木下順二氏  “複式夢幻能をめぐって”を読んで

    能楽“井筒”“実盛”に見るリアリティ

 

“ドラマの基本は対立”と言われるが“単にAとBが対立してコンフリクトが起きるのがドラマではなくて”“やはりドラマと言うのは人間と人間を越える力(神)とが相対峙している所に漲る緊張感それが基本だと思うのです”

人間としてはどうしようもない運命と言うものをどうやって切り抜けるか?

例えば“マクベス”のめくりめく血の海への取り返しのつかない転落。

“自分にしかない真実、人が見ればばかばかしいと思うかも知れないが自分だけには確実にそう感じられる真実と言うものを人にもわかって貰えるようにするという事が芸術におけるリアルティ”

“ドラマに於けるリアリティは自然主義的・写実主義的リアリティではない”

私達は自分のリアリティを避けようもなく持っています。そのリアリティを他人に伝える事の困難性、如何にして自分ではない別人格とリアリティを共有出来るのか?

それが“ドラマ”の課題です。

木下氏はこのリアリティ創出の技法を二つの“複式夢幻能”に見ます。

夢幻能=“旅人や僧が夢まぼろしのうちに故人の霊や神・鬼・物の精などの姿に接し、その懐旧談を聞き舞などを見るという筋立ての能”

複式夢幻能=“前場が終わって物陰に入ったシテ、主人公が、その同じ役者が、しかし別の大抵はこの世のものならぬキャラクターとして登場する”

前場でワキの僧・旅人にその正体を告白した過去形のシテは後場においてワキの前に多くはワキの夢枕に現在形で蘇る

“井筒”

“草茫々として露深々たる古寺の庭”の古井筒(井戸)

前場の終わり、里の女は旅の僧に自分が在平業平の幼なじみであり妻で有った紀有常の娘である事を告げて消える。

後場、長く長く死後に及んでも不遇の貴公子“在原業平”を待ち続ける“人待つ女”の恋の執念が200年の時の流れを超越して旅の僧の夢枕に現出する。

筒井筒の昔、業平もうつし女もうつした水鏡に 今女は業平形見の男衣裳を着て男と一体になり男に重ね合わせた自らの姿を写し見る。

“筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 生ひにからしな 老いにけるぞや”

昔ともに顔を映し合い遊んだ井筒の前に老いた女の姿は打ち消えて恋しい業平に変身する。

“業平の面影、見れば懐かしや、我ながら懐かしや”

あやしの両性具有。

この現実を超越したリアリティの保証を木下氏は“ワキ”の働きに見ます。

“舞台の上の荒唐無稽と言えるものを本当のリアルだと思って見ているワキの実在性が非常に確かだと我々に思われるときに、ワキがリアルだと感じている事は我々にもリアルに感じられてくる”

舞台のワキにただ黙ってうずくまっているワキですが“今シテの行っていることを如何にリアルに感じ取るかという事に精神を集中させている”

“この旅僧が後場で見たものこそがリアリティというものではないか”

“実盛”

昔 幼少の頃義朝に殺される運命にあった義仲を養子としてかくまったのは板東武者でありながら故有って平氏に与した斉藤別当実盛である。

故郷での戦いに老いの死に場所を求めた実盛は赤錦着用を所望、髪も黒々と染め上げ若やいだ姿に身をやつして挑む。

敵将は昔懐かしい義仲である。

手塚光盛の手にかかり義仲の首実見。

光盛いわく“大将と見れば続く勢もなし、又 侍かと思えば錦の直垂を着たり”

“名乗れ名乗れと責むれども終に名乗らず、声は板東声にて候ふと申す”

さては斉藤別当実盛ではなかろうか、しかし 実盛なら鬢鬚は白髪であるはずだ。

顔見知りの樋口の二郎が呼ばれる。

“樋口参りただ一目見て涙をはらはらと流してあな無惨やな斉藤別当にて候ひけるぞや”

実盛は60才以上にもなって戦場で若殿達と争って先駆けを競うのも大人げない、又老い武者と言われて人々から侮られるのも口惜しい、鬢鬚を黒く染めて若やいで討ち死にしたいと言っていた。

“まことに染めて候、洗わせてご覧候へ”

有名な“首洗い”の場。

“髪を洗ひて見れば墨は流れ落ちて元の白髪となりにけり”

この時扇を開いて両手でもって首を洗う姿をするのは なんと実盛自身である。

シテ自らが我が首を持って洗うのである。

木下氏はこの曲の後場に於いて世阿弥があえて主語を意識的に使って居ない事に注目する。

そして 曖昧模糊とも言える日本語文法の面白さにも触れています。

“能楽師はある時は自分でありある時は他人でありある時は運命でありまたは自然である”この不思議の世界を可能にするのが“夢幻”である。

あり得ないものを まさにリアルなものと感じさせる仕掛け“夢幻”

ここで木下氏は難しい事を言われているのでは無いと思います。

私達凡人も夢の中で経験します。夢の中で私達は自分が主人公であり自分の思い人であり語り手でありそしてそれら全てを見つめる者で有る事はよくあります。

そして その夢物語の方が 自らを見失った日常の姿よりもよりリアリティを持っている事に驚く事があります。

この様な“夢”のリアリティ伝達の優位性を発見した世阿弥はまさに天才としか言いようが有りません。

余談ですが 白州正子氏が“何故 実盛は髪を染めたのか そして何故妄執の幽霊になったのか”に触れています。

実盛はかって自分が助け慈しんだ義仲の手にかかって死にたかったのだろうと書かれています。今は立派に成長し敵の大将になった義仲の見事な若武者ぶりを見て討ち死にしたかったのだろうと言われています。白髪のままでは義仲は見破り自分を討つ事は無かろう。だから黒髪に変装した。残念ながら、光盛に邪魔され討たれてしまった無念。故郷に錦を飾ろうとした実盛より 本望を果たし得ず妄執の修羅道に苦しみ僧に救いを求める実盛と義仲との邂逅が印象的です。