昭和史 前期 年表

昭和 金融恐慌と戦争の時代
西暦 和暦 首班 出来事
1926 昭和1 若槻礼次郎�@(憲政会)
1927 2 田中義一(立憲政友会) 立憲政友会・田中義一内閣
  �@・支払猶予令(モラトリアム)
  �A日銀非常貸出
  �B幣原協調(軟弱)外交から積極(強硬)外交へ
  �C山東出兵(北伐軍から張作霖を保護)
    国民党北伐軍と衝突(済南事件)
  �D東方会議で対支政策綱領発表
    奉天総領事・吉田茂
    外務政務次官・森森恪
    参謀本部・鈴木貞一中佐が関与
    対中強行路線
  �E皇室中心主義
1928 3 パリ不戦条約(ロンドン会議)
田中外交は欧米には協調外交
反田中=立憲民政党
 (護憲三派の時、政友会から分かれた政友本党+憲政会)
治安維持法改訂(死刑を最高刑に)
共産党弾圧(3.15事件、翌年4.16事件)、社会主義運動は後退
(満蒙領有化論の)石原莞爾が関東軍参謀に
第一回普通選挙
 田中の内政面片腕・鈴木内相は酷烈な選挙大干渉
 外交面の片腕は東方会議を仕切った外務政務次官・森恪
   森は三井物産上海支店出身の事業家
   東洋のセシルローズを自認した帝国主義者
   軍部と提携して中国進出に大きな役割を果たす
  ”満蒙を分離した後に中国本部を支配し、次はアジア全域を勢力下に”
 外相は藤田組から政友会入りした金づる・久原房之助が約束されていた
田中は張作霖に満州を委ねる方針であったが
 関東軍が中国最大の奉天軍閥・張作霖を爆殺(前線軍の暴走・謀略)
  満州支配を画策(満州某重大事件)
田中は事件の責任者を処罰出来ず、その事が軍部を増長せしめ後の満州事変に繋がっていく
結局、天皇より処分遅滞に対する叱責を受け恐懼して引責辞職
→(立憲民政党)内閣
1929 4 浜口雄幸(立憲民政党)
1930 5 蔵相 井上準之助
  緊縮財政・産業合理化・金解禁
*ひどくみれん(未練)の金解禁!
(1920年代のアメリカ繁栄下の世界的金本位制時代に取り残されていた焦り)
しかし時あたかもブームのアメリカ株価が大暴落
 (次期悪く、金解禁はダブルパンチのタイミングとなった)
繭価・米価暴落、農業恐慌、失業増大、労働争議
 (29年世界恐慌をうけて昭和恐慌)
外政面では外相・幣原喜重郎の協調外交路線に切り替え
  �@対中国内政不干渉方針
  �Aロンドン海軍軍縮条約調印
*いくさゼロ!の軍縮
陸相に宇垣一成を招き、軍縮後の陸軍部内統一の維持を図る
これに対し、政友会や海軍強硬派が”統帥権侵犯”と攻撃
政友会や枢密院・海軍軍令部の執拗な攻撃に対し浜口は毅然として獅子奮迅の奮闘、批准を通過せしめた
 (政友会は政党政治を自己否定した感がある)
ロンドン条約軍縮への不満、経済危機、二大政党の党利党略的対立に業を煮やした陸海軍・民間右翼等は、政党支配そのものを倒してしまうべく横断的結合を図り始める(政界腐敗と軍部ファッショの台頭)
1931 6 若槻礼次郎�A(立憲民政党)
犬養毅(立憲政友会)

浜口狙撃され、第二次若槻内閣(立憲民政党)が継ぐ
三月事件(桜会によるクーデター計画)
満州事変
*いくさびと(戦人)満州へ
若槻は不拡大方針を称えたが
関東軍は第一次上海事変を起こし、東三省制圧(奉天省・吉林省・黒龍江省)
10月事件(中国軍が満鉄爆破したと虚報、沿線主要都市を占領)
軍部に引き回された若槻内閣は総辞職→
少数与党・政友会の犬養毅(革新倶楽部→立憲政友会)に大命降下
軍部の横暴で建設された満州国を承認せず不拡大方針
しかしソ連・米国は危機感を募らせた
蔵相 高橋是清は即日金解禁を停止
  �@積極財政
  �A金輸出再停止(イギリスに習う)
  �B円の急落で輸出急増、空前の好景気
  イギリス等はブロック経済体制で抵抗
   (高関税・輸入制限等保護貿易)
  円ブロック体制(日・満・支)構築へ
  不況からの脱出へ
1932 7 斉藤実(以後敗戦まで挙国一致内閣) 蒋介石の要望でリットン調査団、国連に調査報告書提出
血盟団事件で井上準之助・三井の団琢磨暗殺
 (井上日召)
五・一五事件で犬養射殺(政党内閣崩壊)→
海軍・斉藤実挙国一致内閣(政党内閣終焉)
*行くぞさつりく(殺戮)!5・15
天皇・西園寺元老は
�@陸海軍の軍規振粛�Aファシズム防止�B憲法擁護�C平和外交 を期待して犬養を指名したが、正義を掲げる急進青年将校達の凶弾に倒れた
一番危惧していた事が起こった
もはや政党には軍の横暴を抑える力を期待出来ない
特に西園寺には軍部と手を握った政友会に対する不安があった
西園寺の本命は近衛文麿にあったが、中継ぎとして穏和派軍人の斉藤・岡田の挙国一致内閣を作った(斉藤・岡田を推挙した理由が悲壮である、軍の言いなりになる程の仕事をしない人物、もはや何もしない人物に期待するしかなかった)
しかし斉藤も岡田も軍に押し切られて行った
それでも血気はやる青年将校達は容赦しなかった
”君側の奸を撃て”と二・二六事件に流れ込む
血をもって贖った重臣達に”憂国の情”が有っても”責任”がなかった訳でない
青年将校達が訴える”窮乏農民救済”にはなすすべもなく、一方では”軍の横暴””言論弾圧”に対しても軍の報復を恐れなすすべなかった
かって護憲の論陣を張り桂内閣を倒した言論界も”満州事変”後は新聞部数の拡張政策に溺れ”戦争賛美”陸軍を全面支持
戦争の度に儲けてきた財界でさえ、さすがに軍の暴走を危惧したが、逆に青年将校達の標的にされる状況
もはや”何もしない”では”軍の暴走”抑え切れる状況ではなかった
斉藤実・挙国一致内閣
  満州国を承認
  日満議定書
若槻(満州事変)→犬養(満州国建国)→斉藤(満州国認める)
政党内閣断絶後
サオヒハコヒアヨココトコス
斉藤実 岡田啓介 広田弘毅 林銑十郎 近衛文麿
平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 近衛 近衛
東条英機 小磯国昭 鈴木貫太郎
11933 8 満州軍の熱河作戦、華北分離工作
 タンクー停戦協定
国際連盟脱退
*引くぞさっさと国連を!
滝川事件
1934 9 岡田啓介 帝人事件で斎藤内閣総辞職→
海軍・岡田啓介内閣
 ワシントン条約破棄、ロンドン会議脱退
1935 10 天皇機関説問題、岡田内閣は国体明徴声明発表
陸軍・統制派対皇道派・相沢三郎中佐が永田鉄山・陸軍軍務局長斬殺
1936 11 広田弘毅
二・二六事件(皇道派将校と北一輝)
 高橋是清・斎藤実・渡辺錠太郎暗殺
 天皇の断固たる拒絶聖断もあり、皇道派(荒木・真崎)のクーデターは失敗
 以後 統制派の軍部独裁が強まる
 ひどくさむい(寒い)雪の日
立憲民政党・斎藤隆夫の粛軍演説
岡田内閣総辞職→広田弘毅内閣(スローガンは広義国防国家)
西園寺は近衛文麿に固辞され、やむなく岡田前内閣外相・広田弘毅を推挙
広田内閣は予想通り弱体、”統制派”による統一を果たし益々勢いを得た軍の言いなりになった
広田弘毅内閣
 �@軍部大臣現役武官制復活
 �A軍事費偏重の馬場財政
 �Bメーデー禁止・不穏文書取締法・思想犯保護観察法
 �C広義国防・庶政一新で国民総動員体制へ
 �D大東亜共栄圏構想
 �Eワシントン条約破棄
 �F日独防共協定締結
 �G北支処理要綱で華北の国民政府からの独立を画策
政友会・浜田国松と陸相・寺内寿一の腹切り問答で
  総辞職→宇垣一成の幻の内閣→林銑十郎内閣(軍財抱合財政)
  元老は宇垣一成を首班指名したが
  軍部が軍部大臣武官制を楯にして反対
  陸軍大将・林銑十郎内閣が組閣される
宇垣には加藤高明内閣での”軍縮”実績があり、軍を抑え得る”自負”と政治的手腕を期待されたが、その事で軍部から非常な恨み憎しみをかっていた
財界の望む手腕家であったが、”桜会”クーデターに担がれるほどの”大陸政策推進支持者”でもあった
林銑十郎
満州事変では強行派の言いなりに満州に侵入”越境将軍”の異名をとった
”皇道派”から”統制派”に転身、変わり身の早さは軍の担ぎやすい存在だったが
優柔不断、”なんにもせんじゅうろう内閣”と言われた
予算成立後の”食い逃げ解散”で政友会・民政党・社会大衆党の野党連合に敗れた(軍部に対する政党最後の抵抗)
1937 12 林銑十郎
近衛文麿�@
第1次近衛文麿内閣
 盧溝橋事件で中国全面侵略が開始
 (近衛は盧溝橋事件を”計画的武力抗日”、”華北の治安維持は日満両国にとって緊要”と声明
 盧溝橋事件→第2次上海事変→南京大虐殺
 折しも
??36年張学良の西安事件(蒋介石軟禁)で
 中国・蒋介石は→国共合作→抗日民族統一戦線結成(英米が支持)
 近衛は不拡大方針を放棄して、”北支膺懲声明”
 宣戦布告無く展望も無く泥沼化した支那事変(日中戦争)
  いくさなが(長)びく日中戦争!
 本音は植民地獲得、口実は反共
 国民精神総動員運動
 日独伊三国防共協定
1938 13 第1次近衛声明 ”蒋介石の国民政府を対手とせず”
   自ら和平の道を閉ざす
第2次近衛声明 東亜新秩序
第3次近衛三原則 善隣友好・共同防共・経済提携
  (東アジアの開放+新経済圏構築が目的)
国家総動員法で衆議院の立法権を剥奪
  いくさやるぞ!皆動員!
張鼓峰で日ソ衝突(ノモンハン事件)
1939 14 平沼騏一郎
阿部信行
平沼騏一郎内閣
 国民徴用令・賃金統制法・電力国家管理法
 配給制・切符制(統制経済)
 ノモンハン事件の敗北→北守南進
 アメリカは日米通商条約破棄を通告
 独ソ不可侵条約に平沼首相”欧州情勢は複雑怪奇”
近衛→平沼→阿部→米内→近衛内閣
 平沼・阿部・米内・第2次近衛と内閣は変転する
 ドイツはオースチリア併合、チェコスロバキア・ポーランドに侵攻
第2次世界大戦勃発(阿部内閣時)
 いくさくるしむ(苦しむ)世界大戦!
日独伊の後発帝国主義による世界再分割戦争であったが
 いまだ中国侵略に忙しく、阿倍・米内内閣は大戦には不介入方針
1940 15 米内光政
近衛文麿�A
米内内閣時
南京新国民政府樹立(汪兆銘の親日政権、蒋介石国民政府に対決)
独によるパリ陥落に焦った陸軍は軍部大臣現役武官制を楯に米内内閣を倒閣
近衛第2次内閣(東条陸相、松岡外相)
 ドイツの西ヨーロッパ作戦の大勝利を見て、”今こそ南方進出の天与の好機”
 ”バスに乗り遅れるな”の風潮
 日中戦争本格化・膠着状態の焦りから軍事資源を求めて南方に進出を決定
 (世界情勢の推移に伴う時局処理要綱)
 新体制運動(ファシズム的体制へ)
 大政翼賛会で社会大衆党はじめ政党は、ほぼ全部が解党して合流
  行くよおれたち(俺達)翼賛会!
 大日本産業報国会
 国民学校令
 日独伊三国同盟締結
  行く寄れ三国枢軸同盟
 独伊を欧州の盟主、日本をアジアの盟主とする
 対アメリカ共同防衛
 援蒋ルート遮断を名目に北部仏印進駐
 朝鮮・台湾に対しては
  皇民化政策、創氏改名、朝鮮台湾に徴兵制、従軍慰安婦
1941 16 近衛文麿�B
東条英機
日ソ中立条約
独ソ開戦で松岡構想(日独伊+ソ)は不可能となる
米の更迭要求で松岡洋右ははずれ第3次近衛内閣
北進論を棚上げ(日ソ中立条約)にして南進政策を決定
これで米英を刺激、対立は鮮明になる
 南部仏印進駐→アメリカは対日資産凍結・石油禁輸(経済封鎖)
ABCDラインで包囲され日本は帝国国策遂行要領で
 日米戦争準備に踏み切る(自存自衛+大東亜新秩序建設)
いまだ米との交渉に期待する近衛は投げだし、内閣は東条英機へ
対米英開戦開始
ハルノートの拒絶→真珠湾攻撃、マレー半島上陸で開戦(太平洋戦争) 
 *行くよ一気に真珠湾!
1942 17 シンガポール陥落、フィリピン・ジャワ・ビルマ占領
ミッドウェー海戦で戦局悪化
独はスターリングラードで敗戦
1943 18 ガダルカナル撤退、サイパン陥落
カイロ会談対大東亜会議(大東亜共同宣言)
翼賛選挙、学徒出陣、女子挺身隊
 食糧管理法、配給制度
1944 19 小磯国昭 サイパン玉砕で東条内閣総辞職→小磯国昭内閣
本土空襲、学童疎開、神風特攻隊