地ひらく  石原莞爾と昭和の夢  福田和也 文芸春秋

石原莞爾、山形県鶴岡、旧庄内藩士、警察署長の3男として生まれる

幼児は利発なガキ大将だった

士官学校、陸大でも反骨精神横溢ながら、秀才ぶりを発揮した

ドイツ留学後、関東軍主任参謀として満州に赴任、満州事変を主導する

*石原莞爾が主導した満州事変

 石原は“満州事変”で英米人の圧迫の下で“移民の道”と“工業を大々的に発展”と言う課題を

同時解決する方途として構想する

 米英が作っていた世界秩序を逃れ、日本の生存のため、

更により広範囲な諸民族の生存のための理想を実現しようとする

思想的には独自の“最終戦争論”を主張

*石原莞爾の世界最終戦争論

 日蓮聖人によって示された世界統一のための戦争

 戦争性質の二傾向(決定戦争・持久戦争)が交互作用をなす(戦争技術の弁証法的発展)

 戦争技術の革新で決定戦争が可能になるが、その戦術が一般化すると持久戦争に移行する

 その繰り返しの中で戦争は無間に発展、ついにそれ以上発展し得ない段階にくる

 それが最終戦争、来るべき最終戦争は飛躍的に進歩した兵器が登場、全地球を舞台に、

老若男女が巻き込まれる徹底した全面戦争となる

その全地球的、全人類的戦争によって戦争そのものが乗り越えられ人類前史が終了する

この全面戦争で日本はアメリカに勝ち世界の永久平和を実現する

 皇道をもって国体をもって全地球が統一される

 その究極の理想を実現するため、天業民族たる我ら日本人は全てを犠牲にしなければならない

 全てを軍備に注がねばならない

 著者はこの石原の思想は軍事史と宗教的直感と文明論を一体にしており、

理想の高さにおいて屈指のものと絶賛する

戦争という形でしか世界を一体化できない人間存在への意味づけの試み、

戦争と殺戮に明け暮れた人類前史を超越する希望の提示、西欧近代に代わる原理による世界像定立の試み

*石原莞爾の宗教思想

 石原は熱心な法華信者として田中智学の国柱会に所属

田中智学 日蓮宗・国柱会

 メディア・文化活動の利用、社会福祉への参加、政治結社の設立など今日の宗教活動の殆ど全てを独創した

 日蓮主義をもって日本を世界の指導者たらんとする

 熱狂的信仰で大衆社会に対応

 非武装・永久平和論

*石原莞爾の戦略論

 昭和の軍人はルーデンドルフの独裁的総力戦を崇拝した

タンネンベルク殲滅戦での果敢な戦略が有名だが、結局世界大戦で破れたでないか

デルブリュックはルーデンドルフを殲滅戦略として批判する

 石原も晩年、ルーデンドルフが総力戦の意味を理解していないと批判した

 モルトケ・ルーデンドルフに対し、フリードリッヒ大王は持久戦争・消耗戦略が有名である

 石原は日露戦争の勝利は僥倖であったとして、

もはやモルトケ流とは異なる持久戦争に関わる戦略を打ち立てねばならぬと主張した

 

1909年 安重根の伊藤博文暗殺事件

 安は日本民族や天皇に悪意を持っていなかった

 伊藤博文という“老賊”のため“東洋平和”が危殆に瀕していると言う認識

1910年 韓国併合 

日本の歴史上初めての半島領有、近代世界の生理に基づく悲劇、“大陸国家”日本の誕生

 韓国の地政学的悲運

中国・ロシア等は朝鮮を通って太平洋を目指し、日・英・米等は朝鮮から大陸に進もうとした

 近代のとば口で自らの独立を誓った日本が、他者の独立を踏みにじった

1911年 中国の辛亥革命

 二十一ヵ条から日中戦争に至る日本の圧迫或いは侵略とともに

 宮崎滔天の様に終生孫文を支え革命成就に貢献した日本人も少なくない

 孫文とその支援者の思想

“西洋文明は“利”をもとにしている覇道国家、東洋文明は道義を軸とする王道国家“

 石原の満州国建設も“王道楽土”建設の理想に基づく

  しかし石原の理想は満州国の現実とそれに続く日中戦争のよって否定された

  (結果として王道楽土は欺瞞であり、石原の試みは日本の大陸侵略のための謀議と言われても仕方ない

   日本政府の大陸を見る視線は“覇道”、西洋近代のパワーポリティクスの視線だった)

1915年 対華二十一ヵ条要求

日本は第1次世界大戦で英国から受けた参戦要請を奇貨として

 ドイツの中国権益を奪うとともに、対中懸案を一挙に片づけようとした

 その火事場泥棒的はたらきは二十一ヵ条要求で具体化する

 著者はエリート外交官・加藤高明の動きを当時の世界情勢から考えて合理的であり、むしろ評価する

 しかし第1次世界大戦はヨーロッパの帝国どうしの戦争として始まりながら、

 帝国主義の時代を終焉させる坩堝でもあった

1919年 ヴェルサイユ講和条約

 ヴェルサイユ講話会議でアメリカ合衆国・ウィルソンが主役に躍り出る

 五大国という自意識で臨んだ日本は大いにプライドを傷つけられる

 日本の人種平等要求は米英によって無惨に退けられる

*第1次世界大戦の日本への影響

 莫大な金が流れ込んだ

 農業国から準工業国への転換

 大戦中に多くの現金収入を得た労働者たちの消費・歓楽の謳歌

 しかし大戦景気は短期間に終わり、深刻な不況に伴うストライキ・米騒動に大衆が解き放たれた

 (これが大正デモクラシーの一面)

 大衆化社会に呼応し元老のくびきを逃れた平民宰相・原敬は軍の支持を求めて国家歳出の5割を軍事費にさく

  軍事費の増大はデモクラシーのたまものだった、元老的バランスが失われたときに、 

  軍のみならず日本全体の野放図な欲望が国家に襲いかかった

*混乱の中国

 孫文対野望家・袁世凱

  袁世凱・北洋軍は安徽派(日本が支援)と直隷派(英が支援)に分裂

 軍閥で分裂・混乱する中国を列強の共同管理下にすべしとの意見はほぼ常識だった

 1919年 五・四運動

 求心的ナショナリズムの動きの中で日中の絆が断たれていった

同じ頃 朝鮮の独立運動、三・一事件が盛り上がる

 “正義”ではあったが、計算・打算を徹底的に欠き、見通しがなかった

*アメリカにおける日本人排斥の風潮(1924年、排日移民法成立)

アメリカは中国に対し並々ならぬ意欲を抱き、その障害となる日本を疎ましく思い、 日英同盟の廃棄を迫る

ワシントン体制はある意味で日本封じ込め体制だった

*ドイツの敗北

 ドイツ参謀本部は伝統的に軍を坩堝として社会全体を変革する射程を持っていた

 又 軍事全般を統轄するだけでなく、戦争を集約点として国家全体をデザインする役割を果たしていた

 しかしドイツの敗北による休戦交渉は新政府に委ねられ敗北責任が不明確となった、

そのため国民感情としても実感のない中途半端な敗北となった

1921年 バーデンの盟約 小畑敏四郎・岡村寧次・東条英機ら在欧少壮軍人が永田鉄山を訪ねる

 日本一国の意志にかかわらず第1次世界大戦以来、国家間の戦争が国家全体の力を傾注して存立を争う

 日本が国家として存続するには当然総動員体制を築く努力を迅速に進めねばならない

 著者はこの見識をきわめて的確とする、但し彼らが模範としたルーデンドルフに疑問を呈する、

総力戦体制を是としながら、石原が目指したのは参謀本部体制を克服した大衆社会を前提とした総動員体制

ここに後年深刻になる石原莞爾・東条英機の対立点がある

1925年 仏外相ブリアンの努力でロカルノ条約が締結(仏独平和条約)、1928年パリ不戦条約締結

*日本の経済事情

 1918年 第1次大戦後不況を原内閣は財政膨張で立ち向かった

 1923年 しかし関東大震災

 高橋是清の緊縮政策も関東大震災で挫折、モラトリアム・震災手形再割引・公債外債の発行

“不逞鮮人”のデマ(著者は新時代の主役になった大衆社会の犯罪と規定する)

 石原は尊敬していた大杉栄を殺害した甘粕に“真に信の一念、称賛に値する”と賛辞を送る

 信ずる事のためには、偉大な人物を殺すことも厭わない

 1926年 昭和改元

 1927年 片岡大蔵大臣失言を契機に金融恐慌突入、

鈴木商店・台湾銀行の破綻

(憲政会の官僚出身エリート、若槻礼次郎・浜口雄幸・幣原喜重郎らが息の根を止めた)

若槻は辞任、政友会(旧財閥系が支援)・田中義一に代わる

(苦労人田中は辣腕家であった、日本屈指の財政家・高橋是清と組んで金融恐慌を収束せしめた)

 田中義一は、中国に対して積極策に転じようとした

 (森恪外務政務次官を中心に東方会議を招集、対支政策綱領を策定したが幣原外交を継ぐ外務省、

積極政策を唱える陸軍との対立は続き、対英米・対中国政策の方向付けは明確にならなかった)

1928年 張作霖爆殺事件勃発

 首謀者、関東軍高級参謀・河本大作の政治感覚は大陸浪人的リアリティによって育まれた

“満州を一軍閥の長、私服を肥やし排日を工作する張作霖に委ねる事は出来ない”

 河本は“二葉会”結成に参画、東条等バーデン盟約の系譜を引く陸大卒最精鋭エリート軍人でもあった

 張作霖爆殺事件によって、軍閥の後継者・張学良は中国本土と一線を画す政策を転換、北伐の遺恨を捨てて

 蒋介石の傘下に入って徹底的に日本への抵抗姿勢を取る事になる

 張学良軍による日本人への圧迫、弾圧が激しくなる、更に満州鉄道の経営悪化

 昭和日本の権力中枢は常に陸海軍、各省庁、政党、財界、皇室と元老等に分裂し統合が欠落していた

危機に臨んでもその事による機能不全を克服できなかった

 事態解決のため、石原莞爾は関東軍参謀に抜擢される

好調を続けていたアメリカ経済が転落 1929年大恐慌へ

田中義一辞任を受けた浜口雄幸、 緊縮財政、金解禁(1930年)に固執

*ロシアの南下政策

1689年 ネルチンスク条約 清露国境(満州とシベリアの境界)決定

1812年 ナポレオン戦争ロシア戦役でナポレオンを撃退、対仏連合を勝利に導くが

以後ユーラシア大陸をめぐる英国との覇権争いが深刻になる

1853年 ロシア対オスマン・トルコ(英仏)1856年パリ条約でロシアは後退

1858年 アイグン条約、砲艦外交で対清国境線拡大交渉

1860年 アヘン戦争で清国皇帝を助け、その見返りに沿海州を得る(新中露国境)、英極東戦略と対峙

1894年 日清戦争・日本勝利に干渉、見返りにシベリア鉄道の清国領土内通過、遼東半島租借を得

      ロシア長年の夢、不凍港獲得に成功

      ハルピンを鉄道建設に伴うロシア極東進出、満州支配の根拠地として建設、

多大な投資で交通網と都市建設

  1904年 日露戦争、ポーツマス条約、北京条約

         ロシアの南下はおさえられ,日本は遼東半島での利権を継承する、関東軍の淵源・鉄道守備隊創設

清は満州封禁政策(漢人の満州移住を禁ずる政策)を転換、満州は急速に国際化

  著者はロシアの満州進出が“侵略”では無かったと強調する

  “シベリア半島から満州に及ぶユーラシア大陸の東半分は

当時国と言うようなものによって分割されて居ない大海のような地域“で有ったとする

“ロシアはこのような土地に乗り出していき、新しい都市を建設し、農地や鉱山を開発した”

日本による未開空間での新国家・満州帝国建設を弁護する論であろう

*関東軍

 1918年 第1次世界大戦後、シベリア出兵に際して鉄道守備隊が関東軍に改組

  (単なる鉄道設備保護から、満州でのロシアや満州諸軍閥から日本権益ひいては満州全体の防衛のため)

 彼らは未開空間・満州において、近代アジアが持ちうる大きな未来と、その可能性に覚醒してしまった

  (著者は満州事変からノモンハンまでの戦闘が合法的命令系統を逸脱した暴走で有ったとしても

単なる軍部の専横の弊害と片づけられないと言う)

1931年 満州事変(柳条湖爆破、奉天制圧)

 沈滞化する日本経済情勢、中国・朝鮮の排日運動、南下するロシアの重圧

 柳条湖(溝)事件は、河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と

関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀しておこなわれた

石原莞爾を中心とする関東軍の独断で開かれた戦端

石原莞爾の満蒙問題解決作戦は

 “満州国を領有し新しい国家を建設する事によってのみ東亜自給自活の道が開ける

 満州国領有によって日本重工業化を確立、10年後には予想される日米最終持久戦争に備える“と言うもの

 張学良軍に比べ圧倒的に劣位な戦力の下では、

一撃で相手の継戦能力を根こそぎ奪う迅速かつ完全な殲滅作戦のみが許された

 若槻内閣・幣原の軟弱外交の“協調”路線は中国側には全く通用せず、

排日・反日運動とともに日本の在満権益を侵害していた

 中国からの全面撤退か戦うか

 当時世界の流れであった“ブロック経済”体制で、石橋湛山の“貿易立国・権益放棄論”は非現実的だった

 その平和思想は現実の“悪と狂気”に目をそらした理想主義だった

 逼迫する国内の経済・政治情勢、国民党による排日運動の圧迫を受けて満州情勢はいよいよ緊迫する

 石原莞爾の迅速果断な戦略は瞬時にして戦力優位の張学良軍を破った

 “関東軍の奇襲は歩兵や砲弾をもってのみなされたのではなかった”

敵部隊間の通信・情報を断ち、資金・資材供給を遮断した“総合力”の勝利だった

(満州では都市的交通・通信を主眼とした戦略が有効、

一方本土では毛沢東的持久戦略こそが有効である事を後の日本軍は知らなかった)

謀略により統帥権を侵犯してまでして得た勝利では会ったが、戦線をどこまで拡大すべきか

幣原は内閣の満州事変不拡大方針を主導、参謀本部さえ意見が分かれる

石原莞爾は愛国故に犯した大罪(法を破り天皇を裏切る)をめぐって懊悩する

思案の外、若槻礼次郎が豹変する、関東軍独走の追認

(満州での戦果の華々しさに眩暈、世論への迎合、協調外交・金解禁政策破綻による自信喪失等によって)

正に石原・関東軍の思惑通りだったのかも知れない、

しかしこの事が不幸にして、後に石原自身制止出来なかった軍部暴走の引き金を引いたのだ

朝鮮軍越境指令、国民党政府の国際連盟提訴

しかし国際連盟は中国の提訴を正義として暖かく迎えた訳でない

“国際連盟・ワシントン体制は日米英が主宰する国際秩序、

ことにアジアにおける秩序が保全される事を念頭において立てられた均衡策である“

“ワシントン体制に、ひいては国際連盟の基盤に挑んだのは、まぎれもなく中国だった“

石原の目的は“国際連盟とワシントン体制の欺瞞を暴露し、

その破綻を宣告するとともに、より合理的かつ生産的な国際秩序をアジアに打ち立てる事だった“

参謀本部の見通しは親日的で与しやすい軍閥をもって満州を統治させ、日本の権益を守ると言う程度であったが、首長の利益野心の追求のみに腐心して社会全体の発展に意を用いない軍閥支配は、近代的空間として発展しつつあった満州の実態にそぐわないものだった

中国民族主義から満州を守り、更に日本の国家政体からのも離脱した理想社会“王道楽土”建設のため

石原は満州“領有論”を放棄して“独立論”に転換する

満州国建設は単なる日本強化のための磁石から、建国自体が理想実現の対象になる

あえてワシントン体制に挑戦状をたたきつけた石原自らによる錦州爆撃、

石原達関東軍不屈の意思表示に押され、

政府も協調外交を全面撤回、国際連盟容喙を断固拒否する方針を固める

軍部・右翼による3月事件、10月事件によるク−デター計画の発覚、経済・外交破綻、若槻内閣総辞職

政友会・犬養毅内閣、高橋是清によって金輸出再禁止、積極財政、国際協調外交からの離脱

1932年 

上海事変は日本に対する英米の警戒を決定的にする、

同時に列強は日本との戦いに鍛え上げられた中国の強さにも目を見張る事になる

執政・溥儀を擁立した満州国建国、

“南無法蓮華経”を掲げた石原は、王道楽土、五族協和の理想への一歩に胸ふるわせる

石原が師事した宮崎正義の計画的経済発展の手法は岸信介ら満州官僚の手によって習得され、

戦後日本経済発展のひな形になる

5・15事件で犬養倒れ斎藤実挙国一致内閣成立(政党政治終焉)

1933年 国際連盟離脱 

 リットン調査団報告は、満州国の中国本土からの分離を認めた、結構日本に有利なものであったが

 満州国建国と言う事態に興奮しながらも孤立感を深めつつあった日本は連盟を脱退する

 ワシントン体制への挑戦の筋を通したのであろう

1934年

岡田啓介内閣、統制派・林銑十郎陸相、永田鉄山軍務局長 エリート新官僚と連携総力戦体制を呼びかける     (クーデター的改革を目指す皇道派と対立)

1935年 皇道派教育総監・真崎甚三郎更迭に怒った相沢三郎が永田を刺殺、逆に統制派の結束が強まる

1936年 

二.二六事件

反骨と反権威主義の石原はエリート官僚が牛耳る統制派と肌が合わなかったが

 (永田鉄山に代わって統制派のエース格となった東条英機と不倶戴天の敵となる)

 皇道派とも与しなかった

 ソヴィエトと相戦うには国力増進が急務であり、

有力な航空産業と重工業を樹立するため統制派の政治力と官僚的能力を必要とした

西洋流個人主義、自由主義、功利主義を克服する全体主義、統制主義、国体主義を説き

2・26事件では徹底して鎮圧行動を取り、統制派のホープとも目されるようになる

“重要産業5カ年計画”で戦後の模範ともなった統制計画経済を主張

日中関係の融和は困難な状況にあり、自らの責任上その融和に努め

 満州国建設に五族協和の夢を託す

広田弘毅、宇垣一成は軍の阻止により大命拝辞

西安事件

英米資本と結びつき、日本の士官学校で学んだ近代中国の指導者・蒋介石はまず国内統一を重視、

共産党制圧に力を尽くしていたが、

日本への報復に燃える張学良が主導した蒋介石・周恩来の間の国共合作が成立する

スターリンの恐れる日独防共協定が結ばれる

1937年 盧溝橋事件 

林銑十郎内閣は影の石原内閣と諷されるほど満州派が占める予定であったが

梅津美治郎次官らによって阻止さる

好戦的世論を味方にした新統制派の東条英機・田中新一・寺内・梅津・杉山らは

  中国に一撃を加える事で、華北分離を決定的にして満州国と南京政府の間に緩衝地帯を確立する好機と捉えた

かねて対中宥和政策を掲げていた参謀本部・石原らはソヴィエトの介入を恐れ

戦線不拡大方針を貫こうと努力する

(石原が戦端を開いた満州事変と異なり、支那に持久戦争で勝つ裏付けがなかった)

現地軍専行と言う形で満州事変を成就した石原は、

軍内部に現地独走、“下剋上”の空気を蔓延させた責任が大きい

その罪の意識を自覚して軍部の独断専行に身をなげうって反対する

近衛文麿内閣成立(近衛は超名門に生まれ広い支持層を持つが定見無き機会主義者だった)

 逃げの近衛、優柔不断、不決断の宰相はズルズルと泥沼にはまりこむ

 戦線は上海・南京に拡大する

 第二次上海事変、中国軍の租界爆撃、西欧諸国の憤慨は爆撃した日本に向けられず日本側に向けられた

  参謀本部から追われ、石原は関東軍参謀副長として再び満州に赴任する

  石原の理想とは余りにもかけ離れ、満州協和会といった民間日本人、満州人、中国人、朝鮮人らを

徹底的に排除した満州は陸軍統制派の満州、岸信介・椎名悦三郎ら日系官僚の満州だった

搾取される満州人、満州拓殖公社は、現地農民、地主から強圧的廉価で買い上げた土地を

“開拓”名目の移民に分け与えた

時に関東軍参謀長は宿敵・東条英機だった

戦略眼に劣り、嫉妬深く、権威主義の権化の東条

しかし兵士への気配り、組織力、その官僚的才能は並でない

(兎にも角にも石原の立案した五カ年計画を実施のレールに乗せたのは彼だった)

憲兵組織をもって各民族のナショナリズム、理想主義、抗日分子を徹底的に排し、

規律・法律・官僚組織が支配する日本の傀儡国家・満州を建設した

憎むべき現状の根源は我にあり、石原の苦悩・怒り・焦りが爆発する

“泥棒の親分の住宅を見ろ、あの豪奢な建物は関東軍司令官という泥棒の親方の住宅だ”

妥協知らずの悪罵、すでに神懸かりの状態だ

 “南京を一気に攻め落とせば蒋介石政権は崩壊し、

その後に日本の手で親日的政権を樹立して有利に講和すればよい”

日本の徹底的包囲殲滅作戦に対し、蒋介石の取った作戦は後退戦術・徹底的焦土作戦(持久戦法)

市内の荒廃が補給を断たれていた日本軍将兵に与えた絶望、宿泊施設、食糧の欠乏

略奪・暴行・捕虜虐殺、原因は捕虜蔑視の風潮よりも戦略的非合理に起因する

蒋介石の後退戦術(英米の支援待ち作戦)に乗ぜられて戦勝気分にわく世論、

オポチュニスト近衛は“蒋介石を相手にせず”と和平交渉打ち切りを宣言する

日本を震撼させる中ソ不可侵条約が結ばれる

1938年 ミュンヘン会談

ヒットラーによるチェコスロヴァキアのズテーテン地方割譲要求に対し英仏が妥協

著者はヒットラーの悪魔的恐喝、英仏の弱腰外交が大戦を引き起こしたのではないと主張する

“大戦は両国の認識の格差によって引き起こされた”と言う

残念ながら著者が何に拘っているのかよく解らないのであるが

後に、英米が日本の力を軽く見ていた事、蒋介石(ファシスト)政権に期待しすぎていた事が

大戦の悲劇を大きくした原因であるかの様に言っているので、その布石だろうか?

石原は満州の堕落と支那事変の泥沼化に絶望、予備役編入を願い帰国する

軍人としての活動を断念、国民・国際運動を目指していく

*石原莞爾の“東亜連盟”“昭和維新方略”

1939年、“東亜連盟”を結成し“国防の共同、経済の共通、政治の独立”をその結成様態とする

英米の帝国主義に対するため“帝国主義的残滓の放棄”つまり占領地域の無条件放棄、

大陸における従来の利権の放棄そして軍事、経済体制の再建、発展への協力を説く

中国の汪兆銘、繆斌(みようひん)らも呼応する動きを見せた

議会政治や大衆運動への絶望から“天皇親政”を主張するものの

石原の思想は最終的に国家の枠組みを破戒する恐れを内包するものだった

つきつめれば権力維持のための戦争継続にしがみついている東条たちにとっては脅威であったのだ

1939年 ノモンハン事件

ソヴィエトの死命線、モンゴルで日ソ対戦

関東軍は無謀にも中ソ二面作戦に乗りだし、ソヴィエト軍機械化部隊に叩き伏せられる

石原はその反省に立って歩兵装典の見直しに取り組む

“駐屯地を民族協和の中心地とする”

駐屯地では演習のみならず、開墾・自給自足・教育・文化の中心地とする発想は独自ではあるが

 “中国工農紅軍”が理想としたところも、その様なものでは無かったろうか

戦後の“西山農場”活動で実を結ぶことになる

ヒットラーのポーランド侵攻

“電撃戦”機甲師団を主体として、その機動力によって一撃で決着をつける戦法

”近代社会が大衆化するにしたがって社会が求心力を失い、社会を構成する成員が帰属意識と共通感覚を失って浮遊し始める、デュルケムはこうして拡散した社会を改めて凝集することを社会学の任務とした

“ファシズム”も社会を“束ねる”事を目指す

本来“総力戦”は即戦即決の“電撃戦”が望ましい

しかし“電撃戦”では“最終戦争”を終える事は出来ない、

ドイツはやがて戦線膠着、持久戦に持ち込まれ敗退する

1940年 近衛新体制運動

 “最後の総反撃の契機、起死回生の策、国民を中心に据えた開明的社会建設の夢実現への唯一の突破口”

総力戦体制として大政翼賛会が結成される

しかし大政翼賛会は軍と内務省が国民を総力戦遂行に追い込む単なる道具にすぎなかった

合理的方法論はまとまらず勝利への展望は描けなかった、発会式当日、近衛は会の綱領さえ発表できなかった

つまるところ“新体制運動”とは失敗したファシズムにしかならなかった

事変の無節操な拡大の結果、日独伊三国同盟締結

ドイツ海軍が弱体という事を考えれば日本は米英と言う世界最強の海軍国2国を1国で相手

世論のヒットラー人気に押されたが、日米関係は決定的に悪化、最悪の選択となった

1941年 石原は立命館大学国防学研究所で国防学を教授する

 合理的軍事学の確立に尽力、権力をもって石原を封じようとする東条と対決

 日ソ中立条約締結 松岡洋右の四国同盟構想(ソヴィエトの中国支援停止を求めて)

  ルーズベルトの賎民主義的外交姿勢と松岡のルサンチマンに満ちた対米姿勢の確執

 ヒットラーは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に攻撃

ドイツの対ソヴィエト戦争準備に盲目だった松岡は信頼失墜、外相解任

 北部仏印から南部仏印への進駐に刺激されたアメリカは対日石油禁輸

  楽天的“期待”にのみ依存しての無定見な前進を重ねるメカニズムはすでに日本軍、政府の宿痾となっていた

 ハル・ノート拒否と真珠湾攻撃、アメリカ参戦(アメリカの好戦的意図と日本側の戦略性欠如に起因)

 真珠湾攻撃で一番喜んだのは蒋介石だったろう、日米開戦により蒋介石の立場は盤石のものとなった

英米の介入による勝利の展望により、盧溝橋事件以来の蒋介石の持久戦戦略を正当化されたのだ

一方英米のアジアの中国蔑視は相も変わらず、蒋介石の焦りは和平工作に走らせる

日本も見通しの立たぬ戦いに終止符を望んでいた、

しかしまたもや軍と外務省の鍔競り合いの中で和平の動きは翻弄される事になる

もし東亜連盟を掲げる石原莞爾が動いて居れば和平交渉が成功していたかも知れない

しかし、石原は自ら軍から追い出される結果を招いたのだ、無意味なIFだろう

1945年 戦後利権をめぐっての国家間の駆け引きによって原爆投下、ソヴィエト参戦敗戦

そしてポツダム宣言、日本敗戦、満州国解体、アメリカによる日本占領

敗戦によっても石原の信念は変わらない、と言うか今こそ国体の本質が発揮され、王道思想宣揚の好機という

軍閥政治打倒、軍備の放棄と信仰・言論の自由確保、世界第一の民主主義国へ

著者は占領軍による憲法制定、東京裁判の国際法的違法性を強調する

しかし帝国主義戦勝に破れるという事はそういう事ではないか?毒舌家ではあるが石原莞爾の姿勢が潔い

著者自身第1次世界大戦後、ドイツ政府の戦争責任追求が曖昧であった事をもって、

第2次世界大戦の遠因であったかのような記述もされている

*石原莞爾の思想的バックボーン

統制・計画主義、合理主義(反精神主義)、日蓮信仰、五族協和のアジア主義(東亜連盟の主張)、

持久総力戦争としての“最終戦争”必然性の認識とその後の平和実現の確信

*西山農場

東条の政敵で遇ったが故か、石原莞爾は戦犯指定を免れ、敗戦後政治・軍事に一切関わること無く、最後の命を“最終戦争”終結後の理想郷、“西山農場”建設に燃やす

故郷鶴岡に近く、彼の心酔者・桐山から譲り受けた約150町歩の地に

旧東亜連盟会員をはじめとする同士約50人で建設する自給自足の小世界

建設三原則は都市解体、農工一体、簡素生活

都市解体論は素朴な帰農や農本主義的復古主義ではない

“反科学や反工業ではなく科学技術の発展が必然的にもたらす科学の変質を先取りするものである”

晩年、菩薩のごとき簡素で優しい日々であったという

正直良くは解らない

工業を否定する訳でないから、自給自足のコロニー、“法華行者”の“組合”のようなものだろうか

もはや“東亜の連盟”や“天皇親政”を期待していた訳でも無かろうから、理念は“日蓮”を戴いていたのだろう

石原が言う如く戦争技術は“最終戦争”に相応しいまでに上り詰めたが、

その後に彼の言う平和な世界は実現したのだろうか、

“東亜の理想”は“まぼろし”だったのだろうか

もとより石原の理想は“最終戦争”における日本の勝敗とは関係なかったのであろうが

彼の築こうとした理想郷“西山農場”は、その後どのようになったのだろうか

理想の高さ、たくましい行動力は非凡である、しかしこの人は本当に我々に何を遺してくれたのだろうか

世界大戦の有り様、総力持久戦争の見通し等、さすが軍人としてのセンスは抜群である

しかし結果として “満州国建設”にしろ“東亜連盟”にしろ、

日本の帝国主義的進出失敗の汚名だけが残ったのではなかろうか