世阿弥を読む(2)  野上豊一郎  “能の幽玄と花”  岩波書店から

図書館でたまたま見た能楽解説書です。漢字がちょっと読みにくいと思ったら1943年刊行でした。

太平洋戦争たけなわの頃の著作ですがとても解りやすく、しかも結構新しい感覚の入門書です。

世阿弥
12歳で足利義満に認められて以来 義持・義量・義教・義勝の5代の治世を見、81歳没
足利義教にうとまれ 実子 元雅を退けられ元重が観世太夫を継ぐ、72歳で佐渡に配流

1. 能の幽玄

もと歌道の用語の用語であった“幽玄”とは何かが、歌道用語と絡ませて解説されています。

“幽玄”を歌道に於ける最高の様式概念として取り上げたのは俊成でした。

“幽玄”=言葉で言い表された以上の有る物を暗示する事=余情

その子、定家は“有心”という美的概念が“幽玄”すら 統制・支配すべきとし、“余情”の性格はより“妖艶”を加味する様になる。

その後正徹・心敬等は俊成等が強調した超感覚的な余情より一層実感的感覚に重大な価値を置き、艶美・優雅などが“幽玄”の本質になる。

さて 能の“幽玄”は世阿弥が定義した如く“ただ美しく柔和な体、幽玄の本体なり”。歌道の“幽玄”より現世的・人間的概念になります。

“幽玄”=上品さ、華やかさ

田楽  平安期初期に支那から移入された雑芸を取り上げ曲芸的な演技

    田楽二座 本座(近江)新座(白河)

猿楽  同じく平安朝の頃から民間に行われていた滑稽を主とする笑劇的な演技

    大和四座 結崎(観世)外山(宝生)圓満井(金春)坂戸(金剛)

    近江三座 山科・下坂・比叡

大和猿楽の特色=物真似(写実主義)

近江猿楽の特色=幽玄(抒情的唯美主義)

観阿弥・世阿弥が大和猿楽に近江猿楽を取り入れ統合しました。更に田楽的要素も加えます。

世阿弥は師にして実父、観阿弥の“物真似”重視=写実主義を越え、“幽玄”が“物真似”を支配すべきであると主張しました。

“物真似”=写実は能の技法の根底であるが“物真似”の結果が“幽玄”から遠ざかるものはなるたけ簡略に写実すべきと主張します。写実は“幽玄”の情緒に制限されるとします。

能で重視される“序破急”理論。

演能の代表的編成(五番立)

  序(物真似) 脇能物(神)
         修羅物(男)
  破(幽玄)  鬘物(女)
         四番目物(狂)
  急(物真似) 切能物(鬼)

見物人本位の姿勢が物真似を多少犠牲にしても“幽玄”を大切にしました。

“九位”の最高位=妙花風  
  艶美・優雅→閑静・柔和→

   言語を絶した無上の芸巧、無位無風、技法を超越した無技法、
  芸術を超越した無芸術の境地

2. 能の花

実際的な演出家は常に決して見物人を忘れない、見物人を忘れないのは演出の目的を忘れない事、演出の目的は見物人を演劇の中に完全に引き入れる事、言い換えれば見物人を共同作業者にする事、故に 演出に望んでまず重要な事は見物席の空気を感知する事

34,5歳での技法を絶頂とするのも演劇が体力・気迫の上に立てられるとするからです。

鍛錬の末習得された様々な動作は、見物席を読み見物人を魅了するために絶妙の“時”を得て投入されねばなりません。

“秘すれば花なり”“時に用ゆるをもて花と知るべし”

世阿弥は時を知る心を花とします。

時に見物人を裏切り、驚かし、ばかし、見物人の“時”を支配する考案を“花”とします。

著者によれば大衆は大部分が愚妹である事を世阿弥は良く知っていたとされます。但し愚昧な大衆を軽蔑するのでなく、

それ故に大衆を懐柔する必要が説かれます。

大衆に呼びかけ、大衆を高めようとしない芸術は存在しない。

“諸人の心をやわらげ”=“大衆に快楽を供給すべし”とまで言い切ります。

この辺り戦時下当時の時節風が感じられますが、有る意味で本音というか(戦時こそ国家の劇場性が最も高まる時故に)演技の本質を突いていると思います。

“物真似”をデッサン、“幽玄”を絵の具とすれば、“花”は “構図の一部歪曲、配色の一部強調”とか大衆の好奇心を扇動し飽きさせないための技法に例えられ、能の常道とは一線を画されています。

見物人を媒介とした“空間”と“時間”の支配。私は経営を顧客を媒介にした“空間”と“時間”の支配と主張していますが、ちょっと我が意を得たりの感じです(私の経営論は世阿弥に影響されている部分が大きいですから当然の事ではありますが)

3. 能の構成と近代的傾向

野上氏は序破急理論を中心に実例に沿って能の構成を詳述します。

しかし それは全盛期の能(観阿弥・世阿弥から金春禅竹に至る1世紀)が如何に見物人中心主義で革新的であったかの証明でも有りました。つまり原則的な構成はあたかも破るためにあったかの如く様々な構成で見物人を感動させ驚かせたのです。

江戸近代期から能は幕府の式楽に指定され革新性を失い、能役者は芸術家的自由を奪われます。

現代に至る能の様式化と保守性に氏の批判が向けられます。

4. ワキの舞台的存在理由

元来能はシテ一人の演技を見せる事を建前にした舞台芸術でした。

ワキは見物人の代表としての役割で、シテの演技を誘い出すだけの役目でした。

ワキは発声者(開口人)・質問者・シテのねぎらいを受ける人、シテの扮する人物性格と同種の者でなく同時代人でもない。

そこから氏は“能は本来言葉の厳密な意味での戯曲ではない(戯曲では二人以上の同時代人が互いに交渉・対立する)とまで言い切ります。

しかし“ワキはいつまでもそうした無能な役目に我慢する事が出来なくなった”シテ・ワキの劇的交渉・対立、競演的調和。

氏はワキ演技のこのような成長経過の中にも、発展・変革する能の姿を見ていきます。

ただ 私に言わすれば ワキには“観客の代表”としての大きな役割が有りますから、一概に西欧風シテ・ワキ対立劇を能楽の発展と見るべきかどうかと思いました。

5. 能面

悪尉(アクジョウ)・ベシミ・飛出・蛇(ジャ)・般若    表現誇張・神怪鬼畜

  蛇・般若は女の性的執心を表現(超自然物“蛇”から人間“般若”へ)

尉面(ジョウメン・老翁の面) 写実的  前ジテ(人間的)後ジテ(超人間的)

女面・男面   無表情的象徴表現  
  小面(満ち足りた美しさ)増女(豊麗から緊張へ)

   近江女(色っぽさ)
  孫次郎(幽玄美その物)
  若女(完全調和)

  中間的表情から如何なる表情も溢れさせ得る(相当の演技時間を持ちきれる)
  能面制作技巧の頂点