娑羅双樹の花の色  平家物語を読む H15.10.6

   

日経新聞に池宮彰一郎氏“平家”、週刊朝日に宮尾登美子氏“平家物語”が人気です。

高校生の頃を思い出しながら 少し読んでみました。今でも素晴らしいと感じられる自分が嬉しく久方ぶりに心が弾みました。

文学・平家物語の解説としては 物語を視覚・聴覚面でも捉えた杉本秀太郎先生の“平家物語”(大佛賞受賞)が秀逸です。先生は“平家物語”を読むとき物の気配に聞き入ることから始めると言っておられます。

琵琶の撥音高く響くとき 何となく感じる胸さわぎ、運命への胸のざわめきを予感というのでしょうか。

日本中世史の巨頭 石母田正先生が書かれた“平家物語”に於いても、清盛の子 重盛・知盛に(二人の生きざまが余りにも異なるとは言え)運命への予知能力を認められています。

どうやら“平家物語”は 胸ざわめきつつ予感する運命の響き そしてその狭間での人間の生きざまがテーマーなのでしょうか。

石母田先生の“平家”は50年近く前の発行ですが 平家物語の成り立ち、作家や作中人物のよって立つ社会的基盤からくる魅力と限界など 非常に興味深く読めました。特に物語が信濃前司行長一人の作による物でなく、琵琶法師の琴の音とともに幾多の民衆によって作り上げられたと知って門外漢の私には瞠目する思いでした。

書棚の隅に 今はもう手に入らないかと思われる一冊の冊子がありました。

劇作“子午線の祀り”の作者 木下順二先生による“平家物語”。

今日は こうしたテクストを中心に借りながら “物語”の魅力を見てみます。

勿論 専門外の私に“平家物語”を読み下し解説する力はありません。

ただ 運命と闘い生き抜き死に抜いた もののふの姿を辿ってみたいだけです。

 

冒頭 ご存じ“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず 只春の世の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏に風の前の塵に同じ“

どなたかの“声に出して読みたい日本語”にあった様ですが 合っていますでしょうか。

(余談ですが 10年ほど前の6月 京都・妙心寺の庭に散るのを目にした娑羅双樹の花は本当に見事でした)


物語が描こうとしたのは 当時世の人々の常識とも言えた無常観そのものでは有りません。

人はいずれ死ぬ、無常の世の中で 武勇のつわものも、わがままな権力亡者も必死に生きようとした、その生き様、生きざまからかもされる歴史の美しさを描きました。琵琶法師の調べに乗せて耳に訴え目に見せてまるで交響曲かオペラの様に語られます。

ならばこそ石母田先生が言ったように 民衆の心をとらえ、
民衆自身が“原平家”に付け加え付け加え 今日の平家物語に至ったものと思われます。

一つ一つの物語は 成る程“見てきたような嘘”かも知れませんが 歴史に参画する読み手聞き手を酔わせる1本の筋こそ歴史の真実と言わない法はありますまい。

石母田先生は平家物語を主人公がいない叙事詩と捉えました。その故に 清盛・後白河の描写が平板になったとします。逆にこの二人を主人公に 現代的脚色をほどこしたのが 池宮版平家です、申し訳ないですが ちょっと“ひいきの引き倒し”の感がします。“平家物語”の翻案でもありませんから別に良いのですが、又 色々教えてもいただいたのですが 読後感としては 小泉型構造改革の応援歌のような気がしました。

やはり ここは 清盛や後白河が善玉じゃ勿体ないというか、多少戯画的でも 悪玉は悪玉らしく生き抜いてこそ 歴史的配役が務まるのじゃないでしょうか。


殿上闇討ちの段。

“国香より正盛にいたるまで六代は諸国の受領たりしかども殿上の仙籍をばいまだ許されず”“しかるを忠盛”昇殿を許され”殿上人“になる。

瀬戸の海賊を平らげたり、立派な寺院(得長寿院)を建立、鳥羽上皇に贈るなど地方官としての才覚に任せ財力と武勇で36歳にして殿上人に昇進した清盛の父、忠盛の意気軒昂ぶりが“しかるを”という言葉に脈打っています。

この条に書かれた雲上人(高級貴族)からの陰湿な嫌がらせを物ともしない忠盛の堂々たる身のこなしと家の子の結束ぶり、武士なる新興勢力のすがすがしさと旧勢力貴族階級の精神の退廃を表現して余りあるところです。

平家・源氏を中心とする武士階級は 上皇・天皇に直接仕えながら(番犬のように)着々と権力を拡大します。

海音寺潮五郎描く平将門の乱

高橋克彦氏“炎立つ”等に描かれる 勃興期の武士階級は むしろ開拓農民統率者の潔さに溢れています。

  前9年の役(奥州安部頼時・貞任・宗任の反乱を源頼義・義家が平定)

  後3年の役(清原一族内乱に介入して義家勢力拡大)

忠盛58歳にて世を去り 嫡男清盛(当時35歳)が跡をつぎます。

そして3年後保元の乱 更に3年後 平治の乱あり 平家全盛の時代を迎えます。

  保元の乱(後白河・関白藤原忠通・源義朝・平清盛 対 崇徳・左大臣藤原頼長・
源為義・為朝)
 平治の乱(藤原信頼・源義朝 対 藤原信西・平清盛)    

池宮“平家”の辣腕家信西、画策する清盛・後白河の描写が面白い。  

義兄時忠が“此の一門にあらざらん人は皆人非人なるべし”とうそぶき、まるで紅衛兵のように暴れ回る平家一門。

偶然の様に最高権力を手に入れ源平争乱の中で知謀と戦略で院政を保持し、頼朝をして“日本国第一の大天狗”と言わしめた後白河法皇。

清盛と後白河は はじめの持ちつ持たれつの関係から両雄並び立たず険悪な関係になっていきます。

世は山法師達の乱暴・争乱などもあり いよいよもって世紀末、騒然として参ります。

後白河が糸を引き 成親・西光を首謀とする打倒平家のクーデター・鹿谷陰謀はあえなく発覚。

白拍子 祇王の物語等に見る入道清盛の傍若無人。

清盛の鹿谷陰謀首謀者西光への面罵“しゃつここへ引き寄せよとて 縁のきはに引き寄せさせ、物履きながらしゃっつらをむずむずと踏まれける”その後 口を割いて斬首したとか、権力者としての残虐な素顔を現してきます。

発覚にうろたえる後白河はむしろ滑稽な役回りです。

俊寛等が鬼界が島に流されます。

“これ乗せてゆけ、具してゆけとおめき叫べども漕行船の習いにて跡は白波ばかりなり”

死生の境目に慟哭する俊寛 足摺の段は 小説に謡曲に 余りにも有名です。

荒法師 文覚、後白河に毒づいたかと思えば頼朝のため平家追討の院宣を取ってやる、更には清盛の孫惟盛の忘れ形見六代を助命嘆願、まさに自由奔放な動きは正義漢の典型と描かれますが 意外や稚児愛好者だったとか?

鹿谷事件のあと 清盛の後白河幽閉を長男重盛が 道学者めいた神国思想で とうとうと諫めます。

“不孝の罪をのがれんと思えば君御ために既に不忠の逆臣となりぬべし、進退惟きわまれり”

暴君清盛に対する賢臣重盛の図式化ですが 優柔不断の理屈家・重盛に対する現代人の評価はかなり厳しい様です。

神秘的な重盛の死後、清盛と後白河の対立は頂点に達し、後白河鳥羽離宮幽閉。

後白河の子、以任王、源頼政の勧めで決起、宇治川に破れる。

福原遷都、頼朝伊豆で挙兵、義仲信濃で挙兵。

清盛巨富の礎、日宋貿易の拠点、福原遷都は計画未熟から人心離れみごとに失敗 半年後には逆戻り。

“夷狄の蜂起耳を驚かし、逆乱の先表頻りに奏す。四夷忽ちに起れり。世は只今失せなんずとて、必ず平家の一門ならねども、心ある人々の嘆き悲しまずはなかりけり”

彷彿と反旗は翻り 平家は寺寺を焼き討ち 南都(奈良)は炎上。

“重衡朝臣、南都の大衆の首三百余りを相具して帰り上る。首共さのみ多しとして少々は道に捨てけり”

“穀蔵院南の堀をば、南都の大衆の首にて埋みけり”皆目を背ける中、入道一人“さて懲りよとぞ宣いける。後世いかならんと、聞くも身の毛よだちけり”

惟盛(重盛長男)・宗盛(清盛第2子)の敗戦の混乱の中で 清盛は文字通り巨木が燃え尽きるごとく熱死します。

たまたま入道にかかった水は“ほむらとなって燃えければ、黒けぶり殿中にみちみちて炎うずまいて上がりけり”“遂にあっち死にぞし給いける”

 

物語は源義仲が中心になります。一族の結束を誇る平家に比べ 源氏は荒武者揃い。

義仲が平家を倶利伽藍落としに追い払い 遂に京を支配します。

義仲との篠原の戦いで戦死する斉藤別当実盛は能楽でも有名です。

板東武者でありながら源氏から平氏に主を変えた実盛の屈折した心情が痛切です。

義仲は木曽の田舎武者、強力豪気、率直な性格が頼朝と対照的、猫間中納言や鼓判官への応対にも無邪気あっけらかんとした諧謔性が象徴されています。

稀代の策略家後白河と相容れるはずもなく 頼朝に義仲追討の院宣が下ります。

頼朝は敵を倒すよりまず味方、もっとも身近な相手を切り捨てる独裁者の牙を義仲そして後に義経に向けます。

頼朝の嫉妬深さ・陰湿さはどうも頂けません。人の長たる器量が無いようですが 最終的に権力を握ります。

愛妻巴御前とも別れた義仲 今井四郎との主従最後の描写は哀切・悲壮美の極致とも言えましょう。 

しかも如何に悲壮であっても涙止めどない描写であっても 何か からりとした所が平家物語の特徴です。

“ふか田ありとも知らずして馬をざっとうち入れたれば馬のかしらも見えざりけり、あおれどもあおれども、うてどもうてども はたらかず”

杉本先生は死に取り付かれた義仲の哀れさに“憑依”と言う言葉を使っています。

 

颯爽と義経が24歳で登場します。

騎馬戦術も鮮やかなひよどり越坂落としの奇襲、屋島の戦いを経て壇ノ浦の海戦に平家を攻め落とします。

義経の武勇 そして平家一族と係累それぞれの最期が美しく詠われます。

どうも英雄の子息は凡庸なようで 平重盛から惟盛・六代は非力・宗盛は軽薄です。

しかし清盛第4子知盛はこの物語でも最も美しく勇壮に描かれています。

一子知章を一ノ谷に失い、我が子を助け得ず死に遅れた思いに脇目もふらず慟哭する知盛があります。

運命を 人間の弱さを 我が身を抉るが如く知り極め、滅び行く平家の定めを心底感知しながら、ついに戦う心を失う事なかった男、知盛。

壇ノ浦にいよいよ最後がおとずれます。

安徳帝入水、我が妹であり安徳帝の母・建礼門院の入水。錦の衣は海面を紅葉のように染めていきます。

一門の栄華・戦い・苦悩・悲惨そして最後、様々な回想も瞬時“見るべきほどの事は見つ、いまは自害せん”と鎧を二領着用、ずぶりと海中に消えゆきます。

この知盛の最後に栄枯盛衰、無常の世の流れの中で 戦い抜き、生き抜いた人々の営みが万感の重みで象徴されています。

さて 義経と頼朝の対立。軍監 梶原景時がいかにも あさましく描かれていますが、

義経任官問題に見られるごとく天才軍略家・義経と政治家・頼朝の運命的対立です。その間に後白河の策略が働きます。
頼朝の鎌倉武家政権樹立への理念を義経が理解しなかったと見る方も結構おられますが、頼朝は生涯征夷大将軍の地位に執着、貴族階級に取り入ろうとしました。一方 後白河はしたたかにも自分の眼の黒いうちはそれを許しませんでした。

(池宮“平家”は 後白河を清盛・義経の後援者、義経を清盛の思想的後継者に見立てるユニークな発想です)

頼朝の前で“しずやしず、しずのをだまき繰り返し、昔を今になすよしもなし”と大胆に謡った静の思いもむなしく、心の故郷奥州藤原に落ち延びた義経は藤原4代康衡の裏切りで30歳の天命を終えます。

(4ヶ月後には その康衡も頼朝の手にかかります)

 

参考文献

 木下順二 平家物語 岩波書店

 石母田正 平家物語 岩波新書

 杉本秀太郎 平家物語 講談社

 池宮彰一郎 平家  角川書店

 宮尾登美子 平家物語 朝日新聞社

年譜

 1132年 忠盛昇殿

 1156  保元の乱

 1159  平治の乱

 1160  頼朝伊豆に流される

 1167  清盛 太政大臣に

 1171  清盛の娘徳子 入内

 1177  鹿谷陰謀発覚

 1179  重盛死す、俊寛鬼界が島に死す、後白河鳥羽殿に幽閉

 1180  以任王挙兵、敗死

       頼朝・義仲挙兵

       義経 頼朝軍に参陣

 1181  清盛死す

 1183  平家都落ち

 1184  義仲敗死

       義経鵯越から平家急襲

 1185  屋島・壇ノ浦の戦い

       文覚 六代を助命嘆願

 1189  義経 衣川で自害

 1192  後白河死す

 1198  六代 鎌倉で斬られる

 1199  頼朝死す 

 

平家系図

 忠盛―清盛―――――重盛――惟盛―――六代

    経盛―敦盛  基盛  資盛

    教盛     宗盛  清経

    家盛     知盛  有盛

    頼盛     重衡  師盛

    忠度     知度

           清房

           徳子(高倉中宮、安徳母)

           盛子(藤原基実妻)

           寛子(近衛基実妻)

    時信―――時忠

         時子(清盛妻)

         滋子(後白河妃・高倉母)

 

天皇家系図

  白河――堀河――鳥羽――崇徳   

              近衛

後白河―――二条―――六条

      高倉―――安徳

           後鳥羽