明治維新
西暦 和暦 首班 出来事 解説
1868 明治元年 幕府側の反発・戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)へ
  赤報隊(相楽総三)偽官軍事件
  西郷・勝会談で江戸城・無血開城
明治元年

  五箇条の誓文(由利公正、福岡孝弟、木戸孝允)
*一夜論は尽きないご誓文*

  公議政体論
  五榜の掲示
   五倫の道、キリスト教禁止(浦上信徒弾圧事件)
  政体書で三権分立を目指す
   (二院制立法府に議政官、貢士)
  府藩県三治制、一世一元の制、神仏分離令、
  四民平等(華族・士族・平民)
明治維新
兎にも角にも日本は”明治維新”を成し遂げる事で、欧米列強による植民地化の危機を乗り切り独立国家を維持、アジアの先頭を切っての”近代化”に成功した
維新成功の要因は何か
@江戸時代すでに貨幣経済・商品経済が発達
a.封建的身分制的分権国家の矛盾が露呈
b.特に西南雄藩は藩内の殖産興業・富国強兵に成功、維新後政府の殖産強兵策の基礎を形作っていた
又幕末商品経済のめばえの中で頭角を現した”豪商・豪農”は維新後の”資本家”に育っていった
A江戸時代の高い識字率・文化教育水準は
維新の主体になった下層武士の識見・能力・高い志を育て、彼らをいち早く自閉的”攘夷”から開かれた”独立国家”に方針転換せした(敵は外圧よりも封建的身分制国家と認識して倒幕)
又維新後は実学的欧米文化を拒絶反応する事無く素直に受け入れ、良質の労働者を確保する事が出来た
B列強外圧による危機感が維新政府による中央集権国家建設を急がせた
a.武士階級を自己否定し天皇を頂点とする中央集権官僚国家
b.廃藩置県
c.徴兵制による国家の軍隊創設
d.殖産興業と富国強兵
C維新期、日本に対する欧米列強の外圧は”植民地化政策”と言うより”貿易主義”であった
外圧の”ゆるみ”を重視するか、国内の資本主義的成熟を重視するか下記の論争もあるが
いずれにしろ日本は幸いにも”植民地化競争”の間隙をぬって、資本主義と帝国主義のモデルを欧米から導入する事で近代化の遅れを取り戻す事が出来た
以上 内的要因と外的要因の交錯の中で日本の栄光と苦悩の歴史が始まった
1869 2 上野戦争(彰義隊&大村益次郎)
会津戦争(奥羽越列藩同盟、仙台藩、白虎隊)
箱館戦争(榎本武揚、五稜郭の戦い)
戊辰戦争終結
版籍奉還(旧藩主→知藩事)
人はむくれる版籍奉還!

二官(神祇官・太政官)六省制の復古体制
東京遷都
維新期の世界環境をめぐって2つの論争が闘われた

遠山・井上論争
遠山氏は維新期外圧の性格が”貿易第一主義”であった事を強調した、一方井上氏は”植民地化の危機”ととらえ国家意識・民族意識の高揚を評価した
(その後遠山氏は井上氏よりに修正)

遠山・芝原論争
遠山氏は資本主義化した日本、列強の半植民地化した中国を比較
その岐路は1850−60年代(維新期)ではなく日清日露戦争期、世界が帝国主義段階に入ろうとした時点とした
維新期には外圧に”若干のゆるみ”が見られ、民族国家創出と資本主義化の可能性は失われていなかった(中国・洋務派と大久保の政策は本質的に同一)
対して芝原は維新期の日本が独立への道を歩めるに足るだけのブルジョア的意味での民族的力量を中国やインド以上に備えていた事を評価した(中国洋務派=買弁的、大久保=国権的と区別)
明治歴代内閣(イクヤマイマイオヤイカサカサカ)
伊藤・黒田・山県・松方・伊藤・松方・伊藤・大隈・山県・伊藤・桂・西園寺・桂・西園寺・桂
遅れてきた近代化
欧米列強に対抗するため、対外侵略と戦争によって切り抜けようとする必死の努力が始まる

大久保利通の有司専制による中央集権統一国家構想
@廃藩置県 分権的藩主から統一国家官僚へ
A封建的身分制の撤廃(壬申戸籍での統一支配)
 大名公家は華族に、武士には秩禄支給
 被差別階級は温存
B全国徴兵制(薩長御親兵に代わる国家兵力、武士解体)
C学制公布・風俗改良、淫祠邪教は弾圧
 天皇を神格化するため国家神道推進
D地租改正→農民は寄生地主と賃労働者に分解
E殖産興業
F新貨発行、国立銀行創設
G北海道開拓使、屯田兵制 札幌農学校(ケプロン・クラーク)
 琉球処分でアイヌ・琉球を支配下に
政党の変遷


大久保利通と西郷隆盛


伊藤博文と山県有朋
経済近代化
1880年代の官業払い下げ財閥資本と賃労働の創出、日清戦争(1894年)前後の軽工業隆盛、日露戦争(1904年)前後の重工業化で日本の産業革命が進行

@地租改正条例(1873年)
  地券所有者(地主・自作農)は地価の3%を金納
    小作農は地主に物納
  石高制・作付け制限・田畑永代売買禁止を廃止して
 土地私有権を確立
 収穫基準から地価基準に変更する事で政府の財政基礎の確立
 金納化で農業が商品経済と直結
 しかし農民の高い税負担は変わらず、農民層分解
 (寄生地主と小作人 更に賃金労働者を創出)を促進
 (”講座派”は高い農民収奪を封建制残存の根拠と見るらしいが、
 残存された封建的収奪を利用しての日本特殊型資本制が促進された?)
A通貨制度
 新貨条例(1871年)
  貧乏政府は太政官札、民部省札など紙幣を乱発したが失敗
  通貨単位を 円・銭・厘の10進法に統一、
 金銀複本位制で兌換紙幣を発行
 国立銀行条例(1872年)
 正貨(金・銀)の不足から、
 アメリカの制度を参考に伊藤博文・渋沢栄一が中心に推進
 国の法律で設立を認めた民間銀行に兌換券発行を委ねる
   第一国立銀行(三井・小野組が出資)他
 国立銀行条例改正(1876年)
  兌換義務を外す(不換紙幣)
  国立銀行の乱立と紙幣乱発→インフレ→国家財政難
B交通・通信の革新でインフラ整備
 横浜・新橋に鉄道(1872年)
 東海道線全通(1889年、大日本帝国憲法発布の年) 
 官営→民営(1881年日本鉄道会社設立)
 蒸気船導入
  岩崎弥太郎(郵便汽船三菱会社←九十九商会) 
  大隈重信の資金源
  政府は対抗馬として、三井などの出資で共同運輸会社設立
  競争激化から合併、日本郵船会社(1885年設立)
 郵便制度  前島密が建議
C殖産興業
 工部省 1870年設置 鉱工業・鉄道・港湾関係直営
 内務省 1873年設置 
  国内の民間産業、在来産業近代化のために設置、後に経済関係を農商務省に委ね、中央集権的全国支配のための治安関係をもっぱらとする最大官庁になる
 お雇い外国人招聘
 内国勧業博覧会  臥雲辰致のガラ紡が注目される
 東京・大阪の砲兵工廠(軍事産業)
 富岡製糸場(1872年)等で輸出型産業を育成
 官業で民間の資本不足を補い
 やがて官業払い下げや軍資金・軍需品の調達、軍事輸送等で財閥が成長
 三井 三池炭坑・富岡製糸
 三菱 高島炭坑・長崎造船所
 古河 足尾銅山
 住友 別子銅山・紡織 
1871 4 廃藩置県、三院制(政府・正院、立法・左院、右院)
「藩はあるか?」「いや、ない!」廃藩置県

  封建的支配→中央集権化  
薩長土が形成した御親兵→鎮台制設置
武士の失業対策として秩禄(国家財政の30%)、征韓論
中央から府知事、県令を派遣
薩長土の藩閥政府
戸籍法(壬申戸籍)
  華族・士族・卒族・平民
  苗字許可、結婚・職業・居住の自由
  穢多・非人の廃止
士族の解体(秩禄処分、金禄公債証書)
岩倉遣外使節団

ドイツは普墺戦争、普仏戦争を経てドイツ帝国成立(ビスマルク)
フランスではパリ・コンミューンの混乱
封建制度と武士の解体を意味する”廃藩置県”が維新改革の最大重要事項である
”廃藩置県”は政府軍の威力のもとに行わねばならなかった
その為戊辰戦争終結後、新政府への出仕を拒み(維新最大の功臣・西郷はすでに維新新政府の腐敗を憂慮)帰郷していた西郷を呼び戻し
薩長土・御親兵と東西鎮台を設置、”廃藩置県”を実行
戊辰戦争も廃藩置県も西郷の徳望・威光が必須の条件だった

条約改正交渉と欧米視察のための欧米派遣使節団
岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文
維新政府主要メンバーこぞっての欧米視察は大英断だった
彼らは近代国家運営のノウハウ、そして今列強と闘えば必ず負ける事をその目で学んで帰国

”征韓論”を議決していた留守政府(西郷隆盛・板垣退助・江藤新平ら)を追い出し、有司専制で一日も早い殖産興業を目指す(内務省を新設、大久保自ら管轄)(1873年)

野に下った板垣・江藤・後藤象二郎らは没落士族や地租への不満をつのらせる豪農達を背景に、愛国公党を結成、民撰議院建白書を提出(1874年・民権運動)
唐突な建白ではなかった、民撰議院も後に見る憲法もそして征韓論も、政府の構想になかった訳ではない
時期尚早、そして何よりも下からの要求として掲げられる事を嫌った
有司専制による”上から改革”として、今やるべき事は殖産興業に限定された
政府は讒謗律・新聞紙条例を発布、民権運動を弾圧

政府に挑発されたかの如く
熊本・神風連の乱、秋月の乱・萩の乱・思案橋事件等士族の反乱が続発、鎮圧された(1876年)

そして最後の士族の反乱西南戦争(1877年)
征韓論敗れ鹿児島に私学校を創設していた西郷隆盛を押し戴いての西南戦争
西郷ほどの策謀家が大久保の挑発に乗りやすやすと敗れた理由はよく解らない            
1872 5 富岡製糸場
陸海軍創設
1873 6 明治六年の政変
  洋行派 大久保利通・木戸孝允・伊藤博文
     (長州を中心とする藩閥政府の内治優先派)
  留守政府 西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎
     江藤新平・副島種臣(征韓派)
  征韓派参議の下野、内務省発足
徴兵令(徴兵告諭、血税一揆、陸・海軍省←兵部省)
  免役既定(戸主・後継ぎ・役人・学生・金持ち)
地租改正条例(物納→地価の3%を金納)殖産興業の基盤となる 
*(いや情)け 無用の地租改正*  
鉄道開通、太陽暦
”征韓論争”  ”征韓論”対”内治優先論” 大久保・西郷の対立
司馬遼太郎は征韓論争での大久保と西郷、両雄の対立を息詰まる様な迫力で描写されました
参議を辞した西郷は鹿児島に帰郷、”私学校”を経営、大久保ら政府の脅威となる
西郷の離反は”征韓論”に固執したからではなく、大久保や岩倉が天皇を工作して議決を覆した事への反感だったか
坂野潤治先生は初期明治政府を
岩倉使節団 殖産興業派(大久保利通)憲法派(木戸孝允)
留守政府   強兵派(西郷隆盛)公議世論派(板垣退助)の対立として描きました
但し西郷はよく言われる”大陸雄飛論の先駆者”ではなく、対韓使節派遣論であり、”出兵論”を抑えるためのものであったと主張されています
その後の”台湾出兵”では西郷は大久保に共鳴しており、時期を見るタイミングの問題であったかのようです(征韓論に反対した大久保は僅か1年後に台湾に出兵)
やがて”殖産興業”と”強兵”は”富国強兵”に合体され日本の進路を決定していきます
一方後に自由党を創設する板垣は結構”ご都合主義”が目立つようです(党利党略に流れやすい民権派の特徴が早くも伺われます)
1874 7 台湾出兵
自由民権運動

民撰議院設立建白書、”有司専制”批判
人はなし(話し)合いの民撰議院。

板垣の愛国公党→立志社(片岡健吉)→愛国社
佐賀の乱(江藤新平)
いやな士族の反乱、佐賀の乱
政府は欧米視察でアジア”未開・野蛮観を強め”脱亜入欧”によるアジアのリーダー化を目指す
政府は西欧に”富国強兵”のモデルを求め、
自由民権派は”自由と民主主義”のモデルを求めた
歴史的必然とはいえ、ともに欧米から進歩史観に立った”侵略主義””優越主義”をも学ぶ結果になった(欧米近代文明信仰)
1875 8 木戸孝允、台湾出兵に反対して下野
大阪会議(木戸派井上馨の活躍で大久保政府&板垣・木戸)の妥協  愛国社解散
  立憲政府樹立の詔
  元老院(憲法草案を作成)・大審院・
    地方官会議を約束
   一方で弾圧立法(讒謗律・新聞条例)
いやなご法度、言論統制!
江華島事件
千島樺太交換条約(対ロシア)
いやなこうかん(交換)!千島と樺太
”台湾出兵”
@”富国”と”強兵”の合体
A征韓論争で内治優先で協調した大久保・木戸の離反(薩長対立)
B対清開戦強硬論(黒田清隆等)薩摩派からも孤立した大久保
C大久保の対清交渉で戦争は回避されると木戸と板垣が接近して、大阪会議にに結実(弾圧立法と引き替えに立憲制樹立第一歩)
しかし早晩この提携は崩れた
D”江華島事件”勃発
台湾をめぐる日中対立に一応の終止符を打った明治政府は、一転韓国に強きに出る、”砲艦外交”で通商条約(江華島条約)を成立せしめ”外征論”に一応の終止符、”征韓論””台湾出兵”に反対した木戸も対韓強硬論に転換(ここら当たり木戸にはやはり神経症的部分が有ったのでしょうか?)
35年後、韓国併合に繋がる韓国進出第1歩
清国・韓国を沈静化した大久保の全盛が始まる(開発独裁、薩摩・外征派及び長州・憲法派は目標を失う)
大久保利通、恐らく日本史最高の宰相、謹言無比・冷血剛胆
”内務省 に集められて新政府の国務をこなす気鋭の若い官僚たちが、大久保利通のコツコツと廊下を歩く 靴音が聞こえると、一同、開いていた口を固く閉じ、顔面を蒼白にさせて机上の職務に集中した と言う”(司馬遼太郎)
1876 9 秩禄処分(金禄公債証書公布)、廃刀令、国立銀行条例改正(兌換停止)
士族の反乱
敬神党(神風連)の乱 熊本・大田黒伴雄
秋月の乱  宮崎車之助
萩の乱  前原一誠
日朝修好条規(親日派・閔妃と親清派・大院君の対立へ)
1877 10 西南戦争→インフレ
*(いやな内)乱西南戦争*

立志社建白
学制反対一揆(義務教育反対)
血税一揆、地租改正反対一揆
インフレで余裕の出来た豪農が豪農民権主張
西郷隆盛の反乱
薩摩の”外征派”が西郷を戴き明治政府に対する”内戦”に打って出る
”征韓論”が西南戦争直接の原因とは思えません
では何が西郷を立ち上がらせたのでしょうか?
維新に於いて”合従連衡論”を説き、あれほど知略に富んだ英雄西郷は西南戦争では、殆ど戦略も立てず配下のなすがまま、大久保の挑発に易々乗って兵を挙げたのは何故か?
勿論腐敗多き現政権に対する失望、革命の主体であった”武士”を自己否定する政府に対する鬱屈の情も有ったでしょうが、よく解りません
西郷は武人であり思想家ですが官僚でも政治家でもありません
維新という大業を成し遂げた後、もはや生涯の目標を見失ってしまったのでしょうか
漢がなすべき仕事を見いだせない目標喪失と焦燥、”虚無の感情”など、およそ西郷に似つかわしくも有りませんが、すでに戦場で死ぬ事を願っていたのでしょうか
本当に”謎”ですが、”弟子のために情死した”と言う勝海舟の言葉が当たっているように思います
「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」(増田宗太郎)
西南戦争の勝利により大久保を中心とする政府は”議会派””憲法派”に続いて”強兵派”の鎮圧にも成功した
大久保の”開発独裁”、”富国派”全盛の時代が到来したが、”富国”を掲げる政府に思わぬ陥穽(財政と国際収支の赤字)が待っていた
1877 露土戦争後ベルリン会議で南下政策を阻止され、東アジアに進出(警戒したイギリスが日本に接近)
1878 11 三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の地方行政改変)が裏目に出て豪農が反政府運動に加わる
  郡区町村編成法
  府県会規則
  地方税規則 
大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)
  大隈重信・伊藤博文・井上馨の三頭政治
西郷の死の直前木戸も死に、翌年には大久保も凶弾に倒れる
大久保の後を受けたのは伊藤博文を筆頭に井上馨・大隈重信
福沢諭吉・加藤弘之・森有礼の明六社は啓蒙運動
1879 12 琉球が沖縄県に

独墺(オーストリア=ハンガリー)同盟
西南戦争のツケ、猛烈なインフレーション
@西南戦争中からの政府の財政方針は不換紙幣の発行や起業公債の発行などインフレ志向、ところが税収は”地租”金納固定制(好景気でかえって税収が目減りする制度)、当然の結果として”財政赤字”
A対外的信用失墜から円の信用低下、輸入品価格の急騰
1880 13 愛国公党は国会期成同盟と改称
国会期成同盟←愛国社
政府は集会条例で弾圧
国会期成同盟は板垣らの士族民権と河野広中を中心とする農民民権に勢力2分
(士族民権の理論武装”行政権は今の政府が握り、政党が議会を握る拒否権型議会”、政策立案での官僚主体と政党の党利党略主義を用意した)
1881 14 明治十四年政変
開拓使官有物払下げ(黒田清輝→五代友厚)事件露 見して
 大蔵卿・大隈重信罷免→立憲改進党
国会開設の勅諭
*人はハイと答える国会で*

板垣は自由党、福地源一郎は立憲帝政党を結成

松方財政  大隈に代わった大蔵卿・松方正義の緊縮デフレ財政
大隈・福沢(インフレを維持しながら上からの国会開設、議院内閣制)対伊藤博文・松方正義(松方のデフレ策、井上毅の憲法論)
井上の憲法論はデフレ下の農民民権運動を抑制するため、内閣を政党の外に置き、内閣を議会の上に置き(超然主義、国務大臣単独責任制)更に貴族院(非選の華族・元勲で構成)に予算否決権を与える事で減税要求に対抗しようとした、すでに大日本憲法(1889年公布)の骨子を明示していた)
伊藤・井上ら保守派は板垣ら士族急進派との間に行政権強化、立法権強化の棲み分けを成立させ、大隈・福沢らのリバラル派が追い落とされたのが明治14年政変

明治14年政変
明治23年に国会開設を約束する一方
伊藤は大隈を解任、福沢門下生を官職から追放
松方正義を大蔵卿としてインフレに立ち向かうデフレ政策に政策転換(米価下落)
板垣は自由党(豪農が支持基盤)、大隈は立憲改進党(スポンサーは三菱)を結党
政府は三井閥を後ろ盾に自由党を切り崩す
板垣は外遊を引き替えに戦線離脱、
板垣の裏切りに中江兆民・馬場竜緒が自民党脱党

伊藤らのデフレ政策と保守的憲法論は結果的に”富国派”を退場せしめ、”強兵派”を復権せしめた
参謀本部長・山県有朋の”清国脅威論”
1882 15 インフレ退治のため国立銀行から紙幣発行権を奪い
中央銀行・日本銀行創設、銀兌換券発行
*日本銀行、言わばにちぎん(日銀)

特殊銀行・横浜正金銀行設立
官営事業払下げ推進、内務省から農商務省分離
デフレで農民の経済が破壊、高利貸や大地主に土地が集中(寄生地主制成立)
朝鮮 壬午事変(大院君の反乱、日本の対応に閔妃も反感)
立憲改進党結成
集会条例発布
政府(ドイツ流立憲君主制)
自由党(フランス流急進的改革志向)
立憲改進党(イギリス流穏健的議会制民主主義)
1883 16 渋沢栄一の大阪紡績会社
鹿鳴館開館(井上馨の欧化主義外交)
1884 17 デフレ下、農民の生活窮迫から貧農層が蜂起
 群馬事件、加波山事件、秩父事件
人ははよ(早よ)逃げ、秩父事件

 (深刻な不況下、農民・自由党員らが困民党を結成、高利貸・警察・役場を襲撃、各地で反乱を起こす、激化事件)
板垣の自由党は解散、大隈は立憲憲政党を脱党(民権運動は盛下がり)
福島県令・三島通庸の抑圧政策に侠客・田代栄助が秩父困民党を結成
農民を率いて蜂起、加波山に立てこもって監察を襲撃
板垣は”革命軍”を名乗る民衆運動に恐れをなして自由党解党
(松方デフレで支持基盤である地主層の財布が窮迫、資金難も有ったのでは?)
兎に角 不況と農民蜂起の中で自由民権運動は停止状態
山県有朋を起用して民権激派を鎮圧した伊藤は内閣制度を設置
大規模な行政整理で官僚支配を強める
1885 18 伊藤博文@ 内閣制度制定、伊藤博文初代内閣総理大臣(藩閥政府のの民党に対する超然主義)
天津条約(朝鮮半島をめぐって伊藤博文・李鴻章全権間の条約)
大阪事件(大井憲太郎)
1886 19 北海道庁設置
北海道旧土人保護法(アイヌに対して農民化を強制する同化政策)アイヌ文化振興法は1997年
一方沖縄は旧慣温存策(自由民権運動を指導した謝花昇を弾圧)
1887 20 政府は保安条例で急進派(士族民権派)を弾圧
「人ははなせ(離せ)」と保安条例!
大同団結運動、三大事件建白運動
 (星亨、後藤象二郎)
言論集会の自由・地租軽減・外交失敗回復を主張
@自由党解党、立憲改進党休業状態の中で
運動の対象を蘇峰の言う”田舎紳士”に置いた漸進派
Aイギリス型二大政党制による政権獲得を目指したが、第1回普選で敗北

後藤象二郎は政府に入閣して自由民権運動は分裂衰退
民権派は三大事件建白運動(言論の自由・地租軽減・外交回復)
政府は保安条例公布・新聞紙条例・出版条例改悪、中江兆民等を左派を弾圧
一方、改進党・大隈や自由党・後藤象二郎を内閣に取り込み、民権運動は分裂壊滅状態

伊藤博文=山県有朋の政治
@憲法審議のため枢密院設置
民権派の要求に押されたと言うより、民権抑圧のための憲法
内閣は天皇が任命、天皇にのみ責任を持つ、陸海軍は天皇に直属
かようなプロシャ型欽定大日本憲法発布
A制限選挙

直接国税15円以上を納める25才以上の男子即ち地主のみに選挙権
第1回議会では民党(旧自由党の立憲自由党と立憲改進党)が吏党(政府党)を上回ったが
天皇(実質は元勲仲間内)にのみ責任を持つ政府は議会を考慮する必要もなく
”超然”強権で臨む
B天皇神格化のため軍人勅諭、教育勅語
C条約改正を目的とした”鹿鳴館文化”も効なく、改正交渉は難航したが
ロシアの南下を恐れる英国との間に通商航海条約締結の目処が立つや
山県は朝鮮を”利益線”として干渉、朝鮮への帝国主義的進出を目論む
朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)を奇貨として、日・清が軍事進出
英国の暗黙の了解を得て清国軍艦に奇襲攻撃
日清戦争の勃発である

文人:北村透谷・二葉亭四迷・徳富蘇峰・森鴎外
1888 21 黒田清隆 ”超然内閣”を宣言
黒田清隆
箱館戦争の指揮を執った、大久保亡き後薩摩閥重鎮
北海道開拓使時代、39万の官有物を1400万で払い下げ、私腹を肥やし、大隈の批判を受けるや14年政変で復讐
”酒乱癖”は有名、木戸孝允に縛られたとか、諫める井上馨をピストルで脅したとか、酒に酔って女房を殺したのを川路利良がもみ消したとか、いやはや凄い人だ
1889 22 大日本帝国憲法発布
*いち早く大日本憲法発布 *
大日本帝国憲法
 元老院の日本国憲按は廃案に
 民間の私案
  私擬憲法案(交詢社)日本憲法見込案(立志社)東洋大日本国国憲按(榎木枝盛)
 1882年  伊藤博文、憲法調査のためドイツにわたる
   ドイツ流欽定憲法
   ベルリン大グナイスト、ウイーン大シュタインに学ぶ
  帰国後制度取調局を設け井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治らを集める
  お雇いドイツ人 ロエスレル、モッセ
 皇室の藩屏
  華族令  公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵→貴族院の母体
 内閣制度(太政官制の廃止、1885年)
  天皇の宮中(私)と府中(公)を分ける
   宮内省を内閣から分離独立
   宮中に内大臣府を設置
   天皇の諮問機関・枢密院
  工部省廃止
 1889年 大日本帝国憲法発布
   万世一系の天皇、天皇は神・国家元首・立憲君主
   天皇は緊急勅令権(立法権)を持つ
   天皇は陸海軍を統帥する 統帥機関・参謀本部(後に海軍は軍令部)が代行
   (内閣に軍事指揮権はない)
   天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む(内閣が輔弼)
   天皇は宣戦布告、条約締結の決定権を持つ
   臣民の義務に背かざる限り信教の自由、法律の範囲内で
    思想・信条の自由、出版・結社の自由を有する
   帝国議会は貴族院(天皇が任命)・衆議院の二院制
   国務各大臣は個別に天皇に対して責任を負う
   天皇の名による司法権
   予算は先に衆議院に提出するが、貴族院に拒否権
1889 山県有朋@ 皇室典範制定
1890 23 衆議院議員選挙法(制限選挙)
民法制定  ボアソナード指導のフランス流
 民法典論争  反対論  穂積八束
           賛成論  梅謙次郎
市町村・府県郡制が制定され中央集権的地方自治制が成立
沖縄では府県制1909年、衆議院議員選挙法1912年
第一回普選と帝国議会開会(藩閥政府と民党の対立)
 再興自由党+改進党が過半数を占める
綿糸生産量が輸入量を超える


議会は非選・特権階級の貴族院と地租を払う地主から選出された衆議院
他に天皇の諮問機関・枢密院有り
1891 24 松方正義@ 大津事件(シベリア鉄道起工式出席に訪日したロシア皇太子・後のニコラス二世を暗殺未遂)
人はくいいる(食い入る)大津事件!

第2回普選で政府は激しい選挙干渉
結局、松方は選挙干渉で退陣
1892 25 伊藤博文A 政府の戦費拡張政策と民党(自由党・改進党)の”政費節減・民力休養”が激しく対立
議会は膠着状態で、両者は天皇に仲裁を求める
”和協の詔勅”は喧嘩両成敗だったが、伊藤は自由党と接近
伊藤博文系官僚は自由党と”大連立”(政友会へ)
保守系山県有朋系官僚・軍部と改進党が結んだ立憲同志会(→憲政会→立憲民政党)との二大政党制時代を導く
後の話であるが、政友会は伊藤・西園寺から平民宰相・原敬が後を継ぎ
保守系の山県・桂太郎の後を継いだ立憲民政党・浜口雄幸より保守的な政党となるのは皮肉である
1893 26 日本郵船 ボンベイ航路開設
1894 27 戸主権の強いドイツ流に修正された民法が施行
(刑法は1882年にすでに施行されていた)
日英通商航海条約(ロシア南下を恐れるイギリスが歩み寄り)
陸奥宗光の条約改正(領事裁判権撤廃)
朝鮮で東学党の乱、朝鮮への支配権をめぐって
日清戦争始まる
*人は苦しむ日清戦争*

器械製糸が座繰製糸を上回る
 手紡ぎ→ガラ紡(臥雲辰致)→
 ミュール紡織機→リング紡織機
日清戦争の勝利
国民全般が戦勝に酔った
福沢諭吉・内村鑑三・幸徳秋水までが勝利を言祝いだ
賠償金2億テール、台湾割譲
だがロシア・フランス・ドイツが”三国干渉”
遼東半島の日本割譲に待ったをかける
以後 日本とロシアの対立が先鋭化
”平民主義”を説いていた徳富蘇峰が”帝国主義”に転向
各政党は一斉に政府の戦争政策に支持表明巨額の軍事費予算に協賛、挙国一致体制となる
しかし費やされた戦費と台湾保守のための費用がインフレそして戦後恐慌をもたらした

田中正造の足尾鉱毒弾劾演説を皮切りに、農民運動やジャーナリズムの政府批判が高まる
内村鑑三・幸徳秋水の万朝報、二六新報、東京毎日新聞
社会主義研究会(片山潜・幸徳秋水・安部磯雄)
労働者懇親会
普通選挙運動の展開
近代的労働者・社会主義運動の萌芽である

武断派・山県は治安警察法発布して辞任、伊藤内閣へ
伊藤博文は立憲政友会(原敬)を結成して憲政党(旧自由党)抱き込みを図る(憲政本部からも尾崎行雄が参加)

選挙法改正で有権者は二倍増(記名投票)桂内閣成立

日露協商を唱える伊藤に対し
山県・桂は三国干渉以来の仮想敵国ロシアに対抗するために日英同盟を推進

幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三らは万朝報を去り平民新聞を創刊非戦を唱えたが
世論は好戦論に傾いていった
条約改正
条約改正の目標
 領事裁判権撤廃
 関税自主権獲得
 片務的最恵国待遇解消
1871年 岩倉遣外使節団の予備交渉  米欧回覧実記(久米邦武)
寺島宗則外務卿 税権回復交渉
井上馨外務卿  鹿鳴館外交(コンドルの設計・欧化主義の象徴)で一括交渉
外国からの要求
 内地雑居
 外国人判事任用 政府は容認するが、反政府運動(大同団結運動、三大事件建白運動)誘発、
  ノルマントン事件、井上馨辞任
大隈重信外相
 大審院に限って外国人判事を認めようとするが反撃をくう、玄洋社・来島恒喜の襲撃で失脚
青木周蔵外相
 外国人判事任用を退けたが、大津事件勃発 大審院長・児島惟謙が”司法権独立”を固守して辞任
榎本武揚外相
1894年 青木周蔵の働きで陸奥宗光外相 日英通商航海条約締結
 領事裁判権撤廃、内地雑居容認
 国民協会・立憲改進党など対外硬派が反対
1911年 小村寿太郎がアメリカ以下第2次改正 関税自主権回復 
日清戦争
1871年(M4) 日清修好条約(伊達宗城・李鴻章)
  琉球漁民台湾漂着事件
1872年(M5) 琉球藩誕生(藩主尚泰) 
1873年(M6) 西郷隆盛他の征韓論(李氏朝鮮の海禁政策に開国を迫る)
1874年(M7) 西郷従道の台湾出兵(琉球漁民台湾漂着事件が口実、独立王国琉球を日本に組み込む琉球処分)
1875年(M8) 江華島事件を口実に朝鮮に攻め入る
   樺太(ザハリン)・千島(クリル諸島)交換条約(黒田清隆・榎本武揚)
1876年(M9) 日朝修好条規で不平等条約を押しつける
   (清の宗主権を否定させ無関税特権、領事裁判権を認めさす)
   勿論 清国は認めず
   李氏朝鮮の経済混乱
1879年(M12)沖縄県設置
1882年(M15)国王・高宗の父・大院君がクーデター壬午事変(1882年)を起こすが清国が鎮圧、大院君を引き取る
  実権者である外戚・閔氏(親日派)対大院君(親清派)
  クーデターで日本公使館も被害を受けたとして日本は賠償請求(済物浦条約)
  結果朝鮮政府は清国に接近、反日的になる
  朝鮮国内部の対立
    事大党  現政権(外戚・閔氏)・保守的・親清派
    独立党  反政府・改革的・親日派
1884年(M17)
  日本は利益線政策で独立党クーデター(甲申事変、金玉均・朴泳孝)を支援
  しかし クーデターは又も清に鎮圧される
1885年(M18)福沢諭吉が脱亜論で中国・朝鮮侵略も辞さぬ論をはる
  天津条約(伊藤博文・李鴻章)朝鮮国に軍隊を派遣する場合は事前通告とする
1889年 防穀令事件 朝鮮が飢饉を理由に穀物輸出を禁止したことに対し賠償を要求
1894年 東学党の乱(甲午農民戦争)日清両国の軍隊派遣
  時あたかも、日英通商航海条約交渉妥結(駐英公使・青木周蔵)、
  壬午農民戦争騒動は収まるも、外相・陸奥宗光は
  ”どのような工作をしても戦争に持ち込め”と朝鮮公使・大鳥圭介に打電(蹇々録)
  挑発に乗る朝鮮・清国→清国救援軍と豊島沖で開戦(日清戦争勃発)
  平壌・旅順占領、遼東半島制圧、黄海海戦、威海衛で北洋艦隊殲滅、日本の圧勝
1895年 下関条約(伊藤博文・李鴻章)
  清国は朝鮮への宗主権を放棄
  遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲
  賠償金2億両
  重慶・沙市・蘇州・杭州開港
  三国(露・仏・独)干渉
  台湾総督府 初代総督・樺山資紀  抵抗する台湾民主国独立運動
1895 28 下関条約(清は朝鮮との属国関係を解消、遼東半島・台湾・澎湖諸島割譲、2億両の賠償金→日本は後の軍拡と経済基盤の充実に多大な寄与を得る、金本位制確立)
三国干渉(遼東半島を清国に返還)
  遼東半島が日本領になれば露の南下政策に支障
  (逆に遼東半島・朝鮮は日本の生命線)
  →ロシアとロシアよりの独・仏が干渉   
1896 29 松方正義A 日清戦争勝利(莫大な賠償金で”富国強兵策”の勝利に期待)を受けて自由党(板垣・星亨)は”民力休養”から”積極政策”に方向転換
進歩党(改進党)と国民協会はもともと対外硬派、政府は三国干渉への批判をかわすため、大隈を外相に取り込む
1897 30 綿糸輸出量が輸入量を超える
八幡製鉄所設立
金本位制確立(それまでは金銀複本位制)
軽工業から重工業へ
1898 31 伊藤博文B
大隈重信@(憲政党)
山県有朋A
大隈重信、板垣退助らと憲政党を結成、日本初の薩長藩閥でない政党内閣を組閣(隈板内閣) 日清戦争の”賠償金”は軍拡に充当、積極政策(主として鉄道拡張費)のためには地租増税を必要とした
鉄道は欲しいが増税に応じたくない農村地主達の支持政党は分裂、鉄道誘致に傾く者は自由党、増税反対に拘る者は進歩党を支持
与党的立場を鮮明にして地租増税を容認する自由党は参政権を独占する地主層の反発を買い敗北、伊藤内閣も増税案も否決され退陣
自由党と進歩党は合同して憲政党を結成、隅板内閣(初の政党内閣)が成立
しかし即刻両派のポスト争いで板垣・憲政党と大隈・憲政本党に分裂
憲政党は山県2次内閣(積極政策・地租増徴)を支持、総裁星亨は伊藤を首班とする立憲政友会への道を用意する
1900 33 伊藤博文C
(立憲政友会)
清の義和団の乱を契機とする北清事変で列強と共に清に介入
→北京議定書、ロシアが満州全域を支配→満韓交換論、日英同盟論   
伊藤博文は憲政党(中心は旧自由党)を継承して立憲政友会を結成、原敬に繋がる万年与党路線を結実
1901 34 桂太郎@ 日英同盟締結
1901年〜1913年、陸軍・山県閥の桂太郎と立憲政友会・西園寺公望が交互に政権
後には財政難、陸軍の非協力で大正政変を招き、1913年、海軍重鎮・藩閥の山本権兵衛へ(政友会が与党) 
堺利彦らによって日本社会党が創設されたが、ただちに結社禁止処分
堺・大杉栄・荒畑寒村らが逮捕された
社会主義は”冬の時代”へ

日露戦争は兵力を小作農や労働者が負担、財力を農村地主が負担する”総力戦”だった
巨額な戦費を内外債と特別増税で賄ったが一文賠償金も取れなかった事に対する民衆不満をどう乗り切るか
政友会・原敬は反政府国民運動に加担しない条件として政権への参加を山県閥・桂太郎に迫る
桂(山県閥、軍・官僚が支持)と西園寺(立憲政友会)が交互に政権を担当する桂園時代が始まる
桂園時代の政友会党運営は豪腕・原敬の官民調和路線
米価騰貴と鉄道国有化のおかげで政友会は他党を圧倒

日露戦争以前、有権者(地主・地方名望家)の要求は地租軽減だった
しかし日露戦争を画期に地主層の要求は鉄道敷設等”地方利益”に変化
その変化を巧妙に読み取り農村を集票機構に組織したのが政友会・原敬
地方ばかりか、貴族院・官僚層にも取り入り協力を取り付けた政治手腕は一応見事であったと言えよう
1904 37 日露戦争始まる
 一戦、これより日露戦争!


日露戦争の原因
@ロシアの南下政策
(不凍港を求めての地中海進出を英仏に妨げられたロシアは満州から朝鮮半島に覇権を求めようとしていた)
A日清戦争で清国から朝鮮をもぎ取ったが、”三国干渉”で遼東半島への利権を奪われた日本は、朝鮮半島の維持更には満州への進出にロシアの南下が最大の障壁だった
Bすでに中国にも巨大な利権を持つ先発帝国主義国・英国はアフリカ・中近東で後発ドイツと対立しており、日本の手でロシアの中国進出を阻む必要があった
後発アメリカもロシア撤退後の中国進出を狙っていた

日露戦争の勝因
@老朽化した帝政ロシアの腐敗・戦意喪失
A英国の金銭的・物資的援助
日本はこの戦争に全力投入、政府は戦費増大に耐え難くルーズベルト和平斡旋を依頼する

05年ウィッテ・小村寿太郎の講和調印
(米セオドア・ルーズベルト大統領の仲介、ポーツマス条約)
しかし国民は戦果の無さに講和条約破棄を訴えて暴走(日比谷焼打事件)

内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦らが非戦・反戦論

戦勝で日本は列強の仲間入り(同じ新興国・米国は警戒)
  朝鮮への外交・財政の指導権を得た
  (しかし高宗は諸外国に日本の駆逐を訴える)
  ロシアの矛先はバルカン半島に転じ
  ドイツと英仏との対立が深まる
戦後の不況で
  三井・三菱・住友・安田等財閥(持株会社)が誕生
日清戦争から日英同盟、日露戦争への流れ

日清戦争後、列強の中国分割
 ドイツ  膠州湾(山東半島)
 ロシア  旅順・大連(遼東半島)
 イギリス 九竜半島、威海衛(山東半島)
 フランス 広州湾
 日本   台湾  福建省の不割譲を認めさす

アメリカのジョン・ヘイは門戸開放・機会均等を主張

         
1895年 閔妃暗殺(朝鮮公使・三浦梧郎が主導)
   逆に朝鮮はロシアよりを強める
1897年 李氏朝鮮は大日本帝国に対抗して大韓帝国に改名、ロシアに接近
   朝鮮半島、中国東北部はロシアの支配下に→日本の危機

日露協商論(満韓交換の妥協策)  伊藤博文・井上馨
日英同盟論(日露戦争を想定)   山県有朋・桂太郎・小村寿太郎

1900年  中国で義和団事件(北清事変)
 8カ国北京派兵(日・英・米・仏・露・独・伊・オーストリア)
 ロシアが中国東北部を実質占領
1902年 日英同盟締結
  清国・朝鮮での日英利益を守る
  日英が他国(ロシア)と戦争になった場合一方は厳正中立
  日英が複数国と戦争になれば英国は日本に助成、共同戦線
1904年 日露戦争勃発
  万朝報
  非戦論 内村鑑三
  反戦論 幸徳秋水・堺利彦 
   万朝報社長・黒岩涙香が主戦論に転向
   秋水・堺は万朝報を辞し平民社結成、平民新聞発行
  開戦論 七博士意見(戸水寛人) 対露同志会(近衛篤麿)
  日韓議定書(日露戦争開戦直後に大韓帝国政府に戦争協力を強要)
  第1次日韓協約(財政・外交の顧問派遣)
1905年
  旅順攻防戦、奉天大会戦、日本海海戦(東郷平八郎VSバルチック艦隊)
  戦勝するが18億の出費で財政難
  桂・タフト協定  アメリカはフィリピン、日本は韓国の植民地支配を認める
  第2次日英同盟 同盟を強化、韓国支配権を英国も認める
  セオドア・ルーズベルトの仲介でポーツマス会議(小村寿太郎VSウィッテ)
   韓国に対して日本の主導権
   旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道経営権を日本に譲渡
   樺太南半分(北緯50度以南)を日本に割譲
   沿海州及びカムチャッカの漁業権を日本に譲渡
  第2次日韓協約(日韓保護条約、韓国保護条約) 
   在東京外務省で韓国外交権を奪う
   京城に総監府(伊藤博文)
  ロシアへの賠償金を求めた大衆の日比谷焼打事件

日本の韓国支配・中国進出の歴史が始まるが、米英は黙認した
(代わりに米国に対してはフィリピン支配権、英国の対してはインド支配権を黙認)

文人:志賀直哉・有島武郎・武者小路実篤・夏目漱石
満州経営と韓国併合
1905年 韓国併合にむけて伊藤自ら韓国総監に
1906年 遼東の租借地(関東州)に関東都督府設置
   南満州鉄道株式会社発足(後藤新平)、鉄道国有法制定
   日米関係悪化(米ハリマンの満鉄資本参加を拒否)   
   日本人学童排斥事件、日米紳士協定で米国移民の自主規制
1907年 日露協商(日露の接近、満蒙利権を米から守ろうとする意図)
   ハーグ密使事件 ハーグ万国平和会議に韓国皇帝が密使を送る
   第3次日韓協約 韓国の内政権を奪い、韓国軍隊を解散させる
1909年 伊藤博文ハルピンで韓国独立運動の安重根に暗殺される
1910年 韓国併合条約で大韓帝国消滅
   統監府は朝鮮総督府に改名(初代総督・寺内正毅)
   憲兵政治(軍人が警察官を兼ねる)で朝鮮人の権利自由を侵害
   土地調査事業で土地を没収、国策会社・東洋拓殖会社が最大巨大な寄生地主になる
   天皇暗殺計画(大逆事件)と大弾圧
1911年 第3次日英同盟 同盟の後退(米の意向で効力の対象からアメリカを外す)
1905 38 ポーツマス条約(日本は満州・朝鮮への利権を得たが賠償金を貰えなかったので民衆が反発、日比谷焼打ち事件が起こる)
第2次日韓協約で韓国保護国化(統監府設置)
順調に見えた桂園政治(官民協調路線での殖産強兵策)も明治末年にかけてアキレス腱が見えてくる
@大正初年にかけての”閥族打破・憲政擁護”運動(第1次憲政擁護運動)
A農村地主の離反・都市商工業者の不満(減税要求)
B陸海軍の軍拡要求(陸軍はロシア、海軍はアメリカを仮想敵と規定)
1906 39 西園寺公望@(立憲政友会) 鉄道国有法・南満州鉄道発足、満州に関東都督府設置 桂太郎(山県の一番弟子)と西園寺公望(伊藤博文の弟子となった公家・政友会総裁・後には元老として宰相を選任、近衛文麿を寵愛)
1907 40 日英露仏四国協定
韓国はハーグ密使事件で日本支配(保護国化)に抵抗したが列強は無視
1908 41 桂太郎A
1909 42 綿布輸出量が輸入量を超える
生糸輸出量世界1位へ
1910 43 韓国併合、朝鮮総督府設置
人苦渋の韓国併合。 
大逆事件(幸徳秋水)
1911 44 西園寺公望A(立憲政友会) 日米新通商航海条約調印(小村寿太郎、関税自主権完全回復)

明治天皇崩じる
外相の推移
70年代 岩倉具視・寺島宗則、
80年代 井上馨・大蔵重信
90年代 青木周蔵・陸奥宗光、1911年 小村寿太郎