大久保利通と西郷隆盛

参考 坂野潤治 西郷隆盛と明治維新
   “人物 日本の歴史 新政の演出”
   海音寺潮五郎  西郷と大久保
   Web 西郷隆盛の生涯(http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai.htm

大久保(1830年生)と西郷(1828年生)はともに薩摩加治屋町の下級武士(御小姓組)の家に生まれた幼少の頃からの遊び仲間であった
加治屋町は下級武士ばかりが集まった屋敷町だが、大久保・西郷・大山巌・村田新八・東郷平八郎・黒木為驍ネど大人物が輩出した
一概に薩摩・長州・佐賀・土佐・会津等維新に活躍した藩は子弟の教育に熱心であったが、なかでも薩摩藩の独特の“郷中教育”は有名であり、年長者(ニセ)が年少者(稚児)を文武両道徹底的に鍛錬、忠孝仁義・質実剛健の精神を植え付けた
西郷はじめ薩摩人の並はずれた郷土愛・同族意識はこの“郷中教育”による所が大きい
1949年、側室の子・久光を寵愛する斉興に斉彬派(改革派)がクーデターを興したが失敗(お由羅騒動)大久保・西郷ら若者は “精忠組”を結成、藩政改革の時を待った
1951年、幕府主席老中・阿部正弘は開明派の斉彬を後援、斉興を引退せしめ斉彬が藩主に、改革派・精忠組が浮上、大久保・西郷らが斉彬の寵愛を受ける
開明藩主・斉彬は殖産興業に尽力、また松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝とともに一橋慶喜を後継将軍に推挙して幕政改革を目指した
特に西郷を徒目付に起用、各藩周旋に奔走せしめる(慶喜擁立活動の密命を受けた青年西郷は水戸藩と交わり藤田東湖に傾倒、この頃は大久保より西郷が重用され活躍した)
1857年、阿部正弘の急死、井伊大老就任、井伊は慶喜を排して徳川慶福を継嗣に決定、アメリカの開国通商圧力に日米修好通商条約調印、開明派を安政の大獄で弾圧
1858年、斉彬の急死、反斉彬の久光を後見とする忠義の後継に絶望した西郷は勤王僧・月照と投身自殺を図るが助かって奄美大島に遠島
精忠組は尊王攘夷に急進するが、首領格・大久保は逆に久光(藩主・忠義の父としての実権者)に接近して着々と力を蓄える
西郷に終生付きまとう“韜晦傾向”に対し、大久保は“偉くならなければ何事も出来ない”と変幻自在の現実主義でもって常に権力の中枢に有ろうとした、すでに二人の行く末が暗示される様である
大久保の献策か久光は“公武合体論”を提唱して保守首脳部を更迭、改革派登用に転じる
1862年、久光=大久保は京へ出兵、保守派・過激派双方排除に動く(慶喜を後見職・松平慶永を政事総裁職につけて幕政を固める一方、寺田屋での精忠組他過激派を斬殺)
久光に新体制樹立のため召還されていた西郷であったが、久光の命に反して京に走り過激派と通じて勤王クーデターを興そうとして失敗、久光の逆鱗に触れまたもや遠島、今度は徳之島から沖永良部島の牢獄に送られる
1863年、久光の京都出兵は意に反した結果を招く、帰途に偶発した“生麦事件”で開国論急先鋒の薩摩が英国人を殺傷して“薩英戦争”勃発、“攘夷”の先陣を切る結果になった
薩摩の失態に京は尊攘派が覇権を握り長州・土佐の発言力が増大
しかし、窮地大久保の活躍が目覚ましい(薩英戦争の経験は後の戊辰戦争・西南戦争にも生かされた、内政家・大久保はやはり戦争指揮に於いてもしたたかな才能を発揮)
薩英戦争の総指揮官・大久保は英国から要求された賠償金を幕府に肩代わりさせ、逆に薩英同盟にこぎ着ける
更に大久保は薩英戦争を戦い抜いた威信を背景に、四国連合艦隊による下関砲撃で痛手を負った長州や土佐の山内容堂(公武合体派)が実権回復した状況の下、過激派を嫌う孝明天皇の密勅を得て、会津・松平容保と組み軍事クーデター、京から尊攘過激派を追い落とす(1863年8.18の政変、七郷落ち、1864年禁門の変も長州敗退)
徳川慶喜・松平容保・山内容堂・伊達宗城・島津久光らの“参与会議”の設置は“公武合体”論の結晶であるかに見えた
しかし所詮寄り合い所帯、慶喜は幕府威信回復のため突如攘夷に燃え、間もなく“参与会議”は瓦解
久光はもはや“公武合多のではない、“俺が行けばきっと殺されるだろうから、それを口実に兵を挙げろ”、彼らお得意の“挑発”ではないか、“征韓は武士の失業対策”と言う論もある、それ程に理屈が通らない“征韓”である、もとより信念のために身を挺する事を厭わない西郷だが韓国こそ迷惑な話でないか)
欧米諸国の資本主義的発展を目の当たりにした渡欧帰国組は留守政府の無謀振りに驚愕
“内政優先・対外進出時期尚早”と猛反対(留守家族の内政はまずまずだった、条約改正ままならず帰国した渡欧組の嫉妬もあったろう)
大久保は征韓論争で人事不省になった太政大臣・三条に代えて岩倉を代理に立て“征韓論”を粉砕、西郷はじめ桐野利明ら西郷派陸軍幹部、土佐の板垣・後藤、肥前の江藤・副島らは下野帰郷、薩長土肥の連携が崩れ、西郷・大久保の対立が決定的となる
大久保の専制
@ 大久保は初代内務卿に就任、大隈大蔵卿・伊藤工務卿を従え、中央官僚を育て文明開化・殖産興業に挺身
A 1873年、地租改正令・徴兵令施行
B 1874〜76年、江藤新平・佐賀の乱、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱等不平士族の暴発を果敢に鎮圧
C 1874年、台湾漂着の日本漁民虐殺を契機とした“台湾出兵”では自ら北京に乗り込み交渉、賠償金を支払わせる
D 1875年、江華島事件で日朝衝突(76年日朝修好条規へ)
E そして1877年、ついに西郷が立ち上がった“西南戦争”
確かに大久保は謹厳冷酷な“専制政治家”であった
大久保の罪状として
@ “精忠派”への裏切り
A 将軍徳川慶喜の追放
B “公武合体”派への裏切り
C 会津攻め、会津藩を激寒の不毛地・斗南(青森)に移封
D 酷薄とも言える江藤新平処刑(司法卿として山県有朋、井上馨の腐敗に立ち向かった江藤を自ら捕縛・晒し首に処刑)
E 革命の無二の同志、西郷党撃滅
“内務省 に集められて新政府の国務をこなす気鋭の若い官僚たちが、大久保利通のコツコツと廊下を歩く 靴音が聞こえると、一同、開いていた口を固く閉じ、顔面を蒼白にさせて机上の職務に集中した ”と言う
あまり上司にしたくない人だが、時代認識、新時代に懸ける情熱、実行力ともに傑出した人物である、彼の専制が日本近代化の礎を作り上げた事は疑いない

大久保はどうやら謀略をもって西郷を強引に反政府に立ち上がらしめたフシもある
確かに西郷は“私学校”と言う名で“私兵”を貯え盟主と仰がれ、藩外の人間を容易に寄せ付けなかった
西郷は薩摩の地に“武士”なかんずく薩摩武士を中心とする穢れ無き“西郷王国”を創り上げたかったのであろう
(坂野潤治先生は、西郷が議会制導入と封建制打破に尽力したと“西郷=アジア侵略主義者”説を論破されているが、ちょっと持ち上げすぎのような気がする)
軍人或いは政治家・官僚が地方に革新的“理想郷”を建設、その影響を中央に及ぼそうとした例は多い
満州の王城楽土を建設しようとした石原莞爾、朝鮮総督の伊藤博文、日中戦争以後軍部と組んだ革新官僚、戦後日本を統治したマッカーサーとその革新官僚達
国外に理想王国を創ろうとする試みは現地人にとっては侵略とみなされ、国内に創ろうとすれば中央集権国家が最も恐れる反政府の賊徒と見なされざるを得ない
しかし“高潔の人”西郷が中央政府転覆を企てていたとは思えない
私学校徒に捕らえられた密偵が大警視・川路利良に指示された西郷暗殺の計画を自白、私学校徒の激昂・暴発する
西郷やむなく将に担がれ立ち上がったが、何となく政府による作為・徴発のにおいがする(大久保の果断さから来る推定ではある)
何故あの西郷が大久保の挑発に乗り、自らは戦略も立てずに死を選んだのだろうか?
西郷は敬愛する配下に担がれ、殆ど戦略を立てる事もなく西南戦争に散る
“吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ”(増田宗太郎)
西郷は比類無き大度量・大至誠の人、誰もがその巨眼に引き込まれるように敬愛した
(と言っても、実質藩主・島津久光とはお互い憎み合い、西郷門下の大山厳や日本警察制度の父・川路利良などは大久保に付き、実弟・西郷従道さえ西郷と行いを共にしなかった。
誰もが惚れた訳ではない、“西郷好き”にとっては無上の魅力有る人だったのだろう)
しかし“少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く(竜馬評)”
大度量・大至誠に徹すれば、その巨体は“空洞=無”に通ずるのだろうか
長所であり短所、彼は周りによって良く学び周りによって生かされる人だった
島津斉彬・勝海舟・大久保利通・藤田東湖などの英傑が彼を創り上げた
彼ら有ってこそ西郷は大度量・大至誠を貫く事が出来た
しかし晩年彼を取り巻き担いだのは余りのも視野の狭い人たちだった
“大偉人”は“大賢者”と“大愚者”を生む
(環境適応力に勝れた強い人を賢人とする私の独断ではあるが)
“大賢者”からその余りにも過剰で求心的な情念と儒学的志操を否定された西郷は“大愚者”の輿に唯々諾々と乗らざるを得なかった
西郷ほどの知将が旧式兵備の私兵で政府軍に勝てると誤算したとも思えない
(もっとも戦術家としての西郷を批判する人も多い)
“自分に惚れてくりゅりゅ人達がどげんしても言うならこの身を捧げても良か”
勝海舟は“西郷は弟子のために情死した”と言う
西郷は“情”を通すため、自らを天に捧げた
1877年、西郷・城山に散る
翌1878年、大久保・紀尾井坂で暗殺さる