源平絵巻(1)   平清盛&源頼朝

 

平清盛(1118−81)  激情の統領

源氏隆盛の時代、白河法皇に取り入り着々とその勢力を固めた平正盛の嫡男。母は白河の愛妾祇園女御の妹と言われます。

保元の乱(1156)で後白河法皇方として勝利、乱後藤原信西と結んで昇進、平治の乱(1159)で源義朝を破り参議、武家として初めて公卿に列す。

その細かい心遣いで院政期政界を遊泳、後白河の引き立てを得ながら 平家一門の総師として内大臣、太政大臣まで上り詰めました。

     

後白河とも共通する革新的合理主義・現実主義は兵庫を築港し日宋貿易で巨富を得る。更に娘盛子を摂政藤原基実の妻とし、基実亡き後はその遺領を横領。その手は皇室にも及びます。娘徳子を高倉天皇(清盛の妻時子の妹滋子と後白河の子)に入内せしめます。

平家頭領として一門で官位を独占せしめ、知行国・荘園を集積巨大な政治的、経済的権力を築き上げた才覚とエネルギー。

一方とどまる所知らぬ勢力の拡大は後白河並びその近臣の警戒心を招き 次第次第にその協調関係は崩れる事になります。

太政大臣の地位は名誉職と言っても良く、清盛は自らその職を辞して出家する。

徳子出産の折 清盛は“こはいかにせん、こはいかにせん”とうろたえ 後白河は自ら修法にたつ。娘と嫁に寄せる共通の思いを見せたかに見えたが束の間であった。

愛孫(徳子の子、高倉の皇太子=安徳)が障子に穴をあけると、清盛は更に大きな穴をあけさせ、はらはら落涙し 家臣にこの障子を大切にしまっておくよう命ずる。愛孫に見せた清盛の老耄とも言える好々爺ぶりも清盛です。

辞官と出家で自由を手にした清盛は激しい権力者に変貌する。今や あの明るく“あなたこなた”に愛嬌を振りまいた若き清盛の面影はない。

鹿が谷謀議事件を契機に清盛・後白河の対立は決定的になりました。

後白河は反平家の筆頭関白藤原基房に接近、一方清盛は盛子の義理の子近衛基通と結び、娘寛子を妻に与えます。

治承3年ついに清盛は立ち上がる。

基房を罷免、基通を関白に任命、法皇を鳥羽殿に幽閉する。

“何故に王は私をそして早逝した我が子重盛を哀れみ下さらないのか?何故ないがしろに出来るのか、我が子重盛は貴方のために私を責め諌死したのでないか“年老いた清盛の後白河に寄せる恨み辛み、落涙とともに下る激しい怒り、自分に楯突き諌死した我が子重盛への哀惜が痛ましい。

激情する清盛は院政をとどめ自ら独裁者の位に駆け上ります。

高倉天皇は3歳の安徳天皇に皇位を譲り、清盛は天皇の外祖父になる。名実ともに平家政権は確立する。

立ち塞がる物へのとどめよう無き破戒への衝動、人生の終局を前にしての焦燥。

法皇幽閉、福原還都の強行は反平家の機運を決定的にする。

1180年5月後白河の皇子以人王は平氏打倒の兵を挙げ、伊豆に頼朝、木曽に義仲が蜂起する。

混乱の中でやがて清盛は熱病に倒れます。

体に水をかけると焼け石に水を注ぐ如く飛び散り炎となって燃え上がる焦熱地獄。

“保元・平治以来栄華の生涯に思い残すところは何もないが頼朝の首を見なかった事だけが残念である。死後の供養は要らぬ。頼朝の首を墓前に供える事こそ供養と思え”

1181年2月4日“悶絶へき地して遂にあっち死にぞ し給いける”

救いのない妄執の中での壮絶な死こそ武人清盛に相応しいと申せましょう。

救いがたい悪人かも知れませんが 余りにも巨大な才気、余りにも激しいエネルギーを持った男の終末。

中世に幕を開いた“猛き者”の“亡び”。64歳の生涯だった。

 

源頼朝(1147―99)  使い捨て精神の権化

源義朝の3男、父とともに13歳で平治の乱(義朝、藤原信頼連合のクーデター)に初陣。父は政敵清盛に敗れ暗殺、頼朝は清盛の義母池禅尼の哀願で一命を助けられ伊豆蛭が小島に流されます。

20年の流人生活でしたが源氏の嫡流としてそれなりに恵まれた青春時代、北条時政の娘政子と結ばれますが 他にも結構女性スキャンダルが多かったようです。

時は公家階級に癒着した平氏清盛政権に対する不満が漸く巻き起こり(以人王・源頼政蜂起)、武士階級の源氏の嫡流頼朝に懸ける期待も膨れ上がって参ります。“武士による武士のための国家建設”。

頼朝自身は今ある小市民的生活棄てがたく逡巡しますが 身辺にも平家の不穏な動きが迫ります。

やむなく怪僧 文覚の勧めに乗った形で 1180年、ついに伊豆韮山で挙兵します。石橋山に破れ命からがら安房に逃亡。

しかし頼朝は人心収攬術にすぐれています。敗戦を物ともしない気迫で平氏に不満を持つ三浦・千葉など関東武士の取り込みに成功、鎌倉入り。勇猛な板東武者達は頼朝に直結、戦陣に功を競います。富士川の戦いで平惟盛を破り東国支配。

木曽義仲入洛後、後白河との不和を見るや後白河と密約、義経を遣って義仲を討たしめます。義経は引き続き平氏を一ノ谷、屋島、壇ノ浦に沈めます。その間頼朝は鎌倉にあって公文所・門注所を設置武士政権樹立に向かって体制を固めます。

頼朝はそれ程戦上手では有りません。石橋山の敗戦以来 直接戦陣に臨む事もなく遙か後方の司令官です。

ただその人心収攬の妙、機微を見る戦術眼、兵站への心配りは天才的です。中央政権につかず離れず耐える事、待つ事を知り機熟すれば一気に攻め入る政治家です。

清盛・義仲に翻弄された都人の目から見て頼朝は非常に立派に頼もしく見えました。

しかし義経らの働きで権力を確立した頼朝の性格は大きく変わります。清盛が権力を確立して変貌したように。

文覚をして“頼朝にも受領神がついた、受領のように傲慢権柄づくになった”と言わせます。

用済みになった弟 義経、範頼を敝履の如く殺害します。そして義経追捕を口実に全国に守護・地頭を設置さらには義経を匿った陸奥藤原政権を討滅します。京の政権はそのままに武士達の夢見た鎌倉政権がついに確立したのです。

 “平家の子孫は一つ子二つ子を残さず、腹の内を開けて見ずというばかりに尋ねとつて失いてんぎ”

“諸国に守護を置き、庄園に地頭を補せらる。一毛ばかりも隠るべき様なかりけり”

無一物から独裁者へ、絶対的服従無くば独裁専制はもろい物です。その危うさを頼朝自身が誰よりも自覚していたのでしょう。猜疑心深く 平家を根絶やしにするばかりか 罪無い肉親を死に追いやり 佐竹・甲斐源氏等一族を抹殺、加えて旗揚げ時の盟友上総介広常さえだまし討ちにします。血で購う絶対的服従、権力者の冷徹なまなざし。

頼朝の再三の上洛と脅し。かっては自らの用心棒程度に見なしていた武士が権力を掌握した時如何に恐ろしい存在に転化するか知り抜いていた後白河は頼朝が望んだ最高の位をついに与える事無く没します。

後白河没後、九条兼実の計らいで頼朝は念願の征夷大将軍の地位を得ます。

宮廷に距離を置く事で政権を確立した頼朝も武士最高位を手中にしてからは 清盛同様天皇の外戚になる欲望抑えがたく娘大姫入内の企てにとらわれます。結果 盟友兼実をも棄てる事になります。

政治家頼朝については もっと研究せねばなりません。幕府を確立、戦乱の世に束の間の平安をもたらした功績も大です。

冷酷非情、謀略・暴力は政治の本質かも知れません。それでも私が頼朝を好きになれないのは私の政治嫌いのなせる所かも知れません。“使い捨て精神の権化”頼朝、余りにも酷薄、孤高の存在に思えます。

引き続き 後白河法皇、平家御曹司、源氏の勇者など源平の英雄達を見ていく予定です。 (続く)

[参考文献]

上横手雅敬  源平争乱と平家物語   角川選書

上横手雅敬  平家物語の虚構と真実  塙 新書

人物探訪 日本の歴史3 平氏と源氏  暁教育図書

永井路子    北条政子                 文春文庫

永井路子    つわものの賦               文春文庫

新編日本古典文学全集(45)(46)           小学館   

[リンク]  年表と系図を作成しようと思いましたがwebに立派な物が有りますので遠慮しました。

http://www.scn-net.ne.jp/~kuroneko/heike/nenpyou.html 黒猫庵 平家探訪

http://www.scn-net.ne.jp/~kuroneko/heike/characters.html 平家物語登場人物と家系図 より

http://www.e-kyoto.net/sanpo/rekishi/b10/nen1.htm 京都歴史マップ 人名辞典有り

http://www.asahi-net.or.jp/~ed6t-hmc/ 平家物語の世界