世界の歴史 2
  
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中国の歴史
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西アジア・アフリカ
ブラック・アフリア


中国の歴史

中国史の流れ『中国歴史年表』王朝・都・皇帝の一覧表覧表 | Yattoke! ? 小・中学生の学習サイトより

王朝 皇帝(王)
BC. 陽城
2100
1600 殷(商) 湯王
紂王
1027 (西周) 鎬京(西安) 武王
770 秋時代 東周  落邑 平王
(洛陽)
子嬰
桓公
襄公
文公
繆公
荘王
景公
昭公
夫差
勾踐
403 国時代
感陽 政(始皇帝)
221 始皇帝
胡亥
202 (前漢) 長安 高祖(劉邦)
A.D.8 王莽
23 後漢 洛陽 光武帝(劉秀)
57 明帝
184 少帝
220 国時代 曹丕
221 成都 劉備
222 南京 孫権
265 晋(西晋) 洛陽 武帝(司馬炎)
304 西晋 恵帝
316 胡十六国時代 漢(前趙) 平陽 劉聡
317 東晋 建康 元帝
351 前秦 洛陽 苻健
384 後秦 長安 太祖(姚萇)
386 北魏 長安 拓跋珪
420 建康 武帝劉裕
439 北朝時代 北魏 平城 太武帝
479 建康 高帝
502 建康 武帝
534 東魏 長安 孝静帝
557 建康 武帝
557 北周 長安 孝閔帝
581 文帝(楊堅)
589
604 煬帝
618 高祖(李淵)
626 太宗
690 則天武后
755 玄宗
907 代十国時代 梁(後梁) 開封 朱全忠
960 (北宋) 開封 太祖(趙匡胤)
1115 北宋 阿骨打
1127 南宋 高宗(趙構)
1234 蒙古 チンギス・ハン
1271
北京 世祖 (フビライ・ハン)
1279
1368 南京 洪武帝(朱元璋)
1421 北京 永楽帝
1616 金(後金) 興京 ヌルハチ
1636 瀋陽 太宗(ホンタイジ)
1644 北京 順治帝
1735 乾隆帝
1840 宣帝
1894 光緒帝
1912 宣統帝(溥儀)


古代の中国

 

伝説の王朝

三皇五帝  五帝最期は舜→夏王朝(禹から桀)

長江文明  照葉樹林、水稲栽培

黄河文明  乾燥地で農耕に最適、主に雑穀

仰韶ヤンシャオ文化(BC5000-4000,彩陶)→竜山ロンシャン文化(BC2000-1500、黒陶、三足土器)

村落→邑(都市国家)

(商を首都に邑を統括、邑を連合した邑制国家、亀甲文字、神政政治、青銅器文明、                     目次に戻る

紂王の暴政で周に)

  首都鎬京(コウケイ、現西安付近)

 封建制  諸侯(郷・大夫・士)に封土(邑)を授与、その見返りに軍役・貢納を得る

王の一族と功臣を封じて(血縁を媒介にした分権)世襲諸侯とする封建制をしき長く続いたが、

農業・商工業の発達とともに、周王の統制もゆるみ諸侯の力が強くなった

(血縁を補った宗法・宗族)

 農業生産力の発展→治水灌漑、鉄器使用→都市国家から領域国家へ

 商工業の発展、貨幣の使用(布銭、青銅器)

 氏族共同体が解体して家族単位の農業

春秋時代                                                           目次に戻る

 北方から犬戎族侵入

都を鎬京(今の西安近辺)から洛邑(今の洛陽近辺)に東遷  西周→東周(春秋時代BC770-403年、

春秋五覇  斉の桓公 晋の文公 楚の荘王 呉王夫差 越王勾践

戦国時代(BC403-AD221)                                 目次に戻る

  403年 晋の家来が 韓 魏 趙 に独立

周王は完璧に実権を失い、諸侯が中国統一をめぐって実力本位の抗争

戦国7雄(秦楚燕斉韓魏趙)から抜きん出たのが秦、統一王朝を創設(勝因は数々の治水灌漑事業にあったとされる)

春秋戦国時代〜諸国分立の時代〜【勢力図・地図・年表】 (chugokugo-script.net)






  首都咸陽

 孝公に仕えた商鞅  変法の改革  郡県制(諸侯の権力を奪い、中央から派遣される官僚が徴税徴兵

   人物本位の人材登用、家族単位の農耕奨励、什伍の制(相互監視システム)

子百家  思想乱立の背景に春秋戦国の争乱状態                               目次に戻る

  儒家 孔子 周の封建制を理想、氏族共同体の崩壊から仁(家族道徳、修身斉家治国平天下)

  孟子(性善説、徳治主義、易姓革命説)荀子(性悪説、礼治主義)

  ?子(差別無き愛・兼愛、非攻、相互扶助の交利)

  法家(韓非子、李斯)道家(老子・荘子、無為自然)

  兵家(孫子・呉子)

  陰陽家(鄒衍)

  縦横家(戦国策、蘇秦・合従策対張儀・連衡策

 

秦の始皇帝 皇帝とは世界の支配者  

BC221年 秦の国王 政 が中国を統一、始皇帝を名乗り、商鞅の政策を継ぎ中央集権 首都長安

始皇帝の事跡  郡県制の全国化、

思想統制(反儒家、焚書坑儒)

経済統一 度量衡・通貨(半両銭)・文字(小篆ショウテン)・車幅の統一

  政治機構 丞相(呂不韋リョフイ→法家の李斯)大尉(軍事担当)、御史大夫(ギョシタイフ、官吏の監察)

 対外政策 匈奴討伐(蒙恬将軍、オルドス地方奪還)万里の長城、南方侵略(3郡設置)

治世15年にして始皇帝の死→陳勝・呉広の農民反乱

項羽・劉邦(農民の出、人望よく軍を統制、略奪を許さなかった、)の激突

BC202年垓下の戦いで劉邦の勝利、

 

劉邦・を起こす(高祖)  *廟号ビョウゴウ祖・宗、諡号シゴウ帝                                                目次に戻る

 秦の滅亡に学び急な中央集権を避けて郡国制(皇帝直轄地に郡県制、それ以外一族功臣に封建制)

 匈奴は冒頓単于ボクトツゼンウの時代

BC154年 諸侯・諸王の反乱、呉楚7国の乱 景帝鎮圧して郡県制が全国化

前漢7代の武帝  中央集権的統一・大帝国完成、将軍 衛青・霍去病

張騫を西域・大月氏に派遣交渉、匈奴を駆逐、敦煌郡他河西4郡設置、交易路シルクロード開発

李広利をフェルナガ(大宛)に派遣(汗血馬を得るため)

南方は南海郡・日南郡など9郡設置ヴェトナム北部まで支配、南シナ海の南海貿易の拠

衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡他4郡設置

内政

国家が商売、塩・鉄・酒の専売

均輸法(特産物を税として納めさせ転売)平準法(低価格物資を買い上げ、高騰を待って転売)

儒学の官学化(董仲舒の献策)五経博士設置

漢字漢文を完成させ、“史記”等歴史書も遺した

農民は重税・兵役に窮乏、放棄された土地→買い占める大土地所有者→地方豪族の成長

郷挙里選(地方長官が官僚候補者を推薦する制度)→豪族の介入→豪族の中央政界進出

豪族の伸張で中央集権体制に緩み→外戚・宦官の権力伸張

外戚・王莽が新を建国、周礼の復活を唱えるも、農民反乱・赤眉の乱に滅ぼされる

河南の豪族・劉秀、赤眉の乱を鎮圧して後漢設立(光武帝)AD25年、首都洛陽

中央集権力は弱く、豪族の連合政権

AD57年倭が国使、金印“漢委奴国王”を授与される(後漢書東夷伝)

和帝の時代、西域都護・班超は部下の甘英をローマ帝国(大秦国)に派遣したが失敗

別途シルクロードを通じて

ローマ帝国と通商、仏教・イスラム科学等を導入、

逆に製紙法(蔡倫の発明?)を伝える等東西文化交流に貢献

後漢の衰退原因

@豪族勢力の伸張

A宦官や外戚の専横

B農民反乱

184年黄巾の乱 首領・張角(太平道)五斗米道の乱 首領・張陵

C軍閥の伸張  董卓の乱

→大豪族割拠→三国時代“三国志演義”曹操・曹丕の魏(華北・洛陽)劉備の蜀(四川・成都)孫権の(江南・建業)

AD208年 赤壁の戦い 魏(曹操)・蜀(劉備)・呉(孫権)

 

 曹操―曹丕(後漢・献帝から禅譲され文帝)

屯田制,

九品中正(中正官の推薦による官吏登用→豪族の皇帝の権威を背後とする門閥貴族化

 邪馬台国・卑弥呼が使者

 劉備玄徳  諸葛孔明  出師の表

263年 魏が蜀を滅ぼし→265年 司馬炎がクーデター(放伐)で魏を滅ぼし晋(西晋)建国

→280年 晋が呉を滅ぼし統一

 占田・課田法で豪族による大土地所有を制限→豪族の挙兵・八王の乱

→永嘉の乱(匈奴の劉淵・劉聡が洛陽・長安占領、漢建国→316年晋滅亡、残党が江南に東晋建国

五胡十六国時代(304年匈奴の漢建国〜439年北魏による統一)                      目次に戻る

異民族の乱入  五胡(匈奴,鮮卑、羯ケツ及びチベット系?テイ、羌キョウ)

4世紀前秦(苻堅)が一時的に華北統一の動き有るも東晋に阻まれる(?水の戦い)

華北の農業生産力低下、農民・豪族貴族の江南移住

仏教が広まる(西域から仏図澄・鳩摩羅什)

北魏(鮮卑族・拓跋圭)による華北統一

南北朝時代                               目次に戻る

北朝  北魏→西魏・東魏、北周・北斉

南朝  宋、斉、梁、陳

北魏 太武帝(道教で華北統一、仏教弾圧)首都平城

  孝文帝  均田制(農民を定着させ課税を確保するため)奴婢耕牛にも給田(豪族層への妥協)

        多民族の漢民族にすり寄って漢化政策(胡服・胡語の禁止)首都を洛陽に

        廃仏政策を転換、純中国風の竜門石窟寺院造営(雲崗石窟寺院はグプタ・ガンダーラ様式)

北方鮮卑族の反乱・六鎭の乱→西魏、東魏の分裂→それぞれ北周、北斉に取って代わられる

一方江南は

東晋 首都建康(南京)建国者は司馬睿、北朝に比べ皇帝権が弱く貴族社会

仏教・老荘思想が受け入れられ、儒学は沈滞

陶淵明・王羲之・杜甫・法顕ホッケン

東晋滅びて南朝

宋 土断法、倭の五王朝貢(冊封―朝貢した諸国に官職や爵位を与えて統治を承認)

斉 

梁 文選(四六駢儷体、昭明太子)

陳 589年隋に滅ぼされる

 

西晋滅亡以来270年振りに南北統一したのは(文帝・楊堅が建国、前身は北周、都は長安近くの大興)                    目次に戻る

均田制を継承したが、耕牛・奴婢・女性への給田停止、1859歳男子のみ

科挙による官吏登用(進士・秀才・明経科)

2代 煬帝 

揚子江と黄河を結ぶ大運河(北京-杭州)を建設  三大都市、大興(後の長安)・洛陽・開封

北方民族・突厥を監視、ツングース系高句麗を3度攻めるが失敗→随の衰退

 

の成立と拡大                                      目次に戻る

618-907年 初代皇帝 李淵(高祖)2代目李世民(太宗、貞観の治)3代目高宗

統治機構 三省六部 

中書省(国会)門下省(最高裁判所、門閥貴族の牙城、封駁特権)尚書省(傘下に六部を持つ行政機構)

六部(兵部・工部・刑部・吏部・財政戸籍管理の戸部・科挙を実施する礼部)

御史台(行政管理)

地方行政は州県制(道・州・県)重要都市には府を設置

法体系  律(刑法)令(行政法・民法)、格(勅令)、式(律令施行細則)

農民支配 均田制(死後返却義務の口分田、世襲を認めた永業田

 税 租(生産物)庸(中央が挑発する役、地方官庁への雑徭ゾウヨウ)

 府兵制(西魏で始まった兵農一致義務)地方の監督機関・折衝府、首都防衛の衛士、辺境警備の防人

律令国家体制の完備と文化経済は周辺東アジア諸国(新羅・渤海・日本・ウイグル・チベット・南詔・大理・大越国等)を取りまとめ・模範となった

西域のオアシス国家、西突厥、高句麗等征服

周辺諸国家を統治するため六都護府・二都護府を設置(中央から軍兵を率いて派遣された役員)

羈縻キビ政策(現地首長にある程度自治を委ねる)

朝貢と冊封(渤海・新羅・南詔等)家人の礼により結ばれる突厥・ウイグル等

 他に朝貢だけの吐蕃、日本、スマトラ・カンボジャ・ヴェトナムの一部

衰退滅亡への道

武(高宗の皇后・則天武后、中宗を廃絶した武周革命)韋(中宗の皇后・韋后)の禍

武韋の混乱を収拾したのが玄宗(開元の治)

 文化的には盛唐の時代(杜甫・李白・王維など)

一方 商業の発達→農民間の貧富格差拡大→農民逃亡

→荘園(貴族、道教寺院・寺観の私有地)増大と農民の小作化(佃戸)

→均田制・租庸調制・府兵制実施の困難

→楊炎の税制改革  両税法(現住所主義、土地所有の大小に応じて課税、夏秋2期課税)

 塩の専売

 募兵制と辺境警備隊長・節度使の派遣→節度使は地方軍閥化(藩鎮)

751年 タラス河畔の戦いでアッバース朝に敗れ西域から撤退

755年 節度使 安史の乱 (安禄山、史思明の乱)

玄宗、四川に脱出、ウイグル族に支援を仰ぐ→益々皇帝権弱体化、異民族勢力拡大

875年 農民反乱・黄巣の乱  塩の密売人・黄巣

907年 黄巣を裏切った節度使・朱全忠(朱温)によって唐は滅亡→

分裂と抗争の 五代十国時代 都は後唐の洛陽以外は開封、軍人・農民の反乱で門閥貴族没落

華北の五代 後梁(朱全忠)・後唐・後晋(石敬?)・後漢・後周 いずれも武人王朝

後周 仏教弾圧

主として江南の十国

  *三武一宗の法難 @北魏の太武帝446

               A北周の武帝574

               B唐の武宗845年   会昌の廃仏

               C後周の世宗955

 

頂点に立って統一した 趙匡胤(もと後周に仕えた武人が禅譲された) を建国960                 目次に戻る 

 新興の地主・形勢戸、科挙合格者を出した家・官戸が支援

宋の趙匡胤 節度使権限縮小して兵士達を皇帝直属の軍隊(禁軍)に再編成

首都開封 @武断政治から文治主義へA君主(皇帝)独裁、体制の強化

行政 尚書省→中書省、財務は三司、軍事は枢密院、いずれも長官は文官、シビリアンコントロール

科挙の整備 解試(州試)→省試→殿試、読書人(士太夫)

文治主義で官僚の中央集権国家を目指す

唐の滅亡以来、周辺民族の巨大化

1.モンゴレ系遊牧民族・契丹族の、耶律阿保機916年建国、926年ツングース系渤海征服

1004年 宋の真宗シンソウと?淵の盟センエンノメイ(歳幣を受けて兄弟の屈辱的契り)

→宋と金に挟撃され滅亡

→耶律大石、西走してトルコ系イスラム朝カラハン朝を滅ぼし西遼建国

*最初の征服王朝 自らの故地と民族的独自性をF維持しつつ中国本土も支配した王朝

@遼   根拠地はモンゴル高原   燕雲16州をも支配

A金     中国東北地方  中国華北地方をも支配

B元   モンゴル高原  中国全土をも支配

C清   中国東北地方  中国全土をも支配

遼 二重統治体制(遊牧民には部族単位の部族制、漢民族等農耕民には土地単位の州県制)

仏教隆盛 契丹文字

2.中国東北地方に興ったツングース系女真族(ジュルチン族)の金

ワンヤンアグダ1115年建国、1125年遼を滅ぼし1127年宋を滅ぼす 靖康の変

宋は皇帝・欽宗、上皇・徽宗が俘虜になり、皇女も拉致された、領地も華北大半を失った

金:都は燕京(現北京)二重統治体制、女真文字、王重陽の全真教(道教+儒教・仏教)紙幣(交鈔)乱発

猛安謀克制  300戸につき100人徴兵(1謀克ムゲ)10謀克=1猛安ミンガン

3.チベット系タングート族、李元昊リゲンコウが西夏建国1044年宋と慶暦の和約(歳幣を受けて臣下の礼)

11世紀 宋の衰退  周辺民族の乱入と官僚軍隊の給費で財政圧迫→重税で農民・小商人疲弊

王安石の新法(神宗の時代)

 富国策  青苗法・市易法で貧民救済、募役法で上層に課税、均輸法の復活

 強兵策  保甲法・保馬法で兵農一致の軍制

 司馬光(資治通鑑)・欧陽脩(新唐書)オウヨウシュウら旧法党の反発

1126年金が侵入して開封占領、欽宗・徽宗(上皇)は捕囚に

徽宗の息子・康王脱出して臨安(杭州)に南宋建国(高宗)

主戦派・岳飛を暗殺した和平派・秦檜  紹興の和約(金に臣下の礼、国境線は淮河)

南宋も1279年元のフビライハンに滅ぼされる(崕山の戦い)

宋代の経済・社会

 最期はモンゴル軍に滅亡させられたが、江南を中心に商工業と文化を発展、科挙制度、

華北を遼・金に圧迫されながら、宋銭・紙幣の貨幣制度、商業都市の発展、世界最大都市・臨安

@めざましい農業発展 特に金に追われて江南に移住した漢人の新田開発

 日照りの強い占城稲、二毛作・二期作、小作人(佃戸)茶・陶磁器(景徳鎮)生産

A都市の発達

 民営市場・草市→商業拠点・鎮・市→夜間営業、瓦市(盛り場)

 商人・手工業者の組合(行・作)

B貨幣経済 銅銭・紙幣(北宋の交子、南宋の会子)

C海外貿易  帆船(ジャンク船)、陶磁の道

 海の道(地中海〜紅海、ペルシャ湾、インド洋、南シナ海)季節風を利用してローマに通ずる道)

 広州・泉州・明州に市舶司(貿易管理機関)

 日本(平氏政権と日宋貿易)・朝鮮など私貿易の発展

 

モンゴル帝国、中国・ロシア・朝鮮・ミャンマー・イラン・イラクを支配下に置く空前絶後の大帝国が出現したのは

 強力な軍事力(厳しい自然環境に培われた強靱な肉体と最新兵器を持つ騎馬軍団は虐殺を厭わなかった)

怒濤の進撃、何故こんなに強かったのか?圧倒的な騎馬戦力をもって、強力な騎兵隊を持つイスラム勢力さえ下していった

1206年 クリスタル(族長会議)でチンギスがハンに(モンゴル帝国の成立)

軍事・行政の基礎単位・千戸制

チンギス・ハン   参謀・耶律楚材(遼の生き残り)

トルコ系クチュルクのナイマン部、セルジューク朝から自立のトルコ系イスラム王朝ホラズム、西夏を征服

3男にして後継者オゴタイ・ハン1234年 金を征服(中央アジアにオゴタイハン国、都エミール)

1241年 バトウがワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を下す→ジュチのキプチャク・ハン国

(モスクワ・キエフを含むヴォルガ河流域、都はサライ)

次男チャガタイは西トルキスタンにチャガタイハン国(都アルマリク)

末子トゥルイの子フビライハンは大理国、吐蕃、高麗を征服、1271朝を建てる(都は現北京の大都)             目次に戻る

オゴタイの子ハイドウと30年間の内戦を経て、フビライは中国農耕民支配に特化する

フビライの弟フラグはアッバース朝を滅ぼしイルハン国を建てる

フビライは1279年日本を攻略(元寇、文永の役)1279年ついに南宋を滅ぼし、1281年には2回目の日本攻略(弘安の役)

南宋・ビルマを滅ぼしたが、日本・ヴェトナム・ジャワの攻略は失敗

中央行政機構は中書省・枢密院・御史台と宋を倣う

地方行政は行中書省、大運河の補修、新運河建設、駅伝制整備、公用語はモンゴル語、ウイグル文字

モンゴル人第一主義

イラン・トルコ・ヨーロッパ人等を雑多な人種を色目人として、財務官僚等実務面で活用

南宋統治下の住民は南人と呼び、最下層に支配(蛮子マンズ)

その他かつての金の支配下住民、契丹人、女真人を含め漢人と呼んで南人の上に支配

科挙の廃止、目的を奪われたインテリ読書人は庶民文化に向かった

中国文化への劣等意識は完全に拭われ、東西交流が安定・安全化(タタールの平和)

千客万来の外国人、ヴェネツイァのマルコポーロ、モロッコのイブンパットゥータ

 そしてフランテェスコ派修道士 イタリアのプラノ・カルビニ、モンテ・コルヴィノ、仏のルブルック等

文化技術の交流 イスラム国から数学・天文学・暦・陶磁器の顔料、火薬・武器・印刷機等の技術は元からイスラム国を通してヨーロッパに

交易ルートは草原の道・オアシスの道・海の道が元の運河や沿岸航路に連結された

海上ルートの支配も目論み東南アジア諸国に侵攻するが失敗に終り、海上ルートの支配は出来なかった

元の滅亡 原因

 @交叉の乱発

 Aチベット仏教(ラマ教)への濫費で経済が混乱衰退に向かう

 最終的に農民反乱・白蓮教徒の乱(紅巾の乱)

 

1368年 朱元璋がを建国1368年(光武帝・太祖)                         目次に戻る

朱元璋 乞食同然の身から、急発展した長江流域の農業工業の経済力に支えられ、モンゴル人や彼らに協力する大地主層に不満を持つ中小地主勢力・農民の紅巾の乱の頭目となって各地で元軍を破り

明・久方ぶりの漢王朝を建国(洪武帝)  モンゴル風から漢民族文化の再興を目指した

 一世一元制、中書省を廃して六部を皇帝直属に、衛所制(軍戸を世襲・中央直結に)、大明律・大民令制定、流民には大地主から没収した土地を与えて救済

 里甲制(1里=100戸+10戸の甲首戸)で土地台帳(魚鱗図冊)・租税台帳(賦役黄冊)の整備等

改革断行の名君の側面、専制君主として恐るべき血の粛清を行った(官吏の監察・都察院、軍の統率・五軍都督府)余談ながら禿頭の朱元璋は“ハゲ”という言葉を狂的に嫌った

イデオロギーは朱子学を採用(朱熹、華夷の別を重んじる)

農民に道徳的六諭、兵制 衛所制、募兵制

3代永楽帝(成祖):

1399年甥の第2代建文帝を殺害、クーデター靖難の変

北京に遷都、モンゴル(オイラート族、タタール族)親征、万里の長城新設

鄭和(イスラム教徒の宦官)に南海大遠征を命じ、ペルシャ・アラビア半島まで交易権(朝貢貿易)とする(ヨーロッパの大航海時代より半世紀も前に)

宦官重用、東廠トウショウ(国家秘密警察)内閣大学士(皇帝の補佐機関)大編纂事業(永楽大典)

北虜(モンゴルのエセン・ハン、アルタン・ハン)南倭(倭寇)の外圧

農民反乱(ケ茂七の乱)

明の末期、万暦帝: 首相・張居正

ボハイの乱、豊臣秀吉李朝朝鮮侵略に援軍、播州の乱に戦費拡大

宮廷内党争、東林党(顧憲成)対非東林党(宦官・魏忠賢)

女真族の侵入、農民反乱・李自成の乱

異民族の清(満州族の後金が改名)の侵入に明の武将・呉三桂が寝反り清と組んで、

1644年明を滅亡させた李自成を破った

 

この事での中国支配が決定的になる                        目次に戻る

人口4億と言われる漢民族を100万程度の満州族が支配できたのは何故か?

“階級的矛盾は民族的矛盾より優先する”

 漢人の支配階級(主に地主官僚)が各地に頻発する農民・職工など民衆反乱の総決算とも言うべき李自成の乱を異民族の力も借りて自分たちの支配階級の地位(封建的諸関係)を守ろうとしたから

清:中国東北地方を拠点とするツングース系女真族の金は一旦滅んでバラバラになったが

1616年ハン位についたヌルハチが諸族を統一、後金を建国、民族名を女真から満州族に

1619年ミント戦って勝利(サルホの戦い)遼東地方を奪取

2代ホンタイジ(太宗)1636年国号を清とする。

内モンゴリア・チャハル部を領土に加え、異民族支配の役所蒙古衙門ガモン→理藩院を置く

ホンタイジ死の翌年、山海関将軍呉三桂の手引きで北京侵入

 明の崇禎帝を自殺に追い遣った李自成を撃破、清の第3代順治帝が中国皇帝につき、中国を統一

4代康熙帝の時  雲南(呉三桂)広東・福建の王が三藩の乱、康熙帝が鎮圧

同時に明の遺臣・鄭成功(反清復明を掲げる)の拠点台湾も平定

 ロマノフ朝ロシア・ピョートル1世とネルチンスク条約1689年で国境線を外興安嶺とする

 外モンゴルジュンガル部を撃退

5代雍正帝 ロシアとキャフタ条約で外モンゴル国境

軍機処設置、税制地丁銀

6代乾髓驕@

康熙帝・雍正帝に継ぎジュンガル部、ウイグルを攻撃、

中央アジア東部(東トルキスタン)を固める

田賦の減免・黄河の治水等、3代の名君である

藩部(周辺地域)の領土拡大、統括機関として理藩院整備

理藩院の統制下横の連携を断つ分割統治

中国本土・満州・台湾を@直轄地

A内外モンゴリア・青海・チベット・ネパール・東トルキスタン(新疆)を藩部

B更に李朝朝鮮・琉球王国・ビルマ・安南(ヴェトナム)・シャム(タイ)・西トルキスタン等を朝貢させ冊封

かような弾圧策で専制支配を貫徹しながら一方、漢人の官吏採用、科挙、漢人地主の保護など服従・協力すれば徳治をもって民衆統治の安定に努めた、

満州人30万で漢人他700倍の異邦人を300年あまり支配した秘策である

強攻策 文字の獄(雍正帝のインテリ・儒学者の思想弾圧)弁髪令

柔軟策 満漢併用制(満漢偶数官制(官吏を満州人・中国人同数採用)

軍政

 ヌルハチが創設した八旗軍(旗人には旗地が給与された)

 ホンタイジは蒙古八旗、漢人八旗(緑営)を編成

産業

農業生産の急拡大(稲作は長江下流・浙江から長江中流・湖広へ、下流では綿花・桑の生産から綿織物・絹織物)

製陶業(景徳鎮)元の時代からの青花(染付)技法、明の時代からの赤絵

明・清時代の海外貿易

ポルトガル マラッカ・マカオを拠点に日中貿易等仲介

スペイン アカプルコ・フィリピン・マニラを拠点にメキシコ銀と中国産絹織物・陶磁器等を貿易

税制

唐 租庸調制

唐中期780年〜明    均田制の破綻→両税法(人頭税・丁税と土地税)

16世紀後半(明・清)  一条鞭法で銀納一本化

清の地丁銀        丁税を廃して土地税(銀納又は銅貨換算)に一本化

貿易政策

明の海禁政策を改め勘合貿易(永楽帝・足利義満)

16世紀大航海時代の交易発展と共に後期倭寇(中国人の密貿易業者・海賊)が活発化

17世紀華僑の活躍(タイ・ヴェトナムの新田開発、ジャワの製陶業、マレー半島の錫鉱山など)

世界史ノート4 近代中国篇&中国論 に続く 

朝鮮史                                                           目次に戻る

衛氏朝鮮(前2世紀頃、秦から漢への移行期、大量に移住した中国人の力を背景に、現在の平常辺りに衛満が建国

BC108年 中国武帝が侵入、4郡設置して朝鮮支配

313年高句麗が中国勢力を追い払う、楽浪郡滅亡、広開土王時、新羅・百済(日本と提携)を圧迫

高句麗の南下に備え馬韓(→百済)辰韓(→新羅)弁韓の加羅諸国

新羅が唐と組んで660年百済(白村江の戦いで日本が加勢)・668年高句麗を滅ぼし(→大祚栄・渤海建国)、後には中国の干渉を嫌って朝鮮半島から排除, 676年初の朝鮮統一

首都金城(現慶州) 氏族(骨品)に基づく階級制度、仏教の興隆(各地に仏国寺建設)

唐に習って中央集権律令国家、民族文化を発展せしめたが

8世紀頃から貴族間権力闘争、抑圧隷民の反乱、918年王建が新羅を滅ぼして高麗王朝建国、

首都開城、仏教を国教として産業文化を発展、安定、高麗版大蔵経、金属活字、高麗青磁

後半両班・官吏・寺院の私的土地所有(荘園)が拡大、律令制が崩れ、同時に契丹女真モンゴル族の侵入(三別抄部隊が抵抗するも元の属国化、元は高麗の手引きで日本侵攻・文永・弘安の役)

倭寇等外圧抵抗功績有った李成桂が1392李氏朝鮮を開設

朱子学を採用、四代世宗によるハングル制定、銅活字、活版印刷等、

中央集権体制を強化して500年続いたが

16世紀末の豊臣秀吉の侵略(壬申丁酉の倭乱、李舜臣)もあって弱体化、丙子胡乱で清の従属となる

日本とは関係修復、朝鮮通信使を派遣

 

東南アジア史(〜18.19世紀)                                            目次に戻る

ヴェトナム北部

 ドンソン文化(青銅器・鉄器文化)、中国との関係が深い

 前漢武帝の日南部支配

 後漢光武帝の侵略(チュン姉妹の抵抗も虚しく支配下になり、後漢の南海貿易の拠点となる)

 後漢支配下、大秦国(ローマ)のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の使者を迎える

 唐 安南都護府を設置

 唐の滅亡後11世紀 ヴェトナム最初の統一王朝  李朝(大越)

 陳朝  13世紀元から攻撃されるも陳興道が撃退、民族文字・チュノム

 明の永楽帝が交趾郡を設置したが、追い払って黎朝、後には明の冊封を受け明の文化を導入

15世紀にはヴェトナム中南部にまで勢力を伸ばす、李朝以来農業開発に重点

18世紀西山等の乱で黎朝は西山朝に取って代わる

継いで阮朝・初代阮福映(仏の宣教師ビニョーが支援したが、ナポレオン3世にいたって侵攻

インドシナ半島のヴェトナム・ラオス・カンボジャを完全支配

ヴェトナム中南部

 2世紀〜  林邑朝→8世紀  環王→9世紀  占城

ラオス 14世紀半ば ラン・サン王国

カンボジャ  AD1C頃東南アジア最初の王国(港市国家連合) 扶南

*代表的港市群的国家(交易拠点) 林邑チャンバー・扶南他ビルマのピュー・タイのトヴァーラヴァティ・

  スマトラのシュリーヴィジャヤ

 6世紀真臘(クメール人、12世紀最盛期、アンコール朝)

タイ

 7世紀頃モン族が国家創建・ドヴァーラヴァティ

 13世紀 雲南を原住とするタイ人が元に追われて南下、インドシナ半島にスコータイ王朝創建

 最盛期カムヘン王の時代、タイ文字、上座部仏教が国教に

 14世紀アユタヤ朝 華僑、日本人町の活躍

 18世紀チャクリ朝(バンコク朝)  チュラロンコーン大王(ラーマ5世)の近代化政策

ビルマ

 港市国家ピュー

 11世紀ビルマ初の統一国家 パカン朝(元によって滅亡)

 トゥングー朝

 

 コンバウン朝(アラウンバヤー朝)アユタヤ朝タイを滅ぼすも、再三英国の侵略を受け

  1886年英領インド帝国の1州に編入

スマトラ

7世紀〜シュリーヴィジャヤ王国(海路義淨、陸路玄奘)

 首都バレンバン、唐・宋に朝貢、

大乗仏教(ジャワのマジャパヒト王国に支配下に入ってからはヒンドゥー圏)

ジャワ

 シャインレーンドラ朝  大乗仏教

 クディリ朝    インドの影響でヒンドゥー化、伝統芸能ワヤン

 シンガサリ朝  元のフビライに反抗して滅亡

 マジャバヒト朝  元軍を撃退、最期のヒンドゥー教国、14世紀後半全盛期

マラッカ

14世紀末マレー半島南端にマラッカ王国、イスラム教東南アジア前進基地

 明に朝貢して、鄭和遠征の前線基地になったが

 1511年ポルトガルに滅ぼされ、イスラム商人達はマラッカ海峡を避けてスンダ海峡を抜けて南シナ海に至る交易ルートを活用、結果スマトラ北端にアチェ王国、ジャワ西岸にバンテン王国、マタラム王国などのイスラム王国が発展した

   →17世紀に入ってオランダが侵略→1619年ジャワのバタヴィア(現ジャカルタ)1611年ポルトガルを破ってマラッカを占領→いずれも胡椒などオランダの商業地点として生き残ったが

   清や日本の貿易制限でヨーロッパ・アジア間の貿易が一時ほど振るわなくなり

   →ヨーロッパの東南アジア政策が転換

   商業拠点の確保を伴う商業重視策から

   ヨーロッパ市場の要求する物産を生産させるため土地支配政策(商業から植民地経営)へ転換

   19世紀の強制栽培制度(本国向け商品作物を耕地の5分の1に強制的に栽培させる制度)

 

.西アジア・アフリカ                                                     目次に戻る

アラーの下、人類平等を説くイスラム教

宗教共同体ウンマ,聖戦ジハードはアラブ人貧しさを救うための大征服戦争でもあった

750年イスラム帝国アッバース朝(アジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる)開設

 

.トルコ人のイスラム勢力

セルジューク帝国(1038-1571

モンゴル帝国・チムール帝国の支配を経て

オスマン帝国(1299-1922)が勢力拡大 バルカン半島からクリミアに及ぶ

メフメト2世  ビザンツ帝国攻略に着手、1453年滅亡(イスタンブールに改称)その後メソポタミア・シリア・エジプト(マムルーク朝)を攻略

スルタン=カリフ制をもってイスラム世界に君臨

スレイマン1世 ハンガリー北アフリカに神聖ローマ帝国ウイーンを包囲、最盛期

 

.ブラック・アフリ                              目次に戻る

ガーナ王国3世紀・マリー王国14世紀・ソンガイ王国15-16世紀等黒人王国が栄えたが、

16世紀に始まるヨ−ロッパ勢力の

侵入・奴隷貿易の略奪、それによって引き起こされた部族抗争で衰退滅亡