世界史ノート3  ヨーロッパ 中世から近代へ   

目次

中世ヨーロッパの形成  ゲルマン民族大移動

中世ヨーロッパの封建制度とは

ビザンツ帝国

字軍遠征と中世ヨーロッパの変質(封建貴族の衰退、北イタリア諸都市の繁栄へ

中世封建制の崩壊

中世封建制は何故衰退したか

発展する中世商業都市

  封建諸侯の弱体化、王権の伸張、市民層(都市商工業者)の成長

英・独・仏各国の動き(聖俗主導権の争い)

近代3大改革 大航海・ルネサンス・宗教改革

ルネサンス

大航海時代

宗教改革

主権国家体制 絶対王制の成立

  スペイン

  イギリス

  フランス

  ドイツ

  プロイセン

  オーストリア

  ロシア

  オランダ

絶対王制・絶対君主 まとめ

中世ヨーロッパの覇権争いまとめ

英仏壮絶な植民地獲得合戦

イギリスの経済覇権を可能にして産業革命を用意した

三角貿易

プランテーション

スペインの歴史年表

ハプスブルク家

中世ヨーロッパの形成(中世4.5世紀〜1000年間)  ゲルマン民族大移動         目次に戻る

ローマ帝国による統一的社会(地中海沿岸が中心)→分権的社会(今のフランス・ドイツが中心) 

ゲルマン民族の移動

(閉鎖的森林に居住していた)ゲルマン人が11世紀以降急激に開発された)ゲルマン人

(タキトゥスのガリア戦記に著わされた)古ゲルマン人(今のフランス)

 バルト海周辺を原住地、印欧語族の一派、先住のケルト人を追って南下、前1世紀頃にはライン川まで達しローマ帝国と接す(当初 ローマとの関係は下級官吏・コロヌス・傭兵になったり平和的だった)

 数10の部族国家(キヴィタス)に分かれ、首長・貴族は多数の自由民と主従関係を結ぶ従士制、その関係は相互に自由で隷属的で無かった

 王・首長・貴族は軍事上・宗教上の指揮者に止まり、重要な決定権は貴族と自由民の成年男子で構成する民会が持った(過酷な自然環境で食糧不足、戦争が絶えなかったが)

 牧畜・狩猟の他かなり進んだ農耕を営むが、土地は氏族社会の共有地、徐々に私有化

 4世紀後半アジア系フン族(匈奴の一部?)の侵入を切っ掛け(元々人口増加による食糧不足が原因だったが)に大移動(フン族によって東ゴート族征服、西ゴート族圧迫→西ゴートはローマ侵入、アドリアノープルの戦いでローマ軍を破る(その後のフン族は5世紀、アッティラ王がハンガリーに帝国を築いたがカタラウヌムの戦いで西ローマ・ゲルマン連合軍に破れる)

476年 西ローマ帝国滅亡(ゲルマンの傭兵隊長オドアケルによって)

*東ゲルマン部族

西ゴート イベリア半島でウマイア朝に滅ぼされる

東ゴート・ヴァンダル族  イタリアから北アフリカまで拠点を持ったが、6世紀半ばビザンツ帝国に滅ぼされる

ブルグンド族 今のフランス東南部に建国したが、6世紀フランク王国に滅ぼされる

ロンバルド族 ビザンツ帝国を破って北イタリアに建国

*西ゲルマン部族

アングロサクソン族 イギリス南部の建国

フランク族  ライン川東岸→キリスト教皇と提携して巨大化

一方 ローマカトリック教会(グレゴリウス1世)、モンテカシノ修道院(ベネディクトス)の布教活動

フランク王国

 クローヴィスのメロヴィング家が統一→アタナシウス派に改宗してローマ教会と融和(他のゲルマンはアリウス派)

宮宰カール・マルテルがトゥ−ル・ボワティエの戦いでウマイア朝を破りローマ教会の信用を得る

マルテルの息子・ビビン3世がクーデターでカロリング朝を開く

ビザンツ帝国(レオン3世が聖像禁止令を発布)と対抗関係、ロンバルト族の脅威にあっても武力の無いローマ教皇はカロリングを後押し、応えてビビンはロンバルト族を破ってラヴェンナ地方の土地を寄進(ローマ教皇領の始まり)

ビビンの息子・カール(大帝)現在の仏・独・北部伊を支配、各地に伯(管区長)を任命、巡察等行政能力を発揮、加えて神学等学術振興に努めラテン文化の復興に努めた(カロリング=ルネサンス)

 教皇レオ3世から西ローマ皇帝の帝位を授けられる(800年)フランク王国の支配者から西ヨーロッパ世界の支配者に(ビザンツ帝国から西ヨーロッパの自立

 ラテン(ローマ)文化・ローマ=カトリック・ゲルマン文化が融合した西ヨーロッパ文化の誕生

 カール大帝の孫によってフランク王国は3分割(後継者にとって余りに広すぎた、相続争い)

 ルイの東ローマ王国(後の神聖ローマ帝国・独)シャルルの西ローマ王国(仏)、

ロタールの子のイタリア王国(伊)  ヴェルダン条約・メルセン条約(ロタール王国の北部再分割)

当時の国王は戦時指導者(喧嘩が強ければ良し)

西フランク王国(仏)10世紀末カロリング家断絶→カペー朝(ユーグ・カペー)

中フランク王国(伊)イスラーム・ノルマン・マジャール・ビザンツ・東フランクの侵入

東フランク王国(独)911年カロリング断絶→選挙王制 ハインリヒ1世

→オットー1世 東方からのマジャール人を破り

962年ローマ教皇・ヨハネス12世から当ローマ皇帝の戴冠(神聖ローマ帝国、但し支配領域はドイツ)

その頃 北と西からノルマン人

(航海交易に勝れ、“入江の民ヴァイキング)

スエーデン・ノールウエー、デンマーク王国を建国、地中海にシチリア王国、

スラブのロシアにノブゴロイド王国・キエフ王国等を建国、

西フランクに入ってノルマンジー公国建国

イングランドではノルマンの一派デーン人がデーン朝を開いたが、アングロサクソンに滅ぼされたのを見て、ノルマンジー公国のウイリアムが、アングロサクソンを破ってノルマン朝を開く 

.中世ヨーロッパの封建制度                   目次に戻る

封建制度とは

契約による主従関係 主君は臣下に土地・荘園を与え、臣下は主君に忠誠を尽くす関係(外敵の侵入に対処)自給自足の荘園制を基礎とする地方分権社会

荘園  領主直営地・農民保有地。入会地

耕地  45mWX200mLの地条からなる開放耕地制、

アジアの比べ地質が痩せていたので、三圃制(春耕地・秋耕地・休耕地)

土地は農民付、農民(農奴)は家族・家畜・農具を持てたが領主に隷属し移住や職業を変えることは許されなかった(領主から借り受けた保有地の収穫で生計を維持、保有地の収穫からの貢納のほか人頭税・相続税・死亡税を課税され、領主の直営地での賦役義務を負った

領主は農奴・臣下を自由に支配でき(領主裁判権など経済外強制)、結婚の強制・結婚許可税・初夜権にまで及んだ

キリスト教会は領主からの土地を寄進され、広大な所領を持つ封建領主となり、それにともない教会・聖職者は腐敗堕落

西ヨーロッパ封建制度の起源

  ローマの恩貸地制(主君から土地使用権を貸与されるが、平和な時代故軍役義務は伴わなかった)

  ゲルマンの従士制(家臣は軍役義務、見返りは土地以外軍馬や武器も

8世紀フランク王国カロリング朝の時代に成立(内紛・外敵に騎士の確保に迫られた、徐々に世襲制へ)

中国周の封建制の主従が血縁によって結ばれているのに対し、西ヨーロッパのそれは総務的契約による

(一方に約定違反があれば主従関係を破棄できる)また(複数の主君を持ったり)重層的

不輸不入の権(インムニタス)諸侯は所領内の課税権・司法権を持ち国王(皇帝)の関与を拒める

諸侯(領主・貴族)の定義、武装して土地と農奴などの領民を支配している地方の実力者

分権的社会←森林に阻まれ交通が未発達

商業が振るわなかった、自給自足の現物経済

 

ビザンツ帝国               目次に戻る

最盛期の6世紀  ユスティアヌス帝の時代 イタリア・北アフリカ等地中海世界の再征服

  東ゴートやヴァンダル王国等ゲルマン国家も滅ぼす

  ローマ法大全編纂

ユスティアヌス死後帝国は縮小

 ロンバルト族にイアタリアを奪われ、バルカン半島にスラブ族が移動

 ブルガリア王国、ササーン朝ペルシャ等に囲まれ

 ラテン文化の要素が薄まり、ギリシャ文化の要素が強まる

(以後バルカン半島・小アジア半島中心の“ビザンツ帝国”)

7世紀ササーン朝ペルシャ・イスラム教徒とのシリア・エジプトの攻防で軍事的危機

ヘラクレイオス1世 軍管区制(テマ制) 各地区に軍団司令官を配置、屯田兵を養う

→自作農が増えたが10世紀以降司令官の自立傾向を強め、帝国分裂の原因となる

8世紀イスラム教徒のコンスタンティノープル攻撃、レオン3世が撃退

726年聖像禁止令の発布は西方ローマ教会と軋轢

1453年 オスマン帝国スルタン・メフメト2世に征服されビザンツ1000年の歴史を閉じる

(コンスタンティノープル→イスタンプル)

ビザンツ帝国と西ヨーロッパの比較

西ヨーロッパは政治的権力者皇帝と伝統的権威者教皇の二元支配

ビザンツは皇帝がギリシャ正教も支配する政治宗教の最高権力者(皇帝教皇主義)

一方商業貨幣経済が振るわなかった西欧に比べ、

コンスタンティノープルを中心に地中海貿易で栄えたビザンツ(ゲルマンも敬遠)

東欧諸国

9世紀モラヴィア王国(西スラブ系チェック人とスロヴァキア人)→10世紀マジャール人に滅ばされる

ベーメン(ボヘミア)王国(チェック人の生き残り)→11世紀神聖ローマ帝国に併合

10世紀ハンガリー王国(マジャール人)

10世紀西スラブ系ポーランド人建国→14世紀リトニア=ポーランド王国

他 バルカン半島に南スラブ系スロヴァキア人・クロアティア人、セルビア人

 

中世ヨーロッパの変質(11世紀後半以降、後期中世ヨーロッパ) 目次に戻る

封建的分権的社会が統一へ

経済  自給自足の現物経済→農業生産力の発展で余剰生産物→商業・都市の発展→貨幣経済へ

文化  キリスト教ラテン文化→地域独自の国民文化(イタリア・ルネッサンス)

十字軍の遠征  11世紀末から約200年間

ビザンツ帝国に対するセルジューク朝の圧迫→ビザンツ皇帝アレクシオス1世が西欧に救援依頼

1096年 仏クレルモン公会議ローマ教皇ウルパヌス2世 第1回遠征招集

遠征理由  11世紀中世農業革命で農業生産・人口拡大→外に向かって噴出

神聖ローマ帝国と叙任権闘争中のローマ教皇→統一教会への野心

各地の国王・封建諸侯の領土拡張野心

イベリア半島南下してイスラム教徒からレコンキスタ(国土回復運動)

北部ではドイツ騎士団先頭に東方植民運動

西アジアイスラム世界に十字軍展開

 

1096年 (陸路)第1回遠征   聖地イエルサレムをエジプト・ファーティマ朝から奪回

(植民国家イエルサレム王国樹立、

12世紀(陸海路)第3回遠征  英国王リチャード1世・独神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世

・仏国王フィリップ2世が参加(イスラム側はアイユーブ朝サラディンを投入)

第4回(以降は海路中心)遠征  遠征軍はなんと

ヴェネチャ商人の誘導でビザンツ(東ローマ)コンスタンティノープル攻撃

 ラテン帝国建設(ビザンツの残党は小アジアに逃亡してニケーア帝国を建設、

後にコンスタンティノープル奪回

第6回第7回は仏王ルイ9世ほぼ単独でエジプトマムルーク朝を攻略

ルイ9世死亡、1291年アッコン陥落でヨーロッパ敗北で遠征は終結

十字軍の影響

地中海中心に制海権獲得、商業活動活発化、北イタリア諸都市が繁栄

商人にとっては大成功だったが、エジプト・小アジアへの領土拡張は失敗

文化面はイスラム文化ビザンツ文化特に人間性合理性に富むギリシャ文化が融合

西ヨーロッパ文化はキリスト教一辺倒から、ルネッサンスを産んでいく

 

中世都市              目次に戻る

商業都市の発展

ギルドの形成(当初商人に支配された手工業者組合は、ツンフト闘争で徐々に自らを解放、

市政にも参加))

職人徒弟は徒弟制度で技能獲得

都市の自治(諸侯の重税に抵抗コンミューン運動、独では皇帝と結んだ帝国都市更に自由都市へ)

地中海商業圏   ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ・ピザ等

  取引品は香辛料・奢侈品を輸入(対価は南独アウクスブルク産の銀、レヴァンと貿易)

  ロンバルディア同盟(公益擁護より神聖ローマ皇帝への対抗)

北海・バルト海中心の北ヨーロッパ商業圏

  ハンザ同盟で武装したり商館を建設して利益防衛(盟主の都市は独リューベック)

  取引品は日用品(フランドルの毛織物、東欧の穀物、ノブゴロイドの毛皮、スカンディナビアの木材、

   海域の魚介類等)

両商業圏を結ぶシャンパーニュの定期市

中世封建制の崩壊

荘園制の崩壊→封建諸侯が打倒され国王による集権化

11.12世紀の中世 農業革命

  支えた技術

@   三圃制  A水車  B重量有輪犂→大開墾時代→生産力拡大

古典荘園から純粋荘園へ(直営地の賦役が消滅)→貨幣地代

→富を蓄積した農奴は独立自営農民(ヨーマン)誕生、領主→地主への変化

同時に14世紀半ばからのペスト流行による農民の減少は領主の農民待遇の改善にも寄与した

一方焦った領主の農民身分的拘束等封建反動、それに対抗する農民反乱、

仏ジャックリーの乱、英ワットタイラーの乱なども起こった)

長い封建的抑圧から歴史の転換期を迎え民衆は一種集団的発狂を起こしたかのごとく、

魔女狩り・ユダヤ人迫害そしてイスラム教徒への十字軍

グリム童話で有名な“ハーメルンの笛吹き男”は東方植民地への誘拐犯だったか?

十字軍の失敗は、それを推進した教皇の権威を失墜させ、参加した騎士・領主の没落、市民と没落領主達の土地を吸収した王権が伸張した

これに続く百年戦争とバラ戦争は更にかような流れを推進した

これらによって、封建諸侯の弱体化、それにつけ込んだ国王・大聖人の封建諸侯攻撃、

国家・市場統一への動き

中世封建制は何故衰退したか目次に戻る

@   十字軍遠征  土地は取り放題、甘言に乗せられて十字軍遠征に参加した封建諸侯・騎士達は勿論膨大な戦費を自弁、中には領地を担保に金を借りて参加した連中もいた。十分な見返りも得られず遠征から帰ってみれば領主不在の領地は荒れ放題、一方商業都市の発展で貨幣経済が浸透、土地に縛られていた農奴達は土地を捨て自ら自由の身を得ていった。封建領主の経済的基盤が完全に揺らぐ事になった

A   ペストの流行等によって人口減少、領主達は労働力確保のため、農民の地位向上(農奴は自由解放、領主は固定地代に頼らざるを得なくなった)を認めざるを得なかった

B   自営農民(ヨーマン)の成長  領主の身分的拘束から解放された“独立自営農民”の成長

C   火砲使用による戦術面の変化も騎士階級の没落を早めた

D   封建領主の没落の一方で統一市場を望む新興市民階級(大商人)と提携して、巧みに権力を伸ばした王権による、中央集権化が図られていった

E   一部領主による支配権奪回の反動もあったが、

      フランスのジャックリーの乱、イギリスのワット=タイラーの乱、ボヘミアのフス戦争、ドイツ農民戦争等農民が立ち上がった

F   封建領主の一角を占める教皇権も経済的衰退と王権との覇権争いに敗れて衰退していった

G   伸張する王権による絶対王制、さらに彼らが主導する数々の各国覇権争いも騎士階級の没落(良くて王に臣従する常備軍傭兵あるいは官僚に転身)を早めた

中世各国史とカトリック教会              目次に戻る   

*イギリス

58世紀  アングロサクソン人の移動と7王国

829年 アングロサクソン・エグバートによる統一、イングランド王国

11世紀初め デーン人(ノルマンディの一派)デーン朝成立、ほどなくアングロサクソン朝復活

1066年 ノルマンディー公ウイリアムがイングランド征服ノルマン朝樹立(仏封建制度導入)

1154年ヘンリー2世(ウイリアム同様仏出身)プランタジネット朝樹立

1215年 息子ジョン王 専制と失態に貴族僧侶が マグナカルタ

その子ヘンリー3世も専制と失態  大貴族・僧侶の封会議臣会議に騎士・都市代表(後に庶民院)を加えた議会形成(シモンの議会)

1295年エドワード1世時、議会は模範議会に、ウエールズ(ケルト系)併合

14世紀初めエドワード3世時、二院制が整備、

百年戦争(対仏100年、フランドル・ギュイエンヌ地方争奪を巡って)勃発

エドワード3世の息子、エドワード黒太子の活躍→ジャンヌダルク登場で逆転シャルル7世が英を撃退

百年戦争の影響

フランドル地方への羊毛原料輸出困難から逆に毛織物業発達

騎士(中小貴族)が軍役免除金を支払い、羊毛産業経営に転化、ジェントリー階層を形成、

下院に進出して都市代表と共に市民階級を形成

*フランス

10世紀末 カロリング朝→カペー朝(ユグ=カペー)

12世紀末フィリップ2世、13世紀ルイ9世(アルビジョワ十字軍)による王権伸張

13世紀フィリップ4世  1298年教会課税、怒ったローマ教皇ボニファティウス8世は国王 “破門”宣言

 1302年対抗してフィリップは三部会(聖職者・貴族・市民代表)招集

 1303年教皇をバビロン捕囚(アナーニ事件)→教会大分裂(ローマに帰った教皇とアヴィニオン教皇庁)

1414年コンスタンツ公会議でローマ教皇庁として決着

聖書中心主義で教会を批判した英のウィリフは異端、ボヘミアのフスは火刑

14世紀カペー家断絶でヴァロア家フィリップ4世ヴァロア朝開設、英のエドワード3世が王位継承を主張して英仏百年戦争

1339−1453年

戦争に勝ったもののフランスは混乱の極み(主戦場故の荒廃、国内の英と通牒する分子との内乱、ペスト流行、ジャックリーの乱)

国王シャルル7世は大商人ジャック=クールのサポートで常備軍(国王のために働く傭兵)創設

*ドイツ

10世紀 ザクセン朝オットー1世  帝国教会政策(国家統一をめざし皇帝自ら教会・修道院を創設、封建諸侯と結託した高位聖職者の任免権を握ろうとした)

11世紀ハインリッヒ4世、教皇グレゴリウス7世と叙任権闘争

グレゴリウスも聖職売買等教会の腐敗を是正するには叙任権を取り戻す事が第一歩と認識していた

修道院を中心に教会刷新運動が起こった、13世紀の初めフランスにフランチェスコ修道院、ドミニコ修道院が創設、修道士達が粗衣裸足で町々で布教活動、教皇グレゴリウス7世は教会改革、聖職者の妻帯、聖職売買の禁止、聖職者叙任権を教皇の手に改宗

グレゴリウスは抵抗勢力ハインリッヒを破門(皇帝と敵対する封建諸侯は喝采)

1077年 皇帝の謝罪(カノッサの屈辱)

1122年ウォルムス協約で叙任権闘争は一応決着(皇帝は叙任権を失い、教会のヒェラルキー確立へ)

12世紀末教皇インノケンティウス3世は第4回十字軍を派遣して、教会の全盛期(世俗権力は余りにも弱かった、“神の平和運動”諸侯間の私闘、国王との対立を仲介しつつ教会は権威を高めていった)

独王オットー4世、仏王フィリップ2世、イギリス王ジョンを破門屈服させた、“教皇は太陽、皇帝は月“

1256-1273年  自称皇帝が複数登場した 大空位時代

1273年  ハプスブルク家出身のルドフル1世登場

1356年カール1世 金印勅書 7人の選帝侯(世俗権力代表4人、聖職者代表3人)で皇帝を選出

総じてドイツでは皇帝権振るわず、封建諸侯に分裂状態が続く

→変化は15世紀よりハプスブルク家の帝位世襲へ

 

ルネサンス           目次に戻る 

 

近代3大改革 大航海・ルネサンス・宗教改革

治的近代化(国王などによる統一)が遅れたイタリア=ルネサンスが他国に先んじて開花した理由

経済的要因として 東方貿易(対アジアのレヴァント貿易)で富の蓄積があった

加えて 商工業の発展

政治的要因  バラバラに分裂していたが為」かえって自由な発想を許容した

文化的要因  十字軍や遠隔地商業を通じて東方文化(イスラム・ビザンツ・ギリシャ)の刺激

(例えばオスマン帝国のビザンツ帝国攻撃で、古典学者達がイタリアに流入した)

6世紀 

ビザンツ帝国ユスティアヌスがギリシャのアカデミア閉鎖

→ギリシャの哲学者医学者がササーン朝に移住

710世紀

  イスラムのササーン朝制圧→ササーン朝で育まれていたギリシャ文化がイスラム世界に伝播

  →バクダードの“知恵の館”でギリシャ語文献のアラビア語への翻訳が盛んになる

(西ヨーロッパは未だ混乱状態で、ローマ教会がフランク王国などと結んでキリスト教による精神的統合に努めていた)

11世紀以降

  西ヨーロッパの農業生産も軌道に乗り、異文化受け入れの余裕が出てきた

ようやくイスラム世界のギリシャ文化が西ヨーロッパに伝播

伝播の契機は十字軍遠征やレコンキスタの活発化、東方貿易

伝播の前進基地はイベリア半島とシチリア(スペインのトレドなどで、アラビア語文献やアラビア語に翻訳されていたギリシャ文献をラテン語に翻訳する活動が活発化

ルネサンスの基本的発想はヒューマニズム

 神が全ての中心→商工業や東方貿易の発展の影響(市場・都市を形成する人間への関心で)

社会現実世界では人間を中心に考えよう(ニーチェ・デカルト・パスカル等)

万能人(理想的人間像)の誕生(レオナルド=ダヴィンチ)

イタリアー・ルネサンスはフィレンツェから

 メディチ家のコシモ・ロレンツォ

 先駆者ダンテ(カトリック的要素+ルネサンス的要素)

 画家ジョット(キリスト教の題材で写実的に)

 ペトラルカ  抒情詩集(カンツォニエーレ)

 ボッカチオ  デカメロン

 マサッチョ  遠近法

 ボッティチェリ ヴィーナスの誕生・春

 彫刻家 ドナテルロ、ギベルティ

 サンタマリア(聖マリア)大聖堂

15世紀末 ルネサンスの中心はローマへ

 イタリア・ルネサンス終焉の理由

イタリア戦争 

仏ヴァロア家(シャルル8世・フランソワ1世)対ハプスブルク家(マキシミリアン1世・カール5世)

メディチ家追放

マキャベリの登場 君主論で一時的独裁制の必要、政治と宗教の分離を説く

  他 ローマ史、フィレンツェ史

ローマ・カトリックの思想統制(反ルネサンス、ルター等の宗教改革に抗して反宗教改革)

 1545年トリエント公会議でイタリア=ルネサンス終焉

ルネサンスの限界

 大商人・貴族・教皇の保護などの保護のもと展開(農民・大衆とは無縁)したため、社会体制を正面根底から揺るがす運動に発展しなかった

 一方宗教改革は底辺農民や経済力を蓄えつつある商工業者の心を掴み、信仰のみならず日常生活の深部をも規定する運動となった

 ブラマンテ サンピエトロ寺院の修復、ミケランジェロのピエタ像

ルネサンス三大天才

 レオナルド=ダヴィンチ   受胎告知・モナリザ・最後の晩餐

 ミケランジェロ  ダヴィデ像・最後の審判

 ラファエロ  聖母子像

諸国のルネサンス

*ネーデルランド(北海バルト海交易やフランドルの毛織物産業で栄えた)

 ファン=アイク兄弟の油絵、農民画家ブリューゲル

 エラスムスはカトリック批判ロッテルダムの哲人、愚神礼讃、ルターに影響

*ドイツ 

 ロイヒリンのキリスト教研究

  メランヒトン ルターの協力者

  西洋絵画史上最初の自画像や四使徒を描いたヂューラー

王室ルネサンス

*フランス(フランソワ1世)

 ラブレー  ガルガンチュア・パンタグリュエル物語

 モンテーニュ 随想録

 パスカル  パンセ

 フランスに渡ったダヴィンチ モナリザ

*イギリス=ルネサンス(16世紀チューダー朝エリザベス1世時代が最盛期)

 チューサー(14世紀)カンタベリー物語

 トマス=モア  ユートピア

 エドモンド=スペンサー

 シェークスピア  四大悲劇、ヘンリー4世・ヘンリー5

 ベン・ジョンソン

 フランシス=ベ−コン  イギリス経験論

*スペイン

 セルバンテス  ドン=キホーテ

 画家エル=グレコ トレド風景、オルガス伯の埋葬

*ルネサンス期の科学

三大発明(すでに中国で発明)

火器(騎士の没落を早めた)、グーテンベルクの活版印刷(宗教革命にも寄与)、羅針盤

羅針盤・火器・地動説→大航海時代へ幕開け

天動説(アリスタルコス、プトレマイオスなどヘレニズム時代からカトリック教会まで)→

地動説

 ポーランドのコペルニクス、イタリアのジョルダーノ=ブルーノ

 ガリレオ=ガリレイ(天文対話)

 カトリック教会が地動説を認めたのは1970年代

大航海時代             目次に戻る

すでに15世紀にはアジアでは鄭和の大遠征もあったが、16世紀ヨーロッパの大航海時代で“世界史”が成立

背景

@   経済的動機 アジアとの直接貿易を求めて(特にサファヴィー朝帝国ペルシャの進出で、紅海ルート・ペルシャ湾ルートで入っていた香辛料の輸入が困難になったため、ジェノバ商人などがポルトガル・スペインをたきつけた

A   東方への関心(マルコポーロの東方見聞録)

B   宗教的情熱(レコンキスタでイスラムを追い払い、その向こうのキリスト教徒国を求めて

C   羅針盤技術、地球球体説

*ポルトガル

12世紀半ば カステリア王国から自立

13世紀半ば レコンキスタ完成→国王中心の中央集権体制

ジブラルタル海峡のセウタ占領、大西洋アゾレス諸島でサトウキビ生産、アフリカ最西端ヴェルデ岬到達

エンリケ航海王子、ジョアン2世などが航海奨励

バルトロメウス=ディアスがアフリカ南端喜望峰到達

ヴァスコ=ダ=ガマ インド航路(喜望峰経由東回り)開発

1509年ディウ沖海戦でマムルーク朝エジプト撃破

1510年インド西岸ゴアに貿易拠点設置(総督アルプケルク)

1511年イスラム教国マラッカ王国を滅ぼし香料諸島に到達

1514年ペルシャ湾口ホルムズ島占領

1543年種子島漂着日本に鉄砲伝来

1557年明からマカオ居住権獲得

但しポルトガルはアジア貿易の覇者ではなかった(アジア内貿易の仲介者)

*スペイン

1469年アラゴン王フェルナンドとカステリア女王イサベルの政略結婚

1479年スペイン王国成立

1492年イベリア半島最後のイスラム国ナスル朝粉砕

1492年ジェノバのコロンブス、スペインのパロス港からカリブ海の西インド諸島サンサルバドル島に到達

(フィレンツァのアメリゴ=ヴェスブッチがアメリカ大陸発見探検)

1519年スペインのカルロス1世の後援でマゼラン(ポルトガル人)世界周航へ

 フィリピンに到達するもフィリピン人ラプラプに殺される

1521年 コルテスが大砲と馬でメキシコ・アステカ帝国征服

1523年ピサロがペルーのインカ帝国(皇帝アタワルパ)を奸計で征服

征服者たちは先住民インディオの支配を認められ銀山やプランテーションで原住民を強制労働で酷使、加えて天然痘のような疫病で多くが死滅、補充労働力が西アジアから移入

16世紀後半 (レガスビ将軍)マニラ占領、アジア貿易中継地点に

アカプルコ貿易  メキシコ産銀→太平洋岸・アカプルコ→マニラ

マニラで中国産絹織物や陶磁器と交換→アカプルコへ    全帆走船ガレオン船

15世紀末  ロ^マ教皇アレクサンドル6世の調停でポルトガル・スペインの境界“教皇子午線”

→両者トルデシリャス条約締結

毛織物・絹織物工業で栄えた商業都市フィレンツェの大商人は13世紀教皇と組んで皇帝派封建貴族を追放、政権を奪う

メディチ家等大商人が学者・芸術家を庇護、ルネサンスの土壌となる

*アジア進出の特徴

マニラ・ゴア・マラッカいずれも商業拠点(アジア内貿易の中継地点)の確保・建設に止まった、植民地活動もほとんど行われなかった

*新大陸進出の特徴

植民地活動展開

宗教・伝統・文化も持ち込み、移民による“血”の流入、先住民と混血・混淆して→

ラテン・アメリカ世界の形成した

新大陸に比べアジアは人口過多、ある意味衰えつつあった、又アジアには明やムガル帝国等強国がありポルトガル・スペインも付け入れなかった

*大航海時代の結果・影響

世界商業→世界の一体化→世界史の成立

マルクスの社会発展図式

  古代奴隷制社会→中世農奴制(封建制)社会→近代資本主義社会→社会主義社会

対して 世界システム論(ウオーラースティン等)は、斯様な図式通りに行かぬと

 世界は繁栄する中核(工業化)と

中核に従属して貧困に喘ぐ周辺(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等原料食料の供給地)の有機的関連で成り立つ(周辺は容易に貧困から抜け出せない

16-17世紀の世界商業

 ヨーロッパの毛織物  新大陸の銀  アジアの香料、中国の絹織物・陶磁器の流れ

 シルクロードによる商業と比べ大量恒常的交易

16世紀の商業革命

 北イタリアの諸都市に代って大西洋岸諸都市(新大陸向け毛織物生産地)

スペイン・フラアドル・イギリスが発展

領主制・封建制の崩壊は何故か?

大航海時代の新大陸からの銀の大量流入(ボトン銀山)→インフレーション(価格革命)→

定額貨幣地代の農民有利、領主の不利→農民の地位向上、領主層の没落

領主・農民の力関係の変化

東ヨーロッパへの影響

西欧からの商工業品の輸入→穀物生産地帯としての役割(エルベ河以東のドイツ、ポーランド、ハンガリ)

→労働力確保のため東欧領主は支配力強化して(再版農奴制)賦役労働(農場領主制・グーツヘルシャフト)

中世西欧古典荘園は食うため・自給用だったが、農場領主制では“売るために作る”(支配関係は中世的だが、経営姿勢は資本主義的)

こうして西欧では商工業、東欧では穀物生産が発展

東欧貴族は商工業者の成長を恐れ、市民階級や商工業の拠点である都市の発展を阻害

 

宗教改革               目次に戻る

英のウイクリフ、ベーメンのフス、ネーデルランドのエラスムス→独のルター

*ドイツの宗教改革

ドイツ諸侯の乱立、神聖ローマ皇帝(ドイツ国王)を世襲するハプスブルク家

1519年 スペイン国王を兼ねたカール5世君臨、ドイツ統一意欲にドイツ諸侯対立

ハプスブルク家を敵視するフランス・フランソワ1世(イタリア戦争、オスマン帝国と提携)

ドイツを狙うローマ教皇レオ10世(メディチ家出身、浪費癖からの財政を救おうと“免罪符”売り出し)

売り込み先は政治的にバラバラだったドイツに目を付けた(独アウクスブルクの豪商フッガー家が協力)

フッガーはカール5世のパトロンでもあった

教皇庁や大商人の免罪符を使ってのドイツ経済収奪に、

ドイツ諸侯、ドイツ市民(都市商工業者)が勿論反発

ルター(ウィッテンベルク大教授)登場  

 信仰義認説(神は教会献金とかの“善行”に騙されない、真摯な信仰こそ)

 1517年“95ヶ条論題”で教会の贖宥状を批判(プロテスタント革命)

 1519年ライプチヒ神学論争、ルター“キリスト者の自由”

ドイツ諸侯・市民・農民の英雄となったが教皇庁と真っ向対決、

1521年教皇庁はルッターを破門、皇帝カールにルッター逮捕を要請

 もとより教皇庁の味方、皇帝カールはルッターの勢力拡大を恐れ、

ヴォルムス帝国議会を召喚してルッターにローマ教皇批判撤回を求める

ルッター“我此処に立つ”(聖書に立脚する自分の諸説は何人も否定できない)

 その後ルッターはザクセン選帝侯(フリードリヒ)のヴァルトブルク城で

  新約聖書のドイツ語訳に専念、グーテンベルクの活版印刷機で大量に流布

 1522年騎士戦争(ルターに刺激を受けた下級貴族達がカトリックの大司教領を攻撃)

 1524年ドイツ農民戦争(中南部を中心に農奴制廃止・地代軽減等を諸侯領主に求めた農民反乱)

  ルターは最初支持したが後に諸侯側につき、諸侯によって農民運動は壊滅、但し中小領主は没落

 1526年オスマン帝国の進撃、皇帝カールは一時ルッター派を容認するも

 1529年にはルッター派を再禁止、ルター派はカールに“プロテスタント”

 1546年ルターの諸侯・都市などがシュマルカルデン同盟で結集、シュマルカルデン戦争

 しかし1547年内部分裂で同盟崩壊、皇帝側勝利

 1552年一部諸侯の反乱もあり、カールが引退

  後継は弟フェルディナント1世、スペイン・ネーデルランド等は息子フェリベ2

 1555年 アウクスブルクの和議(カトリック諸侯側とシュマルカルデン同盟側)

@   領域支配者が宗教も支配する(宗教における個人の自由はない)

A   カトリックかルター派の二者択一(カルヴァン派などは認めない)

B   領邦教会制(諸侯の皇帝の支配から自立)→神聖ローマ帝国分裂→領邦国家確立

*スイスの宗教改革

フランソワ1世の弾圧でスイスに亡命したフランス人・カルヴァン

 チューリヒのツヴィングリの影響で

 ジュネーブを拠点に“キリスト教要綱”を纏める

 カルヴァン主義:予定説を説いて労働・利殖を肯定して新興市民階級に広く信奉さる

  (財布の中身が増えるのは神の思し召し、禁欲的金儲けは天国への道)

 近代資本主義の精神基盤となった

 名著ヴェーバーの“プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神”が解説

 ちなみに カトリックでは

  ローマ教皇→枢機卿→大司教→司教→司祭の階層性に基づき

  ローマ教皇(フランスでは国王)が任命する司教が教区の信者を統制(司教制度)

 ルター派では領邦支配者である諸侯などが“最高の司教”として宗教を支配

 カルヴァン派では信徒代表の長老が聖職者である牧師と協力して教会運営(長老制度)

  教会はそれぞれ独立、教会や聖職者の特権を認めず聖書中心主義万人祭司主義

カルヴィン派は英ではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)フランスでユグノー、オランダではゴイセン(乞食党)と呼ばれた

*イギリスの宗教改革

チューダ-朝・ヘンリ-8の離婚問題(相手はスペイン国王フェルナンドの娘・カ−ル5世の叔母カザリン=オブ=アラゴン)

ヘンリ-8世はスペイン・ハプスブルク家の影響力を恐れまた妻の侍女アン・ブーリンとの再婚(彼女との間に出来た娘がエリザベス1世)を求めて妻カザリンと離婚

離婚を認めないロ-マ・カトリックが横やり

ヘンリ-8世は“国王至上法(首長法)”を発布して、英教会組織を国王の統制下に

(ローマ-・カトリックから分離してイギリス国教会)

またヘンリ-8世は修道院を廃止して、その土地を没収国民に払い下げた→毛織物産業発展に寄与

勿論国王が勝手に新宗派を開いたのではない、一応議会の承認を得てのことらしいが、宗教って何だろう?国民は偉い人の都合で信仰させられるのかと思わせる

ヘンリー8世(三番目の妃との)子エドワード6世(マークトウエンの”王子と乞食“のモデル)は国教の教義にカルヴァン派の教説を導入したとのこと

次がヘンリーとカザリン(一番目の妃)の子、メアリ1世、母の影響かカトリックの復活を企て英国内の新教徒(ルター派・カルヴィン派教徒を徹底して殺害、“流血女王”の異名(後のスペイン国王フェリベ2世と結婚

次が前述ヘンリーとアン・ブーリン(二番目の妃)の子、エリザベス1世、イギリス国教会確立(宗教的信念から生れた宗派ではないので、教義はルター・カルヴァン、儀式はカトリック的とごっちゃ混ぜ)

*対抗宗教改革(カトリック側の反撃)

1545年トリエント公会議(教皇パウルス3世)  

  教皇権威の確認、免罪符販売中止

  宗教裁判・異端審問強化・魔女狩り(殺して財産を巻き上げるのが目的?)

イエズス会(軍隊的規律で反宗教改革の先兵となった、特に南ドイツ・南米等で活躍)

 創建者イグナティウス=ロヨラ

 フランシス=ザビエル(1549年日本渡来)

主権国家体制

主権国家:明確な国境線で仕切られる領土を持ち、国家を統治する単一の政治権力によって運営される国家(対して封建制国家では国王・皇帝から自立した諸侯の存在)

経済的要因   11世紀後半の商業復活→一定のまとまりをもった経済圏の形成

→商人達も市場統一を達成できる権力者の登場を期待

政治的要因

@   15世紀以来のオスマン帝国の圧力

A   大航海時代の到来

B   ヨーロッパの長期化・大規模化しつつある戦争に対応できる(徴税・徴兵)体制作りが急務

例えばイタリア戦争(ハプスブルク家対ヴァロア朝フランス)

絶対王制の成立       目次に戻る  



絶対王制 各国の動き

封建諸侯の没落、市民階級の台頭→市民階級は国内外の市場確保に国王の支援を求める

→王権が強化され絶対王政

絶対王制の“支配の道具”

 常備軍・官僚(未だ未発達だが)

  但し未だ中世以来の貴族・教会組織や商工業者のギルドや都市の自治権等王権抵抗勢力も残存

  (社団国家)

  王権擁護のボーダン国家論→仏アンリー4世に影響

 王権神授説  英国王ジェームズ1世、フィルマー、ポシュエ等

 重商主義政策(絶対王制とだけタイアップしたわけでは無いが)

  重金主義(国庫利益重点)→貿易差額主義(輸出増大政策)

→保護関税・王立マニュファクターなどで産業育成

 ルイ14世の財務総監コルベール

スペイン(最初の絶対王制国家)とネーデルランド        目次に戻る

1479年 イスラム勢力に対する領土回復運動(レコンキスタ)を展開しつつスペイン王国建設

      (1492年イベリア半島からイスラム教徒を放逐してレコンキスタ完成)

16世紀カルロス1世(ハプスブルク朝スペインの始祖)

アステカ帝国インカ帝国を滅ぼし巨富を得る

1519年 選挙で仏王フランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝兼務

 フランソワ1世はイタリアに侵入、イタリア戦争再発(長期大規模に及び主権国家体制の契機となる)

息子フェリベ2世スペイン王位継承(神聖ローマ皇位は弟フェリベ5世が継承)

 広大な領土は“太陽の沈まぬ帝国”

 ローマ教皇・ヴェネツィアと提携してオスマン帝国粉砕(レバンとの戦い)ポルトガル王位も継承

 英女王メアリーと結婚、反宗教改革(カトリック)を応援、仏ユグノー戦争に介入

1568年ネーデルランド領(今のオランダ・ベルギー、新教徒)独立運動

(リーダーはオレンジ公ウイリアム、経済と宗教の自由を求めて)

 1581年ネーデルランド連邦共和国独立宣言、

バルト海貿易・大西洋奴隷貿易・造船業・穀物・毛織物業等で栄え

1602年オランダ東インド会社設立

1609年スペインと休戦協定、

164830年戦争のウエストファリア条約で国際的承認

独立運動に加担する英国と戦争、英に“無敵艦隊“を破られ(1588年)衰退

イギリスの絶対王政              目次に戻る

百年戦争 13391453年  エドワード3世のフランス王位継承権主張(仏から撃退)

バラ戦争  14551485年   ランカスター家対ヨーク家の領土争奪の内乱

    大貴族の多くが没落→国王権力増大、ジェントリー(地主)層の政治的発言力(議会)

1485年ヘンリー7世   チューダー朝開設(ヨーク家リチャード3世打倒)、

星室庁裁判所(枢密院)設置して反王権勢力弾圧、貴族や地主が牧羊地拡大のため第1次囲い込み

1509年ヘンリー8世   離婚問題→イギリス国教会成立、カトリックやピューリタンを弾圧、救貧法制定

1547年エドワード6世  カルヴァン主義的祈祷書

1553年メアリ−1世   新教徒弾圧(流血女王)  カレー喪失

1558年エリザベス1世   英最盛期

  ヘンリー8世を引き継ぎ新教徒弾圧

   イギリス国教会確立(統一法)、ヘンリー8世の宗教改革を受け継ぎカトリックやピューリタンを制圧

スペイン無敵艦隊アルマダ撃破、

私掠船(国王によって認められた海賊船)と癒着、

1600年東インド会社設立(アジア貿易独占権を与えて癒着)→東インド会社は印ベンガル地区ナワープ王国を追いやり、過酷にインドを搾取、インド植民地化に貢献

ドレーク初の世界周遊に成功

*エリザベス1世

公平武治先生の”世界史の窓”より   https://www.y-history.net/appendix/wh0903-055.html

16世紀後半、イギリス・テューダー朝絶対王政全盛期の女王。イギリス宗教改革を完成させ、重商主義政策をとってイギリス海洋帝国の基礎がつくられた

イギリス(厳密にはイングランド王国)のテューダー王朝メアリ1世の次に王位についたの女王(在位1558年〜1603年)。父はヘンリ8世、母はアン=ブーリン。アン=ブーリンは彼女を生んだ後、姦通罪で処刑されていた。しかしメアリ1世の親スペイン政策に不満を強めていたイギリス国民の心をつかみ、宗教問題の解決を進め、国民的な統合を再現して、テューダー朝絶対王政を確立した。彼女は生涯結婚することなく、「わたしはイギリスと結婚した」と自ら言っているように政治に一生を捧げたところから「処女王」といわれて人気が高く、後の人びとからイギリスの繁栄した時代ととらえられた。彼女は結婚しなかったので王位継承者はスコットランドの王家ステュアート家から迎えることとなり、テューダー朝は終わりを告げた。 →イギリスの絶対王政

エリザベス時代のイギリス

1558年に即位したエリザベス1世の時代のイギリスを、後の大英帝国といわれるようになった18世紀以降のイギリスのイメージで考えると大きな誤りとなる。エリザベスは通例イギリス女王といわれるが、厳密に言えばイングランド王国の女王に過ぎず、正式にはスコットランドは併合していない。また地理的にもヨーロッパ大陸から離れた島国であり、人口はウェールズを含めて300万の小国であった。当時フランスは1500万、スペインは800万で大陸の覇を競っていた。特にスペインはすでに「太陽の沈まぬ国」と言われ、旧大陸・新大陸に広大な領土を持つ帝国であった。それだけにイギリスがスペインの無敵艦隊アルマダ戦争(海戦)で破ったことは驚天動地の大事件だったわけである。<数字は、青木道彦『エリザベス1世』2000 講談社現代新書 p.20>

言い換えれば、エリザベス1世時代のイギリスは、ヴァロア朝フランスとハプスブルク家スペイン・オーストリアに挟まれた「二流国」であった。しかし、その王権はノルマン人の征服以来、他国にくらべて国内では強大であり、農村の羊毛産業を基礎とした毛織物工業が国民的産業として発達し、マニュファクチュアと国内の統一市場の形成、貨幣地代の普及という経済の新たな仕組みも生まれていた。エリザベス1世の課題は、そのような成長する経済力をいかに統制するかにあった。そこでまず王権のもとでの統一国家の枠組みとして国教会制度を確立し、重商主義政策によって産業を保護統制し、海外への市場開拓を図るとい手段を執った。エリザベス1世はそれらの課題をほぼクリアしたと言える。しかし次の段階は、国教会制度の強制に対するピューリタンの反発が募って行き、また議会では女王の特権商人保護に対する批判が始まり、経済活動の自由を求める声が起こってきた。1603年の女王の死後、ステュアート朝に移行すると、国王たちの宗教政策・経済政策は反動的になり、イギリス革命へと動いていくこととなる。
英の海上進出・国教会確立に対抗してスペイン・フィリップ2世はオランダの独立を支援したり、スコットランド女王メアリ・スチュアートを擁立したりしたが失敗

*英王朝のまとめ


チューダー朝


参考までに現在の王室  ハノーヴァー朝&ウインザー朝


英の海上進出・国教会確立に対抗してスペイン・フィリップ2世はオランダの独立を支援したり、スコットランド女王メアリ・スチュアートを擁立したりしたが失敗

フランスの絶対王政            目次に戻る

16世紀フランソワ1世の時代   ルネサンス文化の開花

 

ルイ14世 王権神授説、“朕は国家である”、ヨーロッパ最大の常備軍

財務総監コルベールの重商主義政策(積極的輸出と保護関税政策)、積極的植民地活動(カナダのルイジアナ植民等で東部イギリスを包囲)

インドにも植民して英国に対抗

スペイン領ネーデルランド・オランダに侵入、ドイツからはアルザス・ローレンスを奪う

16世紀中頃からカトリックとプロテスタントの対立が深刻化

1562年(スペインにオランダ独立運動が始まる頃)ユグノー戦争勃発

国王シャルル9世(カトリック、国内統一を目指す、母后はカトリーヌ=ド=メディシス〜

ユグノーはカルヴァン派、商工業者中心だが

  貴族がカトリックながら国王統一権力に抵抗(スペイン国王フェリベ2世も仏王権弱体化を狙って支援)

 1572年サンパルテルミのユグノー教徒大虐殺(下手人はカトリーヌと大貴族ギース公)

 シャルル9世急死、アンリ3世暗殺の後

アンリ4世 ブルボン朝始祖

 1598年ナントの勅令でカルヴァン派を公認(アウクスブルクの和議を改め、個人の宗教選択の自由を認める、自身はカトリックをなだめるためユグノーからカトリックに改宗)

かくてユグノー戦争は終結したが、貴族は没落、王権は伸張

アンリ4世暗殺され1610年ルイ13

宰相リシュリュー

1615年三部会解散

30年戦争介入   カトリックでありながらドイツ新教徒を支援(ヨーロッパ覇権を巡ってハプスブルク家に対抗)

フランス学士院開設

1643ルイ14(ブルボン朝最盛期)

貴族の反乱フロンドの乱を鎮圧

宰相マザラン(政治経済のプロ・イタリア人)

財務総監コルベール

東インド会社再建、王立マニュファクチャ

1685年ナントの勅令廃止→ユグノー商工業者がイギリス・オランダ・プロイセン等に亡命

→フランス王権の弱体化の因

1667年スペイン領の南ネーデルランド継承戦争(英和蘭はスペインを支援、ベルギー獲得に失敗)

1672年和蘭侵略戦争

1683年ファルツ戦争(大同盟戦争) 仏対アウスブルク同盟の欧州

1689年第2次百年戦争  

1701−1714年スペイン継承戦争

  ルイ14世の孫がフェリベ5世としてスペイン国王に即位したことに対しイギリス・ハプスブルク家などが反発してはじまった   

1713年ユトレヒト条約     イギリスと終戦、ブルボン朝スペインを認める

(但し将来的にも国家統合認めず)、代償に英は仏から広大な新大陸領地を獲得

1714年ラシュタット条約ハプスブルク家と終戦(南ネーデルランドがオーストリア領に)

ルイ15世  ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争(イギリス対フランス+米先住インディアン)など英仏植民地抗争

文化面 ルイ14世バロック様式、ルイ15世ロココ様式

7世紀末から18世紀にかけて、ヨーロッパで続いたファルツ戦争スペイン継承戦争オーストリア継承戦争七年戦争はフランス・ブルボン朝とオーストリア・ハプスブルク家の勢力争い、新興勢力プロイセンの進出などを軸として同盟関係は複雑に変化したが、イギリスとフランスは一貫して敵対した対立軸であった

 

ドイツ                  目次に戻る

30年戦争1618-1648年)

16世紀のドイツ宗教戦争シュマルカルデン戦争は1555年アウクスブルクの和議で終結するものの

宗教対立は解消されずバラバラなドイツ

カトリックによる統一に焦る皇帝に周辺国が付け入って介入して長期国際戦争に

神聖ローマ皇帝フェルナンド2世のカトリック強制に抵抗してベーメンの反乱、ドイツ内新旧両派の対立にヨーロッパ新旧国が介入、大規模な国際紛争の発展、1648年ウエストファリア条約(神聖ローマ帝国解体・オランダ独立)ドイツは荒廃、小独立国家の分立となり、ドイツはこの戦争で2世紀も逆行したと言われる、その中で比較的打撃の少なかったプロシャとオーストリアが強国としての地位を固めて行った

第1期    ベーメン・ファルツ戦争

ベーメン:ボヘミア、現在のチェコ、10世紀西スラブ系のベーメン王国を建国するも、11世紀より神聖ローマ帝国に臣従・圧迫下にあった、フスの処刑に民族意識が爆発

フェルナンドのカトリックによる新教徒改宗強制に抗して暴動(プラハ王宮窓外放出事件)

皇帝フェルナンド2世に代り鎮圧

第2期    デンマーク戦争  ドイツ新教徒を援助する口実でデンマーク王クリスチャン4世が介入

対してフェルナンド2世は傭兵隊長ヴァレンシュタイン投入

第3期    スエーデン戦争

皇帝側にスエーデン王グスタフ=アドルフ(バルト海のライオン)登場

第4期    スエーデン・フランス戦争

フランス・ブルボン家(カトリック)宰相リシュリューが新教徒支援に立つ(もはや宗教戦争で無い)

1648年ウエストファリア条約で戦争終結

@   フランス・スエーデンがアルザス司教領などの領土獲得

(スエーデンにバルト制海権、衰退するハンザ同盟)

A   神聖ローマ帝国の各領邦・都市の主権承認(帝国は更にバラバラに、有名無実化)

B   スイス・オランダの」独立承認

C   帝国内カルヴァン派公認

ハプスブルク家の凋落、優位になったブルボン家

皇帝権力は消滅しヨーロッパの主権国家体制形成

比較的被害の少なかったドイツ東部

プロイセン           目次に戻る

3世紀 ドイツ騎士団領→16世紀プロイセン公国

  12世紀ブランデンブルク辺境伯領→ブランデンブルク選帝侯国

1618年両国合併プロイセン公国→18世紀初めプロイセン王国へ

初代国王フリードリヒ1世

息子フリードリヒ・ヴィルヘルム  ユンカー(地主貴族)を中核に軍事国家形成(巨人軍)

1世の息子フリードリヒ2世(大王、啓蒙専制君主)

 サンスーシー宮殿 

1740年オーストリア継承戦争

  神聖ローマ皇帝カ−ル6世がハプスブルク家家督を娘マリア=テレジアに継がせた事に反発

  ハプスブルク家と戦う、ブルボン家のスペイン・フランスもプロイセン側で参戦

  アーヘンの和約でプロイセンはジュレジェン地方をオーストリアから獲得

1756年 7年戦争(マリア=テレジアのリターンマッチ)

オーストリア・ハプスブル家マリア=テレジアが宿敵ブルボン家(フランス)と和解申し出(外交革命)

プロイセンはオーストリアが提携するロシアに対抗してイギリス(ハノーヴァー朝ジョージ2世)と提携

ロシア(ピョートル3世)がオーストリアを裏切り、プロイセン勝利

オーストリア            目次に戻る 

 もとはマジャール人から神聖ローマ帝国を防衛する砦、オストマルク辺境伯領

神聖ローマ帝国の領邦の一つだが、ハプスブルク家の根拠地、

ハプスブルク家がローマ皇帝を世襲する様になって神聖ローマ帝国の盟主的存在になった

  30年戦争で西欧がブルボン朝が台頭する中、東方への進出を目指す

  オスマン帝国の第2次ウイーン包囲を撃退、1699年カルロヴィッツ条約でオスマンから

ハンガリー・トランシルヴァニア・クロアティアを奪う(レバントの敗北以降のオスマンに決定的打撃

 マリア=テレジアの後継は息子ヨーゼフ2世(啓蒙専制君主)

   中央集権体制構築・信教の自由・修道院解散・農奴解放など

しかし多民族国家、スラヴ人・マジャール人等が中央集権化に反発、貴族層も農奴解放などに反対、ヨーゼフの改革は挫折

ロシア             目次に戻る 

9世紀 ノヴゴロイド国・キエフ公国(ビザンツ帝国との交易などで10世紀ウラジミル1世時には最盛期)

13世紀モンゴル(バトウ)の侵略、キプチャク=ハン国の支配下に(タタールの軛200年間)

1480年モスクワ大公国(イヴァン3世)が自立、ビザンツ帝国の後継者を自認(ビザンツ帝国の姪と結婚)

ツアリー(世界の支配者たる皇帝)を名乗る

16世紀後半イヴァン4世(雷帝) コサックの首長・イェルマークに命じシビル=ハン国(シベリア)征服

ツアリー、ギリシャ正教会首長を名乗る

全国会議(身分制議会)招集、貴族を弾圧、中央集権化を強力に推進

17世紀 ミハイル=ロマノフ推戴されロマノフ朝を開く

 農奴制強化、ステンカ=ラージンの反乱鎮圧

ピョートル1世(大帝) ロシア近代化の基礎を築く

 デンマークの探検家ベーリングにシベリア探検

 西欧への連絡路バルト海を確保すべく、北方戦争、相手はカール12世率いるスエーデン

 西欧への窓・ペテルブルク建設

18世紀後半エカチェリーナ2世

 ブガチョフの反乱で農奴制強化に転ず

 トルコ領などに南下政策でトルコと度々交戦、クリム=ハン国を下しクリミア半島を制圧

 ラスクマンを根室に派遣して日本との交易を求めたが、拒絶される

*ヨーロッパの商業覇権

覇権の推移  16世紀ポルトガル・スペイン(大航海時代参照)→17世紀オランダ

→イギリス(フランスが最後の抵抗するも粉砕)

オランダ          目次に戻る

 1602年東インド会社設立 (資本は英東インド会社の10倍)

 1619年アジアの貿易拠点 バタヴィア(今のジャカルタ)獲得

 1623年 アンボイナ事件(オランダ人によるイギリス人など虐殺)を通じて

モルッカ諸島(香料諸島)の支配権確立、負けたイギリスはインド本土に方向転換

 1624年 台湾征服、日明貿易など東シナ海貿易に参入

 1641年マラッカ、1658年セイロン占領

 1642年探検家タスクマン ニュージランド発見

 西インド会社によってアメリカに植民地ニューネーデルランド建設

  この中心はニューアムステルダム、第二次英蘭戦争直前にイギリスに奪われ、ニューヨークに改称

 1652年東インド会社によって南アフリカに植民地ケープ植民地(今の南アフリカ共和国の一部)建設

  (沢山の移民はプーア人と呼ばれた、1815年ウイーン議定書でイギリス領に)

これら植民地・商業拠点で本国の生産・商業・金融が発展、17世紀前半は“オランダの世紀”

オランダの衰退

1651年 オランダの繁栄を黙っていられないイギリスが“航海法”発布

航海法:中継貿易に頼るオランダを排除する目的で、イギリスに入港する船を、イギリス船かイギリスの貿易当事国に限定する法令(重商主義政策)→1652年英蘭戦争

1672年3回目の英蘭戦争に仏・ルイ14世も相乗り、オランダ侵略戦争

しかしイギリスはフランスの巨大化を恐れ、逆にオランダ支援に方針転換→英仏植民地抗争

絶対王制・絶対君主 まとめ     目次に戻る
封建制では国王が貴族(臣下)に農奴付の土地を与え、臣下は見返りに軍役を提供する契約に基づいたが

@   封建国家は主権国家でなかったため領土・国民・法制度・軍隊等曖昧だった」

A   各地域の住民は国王の管理下ではなく、土地を与えられた領主の管理下

B   裁判権・警察権・徴税権等は領主の決定に委ねられ、王が内政干渉する事は無く、全国統一のルールもなかった

C   一人の領主が複数の王と契約することも可能だった

主権国家体制

主権国家体制とは、国家より上位の権力を認めず、国家間が対等な立場に置かれることを前提とした国際社会におけるシステム

国家間は対等だが、教会等の宗教的支配や“世界政府”等、重層的支配関係も認めず(ウエストファリア条約)

絶対王制;

1617世紀、主権国家形成期に国家の権力が君主(国王)に集中し、君主が絶対的な権力を行使した国家の政治体制のこと。王権神授説を思想的根拠として、常備軍と官僚にささえられる

カウツキーの“階級バランス論”

「国王は、没落しつつある封建貴族階層と、力をつけつつあった市民階層のバランスに乗り、官僚制と常備軍を整えて強力に国家統一を進めた。この絶対王政は、中世の身分・社会秩序(中間団体)を維持したまま集権化を進めたことなどから、封建国家の最終段階であり、他方で、国王に主権を集中して一定の領域を一元的に支配する主権国家を形成したことから、近代国家の初期の段階とみなすことができる」としている(山川教科書)

絶対君主

*英 エリザベス1

イギリスで絶対王政最盛期の国王がエリザベス1世である

当時世界の頂点にあったスペインを撃破し、東インド会社を設立、その後の大英帝国への礎を築いた

また、羊毛産業の発展に力を入れ、莫大な富をイギリスにもたらした

*仏 ルイ14世(太陽王)

フランスで絶対王政最盛期の国王がルイ14世である

「朕は国家なり(私自身がフランスそのものだ)」という発言で有名

商工業の発展に力を入れ、もうけを浪費と勢力拡大の戦争に注ぎ込んだ。ヴェルサイユ宮殿はルイ14世の浪費のたまものである

*スペイン フェリペ2世

スペインに全盛期をもたらした国王がフェリペ2世である

植民地政策に力を入れ、南米、フィリピン、アフリカへと勢力を広げた

スペインは「太陽の沈まぬ国」と呼ばれ、地球上のスペイン領では常に太陽が昇っている状態を指した

*露 ピョートル1

ロシア近代化の礎を築いた国王がピョートル1世である

ピョートル1世は使節団を西欧各国に派遣し、遅れていたロシアの近代化に力を入れた。国王自らが使節団に紛れ、オランダの造船所で働いたエピソードは有名

また、対外政策にも力を入れ、スウェーデン、オスマン帝国(現トルコ)、清(現中国)へと勢力を拡大した

プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世も啓蒙専制君主として有名である

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1337-1453年 百年戦争

イギリス国王 エドワード3世 が、フランス王位の継承権を主張して ヴァロワ朝 の フィリップ6世 に挑戦状を発し、両国は戦争状態となる。

1455?1485 薔薇戦争

英国王位継承をめぐる、ランカスター家とヨーク家の争いで、前者が紅バラ、後者が白バラを

それぞれ家紋にしていたので、「バラ戦争」と言われる。戦争の直接の原因は王位継承問題であったが

それぞれ2派にわかれた封建貴族の私闘というのが実質である。30年にわたり

血腥い暗闘が繰り広げられたが、結局、ランカスター家の一族のテューダー家のヘンリが、ヨーク家の

チャード3世を倒し、テューダー朝を開いてヘンリ7世として即位、ヨーク家のエリザベスと結婚すること

両家の争いに終止符を打った。

百年戦争に続く内乱によって、封建貴族は相打ちとなって没落し、テューダー朝の王権は強大となり、絶対王政を実現する

1494-1559年 イタリア戦争

イタリアを戦場として、フランス(ヴァロワ朝)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国皇帝を継承し、ドイツ・ネーデルラント・スペインなどを領有)との間の戦争である。ルネサンスの時期と重なり、さまざまな技術革新による軍事革命といわれる戦争形態の変化が進み、この戦争を経ることによってヨーロッパの主権国家の形成が始まったとされる

1562-1598年 ユグノー戦争

フランスの新旧徒両派の内戦

1618-1648年 三十年戦争

ドイツ内の新旧両派の対立が、ベーメンでの事件を期に全ドイツに広がり、さらに西ヨーロッパの新教国、旧教国がそれぞれ介入したことによって大規模な国際紛争となった。そして、フランスが旧教支援から途中で新教支援に転換したように、単なる宗教戦争にとどまらず、ヨーロッパの覇権を巡る国際的な戦争へと変質していった。

1648-1653年 フロンドの乱

フランスのルイ14世と宰相マザランの政治に対し、その中央集権の強化策や重税策に反発した貴族層が起こした内乱。フロンドというのは、子供の投石おもちゃのことで、この戦争を子供がこのおもちゃを使って遊ぶことにたとえて「フロンドの乱」というようになった。反乱の主体となったのは貴族層であったが、同時にパリの民衆反乱や地方の農民一揆も起こっており、広範囲な反王政の戦いであった。しかし結果的には反乱側の足並みがそろわず、マザランの巧みな対応が功を奏して鎮圧され、王権のさらなる強化と中央集権化が進み、ルイ14世時代のフランス絶対王政の全盛期をもたらした

1667-1668年 ネーデルラント継承戦争

フランスのルイ14世が、スペイン領の南ネーデルラントを侵略した戦争。

11689-1815年 第二次百年戦争

イギリスとフランスは、ヨーロッパ本土において戦争を繰り返しただけでなく、アメリカ植民地・インド植民地においても激しく抗争した。その長期にわたって断続的に繰り返された両国の戦争を、14〜15世紀の百年戦争になぞらえて、第2次百年戦争とも言う。この長期間の戦争は、植民地大国としてのイギリスと、ブルボン絶対王政のフランスの双方の体制を変質させることとなった。

17011713年 スペイン継承戦争

フランス・ルイ14世が孫フェリペをスペイン王の継承者としたことを巡って起こった、フランス・スペイン連合軍とイギリス・オランダ・オーストリア(神聖ローマ皇帝)・プロイセンなどの連合軍との戦争。またフランス・イギリス両国はアメリカ大陸においてもアン女王戦争で衝突した。一連の英仏の覇権をめぐる戦争の一つ。フランス・スペイン軍が劣勢となり、仏英間は1713年のユトレヒト条約で戦争終結、仏墺間は翌14年のラシュタット条約で講和した。結果としてフェリペのスペイン王位は認められたが、実質的にはイギリスが領土を拡張、アシエント(奴隷供給権)の獲得などで繁栄の足場を築いた

17401748年 オーストリア継承戦争

ハプスブルク家の家督継承をめぐって起こった。オーストリアとプロイセンの対立(独フィリップ大王とオーストリア・マリア=テレジアの死闘)を軸として、イギリスが前者を、フランス・スペインなどが後者を支援した絶対王政国家間の領土をめぐる戦争であるが、並行してイギリスとフランスの植民地戦争がアメリカ新大陸とインドで起こっている。

1756-1763年 7年戦争

プロイセンとオーストリアの対立を軸とした戦争。イギリスが前者を、フランス・ロシアが後者を支援、ヨーロッパ全域での戦争となったばかりでなく、イギリス・フランスは北米とインド植民地でも戦争し、戦闘は世界規模で広がった。

1853?1856 クリミア戦争

ロシアが南下政策を積極化させ、オスマン帝国に宣戦したことに対し、イギリスとフランス及びサルデーニャがオスマン帝国を支援して列強間の戦争となった。ロシアが敗北し、パリ条約で講和、オスマン帝国の領土は保全され、ロシアのバルカン方面での南下はいったん抑えられた。戦後にロシアはアレクサンドル2世による近代化改革を行う。

 

英仏植民地獲得合戦        目次に戻る

英仏抗争 第2次百年戦争1689-1815

1回戦 北米でウイリアム王(3世)戦争 引き分け

 同時にヨーロッハではファルツ継承戦争

2回戦 新大陸でアン女王戦争

 同時にヨーロッパではスペイン継承戦争→ユトレヒト条約

  英は仏から ハドソン湾地方、ニューファンドランド、ノバスコシア、

スペインからジブラルタル、ミノルカ島を得る

3回戦 北米でジョージ王戦争 仏ルイ15世対英ハノーヴァ朝ジョージ2世 引き分け

 ヨーロッパではオーストリア継承戦争 オーストリア(英)対プロイセン(仏・スペイン)

決戦 北米でフレンチ=インディアン戦争    フランスが負けてパリ条約

 英はミシシッピ以東のルイジアナを得る(以西はスペインに)

  インドでプラッシーの戦い

 ヨーロッパでは7年戦争

以後100年間第1次大戦までパックス=ブリタニカ時代

イギリスの勝因

16世紀毛織物業による蓄積

17世紀革命で議会(ジェントリーや商工業者)が権力を握り国家財政が健全化、国際発行も可能になった→潤沢な軍事資金

イギリスの経済発展→産業革命を用意したのは

@   大西洋三角貿易          目次に戻る

(世界史の窓より)

17〜18世紀に展開されたイギリスなどによる大西洋での貿易。アフリカから黒人奴隷をアメリカ新大陸・西インド諸島に運び、そこからヨーロッパにタバコや綿花、砂糖などを運んだ。とくにイギリスは三角貿易で得た富を資本として産業革命を推進する財源とした。(奴隷貿易は当初ポルトガル17世紀オランダ18世紀イギリスが中心となる)

奴隷や原住民は各地のプランテーションの貴重な労働力となった

A  プランテーション         目次に戻る

入植者が現地人・奴隷を労働力として単一作物を栽培する大農園。アジア、アメリカ南部、ラテンアメリカでの砂糖、ゴム、タバコ、茶、コーヒー、綿花などが商品作物として単作(モノカルチャー)が強制された。

スペインの歴史年表スペインの歴史年表 (europa-japan.com)より       目次に戻る

 

ハプスブルク家  家系図(ハプスブルク家) (www.ne.jp)より      目次に戻る

 

*世界史の窓から  ハプスブルク家

13世紀から20世紀初頭に至る神聖ローマ帝国およびオーストリアの王朝。15〜16世紀にはヨーロッパから新大陸に及ぶ広大な家領を有し、一族で支配権を分有した。その歴史は13世紀から20世紀に及ぶが、16世紀の全盛期をピークに、ヨーロッパ史の軸となる存在であった。そのため、ハプスブルク家が君主となった国家、神聖ローマ帝国(962〜1806年、ただしすべての皇帝がハプスブルク家だったわけではない)、オーストリア帝国(1806〜1866年)、オーストリア=ハンガリー帝国(1867〜1918年)を広い意味でハプスブルク帝国ということもある。

スイスの一地方領主として始まる

 ハプスブルク家の起源には、ローマ人説、フランク人説、果てはユダヤ人説まであるが、いずれも後に都合良くつくられたもので確証はない。最も有力な説はスイスのアレマン地方から独仏国境のエルザス地方にかけて、中世初期に小さな封建領主が分立し、その中の一人がライン上流の南ドイツに領土を拡大して次第に頭角を現わし、ブルグンドとの戦いの中で、その国境地帯に1020年にアールガウ地方(チューリヒの北西約30km)という山岳地帯にハビヒツブルク城(鷹の城の意味)とよばれた城を築き、その家系がハプスブルク家といわれるようになったということであろう。彼らは近隣のムーリにベネディクト派の修道院を立てて墓所とした。

 始めはシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝に従い、十字軍にも参加し、またそのイタリア政策に従って従軍し、叙任権闘争で教皇支持者と戦った。ところがシュタウフェン朝が断絶した後、選挙王制であった神聖ローマ帝国で、1254年から皇帝位がドイツ人以外に占められる「大空位時代」となる混乱が生じた。その間、ベーメンのオタカル2世の勢力が強大化し、オーストリアに進出してきた。

オーストリアへの進出

ルドルフ1世 1273年、ドイツ諸侯は、新たなドイツ王(皇帝)としてスイス地方の一諸侯に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世を選出した。彼が実質的なハプスブルク家初代である。ドイツ諸侯はベーメン王のオトカルがオーストリアの地を占領し、さらにドイツ王に選出されることを狙っていたので、それを阻止することをルドルフに期待したのだった。 ルドルフにとっても意外なことであったらしいが、それを認めなかったベーメン王オタカル2世を1278年、マイヒフェルトの戦いで破り、オーストリアの地を得た。これがハプスブルク家の繁栄の始まりとなったため、後世、ルドルフはハプスブルク帝国の栄光の始祖として伝説化された。しかし、まだこの段階では、ハプスブルク家が皇帝位を独占することはできなかった。

帝位を独占するのはフリードリヒ3世(神聖ローマ皇帝に選出)、マクシミリアン1世(息子フィリップをスペイン女王と結婚させスペインも支配下に)以降である

 1556年、カール5世は神聖ローマ皇帝を退位するにあたり、広大なハプスブルク帝国を一人で統治することは不可能と考え、ハプスブルク家は弟のフェルディナントのオーストリア=ハプスブルク家と、子のフェリペ2世のスペイン=ハプスブルク家とに分割することにした。こうしてハプスブルク帝国は分割され、ハプスブルク家も二つの家系に分かれることとなった。