現代政治の思想と行動  丸山真男  未来社

 

丸山先生自身は“夜店”の屋台として メイン商品では無いことを断っておられましたが、世間では先生の著作の第一に挙げられる物です。

中でも巻頭論文“超国家主義の論文”超国家主義の論理と心理“は戦前・戦中の日本超国家主義の病理に鋭いメスを入れ、”日本が何故あのように馬鹿げた戦争を行ったか?“を問い、今日に至るもその新鮮な輝きを失っていません。

 

(超国家主義の理論と真理)

そもそも近代国家はナショナリズムを本質的属性とする。各国とも帝国主義的膨張主義で拮抗していた時代である。そのような環境下で何故日本の国家主義がウルトラ級と言われるのか?その由縁が欧米の国家主義と比較することで明らかにされる。

宗教改革、市民革命を経由した欧米の国家は“中性国家”で有る事に大きな特色がある。

欧米に於いて国家は“真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした選択と判断は専ら他の社会的集団(例えば教会)ないしは個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである”公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収される。

しかるに日本の国家は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。

例えば“教育勅語”で日本国家が倫理的実体としての価値内容の独占的決定者たることを宣言するのである。国家が“国体”において真善美の内容的価値を占有、全てが“国家”に寄りかかる。

“国家のため”の学問・芸術・国民。

ここでは私的なものが私的なものとして承認される事はない。私的なものは悪か悪に近い何か後ろめたい物になった。

ここまでは周知の事実かも知れない。さて そこから素晴らしい驚くべき論理展開がなされる。

“私事の倫理性が自らの内部に存せずして国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に進入する結果になる”

 

“国家神話”が殆ど崩壊しかかっているかに見える?現代、解りやすい例で“会社”を取ってみよう。

“会社のため、株主のため”と声高に喧伝する者に限って、自らの私利私欲の為に、その情報独占の立場を利用する事が多いこと、村上世彰氏を持ち出すまでもないだろう。“国家”や“会社”と言う理念の曖昧さがつけ込まれるのだ。但しこれは単に私の慨嘆である。

 

“国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内在的正当性の規準を自らのうちに持っており、従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を越えた一つの道義的規準には服しない“

“それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである”

 

“真善美”の価値体系は天皇を長とする権威のヒエラルキーが決定する、法はヒエラルキーに於ける具体的支配の手段となる。

支配層の日常的モラルを規定するのは抽象的法意識でも内面的罪の意識でも民衆の公僕観念でもない。天皇への感覚的親近感のみとなる。結果自己の利益を天皇の利益と同一化、自己の反対者は直ちに天皇に対する侵害者と見なされる。支配者は天皇の御名を唱える事で自らの行動を全面的に正当化する事が出来るのである。“統帥権”、王に直属し王の名を取れば全てが許される。

誰が天皇に近いか、各分野がそれぞれ究極的権威(天皇)への直結によって価値付けられる結果、活動的・侵略的なまでに自己を究極的実体に合一化しようとする衝動から生ずるセクショナリズム。

究極的権威への親近性による得々たる優越意識と、権威の精神的重みをひしひしと感る臣下としての小心さ。そこには“独裁”観念すら生ずる隙間がない、独裁のもつ個人的責任の自覚は生じない。

独裁観念にかわって、上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に委譲して行くことによって全体のバランスを維持する“抑圧の委譲による精神的均衡の保持”

絶対的権威である天皇すら無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負うことで、その責任を免れる。

全てが王の御名を唱え国家に寄りかかる事で自らの急進的行動を正当化する無責任の体系。

“「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡大が中心価値の絶対性を強める循環過程”

 

(日本ファシズムの思想と運動)

準備期  第1次世界大戦の終わった頃から満州事変頃に至る時期“民間における右翼運動の時代”

     反共・反資本主義的民間右翼団体“猶存社”“建国会”“経綸学盟”“大化会”

     血盟団事件・三月事件

成熟期  満州事変頃(昭和6年)から二.二六事件(昭和11年)に至る時期

“急進ファシズム全盛期”

軍部特に青年将校と結びついた“下からの運動”

又 無産政党内部や在郷軍人や官僚を中心とする政治勢力も結成された

完成期  二.二六事件以後粛軍の時代から終戦まで“日本ファシズム完成期”

     二.二六事件を契機に“下からの運動”に終止符

官僚・重臣等半封建勢力と独占資本及びブルジョア政党間が不安ながらも連合支配体制

イデオロギー的特質

@   家族主義的傾向

   家長として国民の“総本家”としての皇室とその“赤子”によって構成された家族国家

A   農本主義的思想

   プロレトリアート軽視

B   大亜細亜主義に基づくアジア諸民族の解放  

運動形態の特質

@   軍部及び官僚という既存の国家機構内部に於ける政治力を主たる推進力

大衆組織運動として発展せず少数者の“志士”の運動

A   少数者の観念的理想主義の運動として展開されたため

   空想性・観念性・非計画性

B   破壊主義“我々は破壊すればよい、あとは何とかなる”

社会的担い手における特質

   ファシズムは一般的に小ブルジョア層を地盤とするが

   中間層の2つの類型

    @小工場主・商店店主・小地主・小学校教員・下級官吏など“親方”“主人”層

    A都市サラリーマン・文化人・自由知識職業者・学生などの知識人

   に分けるなら

@   の疑似インテリ層である地方の小宇宙主人公を基盤とし

A   の知識人層は文化的に孤立していた

歴史的発展の特異性

大衆的組織をもったファシズム運動が外から国家機構を占領するようなことはなく

下からの急進ファッショ運動のけいれん的激発を契機としその度毎に

軍部・官僚・政党など既存の政治力が国家機構の内部から

上からのファッショ体制を促進・成熟させていった

下からのファシズム運動は上からのファッショ化に吸収される

“皇道派”の急進的運動を契機に

“統制派”はもっと合理的に天皇を利用しながら自分のプランを上から実現した

かくて二・二六事件での急進ファシズム弾圧後

本来的に国民的基盤を持たない官僚

自らは革新の推進力と称しながら決して政治的責任を引き受けない軍部

ファッショ勢力と一戦を試みる闘志を失った政党

三者が挙国一致の名の下に鼎立競合する

更に 財界と軍部・官僚の利害が接近し独占資本と軍部の抱合体制が完成していく

日本のファシズムは“下からの運動”として成立せず国民的基盤を持ち得なかったのは何故か?

 ブルジョア民主主義の欠如していたが為

“近代的人間類型”からほど遠い封建的浪人あるいはヤクザの親分的人間が右翼運動を起こす事になり、明治時代の絶対主義的=寡頭的体制がそのままファシズム体制に移行したのである。

 

(軍国支配者の精神形態)

ナチ指導者と日本戦犯の比較

ナチ指導者に比べ日本戦犯に無法者や精神異常者は少なく

最高学府・出世街道を経て日本の最高地位を占めた顕官が殆どである。

先に述べた如く“無法者”タイプも日本ファシズムに重要な役割を果たしたが

彼らは権力的に就かず権力者に癒着していたところに特色がある

日本戦犯はこれら“無法者”に感染し引き回された哀れなロボットであったと言えよう

自己の行動の意味と結果をどこまでも自覚しつつ行動するナチ指導者と

自己の現実の行動が絶えず主観的意図を裏切っていく我が軍国指導者

一方はヨリ強い精神であり一方はヨリ弱い精神である

弱い精神が強い精神に感染する

弱い精神には無計画性と指導力の欠如が随伴する

ナチ戦犯裁判に見る“ヨーロッパの伝統的精神に自覚的に挑戦するニヒリストの明快さ、悪に敢えて居座ろうとする無法者の啖呵”

対し東京裁判被告の答弁はうなぎのようにぬらくらし霞のように曖昧である

そして見よ、被告を含めた支配層一般の戦争に対する主体的責任意識の稀薄。

日本ファシズムの矮小性

@   既成事実への屈服・権限への逃避

現実はつねに未来への主体的形成としてでなく過去から流れてきた盲目的必然性として捉えられる。

“無法者”の陰謀が次々とヒエラルキーの上級者によって既成事実として追認され最高国策にまで上昇する。

そしてもっともらしく責任が回避される“それでは部内が収まらない”“それでは英霊が収まらない”

“もっぱら上からの権威によって統治されている社会では、統治者が矮小化した場合、むしろ兢々として部下のあるいはその他被治者の動向に神経をつかい、下位者のうちの無法者あるいは無責任な街頭人意向に実質的に引きずられる結果となる”

上からの絶対的権威によって支えられた社会こそ“下克上”(無責任な力の非合理的爆発)を呼び起こし易いプロセスが解明されています。

更に“抑圧委譲の原理”によって ヒエラルキー最下位に位置する民衆の不満のはけ口が排外主義と戦争待望気分に注ぎ込まれる。支配層が不満の逆流を防止するため、そうした傾向を煽るのである、そしていよいよ危機的段階に於いて支配層は、逆にそうした無責任な“世論”に屈従して政策決定の自主性を失うのである。無責任・無計画・無指導性の循環が完結する。

A   “訴追されている事項は官制上の形式的権限の範囲に属さない”と言う責任回避

東京裁判で述べられた責任回避の理屈である。

被告の大部分は帝国官吏であった。M・ウェーバーの“官僚精神”が遺憾なく発揮される。

彼らの仕事は政治的事務なるが故政治に容喙しうるのであり、政治的事務なるが故政治的責任を解除されたのである。自己にとって不利な状況のときには何時でも法規で規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏を装うことが可能なのである。

天皇の権威を“擁し”て自己の恣意を貫こうとした軍部・右翼勢力はただひたすらに天皇の“神権”を実現すべく“地位”に定められた事務を実行したと言う、しかしカリスマ性を自ら抑圧した立憲君主たる天皇は“聖断”を実行して自ら責任を取ることを避ける。かくて人格のない無責任な匿名の力だけが乱舞する。

 

日本ファシズム支配の“無責任の体系”

神輿=権威

役人=権力

無法者=暴力

神輿は単なるロボットであり“無為にして化する”

役人は神輿を直接擁する正当性を権力基礎として人民を支配するが、最下位にある無法者に尻尾を掴まれ引き回される。

一方無法者には“権力への意志”はなく無責任に暴れて世間を驚かせ快哉を叫ぶのみである。

3つの類型は固定的ではなく一人の人間がこれらの類型を混在させる事もある。

しかし無法者がより役人的、神輿的に変容することで上位に昇進する事があっても、無法者が無法者としてそのままに国家権力を掌握することはなかった。