太平記 粗筋を読む(3) 後醍醐没後より足利義満登場まで
乱れ頽廃する世
23.
かって正成を壊滅させた伊予の武将・彦七盛長、ある時妙齢の娘に出会いその娘を助け背負って歩くうち、にわかに美しき娘は身の丈八尺ばかり、口は耳許まで割け、歯をむき出し、赤眼も爛々と光らす大鬼に変身する。これぞ心ならずも尊氏に滅ぼされ修羅道に彷徨う“七生報国”の大忠臣・正成が尊氏一統に取り付いた魂魄である。“七生報国”は綺麗事ではない。
悪疫に倒れた直義を自ら平癒祈願する光厳天皇、彼すら足利の武将土岐頼遠から陵辱される。“俺に下馬せよとは、いかなる馬鹿ぞ。なに?院というか、犬というか。犬なら射落としてやる”その様な時代である。
24.
武士の横暴極まりなく政道地に堕ち、仏法・神道失われ、世に疫病と飢饉のみが絶えない。ここに夢窓国師、世に祟りなす後醍醐の霊を鎮めんが為、天龍寺を建立、これが又叡山反発の火種になる。
25.
仁和寺の禅僧、六本杉の下で“天狗”の密議を見る。
後醍醐側近達が成仏出来ず天狗となって、尊氏一統に復讐を企て、世に仇なす密議に耽る。
26.
正成の1子 正行は情ある武将であった。正成の13回忌法要を済ませて後村上に勝利を誓って蜂起、細川・山名を破るも高師直・師泰兄弟と激闘の末戦死。
勝ちに奢り奢侈に耽り女色に溺れる師直兄弟、直義との溝が深まります。
27.
山伏・運景、愛宕山にて長老に導かれ天狗界に入る。
崇徳院、源為朝、後鳥羽、後醍醐、護良親王等、非命に倒れ悪念さらず大魔王となって天下大乱を密議するを見る。運景に応えて長老“後醍醐に仁徳なし”と切り捨て大乱を予言する。ついに師直は直義に攻め入る。尊氏・直義は妥協して直義剃髪して政界を退く。直義と親しい直冬(尊氏の次男)九州に奔り、尊氏の長男義詮が尊氏邸に入る。
28.
高師直の策略で尊氏は直冬追討に向かうが、直義は師直の手を逃れて脱出、吉野の南朝と同盟する。
29.
直義対尊氏・高兄弟の対決、尊氏側が破れ、和睦の末帰京途中高兄弟が討たれます。
“武庫(むこ)川の辺を過ける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔(へだて)山を阻(へだて)て、五十町(ごじつちよう)許(ばかり)に成(なり)にけり。哀なる哉、盛衰(せいすゐ)刹那(せつな)の間に替(かは)れる事、修羅(しゆら)帝釈(たいしやく)の軍に負(まけ)て、藕花(ぐうげ)の穴に身を隠し、天人の五衰(ごすゐ)の日に逢(あひ)て、歓喜苑(くわんぎゑん)にさまよふ覧(らん)も角(かく)やと被思知たり。此人(このひと)天下の執事にて有つる程は、何(いか)なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾(せんしよう)の禄(ろく)、万戸(ばんこ)の侯(こう)を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪(たきぎ)を負(おう)て焼原を過ぎ、雷(らい)を戴(いただい)て大江を渡(わたる)が如(ごとく)恐れき。何況(いかにいはんや)将軍(しやうぐん)と打双(うちならべ)て、馬を進め給はんずる其(その)中へ、誰か隔(へだ)て先立(さきだつ)人有(ある)べきに、名も知ぬ田舎(ゐなか)武士、無云許人の若党共(わかたうども)に押隔(おしへだて)られ/\、馬ざくりの水を蹴懸(けかけ)られて、衣深泥(しんでい)にまみれぬれば、身を知る雨の止(やむ)時(とき)なく、泪(なみだ)や袖をぬらすらん。“
天下の執事として権勢を誇り誰よりも恐れられた高師直、今は付き従う部下もなく尊氏帰京の行軍の中に身を隠す。しかし待ち受ける直義方にあっさり見破られ、強引に尊氏と引き離され三浦某という中間に討たれる。
“そこにいる遁世者、顔を隠しているのは何者だ。笠を取れ”蓮の葉の笠を引きちぎられ、胴間二つに切り裂かれる。
何故 尊氏が師直と組んで直義と対決したのか、権勢を誇った高兄弟が何故かくも弱くなったのか、今の私にはちょっと良く解りません。
30.
寸時の尊氏・直義の和解、勢いに乗った直義、諸将の反感を買う。
尊氏は直義追討の院宣を受け、直義を破る。
囚われの身となった直義は幾ばくもなく急死、毒殺されたという。
尊氏・義詮は南朝と和睦、南朝が正当とされ光厳上皇らが逆に吉野に幽閉される。
31.
和睦は後村上・新田勢、南朝方の謀略であった。
しかし戦い慣れした果敢な動きで尊氏が勝利。
32.
義詮は京を手にしたが光厳等を吉野に幽閉され天皇不在。
しかたなく 三種の神器を持たない異例の天皇、後光厳をたてる。
山陰の実力者山名師氏が直冬や吉野側と組み反乱を起こすが尊氏に惜敗。
身代わりに倒れた兵士、河村弾正を弔っていわく。
”懸(かかり)たる首を敵に乞受(こひうけ)て、空(むな)しき顔を一目見て泪(なみだ)を流(ながし)てくどかれけるは、「我此(この)乱を起して天下を覆(くつが)へさんとせし始(はじめ)より、御辺が我を以て如父憑(たの)み、我は御辺を子の如くに思(おもひ)き。されば戦場に臨(のぞ)む度毎(たびごと)に、御辺いきば我(われ)もいき、御辺討死せば我(われ)も死なんとこそ契(ちぎり)しに、人は依儀に為我死し、我は命を助(たすけ)られて人の跡に生残りたる恥かしさよ。苔(こけ)の下草の陰(かげ)にても、さこそ無云甲斐思給ふらめ。末の露と先立(さきだち)本(もと)の瀝(しづく)と後(おく)るゝ共、再会は必(かならず)九品(くほん)浄土(じやうど)の台(うてな)に有(ある)べし。”
33.
1358年4月20日、尊氏背中に腫物生じ、病の床につく。同月29日ついに尊氏死す。享年54歳。
“哀(あはれ)なる哉、武将に備(そなはつ)て二十五年、向ふ処は必(かならず)順(したが)ふといへ共、無常の敵の来るをば防(ふせ)ぐに其(その)兵なし。悲(かなしい)哉、天下を治(をさめ)て六十(ろくじふ)余州(よしう)、命(めい)に随(したが)ふ者多しといへ共、有為(うゐ)の境(さかひ)を辞(じ)するには伴(ともなう)て行く人もなし。身は忽(たちまち)に化(け)して暮天(ぼてん)数片(すへん)の煙と立(たち)上り、骨(ほね)は空(むなし)く留(とどまつ)て卵塔(らんたふ)一掬(いつきく)の塵(ちり)と成(なり)にけり。別れの泪(なみだ)掻暮(かきくれ)て、是(これ)さへとまらぬ月日哉(かな)”
34.
尊氏亡き後 義詮が将軍に座に着く。しかし諸国守護勢力を統一するだけの力もなく、諸国の武士達は時に南朝を立てて義詮に対抗、時に彼ら同士で戦う。戦乱の世は元弘以来30余年、定まる事もない。
35.
北野通夜物語。北野天満宮の社頭に1名は昔武家、1名は公家であったと思われる遁世者さらに1名の僧、秋の夜長を徹して中国の故事、往年の鎌倉・室町幕府を語る。
太平記総決算と見られる政治批判、歴史批判、世界観が語られる。
皇国史観の方には申し訳ないが 南北両朝に対するあからさまな批判が語られる。
勿論幕政への批判もある。
“このように嘆かわしい世の中になったのは上いちにんの責任である”
“まことに国に君を諫める臣下があれば、その国は必ず安泰である。吉野の天皇が真に天下の人を安んじようとし、臣下も無私の心で君の非を諫めるようであれば、此ほど堕落した武家の世をどうして奪い返せぬ事があろうか。すでに30余年も奪い返す事も出来ず吉野にくすぶって居るではないか”
ただし最後は僧の“因果応報論”に落ち着くのはいささか残念である。
“加様(かやう)の仏説を以て思ふにも、臣君を無(なみ)し、子父を殺すも、今生一世の悪に非(あら)ず。武士は衣食(いしよく)に飽満(あきみち)て、公家は餓死(がし)に及(およぶ)事も、皆過去(くわこの)因果にてこそ候らめ”
36.
うち続く天災と干魃。仁木義長、畠山国清の対立。山名師氏と赤松則祐の戦い。
九州・東国で興る反義詮の蜂起。
細川清氏、佐々木道誉の讒言で都を脱出、吉野側に付き、楠正儀とかたらって義詮を攻め落とす。
37.
権勢を誇り赤松・細川などを讒言してきたカブキ者、佐々木道誉の有名な都落ち。
“六間(むま)の会所(くわいしよ)には大文(だいもん)の畳を敷双(しきなら)べ、本尊・脇絵(わきゑ)・花瓶(くわびん)・香炉・鑵子(くわんす)・盆(ぼん)に至(いたる)まで、一様(いちやう)に皆置(おき)調へて、書院には義之(ぎし)が草書の偈(げ)・韓愈(かんゆ)が文集(ぶんしふ)、眠蔵(めんざう)には、沈(ぢん)の枕に鈍子(どんす)の宿直(とのゐ)物を取(とり)副(そへ)て置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿(みさを)に懸(かけ)双(なら)べ、三石入許(ばかり)なる大筒に酒を湛(たた)へ、遁世者(とんせいしや)二人(ににん)留(とどめ)置(おき)て、「誰にても此(この)宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細(こさい)を申置(おき)にけり”
38.
義詮に反旗を翻した畠山兄弟の失脚、細川清氏の討ち死に、結局吉野側の京都奪回は失敗に終わる。
39.
大内、山名、斯波氏などの変転極まりなき去就。
かって尊氏に擁立されて以来、動乱の世に数奇の生涯を送った持明院系光厳法皇は幽閉を解かれた後、仏門に入り世を憂いものさびた生活をおくっていたが、ある日山林修行を思い立ち下男一人つれて行脚の旅に出る。
“御貢備し民の営、是程に身を苦しめけるをしらで、等閑にすさびける事よと、今更あさましくおぼしめし知らせたまふ”
金剛山の名を聞けば
“是こそ音に聞へ候金剛山の城とて、日本国の武士共の、幾千万と云数をも不知討れ候し所にて候へ。」とぞ申ける。是を聞食て、「穴浅猿や、此合戦と云も、我一方の皇統にて天下を争ひしかば、其亡卒の悪趣に堕して多劫が間苦を受けん事も、我罪障にこそ成ぬらめ”と自責の念に涙する。
吉野後村上のもとにも立ち寄り、ここに運命に翻弄された二人は涙にむせびながら述懐する。
後村上 “さても只今の光儀、覚ての後の夢、夢の中の迷かとこそ覚へて候へ。縦仙院の故宮を棄て釈氏の真門に入せ給ふ共、寛平の昔にも准へ、花山の旧き跡をこそ追れ候べきに、尊体を浮萍の水上に寄て、叡心を枯木の禅余に被付候ぬる事、何なる御発心にて候けるぞや。御羨こそ候へ”
光厳 “聰明文思の四徳を集て叡旨に係候へば、一言未挙先に、三隅の高察も候はん歟。予元来万劫煩悩の身を以て、一種虚空の塵にあるを本意とは存ぜざりしか共、前業の嬰る所に旧縁を離兼て、可住荒増の山は心に乍有、遠く待れぬ老の来る道をば留むる関も無て年月を送し程に、天下の乱一日も休む時無りしかば、元弘の始には江州の番馬まで落下り、五百余人の兵共が自害せし中に交て、腥羶の血に心を酔しめ、正平の季には当山の幽閑に逢て、両年を過るまで秋刑の罪に胆を嘗き。是程されば世は憂物にて有ける歟と、初て驚許に覚候しかば、重祚の位に望をも不掛、万機の政に心をも不留しか共、一方の戦士我を強して本主とせしかば、可遁出隙無て、哀いつか山深き栖に雲を友とし松を隣として、心安く生涯を可尽と、心に懸て念じ思し処に、天地命を革て、譲位の儀出来しかば、蟄懐一時に啓て、此姿に成てこそ候へ”
40.
義詮、病を得て1367年12月、38歳で逝去。義満後を継ぎ細川頼之後見する。
“爰(ここ)に細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)、其比(そのころ)西国の成敗を司(つかさどつ)て、敵を亡(ほろぼ)し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍(とてつ)、少し先代貞永(ぢやうえい)・貞応(ぢやうおう)の旧規(きうき)に相似たりと聞へける間、則(すなはち)天下の管領職(くわんれいしよく)に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴(おなじおもむき)に定りしかば、右馬(うまの)頭(かみ)頼之を武蔵守(むさしのかみ)に補任(ふにん)して、執事職を司(つかさど)る。外相内徳(げさうないとく)げにも人の云(いふ)に不違しかば、氏族も是(これ)を重(おも)んじ、外様(とざま)も彼命(かのめい)を不背して、中夏無為(ちゆうかぶゐ)の代に成て、目出(めでた)かりし事共(ことども)也(なり)”
年表 http://www.h5.dion.ne.jp/~bey1992/chronicle/chronicle.html より
1340 | 北条時行が信濃大徳王寺城に挙兵、ついで小笠原貞宗がこれを攻略する。 | |
島津貞久、薩摩一宇治・市来両城を攻略、ついで同国各地に戦う。 | ||
仁木義長、遠江大平城に宗良親王を攻略する。 | ||
斯波高経ら幕府軍、越前府中を攻略、ついで脇屋義助を破る。 | ||
佐々木道誉・秀綱父子、妙法院宮御所を襲い、これを焼く。 | ||
幕府、延暦寺の訴えにより道誉父子を敗流に処す。 | ||
1341 | 足利直義、佐々木道誉に伊勢の南朝軍を討たせる。 | |
河野通世・忽那一族、伊予国道後で幕府軍と戦う。 | ||
1342 | 美濃守護土岐頼遠、京都で光厳上皇の車に矢を射る。頼遠は12月1日に誅殺される。 | |
1343 | 関・大宝城陥落。北畠親房、吉野へ帰る。 | |
1344 | 幕府、春日顕国らの首を京都六条河原に晒す。 | |
1346 | 興福寺衆徒、東大寺を襲撃する。 | |
光厳上皇、倹約令を出す。 | ||
1347 | 楠木正行挙兵し隅田城を攻撃。紀伊・河内・摂津など転戦、京に迫る。 | |
楠木正行の軍、河内八尾城を攻撃。 | ||
懐良親王、阿蘇惟時に挙兵を促す。 | ||
楠木正行、山名時氏・細川顕氏を摂津住吉・天王寺に破る。 | ||
1348 | 懐良親王、菊池城に入る。 | |
四条畷の戦い。楠木正行、高師直と戦い敗死。 | ||
高師直の軍、吉野を攻略。 | ||
高師直、吉野の行宮・蔵王堂などを焼く。 | ||
高野山衆徒、宮方・武家方の戦闘に加わらぬことを盟約する。 | ||
足利直冬、紀伊国に到って南朝軍と戦い、ついで阿瀬河城を攻略する。 | ||
1349 | 費用不足などにより崇光天皇の即位式を延期。 | |
足利尊氏ら四条河原の橋勧進田楽を見物、桟敷が倒れ死傷者多数。 | ||
足利直義、高師直と不和を生じ、京都騒擾。 | ||
高師直が足利直義襲撃を計り、直義は尊氏第にのがれる。 | ||
高師直の要求により、足利尊氏、上杉重能らの配流及び直義の政務停止を約す。 | ||
これにより直義は幕府最高権力を足利義詮に譲ることになる。 | ||
僧疎石の調停により直義の政務及び師直の執事を復す。 | ||
足利直冬、高師直方の軍勢に破れ、四国から九州へ西走。 | ||
足利尊氏、中国探題足利直冬を討つ。直冬は九州へ逃れる。 | ||
足利基氏、高師冬を執事とする。 | ||
足利直義出家。恵源と号す。 | ||
1350 | 高師冬、京都より鎌倉に赴く。 | |
足利尊氏、島津貞久に手書を与え足利直冬を討たせる。 | ||
足利直冬、少弐氏に迎えられ太宰府に入る。一色氏逃亡。 | ||
足利義詮・高師直ら、美濃を平定し京都に帰る。 | ||
足利尊氏・直義の対立激化。(観応の擾乱)。 | ||
足利直冬九州で挙兵の報が京都に届く。 | ||
足利尊氏・高師直、足利直冬追討のため京を出発。 | ||
足利直義、京を脱出し畠山国清の石川城へ。 | ||
足利直義南朝に降るとの報が京都に届く。 | ||
足利直義、南朝に帰服し、足利尊氏討伐の綸旨を得る。 | ||
足利直義が摂津天王寺に進み、直義党の多くが集まる。 | ||
高師冬、上野の上杉憲顕討伐に向かう途次、湯山で近臣にはかられ須沢城に逃れる。 | ||
足利尊氏、軍を京へ引き返す。 | ||
1351 | 足利尊氏、摂津瀬河宿に到る。足利直義は入京、八幡へ。 | |
高師泰、包囲を解いて京へ引き返す。 | ||
足利尊氏ら播磨へ敗走。播磨書写山に拠り兵を募る。 | ||
高師冬、諏訪直頼に攻められ自刃。 | ||
打出浜の合戦。足利尊氏、足利直義に破れる。 | ||
足利尊氏・直義和睦。 | ||
上杉能憲、師直・師泰ら高一族を討滅。 | ||
足利尊氏入京、翌日直義入京 | ||
足利直義、尊氏と不和になり北陸を経て鎌倉へ逃げる。 | ||
南朝、尊氏と結び直義の追討を命令。 | ||
足利尊氏、直義追討のため近江に入る。 | ||
八相山の戦い。直義軍、尊氏軍に破れ敦賀に戻る。 | ||
足利尊氏・直義、和を計り近江興福寺に会すが不調。 | ||
足利直義、鎌倉へ。 | ||
足利尊氏、南朝へ降る。 | ||
足利尊氏、直義追討のため京都を出発、鎌倉へ。 | ||
南朝、崇光天皇を廃す(正平の一統)。 | ||
足利直義、鎌倉へ入る。 | ||
南朝、神器を回収。 | ||
1352 | 足利尊氏、足利直義と和睦し、鎌倉へ入る。 | |
足利尊氏、弟直義を毒殺。 | ||
弥仁親王(後光厳天皇・14)践祚。 | ||
足利直冬、今川憲氏に追われ九州より長門へ。南朝に帰順。 | ||
1353 | 足利直冬の勢力拡大。 | |
足利義詮、近江に逃走する。 | ||
足利尊氏、後光厳天皇を奉じ入京. | ||
1354 | 北畠親房没。 | |
足利義詮、足利直冬追討のため西下する。 | ||
後村上天皇、金剛寺へ。 | ||
1355 | 足利尊氏入京。南北両軍、京で戦う。 | |
足利直冬ら敗退。直冬、安芸へ逃れる。 | ||
宗良親王、諏訪社祝矢島・仁科一族を率いて信濃桔梗原に小笠原長亮を攻め、敗れる。 | ||
懐良親王、博多に進出。一色憲氏、長門に破れる。 | ||
1356 | 細川頼之、足利直冬追討に乗り出す。 | |
1357 | 島津氏、志布志松尾城を攻める直顕を破り、大隅より追う。 | |
1358 | 足利尊氏死去。 | |
足利義詮、征夷大将軍となる |