子午線の祀り  木下順二

“子午線の祀り”は日本演劇史上著名な戯曲です。かって(娑羅双樹の花の色 平家物語を読む H15.10.6)で取り上げた同氏の“平家物語”はこの戯曲と同一線上の構想です。
1979年初演 新劇界から今は亡き山本安英(影身)滝沢修(重能)能楽界から観世栄夫(宗盛)狂言界から野村万作(義経)前進座歌舞伎から嵐圭史(知盛)語りはあの宇野重吉そして演出は木下順二と宇野重吉、音楽が武満徹。私達の世代にとってため息の出るような顔ぶれでした。
ドラマの構成上も斬新な実権的試みが為されています。
追われゆく平家の叙事詩劇としての特性を高めた“群讀”という手法、読み手が同時に劇中の人物になり、劇中人物が突然客観的な読み手になる、時に登場人物が自分自身の行動を自分で語ります。これは明らかに能楽の手法を大胆に取り入れられた物と思われますが、
“人”と“歴史”の関係が象徴的に表現されています。この手法によって熱いいくさ人であり同時に冷めた歴史の観察者であった知盛像が最も効果的に描出されています。
(木下順二氏は能楽にも並ならぬ造詣を持たれておられたようで、複式夢幻能に関する一遍の小論が見つかりました。いずれご紹介します)

平家壇ノ浦の敗戦を運命付けた潮の流れそして宇宙の運行、それを真実理解し得たのは“平知盛”でした。宇宙の定めに比べての人間の歴史の相対性、そのさなかでの熱い“生”と“死”。
ここでは“義経”は単なる戦術家です。自らの身代わりに我が子に先立たれて号泣する知盛、愛馬を哀れみ庇う知盛。片や非戦闘員である水夫をも無惨に殺傷を命ずる義経。義経は勝利の為には手段を選びません。頼朝も後白河も政策の為には手段を選びませんでした。
加藤周一氏はこの戯曲の批評で滅び行く支配者がその文化に生き、その文化とともに滅び行くのに対し攻め滅ぼす側の反文化主義を語っておられます。そして反文化主義→価値の一元化→目的に対する手段の正当化。善し悪しは別として反体制に運命付けられた“残酷性”の根拠です。

さて知盛は故山本安英演ずる“影身”を介して宇宙と交感します。天空との“まぐわい”の中で“生抜くための戦い”の心が蘇ります。隠遁するのでもなく死を恐れる事もなく諦観する事もなく、ただ運命を生き抜く事に託した“いくさ人”としての“転生”
唐突にもはや古典的とも言える戯曲を持ち出したのは この“知盛”に勃興期“武士”の典型を見たからでした。自前の武具をもって家門と己の為に立ち上がった武士、天空の運命の欲するままに己1人に責任を持ち潔く生き抜き滅んで行った“知盛”の姿には揺籃期キリスト者の純粋な姿さえ重なって見えて来ます。

“劇的”とは  木下順二  岩波新書


ドラマに於いて又日々の生活に於いて“劇的”とはどういう事か?
ある願望があって、それも願わくは妄想的でも平凡でもない強烈な願望があって、それをどうしても達成しようと思わないではいられないやはり強烈な性格の人物がいる。
そして彼は見事にその願望を達成するのだが、それを達成するという事は、同時に彼がまさにその上に立っている基盤そのものを見事に否定しさるのだと言うそう言う矛盾の存在。木下氏はその矛盾存在の原理を“ドラマ”と言いその原理の集約点をドラマのクライマックスとする。
願望を持てば持つほど願望から遠ざかるを得ないと言う構造。
人間が持っているところの人間の力ではどうしようもない性(さが)、
人間の力を越えるなにものかと緊張感を以て対峙するところに“ドラマ”が生まれる。
人は人の生そのものに内蔵された矛盾、不条理を如何様に見出し、それとの闘いを展開して行くのか?
木下氏に導かれ古典劇の“オイディプス王”“フェードル”シェクスピアの“マクベス”“ハムレット”などに父殺し、母子相姦など人類永遠の問い掛けを見る。
私達は木下氏の解説を通して日本の能“井筒”歌舞伎“寺子屋”そして“平家物語”に人類の“原罪”とも言える矛盾に満ち矛盾の中で生き抜く“主人公”を見る事が出来る。
人間の力を越える“大いなるモノ”と真っ向むかい合う所からドラマが生まれます。
木下氏自ら“子午線の祀り”で描いた平家・知盛は抗いがたき運命に慟哭し、立ち上がり闘い死を迎えずぶりと海に入る。“見るべき程の事は見つ、今は自害せん”
その他この書で木下氏はヨーロッパーと日本古典劇の差違、日本語の特性、セリフ回しから芝居に於ける所作の豊潤さまで触れておられます。優しい言葉で“演劇”の見所、面白さが伝わってきます。