室町記 山崎正和 講談社文庫
司馬遼太郎先生でしたか、衣食住からアートまで現代日本の文化の起源が殆ど室町時代にあると書かれていたように思います
山崎先生の古典的名著がこの室町時代の文化の成り立ちを易しく解説されています
俳人・黛まどかさんは俳句が“孤独な営み”ではなく、古来“俳諧の座”や“結社”“同人”集団として発達してきた事に注目されました
山崎先生は俳句のみならず連歌・俳諧・能・華道・茶道など室町時代の多くの文化がサロンで育まれた芸術、“社交”から生まれたことを強調されました
そして室町の文化が現代日本文化の起源として確立されたものであるならば、それは日本と西洋の比較文化論になっています
西洋では芸術の探求すべきものはつねに人間界を越えた神の世界に属するとされ、そこでは芸術家は神に直結する“傲然たる孤独者”です
時代が下って近代になれば、このイメージは近代的独創的自我の発現者に結実します
一方日本では、芸術家は“傲然たる孤独者”ではなく、つねに人間の世界・人間関係の中に有ります
神を表現するものではなく、人の心から生まれ出て他人の心を動かす技術が芸術とされました
“日本の芸術は根本的に社交の芸術であり、広義のもてなしの技術であった”
世阿弥の有名な言葉“秘すれば花なり、秘せざるは花なるべからず”を
劇作家・演出家でもある山崎先生は“臭い演技はいけない”と解りやすく翻訳されています
芸術が社交の技術であれば、演技過剰、見え透いた制作意図、自己顕示が一番嫌われます
世阿弥の“幽玄”は猿楽の“写実的演技”に“優雅”のヴェールをかけました
俳句などの“わび”“さび”も意味は異なりますが優雅と写実、二重の構造をもったアイロニカルな表現と言う事です
能や俳句に要求される“定型”も観客や読者との“共感”を得る作法と解釈されます
“サロン文化”と言っても勿論“お座敷文化”では有りません
一人野を行く傲岸な“自我”の発露ではなく、人の心を動かすこと、共感の場を創り上げる事を文化とした日本人を誇らしく感じます(このような文化、むしろ”今風”です)
さて、このような文化特性が室町に生まれたのは何故か?
先生はその理由を、足利政権と時代の風潮が非常に不安定であった事、足利幕府が京都に置かれたことに求めます
徒手空拳で成り上がった北条執権政権は合理的・有能な政権でしたが極度に退屈散文的な政権だったそうです
一方貴種・“源”の流れとはいえ足利政権はつねにゴタゴタ続きの様でした
動乱の時代は“自分の決断ひとつで何かが手に入りそうな時代”でもなかなかそうもいかぬ時代でした
その権力基盤の脆弱さ、更に武力で勝ち取った権力が武力によって覆される事への絶えざる恐れ
新しい支配層と新興勢力は文化的“権威”に憧れ渇望します
その事が振興の文化を伝統文化の上に接ぎ木させ、伝統的優雅と近代的簡素の二面的文化を見事に開花させました
脆弱な政治体制は武力での統一が無理なるが故、あらそって“社交”を求めました
有能な武将や政治家は同時にすぐれた社交家である事を求められました
京では日ごとの大宴会、連歌・茶華・詩画・演能など趣味のサロンに社交のプロを育て、地方豪族は“小京都”の建設に勤しみました
政治的必要性が仲間を求め“もてなし”を楽しむアートを創り上げました(当初の茶道・華道もゲームのような遊びでした)
武力で獲得した革新政権がその後の安定のための“正統性”、“権威”を求める事はよく有る事だし、そこに“権威”と言うものの胡散臭さも感じますが、室町支配層たちによって創り上げられた文化は、伝統的“権威”の破壊でも妥協でもなく、伝統的“権威”を克服、その上にたっての命がけでの文化創造でした
そもそも文化は政治的安定ではなく不安定を糧として生まれるようです
このような室町文化を創造した足利尊氏、義満、義政、楠木正成、北畠親房から世阿弥、宗祇、雪舟などなど、山崎先生の筆は“人物評論”にすすみます
コンパクトながら素晴らしい名著です
尊氏 およそ熱狂とは縁のない穏健な常識人は終生天皇の権威、自分の野望を恐れた
後醍醐 珍しく政治的・意志的な力の帝王であったが、その観念的理想主義は短命に終わった
(日本人は伝統的に権力と権威の分離を求めた)
副将 直義(尊氏)脇屋義助(新田義貞)小太郎長重(名和長年)大塔宮(後醍醐)
過激な決断を躊躇う主将に対し味方を攻撃的・積極的方向に導くが非業の最期を遂げる事が多い
新田義貞 引き立て役、勾当内侍との恋物語
児島高徳 情報戦の先駆者
楠木正成 奇抜な“計略”、勇敢な敗者に庶民は“判官びいき”
北畠親房 醒めたイデオローグ、人材が乏しくなった南朝側陣営で唯一の教養人
高師直 徹底したリアリストの壁
ばさら・佐々木道誉
経済力だけでは無く演出家の才能と美術鑑定感覚、美的な示威が政治的な力として働く事を見抜く知恵
肥後の菊池一族 南朝征西将軍・懐良親王を旗印に筑前・小弐、豊後・大友と対立
義満 最初の政党政治家、守護どうしの対立を逆用する権謀術数をふるい
新興商人の金力から大陸との外交関係まであらゆるものを使って生き延びた
天下に支配権は及ばず、大内義弘・今川了俊などの豪族を恐れた
京都をあたかも独立国として支配すべく、自分を守る新しい術策と権威を創造すべく
自らを文化の創造者である事を証明して見せねばならなかった(北山文化のパトロン)
自らの保身のためにも朝廷の権威を強化すべく、南北朝を統一を呼び掛け(南朝・後亀山、北朝・後小松)
将軍職を義持に譲り、公家の頂点・太政大臣へ
義政 政治的実権を日野富子に譲り、
“同朋衆”を集め文化の一大センターを主宰、文化的権威の中心たろうとした
小京都・豆京都の建設 大内(山口)一条(土佐・中村)朝倉孝景(越前・一乗谷)
日本の地方文化は土着ではなく、都会への憧憬・模倣として育った
“国人”の独立政権を目指した“山城国一揆”も中央志向から内部崩壊した
土一揆と徳政令
社会を動か勢力が多元化したため、“近代化の歪み”をただす紛争が多発したが、
体制を揺るがす物ではなく、首謀者は罰するが要求の半ばを受け容れる解決法が日本の伝統になった
農民が結集した浄土真宗、町衆(土倉や酒屋等の大富豪)が信仰した法華(現世利益、厳格主義)
戦国時代の天下構想 北条早雲(関東志向型)毛利元就(血縁割拠主義)信秀・信長父子(京都志向型)
二流の野心 三好長慶、松永久秀(義輝を殺害、義栄を擁立)
義昭、本願寺顕如 信長と権力を争った二人の権威者
観阿弥・世阿弥 猿楽を都会的感覚で変革、義満の文化的自己主張を満足させた
兼好法師 最初のジャーナリスト、“遁世者”の教養
連歌師・宗祇 遁世が世間を自由に泳ぎ回る手段となり、学問や芸能が社会的階層を越える裏梯子に
連歌に“要求されるのは一座の気分の流れを正確に掴む能力であり、
それに生き生きとしかも控えめに自分を併せていく能力“だ
蓮如 流動の時代の組織者 彼が考案した“講”と言うクラブ組織
信者に自己表現の欲望と世話役としての社会的地位の欲望を満たさせ
信仰は個人の意志というより集団の雰囲気となり、仏への帰依は微妙に仲間どうしの帰属感と混ざり合った
一休 反常識、奇抜な機知、自由な宗教家として
後小松の落胤として民衆の“貴種”への憧れ、“判官びいき”を一身に集める
一条兼良 義政と富子の教養の師
学才と高位に恵まれたが経済的には不遇、しかし公卿的教養に不屈の自信
三条西実隆 日記に記録された面倒な交際や贈答の繰り返しは疲れを知らぬ“人間好き”を思わせる
雪舟 京のサロンを避け、山口・大内氏に身をよせる
明への留学で名声を得たが晩年まで放浪の旅へ、多様な顧客の多様な趣味に応えた自由な職業画家
狩野永徳 中国の水墨画技法に大和絵の優雅な色彩を加え、絢爛豪華な金碧障壁画を完成