ドラッカー 自由・社会・管理 三戸 光 未来社
ドラッカーは日本高度成長期、経営者の“聖典”としてもて囃された
そして “もしドラ”(もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら)はベストセラー2年連続(2010〜2011)1位にランキング、いまだ書店ではドラッカー本が山積みである
何故そんなに人気が?
へそ曲がりの私は“もしドラ”ではなく、学生時代に買った古典的解説本を引っ張り出してきた
初刊70年代、解説本と言っても、ごくごく真面目な研究書である
三戸先生は初期ドラッカーにドラッカーの精髄を見る
ドッラカー思想を初期の著作“経済人の終わり”あたりを中心に掘り下げる
初期の著作はドラッカーがナチから追放され、反ファシズムで尖っていた頃、現状告発色の濃い著作である
勿論ドラッカーは反マルキストとしても舌鋒鋭いから、“資本主義以後の世界”が課題とされている昨今、再読に十分値するものである
さてドラッカーは現代を商業社会以後の社会、“産業社会”と見る(資本主義社会でも共産主義社会でも)
“商業社会では人は市場を媒介として富を実現し、その富によって社会的地位を得た、ところが産業社会では組織体の内部で個人は機能し地位を得、地位と機能にもとづいて所得を得る”
産業社会における個人と個人を結びつけ、個人を社会に統合する原理は何か?
それは“組織の原理”であり、彼はそれを“大量生産の原理”と呼ぶ
“現代は大産業企業体中心の社会であり、大企業体こそ社会の中心的・代表的・典型的な制度であり、大企業体がうまく運営されるかどうかがその社会において決定的な事柄である”
組織の論理が人間の社会的行為の一切を貫く社会こそ産業社会である
大量生産社会は人を動かす原動力を“市場の原理”から“組織の原理”に変換する
大量生産では“労働者の生産物及び生産手段からの分離”は必然である
生産物及び生産手段からの分離によって“疎外された人間”
ドラッカーはマルクス同様“疎外された人間”の解放をテーマーとする
マルクスは生産手段の社会的所有によって疎外が克服出来ると考えた
ドラッカーは“自由”によってのみ疎外が克服されると捉える
ドラッカーの“自由”概念は次のような人間性に関するキリスト教の概念に由来する
人間は “不完全で弱く罪人であり塵になるべき運命でありながら、神の考えでつくられ、そしてしかも己の行為に責任がある”
ドラッカーは責任有る選択こそが自由の本質であり、人間のしるしであるとする
そして、自分の思考を絶対に正しいとし、あるいは自分は何よりも優越しているとする考えが自由を犯すという
ここにドラッカーのファシズム及びマルキシズムに対する根元的批判がある
社会主義的階級社会では“絶対的正義”を振りかざす権力者によって自由が束縛され人間が疎外される
“物質的制約からの解放”を唱えたマルクスは別として、社会主義政権と称する国々が国民の“自由で責任有る意志決定”を妨げるべく情報を遮断する強固な官僚支配社会である現実は拭いがたい
絶対や優越のあるところ、そこには“責任有る選択”=自由はない
しかし“組織社会”は管理するものと管理されるもの、意志決定者と服従者の社会である
ウェーバーはこの組織社会=官僚制社会の進化拡大を絶望したが、ドラッカーは組織社会での“自由”=“疎外克服”の可能性を追求する
個人が自ら意志決定し責任を負うこと(自由)を放棄すれば産業社会は機能を停止、絶望の“ファシズム”に道を開く
さてドラッカーは産業社会においての“市場原理”から“組織原理”への変換を説いたが、産業社会での“市場原理”を否定したのであろうか?
産業社会では“財産の所有・被所有による支配服従関係のかわりに、組織における人間の支配服従関係たる管理・被管理、より細かくは経営者(組合役員もこの範疇)=支配階級と中間管理者=中間階級及び下層労働者=被支配階級の関係が、産業社会における支配的な・基本的な人間関係・階級関係として把握されるようになる”
だからドラッカーは企業組織体での経営、統治機能=管理の重要性を強調する
故に企業を“経済的機能”“統治的機能”“社会的機能”の三つの側面から捉える
産業社会での経営者の職務を見てみよう
@ 第一職務 経済的能
A 第二職務 企業の統治的側面に関わる管理者の管理
B 第三職務 社会的側面に関わる従業員およびその仕事の管理
経営者は経済的成果を上げるべく企業を管理せねばならない
産業企業体は大企業なるが故、崩壊を許されないゴーイングコンサーンである
よって“企業維持が至上命令になることで利潤概念が変容する、最大限利潤追求法則から損失回避の法則へ、利潤は未来の危険のための掛け金であり企業維持のための費用となる”
“産業社会における企業体の原理・行動・政策・意志決定は個人的な利潤動機とは何ら関係なく、またその社会の法律的・政治的構造とも何ら関係なく更には利潤の分配法則とも関係なく、損失回避の原則(産業企業体の第一法則)・産出高増大の原則(第二法則)に従い、収益性を企業体の至高の基準・原理とし、それによって社会に対する責任をあらわす”
しかし三戸先生も言うように、この“損失回避原則”の実態は“最大限利潤法則”と変わりない
第2第3の職務の重要性を強調するものの、経営者の第一職務を経済的成果の達成(経済的機能)に置いている事には違いない
ドラッカーの言葉か三戸先生の言葉か解らないが“企業体における決定的機能は経済的機能であり、企業体の存立、成功の尺度は経済的成果である”と断言する(三戸先生はそれ故に労働組合の重要性を強調する)
ドラッカーは利潤が企業活動を測定しうるたった一つの尺度であり手段であるとする
しかしそれは手段であり目的ではない、企業の真の目的は顧客の創造だとする
そして顧客の創造はマーケッティングとイノヴェーション及び生産性向上によってのみ可能であると言う
管理はこれらの目標に向かって行われる、そしてその結果が“利潤”であると言う
確かにその通りであるが“顧客の創造”は究極の“利潤獲得手段”“市場の原理”でなかろうか?
だからどうだと言うわけではないが、ドラッカーが“市場原理”や“利潤追求”を否定したとするには無理があるように思う
確かに組織の巨大化とともに、組織は“市場の原理”を捨て、“自己防衛”を目標とするようになる事はありがちな事である
しかし組織の為の組織、組織の自己増殖、ドラッカーの最も嫌う所であろう
“意志決定する自由と責任”を賦与されてのみ、人は組織に献身し社会を守る事が出来る、“無責任体制”が組織を崩壊させると言うのがドラッカーの“人間観”である
巨大化した産業社会において“意志決定する自由と責任”を持った人間のみが市場を創造し経済的成果を達成できると言うのがドラッカー理論の眼目であろう
彼の“組織論”は単なる“人間関係論”ではない、本来的に“意志決定する自由と責任”を賦与された人間こそが主体的に“組織”を動かし、生産性を向上させ、イノヴェーションを実現させ、“市場を創造”出来ると言う信念に基づくものである
しかし組織体での“統治”=“管理”は支配・服従を免れない、“管理”は“自由”と両立できるのか?
“管理”から逃れられぬ産業社会において自由を実現させる方策がドラッカーの経営理論である
逆に言えば、もしドラッカーが否定されるなら、資本主義社会で”自由”を唱導する事は”まやかし”になる
だからドラッカーは、戦後の荒廃から立ち上がり“自由”と“市場的成果”の両方を手に出来ると信じた日本高度成長期の経営者達の“聖典”になったのだろう
組織体にとって何より大事なことは目的・目標の達成である
従って管理はどこまでも目標達成に向かって機能的である事を基本的な指向とする
しかし企業の“経済的機能”達成に立ち向かうのが組織を構成する“自由な意志決定”を行う人間である
その為ドラッカーは次のような管理の要諦を説き、“目標管理”“自己統制”“分権的管理”など“自由な意志決定”を生かす経営テクニックを展開する
“管理は個々人の能力と責任に十分な領域を与え、同時に彼らのヴィジョンや努力に共通の福祉と調和を図ることを原則としなければならない。この原理・原則を実現する方策は各人による目標設定と自己統制による管理以外にない“
@ 所有と経営の分離、企業経営は利殖家ではなく組織力学のプロの手で
A 上は社長から下は第一線現場の職長に至まで各級管理者はそれぞれ明確な目標をもつ必要がある
“責任の賦与”のみが労働者を内面から“動機”付ける
B 適正配置、自主的目標設定、公正な業績評価、自主的人材の育成
C 総括的管理者の数を増やす、具体的には分権的管理、連邦的分権制的方向を指向すべき
D 上級者は下級者の“補佐役”、上級者と下級者の関係は命令者と服従者、支配と従者の関係から貢献者と補佐者の関係へ
E 上級者が統制するのではなく、目標設定者たる管理者個人個人の自己統制へ
F チームワークと意思疎通、情報流通、集団と個人の調和
G “人事管理”の基本的在り方
最大限の成果を上げるための人間の組織としての“組織化”、最大限の成果を上げるための従業員に対する動機付けとしての“責任の賦与”、労使間の安定のための賃金と雇用の安定と利潤観の改善(企業維持の為の未来費用)
H 職務の成果がはっきり形で現れ、自主的な工夫が生かされる“職務規定”、評価の重要性
I 管理者にとって最も大事な資質は高潔な品性(部下を生かす人)