ナポレオンの時代ナポレオン・タレーラン・フーシェ・ナポレオン3世

情念戦争 鹿島茂 集英社 より

フーリエ 情念引力が正しく組み合されたとき、初めて人類は幸福に到達できる

@ 五感を満足させる物質的な奢侈の情念(低位)

A 精神的・感情的情念

親子の情念

恋愛情念

友情情念

同志集団での名誉あるいは協調情念

B 社会集団での洗練的情念(高位)

 陰謀情念                警察大臣ジョセフ・フーシェ

 移り気(蝶々・変化)情念        外務大臣シャルル=モーリス・ド・タレーラン

 熱狂情念                ナポレオン・ボナパルト

C 調和的(統一)情念

   高位の情念を発展させ満足させうる社会秩序のもたらす人類の幸せ

   情念に幸あれ、情念に乾杯

第1章      欲望と悪徳の王国

怪物たちの少年期

タレーラン  右足に欠陥、親から見放され

叔父・枢機卿(大司教・司教区を監督するカソリックの聖職)に預けられて僧職に、

孤独な少年時代、青年期は読書と恋愛、社交界でロココ末期の快楽を満喫(ドラクロアは隠し子?)

フランス革命勃発前、ルイ16世に泣きつきオータンの司教に

(結構な収入ながら奢侈・女色・博打・猟官運動で借金だらけの悪徳司教)

*革命は官能を解放した(18世紀的快楽主義は革命を機に消滅したのではなく、

より民衆的なサイズへと平準化し民主化していった)

       長生きしすぎたルイ14世(死んでくれた国王万歳!)、ゴリゴリのカソリック・愛妾マントノン

       14世の曾孫ルイ15世が成人するまでの摂政オルレアン公フィリップ(14世の甥)が

        パリ・ロワイヤルの狂宴(乱交パーティ)を主催した

       そして史上最もスケベな王・ルイ15世(愛妾ポンバドール夫人、デュ・バリー夫人の放埓)

        に我がタレーランもどっぷりつかる

       移り気情念を遺憾なく発揮、次々騎乗馬となる人物をつかまえては乗りつぶし、

権力の中枢に近づく

       最初の騎乗馬となったのは王室財務総監カロンヌ(タレーラン同様無道徳で有能な政治家)

        バランスの取れた公正感覚と政治技術を学んだが、ほどなくカロンヌを追い越す力をつける

       次の騎乗馬はオルレアン公フィリップ・レガリテ

        聖職者代表議員に選出されたタレーランはオルレアン公のビロード革命陰謀

(オルレアンがルイ16世にとって代わり立憲王政樹立を目指す)の中心的役割を果たす

 しかしバステーユ牢獄襲撃で革命は左旋回(三部会→国民議会→憲法制定国民議会)

  ビロード革命の目論見は過去のものとなり第三身分に重点が移る

タレーランはミラボーに

(放蕩の限りを尽くしながら、貴族身分を捨てて第三身分として当選、随一の雄弁家)に

 乗り換え、この強力コンビが“人権宣言”を完成させた

眼目は“公租はすべての市民にその資力に応じて平等に分配される”つまり教会財産課税

彼はこの法律で5万フランを失ったが、5億フランもの利益を得た

聖職者から裏切り者と糾弾されたが、私欲を貫くことでフランス財政救済の公益をもたらした




フーシェ   船乗りの息子、神学校から物理学教師へ

       弁護士ロベス・ピエールと知り合い、その妹シャロットと相思相愛になるが破談

       過激派から穏健派に転身、“立憲友の会”会長、コレージュ校長に、

更に国民公会選挙に立候補、議員に当選、オールドミスと結婚

タレーランとフーシェは結果だけ見ると、よく似ているが

タレーランの場合、その根本的動因は己の快楽、五感の満足にある

フーシェの場合、動因となる快楽を見出せない

“無標人間”フーシェが一度だけ“有標”を演じた

ルイ16世処刑に賛成票を投じた、逆にこの事でフーシェは穏健ジロンド派から

過激モンターニュ派に鞍替え、過激派の中で無標、目立てぬため超過激なリヨンの大虐殺を実行

その後過激すぎたかと手綱を緩め、ロベス・ピエールとさえ対決する

ナポレオン  貧乏貴族でありコルシカ・バルチザンの父がフランスに寝返り、売国奴の息子として生まれた

       父シャルル 母レティツィア 母の恋人マルブフ総督

       兄弟 ジョセフ、ナポレオン、ルイ

       幼年学校から陸軍士官学校、ラ・フェール砲兵連隊

       革命前夜、ナポレオンは少尉、軍務には余り熱が入らず、コルシカの英雄パオリの独立運動に

        加わろうとするが、パオリから売国奴の息子として冷淡にあしらわれる

       大尉に昇進するが、パオリの反目やまずボナパルト兄弟逮捕命令の仕打ちに、コルシカ脱出、

        コルシカの英雄への野望を諦める



第2章       情念が歴史を変えた

 




*1793年バオリにコルシカ島からたたき出されたナポレオンは軍務に復帰、上司に恵まれなかったが

イギリス=スペイン軍と穏健派が閉じこもるトゥローン要塞を陥落、最初の戦果を上げ少将(旅団長)に昇進

1794年 テルミドールの反動ロベス・ピエール処刑で一時鬱積していたが、

国内軍最高司令官バラスの指名を受け、王統派暴動を鎮圧、26才の若さで国内軍最高司令官就任

バラスは常にナポレオンを懐刀として重用し、彼の軍事的能力で勢力を拡大、逆にナポレオンはバラスが居なければ権力への道は開けなかった

天性の誘惑者・浮気情念(希代の尻軽女)のジョセフィーヌはバラスに目を付け、浪費資金を引き出すメインバンクとした

ナポレオンはこのジョセフィーヌを、タリアン夫人に乗り換えたバラスから譲り受けて結婚、

離婚してからも盲目的に溺愛した

*ジャコバンクラブ会長に選出されたフーシェ、

タリアン、バラスと組んでロベス・ピエールを追い落とす(テルミドールの反動)

しかしフーシェは政権につかずグレッキュス・バブーフを担いでネオ・ジャコバンを結成(永久陰謀の誘惑?)

だがバブーフの陰謀に連座して追われる身となり、

困窮の果て総裁政府首魁バラスに拾われ爾後私設警察(スパイ)として暗躍

*堕落したアンシャン・レジーム人間として、真っ先にロベス・ピエールの標的に上がるべきタレーランだが

人権宣言起草や公租の平等という理念で貴族階級・僧侶階級の没落を決定づけ、

憲法制定国民議会の議長の座につく、問題は財政危機をどう解決するか

国有地を担保にした国債(実質不換紙幣)・アシニャ大量発行に妥協(→大インフレ)

相も変わらず、女とギャンブルで借金漬け、大蔵大臣ネッケルの後釜を狙って、彼の娘スタール夫人を攻落するが、逆にネッケルに嫌われ失敗、次に賄賂目的で外務大臣を目指す

折しも権力はジロイド派からモンターニュ派へ、1792年国王の権利停止、タレーランの首にギロチンが迫る

難を逃れてイギリス・アメリカに(亡命ではなく、フランス人としての身分は保ったまま)

女性関係もフラオー夫人、スタール夫人の間を見事柔軟に往復(柔軟性こそ彼の真骨頂)経済活動も余念無し

4年の間にロベス・ピエールは断頭台に消え、タリアンやバラスの総裁政府成立

スタール夫人が彼の名誉回復と猟官を助けて帰国、バラスに取り入り外務大臣に

*テルミドールの反動後成立した総裁政府の最高権力者・バラスこそナポレオン、フーシェ、タレーランの“結節点”であり、

そして彼らの情念を全面開花させる事に貢献できたのは、バラスがひたすら助平で貪欲、無能なくせに猜疑心強く陰謀好きだったから

*ジョセフィーヌを得たナポレオンはイタリア遠征に神がかり的天才的軍略を発揮(半数の兵力でオーストリア軍に連戦連勝)休戦条約締結後は軍政にも熱中

一方ジョセフィーヌはナポレオンを全然愛しては居ない、パリにあってナポレオンから送られる大量の金貨だけが目当て、奢侈と若い恋人イッポリット・シャルルと放蕩

そこに目を付けたのがフーシェ、ジョセフィーヌを威し、最強の情報源とする

タレーランはナポレオンに接近、将来の帝王を託すことになる

バラスと組んで1797年フリュクティドールのクーデター、王統派一掃、総裁政府はバラスの天下となる

パリに帰還してイギリス方面軍最高司令官に就いたナポレオンは 

1798年エジプト遠征(名声への渇望、アレクサンダー大王に倣いオリエントの覇者を夢想)

 緒戦は大勝したが、エジプト遠征軍を護送してきたフランス艦隊全滅(英ネルソン)

 イギリス・オーストリア・ロシア・オスマントルコの対仏包囲網、フランス軍は各地で連敗

地中海に転戦中のナポレオンは単身戦地から脱出

総裁政府の失敗にジャコバン派(ゴイエ)クーデターの危機

タレーランは無思想変節漢・能吏のフーシェを起用、王政復古を唱えるバラスから中道派シェイスに乗り換え

帰還したナポレオンを待ってブリュメール18日のクーデターを画策

(軍事はナポレオン、表の政治はシェイス、裏の政治はタレーラン、警察はフーシェで固めて総裁政府解体)

第3章       熱狂皇帝、ヨーロッパを座卷する

*ジョセフィーヌを最強エージェントにしたフーシェ情報機関・裏警察

この機関はフーシェが自分一人で作っただけでなく、彼一人のために作られた

(時の権力者が誰になろうと、絶対自分を首に出来ない機関を創り上げた)

女のためでも金のためでもなく、ただ楽しかった

*1799年 ブリュメールのクーデターでナポレオンはタレーランの助言に従い第1執政に就き、

外相タレーランと手を携えて超人的業績を残した

“市民諸君、革命はそれを開始した諸原則をここに達成した、革命は終わった”

新憲法他ナポレオン法典、幹線道路・地方行政の整備、財政改革、教育制度など

王統派・フクロウ党とも和解、人質法を廃止してブルボン王家以外の貴族を懐柔

立ちはだかるブルボン王朝の王侯達と、それを支援するイギリス・オーストリア

ナポレオンが陣頭指揮に立ったマレンゴの会戦

ナポレオン敗戦の報せに色めき立ち陰謀を巡らすカルノー及びシェイス一派

奇蹟の逆転勝利を得て帰還したナポレオンにタレーランは世襲制皇帝になるべく助言

タレーラン・ナポレオン兄弟(弟リュシアン)対それを阻もうとするジョセフィーヌ・フーシェ

ナポレオン暗殺事件発生、ナポレオンはジャコバンを見逃したと警察長官フーシェを叱責、フーシェは真犯人が王統派だと割り出し平然と報告、しかし この事件を境に両者の確執が決定的となる

イギリス・オーストラリア・ロシアと休戦、オーストリアとリュネヴィル条約、英とアミアン条約、

ローマ教皇と政教和約、海外亡命貴族の恩赦

タレーランは抜群の外交力でナポレオンにとって“喉に突き刺さった骨”マルタ島のイギリス占領軍を取り除こうとしたが、ナポレオンの熱狂情念(無益で無駄と思えることでも没入していく傾向)がイギリス攻撃、ブルボン系アンギュン公銃殺と早まった

ブルボン王家復活を完全に断ち切る為には新王朝の確立、ナポレオンは終身執政→世襲君主→1804年皇位に

強権を維持するにはフーシェの陰謀情念が不可欠、警察大臣に、オトラント公爵に叙せられる

“ナポレオンはフーシェを好かないし、フーシェはナポレオンがきらいである、腹の底では嫌で堪らないが、もっぱら敵対する両極の引力で引きつけられて、二人は互いに利用しあう”

熱狂情念がより強烈な陶酔を求め戦争を欲するナポレオン、快楽として諜報活動に沈泥するフーシャ

タレーランはナポレオンに媚びながら平和を追求、フーシェはナポレオンに媚びることなく諜報力を誇示

1805年 イタリア王兼務→第3次対仏同盟(ロシア・イギリス+オーストリア・スエーデン)→

アウステルリッチの3帝会戦(仏ナポレオン、露アレクサンドル1世・墺フランツ1世)に大勝→

ほぼイタリア全土を支配下に、神聖ローマ帝国崩壊しナポレオンを盟主と仰ぐライン連邦が結成→

占領より同盟、英仏和平を願うタレーランの心はナポレオンを離れていく→

新たにプロシャも加わった

第4次対仏軍事同盟→イギリスの息の根を止めようとナポレオンは大陸封鎖令→

ワイン入手が途絶えた各国で蒸留酒誕生のキッカケになったが英よりむしろ仏及び同盟国の国民に怨嗟→

ロシアとのフリートランドの闘いに勝利

1807年ティルジットの和約、割を食ったのがプロシャ→

ナポレオンはスペイン侵攻、ロシアとのエルフルト会議で対オーストリア攻守同盟を結ぼうとしたが

外相を辞任したタレーランはロシア・アレクサンドル皇帝に通ずる

第4章       誰がナポレオンを倒したか

ナポレオン(ライオン) 王者として君臨を続けるために、常に闘いを欲する(イデアリスト)

フーシェ(狼)タレーラン(狐) 闘いは自己の欲望を実現する目的のために手段(リアリスト)

ライオンの無益で愚劣な戦争をやめさせるため狼と狐が和解する

但しヨーロッパ全体の和平まで視野に入れたタレーランに比べ、フーシェはあくまで自分のため自分の身の安全を考えてのことで有る(ナポレオン帝国崩壊で王統派台頭を恐れてのこと)

ナポレオンは世継ぎの問題に悩んでいたが、タレーランが取り持ったポーランドの愛人マリア・ヴァレウスカを懐妊させたことで生殖力に自信を持ち、ジョセフィーヌが邪魔になってきた、

そこで フーシェがジョセフィーヌに離婚を勧める事でナポレオンに恩を売ろうとしていた

離婚問題は兎も角、フーシェとタレーランの“裏切り”和合に動転したナポレオンは

先ずはタレーランに矛先を向ける、タレーランは失踪、自らオーストリア・メッテルニヒのスパイとなる

フーシェは素知らぬ顔、ナポレオンがスペイン遠征中、留守内閣の首相に近い地位を得た

イギリス軍の侵攻に備え、フーシェは独断専行で国民衛兵招集、イギリス軍撤退後も招集を解除せず、

国民の不満がナポレオンに集中するべく陰謀を巡らす(しかしナポレオンはフーシェに手を出せない)


タレーランの情報源は元恋人達の“後宮”(優雅な会話で女を引きつけてやまなかった)

ナポレオンはフーシェの進言でジョセフィーヌと離婚、ロシア皇帝の妹・アンナ大公女と再婚決意

タレーランとメッテルニヒはオーストリア皇帝フランツ1世の娘マリア・ルイーザをナポレオン皇紀に擁立

アレクサンドルがアンナ大公女を嫁がせる条件にポーランド王国再建しない約束の調印を迫まった事で、ナポレオンを怒らせた

一方オーストリア大公女ならカソリック同士と云う事で決着、タレーランがフーシェに一矢報いた

しかしフーシェはさらに独断で対英和平交渉を画策、ナポレオンから罵倒、警察題人解任

陰謀情念に駆り立てられての身の知らずの闘いは敗北した

1810年ナポレオンの強行、オランダを併合、ハンザ同盟都市、エルベ川西岸全域占領

イギリスとの密貿易を続けて居たロシア・アレクサンドル皇帝の恐怖

タレーランはアレクサンドルに、ナポレオンがスペインに手間取っているうちに兵力増強、トルコとの和解、オーストリアとの接近を進言したが、

仏露一触即発の緊張に和平を工作したのはタレーランと駐露大使コランクールだった

(ナポレオンはタレーランを不道徳・不誠実と唾棄しながらも、その頭脳・外交力を最も頼りとした)

1812年ついにナポレオンのロシア遠征が始まった

(タレーランをワルシャワ大使としてポーランドを押さえる積もりだったが、外相マレのつまらぬ嫉妬で失敗、戦争回避最後の綱も切れた)

モスクワを占領するも、頑固なアレクサンドルは焦土作戦で抵抗、モスクワ大火・飢え・厳寒で撤退を余儀なくされ壊滅的敗北

タレーランはメッテルニヒ(ロシア=プロシャ連合が勝ちすぎるのを恐れた)と組んで和平調停(国境を自然国境にまで戻しナポレオンはヨーロッパ皇帝ではなくフランス国王に、後釜はブルボン家に戻しルイ18世)

しかし時遅し、皇紀ルイーズの実家オーストリアがフランスに宣戦布告、ロシア=プロシャに連合、更にスエーデンも加わり、ナポレオン総司令部ドレステンを襲う、ドレステン攻防戦には勝利したが、それ以後の追撃選でことごとく敗れる

1813年ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)

プロイセン・オーストリア・ロシア連合軍にナポレオン軍は完敗

メッテルニヒ案(国境を自然国境に戻し、ナポレオン退位、皇太子のローマ王が即位、マリールイーズが摂政)

に逡巡するうちに、プロシャ=ロシアがフランスに侵入、講和はライン西岸とベルギーを含まぬ旧国境を条件とする、更にはブルボン王家再興さえ匂わせる(英・露・プロシャ・オーストリアでシャティヨン攻守条約)

1814年ナポレオン転戦中、連合軍はパリを陥落、マリー・ルイーザとローマ王は脱出、タレーランはナポレオンからブルボン王家に乗り換える

ナポレオンの居ないパリでアレクサンドルとタレーランが受け皿政権について協議

1.ナポレオン一族を排除した上で、正式な法律に則って誕生したフランス臨時政府が休戦条件を締結(占領軍軍制を免れる)

1.正統性の復活と言う名目を掲げることでブルボン王朝時代の旧領土を失うことはない

1.ブルボン王朝の復帰があっても、その前に憲法を制定しておけば、彼らの旧態への復古を防げる

対外的には革命とナポレオン時代のマイナスによってフランスは一切不利益を被らず、対内的には革命によって得た成果をブルボン王家にみとめさせる、フランス国家も民衆も全く損をしない、タレーラン外交術の勝利

後はアレクサンドル他連合国の首脳達にブルボン家復活を認めさすこと

(正統性理論:フランスがフランスであり得たのはカペーから延々と連なるブルボン王家の正統性が存在していたから)

国民が定めた憲法を国王(ルイ18世)が承認し、議会に統治を任せること(立憲君主制)

フランス軍は解体、元老院がナポレオン廃位を決議、ナポレオンは抵抗空しく無条件退位宣言

地中海エルバ島に配流(と言ってもアレクサンドルの温情で永世君主)

第5章 情念戦争の“大いなる遺産“

かって 国王16世処刑に賛成票を投じたフーシェは王統派の復讐をおそれ、アントワ伯(ルイ16世の弟・過激王統派)にすり寄り、アントワの国王代理権付託を支援する

タレーランは崩壊の淵にあるフランスを救うため大車輪の活躍

パリ平和条約締結(連合国軍が戦ったのは王位簒奪者のナポレオン、ルイ18世と彼を王位に復帰させたフランス国民は連合国軍の古くからの友人と理屈を付け、戦争賠償金を免れ、ナポレオンが占領地から収奪した金銀財宝も返還無しとした)

なにげに気の合わなかったルイ18世に強く懇願、なんとか自由主義的憲法を認めさせた

ジセフィーヌが亡くなった

1814年〜15年 ウィーン会議(ナポレオンに協力した国々の処理)、

タレーランは敵同士を闘わせることでフランスの力を誇示した

 四大国対弱小国(スペイン、ポルトガル、スエーデン、デンマーク、ドイツ連邦諸国等)

 ロシアがワルシャワ大公国、プロシャがザクセン王国を要求したことにオーストリアが反撃

 1815年フランス=オーストリア連合にイギリスも加わって防衛同盟条約締結(対露・プロシャ)

待ちこがれるマリールイーズは(他に愛人が出来て)エルバ島に来ない、

王政復古に対する民衆(特に旧ナポレオンの軍人)の不満の声も届く

1815年 ナポレオン エルバ島を脱出、パリに戻って復位、ルイ18世を駆逐、自由主義的新憲法を発布

王政復古によってフランス革命で得た諸権利を失う事を恐れたブルジョア市民の大歓迎を受けた

“皇帝万歳!”兵士達も集まった、しかし使える人材が居ない、集まったのは無能故に復古王政に雇われなかった連中、ただ一人例外がいた、“フーシェ”

反ナポレオンの中心には“タレーラン”が居た、ウィーン会議に集まった全ての国を率いて反ナポレオン体制を築き上げた

フーシェはナポレオンが勝てば自分がナポレオン2世の摂政になる事を希望したが、負けるときはブルボン家オルレアン公ルイ・フィリップに保険を掛けていた

オーストリア、ロシア、イギリス、タレーランもフーシェをフランスの事実上の外務大臣として扱った

ナポレオン最後の闘いワーテルロの闘い(ウエリントン率いるイギリス=オランダ連合軍とブリュッハー率いるプロシャ軍)に敗北

一夜明けてフーシェが代表議会を反ナポレオン一本にまとめ上げた

フーシェに担がれた自由派ラファイエットが、なおも将軍に止まり戦争を続けたいナポレオンに退位を迫る、しかし用済みになったラファイエットの代わりにフーシェが臨時政府総裁、国家元首はブルボン復帰を自由派が嫌いナポレオン2世

結果的にナポレオンの執念が実現したようだが、ナポレオン2世は何分幼児、連合軍並びタレーランはルイ18世を支持

フーシェ、かくなる上はと威し脅して自分を高く売りつける、王政復古内閣の警察大臣

タレーランはルイ18世の王政復古失敗の原因を次のように理解して居た

ルイ18世並びその取り巻きがブルボン王朝正統性による統治と云う概念を絶対王制の復活と取り違え、フランス革命で獲得された自由をことごとく否定しようとした

タレーランはルイ18世に、その過ちを認め、それを2度と繰り返さないという声明を迫り、その条件のもとに第2次王制復古内閣を引き受けた

1815年10月 ナポレオンはイギリスの指示でセント・ヘレナに流される

かくてナポレオンの100日天下はタレーラン・フーシェの前に屈した

ルイ18世はフーシェに命じる“百日天下でナポレオンに協力ブルボン王朝に反逆した者のリストを提出せよ”

リストにはそれを起草したフーシェ自身よりも深い罪を重ねたと言える人達は殆ど居なかった、フーシェの朋輩もリストアップされた

協力者全員を追放したフーシェは“鼠を取り終えた鼠取り”用済みとなってタレーランの手で追放される

そしてフーシェという鼠を追い払ったタレーラン自身も王統派に責められ内閣総辞職

1821年 ナポレオンセントヘレナで死去 51才

1824年 ルイ18世没 シャルル10世(ルイ16世18世の弟アルトワ伯、反動)

1830年 7月革命 ブルジョアジーに支持されたオルレアン家ルイ=フィリップ

  タレーラン(正統主義の原則、合理的な限界内での自由)復帰

  ベルギー(フランスのボナパルティストや自由派がベルギー併合を主張)が

オランダ(プロシャ・ロシア・イギリスが支援)から分離独立

  タレーランがイギリスと交渉、英仏同盟、ベルギーの独立・永世中立を実現した

  しかし1840年にはナポレオンブーム(ナポレオン神話から生まれたナショナリズムとロマンティズム)

  21世紀に入ってようやくタレーランの方に評価が傾きつつある

**余談ながら ヴィクトル・ユーゴー レ・ミゼラブルの時代背景

  1789年フランス革命がはじまる

1796年ジャン・バルジャン、パンを盗んで投獄される

1799年ナポレオンが政権を握る

1915年ナポレオンが完全に失脚、王政が復活。ジャン・バルジャン仮釈放

1823年ファンテーヌ、工場をクビになる  (この時代、フランスの階級格差はまだまだ酷いようだ)

1830年七月革命

1832年六月暴動、マリウスたちが戦う

**1830年 7月革命

1830年7月、フランス復古王政のシャルル10世の言論弾圧などに対して、ブルジョワ共和派を支持するパリ市民が蜂起し(国民軍司令官はラファイエット)、絶対主義体制を倒して、七月王政(国王はブルボン家の分家オルレアン家のルイ=フィリップ、立憲君主制)を出現させた変革。ヨーロッパの各地の反動勢力にも大きな打撃となり、ウィーン体制を大きく動揺させた。

7月革命の影響

?隣接するオランダからのベルギー独立運動がおこり、12月に独立を達成した。

?ロシアの支配を受けていたポーランドの独立運動もおこったが、こちらはロシア軍の介入で弾圧された。

?自由主義者によるドイツの反乱が各地で起こったが鎮圧された。

?翌年の31年には中部でのイタリアの反乱が起こったがオーストリア軍によって鎮圧された。

?イギリスのでは自由主義的改革が進められており、1832年に第1回の選挙法改正が行われた。しかし、依然として財産制限が設けられていたので、イギリスの労働者による選挙権の拡大を要求するチャーティスト運動が盛んになった。

**6月暴動

1832年 ルイ・フィリップの七月王政を打倒すべく、王政の強力な支柱であった首相死去した隙を突いた形で、レプブリカン(共和制支持の秘密結社)が起こした反乱、この鎮圧をもって七月革命以来の実力的闘争は沈静化する。

**1848年 2月革命

19世紀前半のフランス・七月王政は「市民王」とも言われたルイ=フリップのもとで産業革命がすすみ、広範に中産階級的なブルジョワと賃金労働者も生まれていたが、限られた特権階級だけの政権になってしまっていた。市民は普通選挙の要求を掲げた選挙法改正運動、集会を禁止されたため改革宴会運動を続けたが、政府は宴会禁止令でそれをも取り締まろうとした。

1848年2月、激昂したパリの市民、労働者が蜂起して、ルイ=フィリップを退位に追い込み、七月王政を倒し、共和政を宣言、臨時政府が成立した。

フランス革命以来の党派の系譜を引くものもあったが、新しい党派としては労働者の解放や権利保護を掲げる社会主義者や、共産主義社会を革命で実現しようとする共産主義者などが登場した。

2月革命の特色

l  諸党派よりパリ市民の直接的大衆行動(蜂起)によって動かされたそのため、各党派は常に市民の人気

l  二月革命を契機にフランスは、かつての貴族階級対ブルジョワジーという対立ではなく、ブルジョワジー対労働者階級の対立という新たな階級対立の時代に入った

l  同時に二月革命は労働者階級が初めて革命に加わったものの、初めて明確に弾圧された最初の革命であったと言うこともできる。

2月革命の世界史的意義

1848年革命 ウィーン体制の崩壊へ 

フランスに共和政を復活させた二月革命は、ただちにベルリンとウィーンに飛び火して三月革命を勃発させ、ヨーロッパ全土に及ぶ1848年革命の口火となった。フランスで王政が倒され、ドイツで国家統一の動きが生まれ、オーストリアでウィーン体制の代名詞であったメッテルニヒが退陣したこと、その他、とくにオーストリアやロシアに抑圧されていたイタリア、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドなどで一斉に独立の動きが強まり、一時的にでもそれが実現して諸国民の春といわれる変革が起こり、その結果、ナポレオン没落後のヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制は崩壊した。

2月革命の結末 

当面の主導権はブルジョワの支持する穏健共和派が握ったが、急進共和派や社会主義者との内部対立がすぐに始まり、4月の普通選挙で穏健共和派が勝ち、王党派が復活、急進共和派・社会主義者が後退したことから、労働者保護政策である国立作業場が閉鎖されたことで6月蜂起が起こった。暴動は鎮圧され、議会は王党派が結束した秩序党が主導権を握る。年末の大統領選挙ではナポレオンの甥のルイ=ナポレオンが当選

 

**ナポレオン3


ナポレオン1世の弟・オランダ王ルイの息子、1世退位と共に亡命、7月革命で帰仏

2月革命後第二共和制下選挙で大統領、

共和制下での王統派・急進共和派の対立、選挙法改悪に反対する労働者の不満などに乗じて

1951年クーデターで議会を解散、共和派を追放、市民蜂起鎮圧して権力を集中、新憲法発令

1952年2月に第二帝政を開始。

(つまり二月革命は王制を打倒したが、その混乱から第二帝政を登場させ、共和政は後退し、産業資本家と労働者階級の階級的対立を軸とする社会対立の時代となった)

1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。

ナポレオン3世はヴィクトル・ユーゴーやマルクス(後述『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)によって

“叔父の名声だけを利用して、陰謀と人気取り政策によって権力を手に入れたに過ぎず、人間的にも権力欲の強い、好色で破廉恥な独裁者であった”とこき下ろされ、天才ナポレオン1世に対し専ら間抜けな皇帝と言われてきた。

しかし鹿島茂氏が“怪帝ナポレオン3世”で“人為的に加速型資本主義”を生み出した皇帝と高く評価した

内政面ではサン・シモンの産業社会思想の影響を受け60年以降の議会請願権、ストライキ権の承認、言論結社の自由を一部承認等の改革

英仏通商条約締結で自由貿易推進、パリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設、万博開催などフランスの産業革命に尽力した。外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力の拡大を図った。またアロー戦争、インドシナ出兵などアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させフランス植民地帝国を形成した。しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した

ボナパルティズム独裁とは?

マルクスがナポレオン3世を叔父の権威を利用して権力を握った無能な人物と断定し、その権力はブルジョワジー、小農民層、労働者などの諸階級の対立がどの勢力も決定的な力を持たないとき、独裁政治の調停機能に期待するところに成立したものと考え、そのような独裁者がとった冒険主義的な侵略戦争がその没落をもたらしたと分析し、そのような政治権力のあり方をボナパルティズムと名付けた

1871年  普仏戦争&パリ・コンミューン

1875年  第3共和制

 

(かの名著『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を簡潔明瞭に纏めて頂いたブログを勝手ながら下記に転載させて頂きましたhttps://ameblo.jp/syurinodaibu/entry-12380153156.html

**マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』 簡潔な内容紹介

ヘーゲルはどこかで言っている。世界史的な大人物や大事件は二度あらわれる、と。

しかし、こう付け加えるのを忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と。

カール・マルクスの代表作の一つ『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』は、この旨の名言から始まる。

一度目の「悲劇」はフランス大革命を終結させたナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン1)ブリュメール18日のクーデター、「茶番」はフランス第2共和国大統領ルイ・ボナパルト(後のナポレオン3)の帝政を準備するクーデターであることは言うまでもない。

では、この本は2月革命下のフランスに徒手空拳で渡ったルイ・ボナパルトが皇帝への階段を駆け上る、血沸き肉躍る立志伝かといえば、当然そうではない。(それどころか、マルクスはボナパルトを取るに足らない小人物と馬鹿にしている)

1848年の2月革命から1852年の第2帝政開始までわずか4年、誰もが予想外の成り行きに驚くばかりだった中、その事実を階級闘争による「歴史の必然」と見たマルクスが沈着に分析を加え、同時代史として纏められたものが本書だ。

以下、内容を簡単に紹介しよう。

参考】ブルボン朝→(大革命)→1共和政1帝政ボナパルト朝復古王政ブルボン朝→(七月革命)→7月王政オルレアン朝→(2月革命)→2共和政(今ここ)→2帝政ボナパルト朝

ボナパルトは、労働者がオルレアン朝の王ルイ・フィリップを倒した二月革命に乗じて登場した。

革命で倒れたオルレアン朝は、都市の資本家や金融ブルジョワジーの利害を代表した王権であると言われる。

さらに遡れば、オルレアン朝が成立する契機となった七月革命で倒されたブルボン朝は大地主の利益を代表する王権だ。

それぞれが支持する王朝が倒れたとはいえ、都市部ブルジョワのオルレアン派、農村ブルジョワの正統王朝(ブルボン王朝)派の勢力はまだ強い。そして革命の原動力となった労働者(プロレタリア)たちも、自らの利害をかなえることを望んでいる。

そんな中、革命後の第二共和政下の選挙で大統領に選ばれたのが、ルイ・ボナパルトだ。

彼は、都市ブルジョワ、農村ブルジョワ、労働者、どの階級の利害を代表していたのであろうか。

……どの階級の利害も代表していなかった。

では、なぜ彼が大統領に選ばれたのか?

革命後の議会の多数を占めて実権を握るのは二つのブルジョワ王党派、すなわち都市資本家の利害を代表するオルレアン派と大地主を代表する正統王朝派である。

ならば速やかに王政復古を……と言いたいところだが、推す王朝=擁護する階級利益が別なのだからそうもいかない。

だが、両派は結束した。

彼らが結束して行ったのは、共和派の弱体化や言論の自由の制限強化、選挙権の制限など、自階級の支配強化である。自らの利益に利する秩序を守ろうとしたため、この二つの王党派をまとめて「秩序党」という。

彼ら「秩序党」にとって、皮肉にも、共和政こそ両階級が共存共栄できる政体だったのである。

しかし、議会外の二つの王党派は、王政復古する気のない議会内の王党派を批判する。そして労働者も、自らの理想を圧迫する第二共和政下の議会に失望する。

その上恐慌も重なり、共和派圧迫や大統領との摩擦などによって、結果的に秩序党の議会は秩序を乱すことになる。当然、国民――ブルジョワもプロレタリアも――の秩序党議会への反発も顕著になる。

その間、ボナパルトは秩序党の反動的な政策に距離を取り、バラマキ政策提案や軍隊に馳走を振舞うなど、人気とりに従事する。また、密かに王党派の分裂を助長するなど、陰険にかつ着々と野望実現のための布石を打っていた。

そして大統領ボナパルトは、1851年にクーデターを起こす。議会を解散させ、議会要人を拘束する。タイトルの通り、ルイ・ボナパルト版の「ブリュメール18日のクーデター」である。

普通選挙権復活や憲法改正を問う国民投票で国民はボナパルトを支持、クーデターは追認された。

憲法改正によって、任期4年の大統領の再選禁止条項を潰すことに成功したボナパルトは、翌年には国民投票によって皇帝に即位することになるだろう。

ボナパルトがクーデターを起こしたとき、彼の強力な支配による秩序回復を求めたブルジョワの秩序党も、誰にも代表されていなかった農民階級も、そして秩序党に反発する労働者階級もボナパルトを支持することになった。

秩序党は、自ら苦労して政権を運営するよりも、政権をボナパルトに明け渡した方が階級利益にとって得策であると思い至ったからだ。彼らには、単独で国家を運営することは困難だった。

政権を担えるだけの力をつけていない労働者階級や農民階級の利益は、結果的に、ボナパルトによって代表されることになる。

ボナパルトと云う、取るに足らない小人物の政権奪取は、ブルジョワが政権を単独で担う力を失い、かつ労働者が政権を担うだけの力をつけていないという勢力均衡の間隙を縫って成功した、階級闘争の幕間劇だったのである。これがマルクスの結論であるといえよう。

(そして、ボナパルトの政権掌握はあくまでも「幕間劇」である。マルクスは本書の最後で「やがて皇帝マントがルイ・ボナパルトの肩におちかかるときには、ナポレオンの銅像はヴァンドーム柱のてっぺんからころげおちるだろう」と、歴史の過渡期に現れたボナパルトの権力の末路を予言している)

本当に「ボナパルトの政権簒奪は階級闘争の当然の帰結である」かは さておき、本書は幾千幾万の学者文士が様々な研究解釈等 (マルクスの頭の良さと性格の悪さを示して余りある数々の皮肉や洒落の解釈は、訳注なしには理解できまい) を加えてきた古典で、読み方も様々で示唆に富む。マルクスの著作にしては読みやすい方だと思うので、先入観による好き嫌いはあるかと思うが、マルクスと聞いてピンとくる方にはぜひ読んでいただきたい一冊である