趣旨




「コミュニケーション講座/表現と理解」について

98年より九州大学の教養課程の学生を対象に「コミュニケーション講座/表現と理解」という授業を非常勤で受け持っています。コミュニケーションというテーマは、学生に限らず実社会においても今後益々重要になってゆくのではないかと思います。このプログラムは開発教育やファシリテーションの技術などを参考にして作ってみたものですが、手を加えながら年を重ね、漸く形になってきたのではないかと思っています。 参考まで、概要をご紹介します。
(九大学内誌RADIXの2001年掲載文を編集したもの)


○ 構成

はじめは「空間表現」というタイトルでした。もともと建築系の選択科目なので、公園計画や小建築のデザインを行なう実習授業というのが本来のスタイルです。しかし、当初より趣旨は造形自体にはなく、その過程での相互理解と合意形成ということに大きなテーマを置いていました。その後、名前と実態との相違を埋めるべく、2003年に現在のタイトルへ変更したものです。
全体の流れは、自己認識から個性の理解、さらにグループによる共同作業など、表現と理解のさまざまな段階をワークショップを通して体験するという構成です。

《 導入 》
はじめにやむを得ず、参加者を40〜50人に絞らせてもらいます。ワークショップを基本とするため大人数での運営は難しいからです。授業の趣旨を把握してもらうためにひと通りの説明を行ないます。しかし、この時点ではあまり伝わってはいないらしく、あとから「予想外の授業展開でした」というコメントがよく聞かれます。

《 step1:自己認識 》
先ずは己を知るところから。なにやら哲学的ですが、一度ゆっくり自分を見つめてみよう、という気持ちのワークを行ないます。自分の現在の価値観やこれまでの考え方の変遷、生い立ち、家族友人など身近な人々との関係などを振り返ることで、改めて自分というものについて考えてみます。


《 step2:個人表現 》
ここでは、各自が主体的に自由な表現を行うことで、それぞれの個性の違いに触れてもらいます。或る事柄に対する各人の感じ方の違いや表現の個人差に対して新鮮な驚きがあるようです。


《 step3:身のまわりを考える 》
地球環境や世界情勢を概観し、いま自分が置かれている状況や自分に課された課題を考えてみます。学ぶことの意義を再確認し、また大学で何を学ぼうとするのかを共に考えます。普段、まじめに考えたことのないテーマである為か、戸惑いながらも興味深げです。


《 step4:合意形成 》
後半のグループ表現の導入部。アイスブレイクを兼ねて、面白いゲーム形式のアクティビティを行ないます。数グループに分かれて得点を競うもので、メンバー各人がどのような意識でどのように振舞ったかによって、大きく結果に差が出てしまうしくみです。合意形成の難しさと勘所が実感できるワークです。


《 step5:グルーピング 》
類似するテーマごとのグループ編成を行ないます。用いるのは「人間KJ法」。KJ法のカードを人間自体に置き換えたダイナミックな方法です。最初に各自の問題意識についてブレインストーミングを行ないますが、ここでは今の学生の興味を垣間見ることができて、なかなか面白い場面です。


《 step6:グループ表現 》
小グループに分かれて制作にとりかかります。題材は基本的に自由です。以前は、造形をテーマとしていたわけですが、「表現と理解」に変わってからは、時事問題についてのレポートや開発教育のためのツール(啓発用アクティビティ)づくりなどを主な課題としています。
テーマ設定から最後のプレゼンテーションまで常に個人とグループのデリケートな関係が続きます。これは結構しんどいもので、途中で音を上げる者も現れます。しかし、この最終ステップ約6週の中で、各自、さまざまなコミュニケーション体験をし、他者よりは寧ろ自己と戦う様子が見られます。辛さの中に大きな刺激や気づきのある時間です。


《 シェアリング 》
授業全体を振り返りながら、自己と他者、自己と社会の関わりについて意見交換を行ないます。結論を導くのではなく、何らかのきっかけやヒントを得ることができればと思っています。



○目的は「人」や「人と人」を考えること

この授業の目的について、シラバスでは「相互理解と合意形成を21世紀のパラダイムと位置付け、その意義を体得すること」とやや堅苦しい表現をしていますが、要は人間同士のコミュニケーションについて考えてみよう、それがこれからますます大切になるのではないでしょうか、という考えです。
「成長と発展の名の下、競争と戦いに明け暮れた20世紀、その結果人類が手にした数多くの負の遺産・・・」前世紀末には盛んにこのような言い方がなされました。そしてそのことを我々人類はどう受け止め、どのように対処してゆくべきか、政治・経済・科学などさまざまな面から論じられます。しかし、詳細な分析を見るまでもなく、もっと本質的なところで私たちは重要なことを知っているような気がします。それは「人とは何か」ということ。アカデミックなアプローチとは異なる、言わば体で考える中にそれを思い出すヒントがありそうな気がするのです。

この授業で学生諸君に期待するのは、その「体で考える」ということです。いつの頃からか、泥臭い生々しい人間同士のふれあいは敬遠されるようになり、若者は対立を避け議論をしなくなりました。争わないことはそれ自体に価値があると思いますが、自分で考え判断することまでも止めてしまったのではないかと、少々淋しい気もします。
個性と個性がぶつかり合うような人間関係を敢えて体験することで、その中から、感じ、考え、発想する力が思い出されるのではないか。それを通してもっと自分を知ることが出来るのではないか。そのような期待を持っています。


○ 人がふれあうことの意義

私は現在、建築設計事務所を営んでいます。かつては組織設計の企業に在籍し、派手な仕事にも関わって来ました。15年ほど前、或る地方自治体が進める高齢者コミュニティの計画に携わりました。超高齢社会へ突入する日本にとって極めて重要なテーマでもあり、大いにやり甲斐を感じながら取り組みました。しかし、納得できないこともありました。そのひとつは、そのコミュニティづくりのために多くの木々を伐採することでした。いわゆる開発による環境破壊です。

その仕事がひとつの契機となり、退職して独立の道を歩み始めました。一歩、企業から離れた立場で建築や都市を見ると、そこには本当に人の血のかよった別の世界があることに気づかされました。
ある時、ダム湖に沈む村の再生に関わり、村人の話を聴くうち、それまで自分の心の中に潜んでいた矛盾が大きく存在感を示し始めました。それは、成長と発展を善と信じ、全ての事柄をそのモノサシに当ててきたそれまでの自分のモノの見方、現代の日本を覆う価値観、「文明」と呼ばれるもの全てが実は孕んでいるかもしれない危うさ、そのようなことです。我々が進んでいる方向と人類本来の進化の向きは、少しずれているのかもしれない、そんな気さえしました。

環境破壊の現実を知ってからは、建築という仕事に対する考え方もかなりの方向転換を強いられました。それまで目を背けていた分野にも、興味を持つようになりました。山梨県清里の自然学校での数日間は、環境の問題に「正しい」答えがないこと、相互に理解し合意を形成することからしか道は開かれないということを教えてくれました。環境破壊ばかりでなく戦争や飢餓や貧困の影に、理解しあう努力を諦めた人間の姿があるように思えました。
そしておぼろげながら感じるのが、人の心理のどこかに隠れている「不安」のようなものが、その原因となっているのではないか、ということです。不安は憶測や焦燥を招き、独占、競争、争いを引き起こします。その元にある不安を和らげられるのは、私たちは決して一人ではない、孤立してはいないという感覚ではないかと思うのです。

人は本音で語り合う時、感動し真の理解を得ます。それは何か互いに共通するものを見出すからではないでしょうか。ユングの元型やワンネスの思想にも繋がるのかも知れません。これこそが「競争から共生へ」という新時代の原理なのではないかと思います。マザーテレサは、「愛の対極は憎しみではなく、無関心」と言いました。人類が進化を続けるためには、人と人が互いに関心をもつこと、関わりあうことがもっともっと必要なのではないでしょうか。


○ おしまいに

建築家の丸谷博男氏によれば、大学の非常勤で学生と関わることの意義は「実社会における価値の多様性とスタンスの模索」と言います。即ち、学問から離れた立場であることをむしろ意識すべきもののようです。 この「表現と理解」のようなやや出たとこ勝負の非科学的なやり方も、非常勤講師に求められることのひとつなのかもしれない、と勝手に納得しています。

以前、少し気になる二人の学生がいました。一人は人間不信に陥っている女子、もう一人は自己表現がうまくいかない男子。それは漫然と接すれば単なる暗い子と冷めた奴だったかも知れません。でも、グループ表現の作業を進めるうち徐々に笑顔が見え、表情も豊かになっていきました。仲間との心の触れあいぶつかり合いが二人に変化をもたらしたのかも知れないのです。それを感じた時、私はとても幸せでした。心の中で二人に感謝しました。

知らない同志だった学生諸君も、それぞれの気づきをもって僅か半期のクラスを巣立ってゆきます。短い付き合いですが、実に愛すべき仲間たちとなるのです。

→シラバス