シリーズ巨樹・古木を訪ねて

はじめに

ヒトと木のかかわり合いは、遠い祖先がチンパンジーやゴリラと同じく森の中で生活していたときに始まります。森の中で食糧を調達し、石器を使って木から生活必需品や住居などを作り、火を使うことを覚えてからは木を燃料としていました。木を燃やして土器を焼きました。青銅器、さらに鉄器時代になるとますます多量の燃料が必要になったと想像されます。中東や中国もそれ以前はもっと緑に覆われていたはずですが、伐採の結果保水力低下と少雨のため砂漠化していったと考えられます。
インダス文明は煉瓦を焼くために木が伐採されて森がしだいに消えていき、それが衰退の一因だといわれています。エジプト、メソポタミア、ギリシア文明などの遺跡にはほとんど木が見あたりません。最初から木のないところに文明が発達したとは考えられません。水のないところに木はなく、木のないところに人は住めなかったはずです。 現在でもアフリカでは農地を広げるため、アマゾンでは牧場を作るため広大な密林が伐採され、東南アジアではエビ養殖用のためにマングローブの林が切り開かれ、木材やパルプをとるために毎日地球上の森林が伐採され続けています。
大量生産大量消費のために膨大な量の化石燃料を消費している今、地球温暖化と環境ホルモンが大問題になっています。このまま自然を破壊し続ければ人類は数世紀で滅亡するかもしれません。自然を森や木をもっとだいじにしなければなりません。自然を征服することが文明であるという西洋流の考えをすて、人も野生動物と同じく自然と調和しながら生きようという考えが今こそ大事なときだ思います。
われわれ日本人の祖先たちは、山や木や岩などあらゆるものに霊魂が宿ると信じていました。わが国では古くから「木霊」あるいは「木魂」という言葉が使われていますが、それは樹木に精霊が宿っていると考えたからです。神は高い木をつたって天から地上におりてくると考えられていました。諏訪神社にみられる御柱祭りの行事はその代表ではなないでしょうか。神社には必ず鎮守の森があり、木のない神社はないといえます。古い神社ほど古くて大きな木が多いわけがわかります。
樹木に対する日本人のこのような受け取り方が、霊木さらには神木として樹木そのものを信仰の対象とするようになっていったと考えられます。古い大木の根もとにはたいてい小さな祠が祀ってあります。そして地元の人は祖先がだいじにしてきた大木を誇りに思い、将来に向かって保存しようと努力しています。
古い木が台風で倒れたり道路拡張や土地開発で伐られたりすると、かけがえのないものが失われていくように感じがします。実際10年前の19号台風では、まだ見たことのない天然記念物級の大木が何本も倒され、永久に見ることができなくなったことを非常に無念に思いました。それが木の写真を撮ろうと思いたったきっかけです。古い木には人とのかかわり合いの歴史があり、それにも興味をそそられます。

                       木附健


武雄神社の大楠
武雄神社の御神木といわれる大楠で、武雄市の天然記念物に指定されています。 平成元年の環境庁による全国巨木・巨木林調査で、全国第6位の巨木であると発表されました。佐賀県内でも第2位の巨木です。樹齢推定3000年、幹周20メートル、樹高約30メートル、樹根の部分に12畳敷の空洞があり、中に天神様が祀ってあります。神社の裏手の山林の中に立っていて、神社の御神木として崇められています。
周囲は広い範囲にわたって柵を巡らせてあるので近づけませんが、だいぶ傷みが強いように見受けられ、心なしか枝葉の勢いがないようで気がかりです。
ちなみに全国第1位の巨木は鹿児島県にあり、佐賀県の第1位は武雄市川古にある大楠です。

光 善 寺
黒木町木屋にある光善寺のしだれ桜です。樹齢ははっきりわかりません。満開の時期は春の彼岸前後と教えてもらいましたが、年により1週間前後のずれがあり、花の見頃に出会ったのは3年目でした。
このお寺は木屋氏とゆかりのある古刹で公開はされていませんが立派な庭園もあります。
春分の日には本堂の幽霊の掛軸が公開されます。
数年前樹木医により手当が施されてから樹勢がよくなったように聞いています。

広川のキリシマツツジ
西日本新聞で紹介されたことのある広川のキリシマツツジです。
山下繁利さんという個人の家の庭に咲いていて、一般に公開されています。山下さんの話では樹齢は推定350年以上、このような古いツツジは全国的にも珍しいと思われます。
高さが3メートル以上あります。全体の姿は北側からの方がいいですが、写真は花付きがよい南側から写しました。
大きい枝の支柱は見栄えが悪いといわれはずしたところ、数年前の台風で折れてしまったと山下さんは残念がっていました。

黒木の大藤
黒木の大藤は余りにも有名で、説明の必要はないかも知れませんが、国の天然記念物に指定されています。
後征西将軍お手植えと言い伝えられていますから、南北朝時代からすると樹齢600年以上と推定されます。
毎年藤の花を見に来る人の車が八女市内まで車が渋滞することも珍しくありません。

下城の公孫樹

熊本県小国町下城にある樹齢1000年を超えていると言われる巨木です。
昭和9年に国の天然記念物に指定されています。目通り幹周り約10メートル、樹高20メートル、枝張り東西34メートル、南北40メートル。根もとに祠と墓石があります。
秋の紅葉の時期には地元のテレビ局が撮影に来て映像を放映していました。
これは新緑を撮りました。

空室(うつろ)の桂

谷間いの狭い場所に生えており、根もとのすぐ近くからしか撮影できず全体の姿がわかりませんが、木のいわれに興味を惹かれましたので紹介します。説明版には次のようなことが書かれていました。
県指定天然記念物 指定:平成元年5月18日
所在:黒木町大字大淵字屋敷の上
概要:この木は樹齢推定600年、樹高35メートル、中央の大幹周り10メートル、根張り13メートル、新幹の群生21本、新幹を含めた円周12.6メートルの大木で、山の神神社の神木である。 大正10年(1921)6月17日の大洪水のとき、平野岳に発生した山潮が樹木・泥土を混じてすさまじい勢いで空室集落を一掃せんと襲ってきたとき、この神木は大泥流に立ち向かいこれを二分し空室集落を完全に救った。
神木が救ったという空室の集落はいま廃屋が目立っています。

九重の桜
京都府京北町の常照皇寺境内に在る九重の桜です。
名前の由来は八重の花に混じって一重の花をつけるところから九重桜と呼ばれるようになったそうです。訪れたのは若葉の頃でしたから、残念ながら花を確かめることはできませんでした。
南北朝時代の北朝初代光厳天皇ゆかりの寺ですから、600年以上は経っていると思われます。天皇を祀る寺であるところから「皇」の字がついています。
「天然記念物 常照寺ノ九重桜」という石碑が建っているだけで、桜については何の説明もなく樹齢はわかりません。創建当時に植えられたものかかなり古い感じでした。

雨乞いの楠

愛媛県大三島の大山祇神社境内にある楠で天然記念物に指定されています。
説明板によると「能因法師雨乞いの楠」は日本最古の楠(樹齢3000年)で、後冷泉天皇の御代(900年前)伊予国守藤原範国は能因法師を使者として祈雨の為に参拝させた。其の時「天の川苗代水にせきくだせ 天降ります神ならば神」と詠じ、幣帛に書き付け祈願したところ、伊予国中に三日三夜雨が降った(金葉和歌集)と伝えられている。
この樹からは葉がなく枯れているように見えました。同じ樹齢3,000年でいまだに生きている武雄の楠のすごさを感じました。

大山祇神社の大楠
同じく大山祇神社の社殿の前に立つ大楠です。天然記念物で樹齢2600年。
  説明によると大山祇神社は古くから戦の神として崇められ、武将たちは戦場に赴く時戦勝祈願をして、勝利した後は武具を奉納するのが習わしだったらしい。古くは為朝の強弓、頼朝、義経、弁慶などの弓や甲冑、太刀、下っては村上水軍関係の甲冑や太刀などが多数陳列されています。
子どもの頃講談社の絵本で見たり、源平合戦の物語で読んだ800年以上昔の甲冑や太刀の実物を目の当たりにすることができ感無量でした。


嬉野の大茶樹
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茶では八女とともに古い歴史を持つ嬉野にある古い茶の木を紹介します。
  国道34号から6〜7キロ山あいに入ったところで、周りを山に囲まれた一画にあり、説明板に次のようなことが書いてありました。
  国指定天然記念物 指定年月日 大正15年10月20日
  嬉野茶は1440年、唐人船が平戸に来て嬉野皿屋敷谷で陶器を作りまた茶樹を栽培して 自家用に供したのに始まる。降って16世紀の初め明人紅令民が南京釜を持参して唐製茶を試み好結果を得た。その後慶安年間(1648〜1651)肥前白石郷の吉村新兵衛当地に移住し山野を開墾し茶種を播いたのが嬉野茶の起こりであると伝えられている。
  この大茶樹は吉村新兵衛が播種したものが成育し残存したものであると伝えられ、樹齢およそ330年と推定され、茶の代表的巨樹として学術的価値が高いものである。

アララギ

この樹は扇山中腹の山道の傍に立っています。「アララギ」と樹木名を書いた板切れが立っているだけで、何の説明もなく樹齢などは不詳です。写真には比較の対象がありませんが、目測で幹周りは10メートル以上あると思われます。風雪や雷でだいぶ痛めつけられた様子がうかがえます。 辞書を見たらアララギは「蘭」と書き、「イチイ」の別名とありました。
扇山は霧立越を椎葉村へ下りる途中にあり、シャクナゲの群落で有名です。霧立越とは蘇陽町馬見原が起点として椎葉村に入るメインルートでした。駄賃付けといって馬の背に荷物を載せて物資を輸送していたそうです。昭和になって日向の方から国道が開通してからそれも廃れてしまい、霧立越も忘れられそうになっていました。
その昔那須大八が平家の落人追討のため椎葉へ行くときに通り、下っては西南戦争の折、田原坂の決戦に敗れた西郷軍が鹿児島に退却するとき通った道です。
今は五ヶ瀬ハイランドスキー場ができ、ロープウェイの発着所までは車道が通じました。そこから約30分ほど山道を登ると椎葉に向かう標高1600メートルの尾根伝いの道に出ます。ブナの原生林の中に10数キロの道が続き、落ち葉を踏みながらトレッキングには最適のコースです。春には多くの高山植物が可憐な花を咲かせ、秋にはブナがみごとな紅葉を見せてくれます。
種類も多く珍しい高山植物の宝庫で、環境庁から遺伝子保存地域に指定されています。

羽黒山の杉並木
羽黒山の杉並木はテレビでもよく放映されますのでご覧になった方も多いと思います。
門前町から山頂に至る約2キロの参道に450本のスギが立ち並び、国の特別天然記念物に指定されています。江戸初期に植えられ樹齢400年近くになり、最大のものは直径1.3メートルあります。
参道の石段は全部で2千数百段あり、昔の石畳もそのまま残っています。今でも笠を被り白装束で登る人に何人も出会いました。
こどもの頃英彦講といって毎月お金を積み立て、元服の年齢である15歳になると、宿坊に泊まって英彦山に詣る習わしがありました。斉藤茂太氏も15歳の年に父茂吉に連れられて出羽三山に詣り、息子が15歳になったとき同じように連れて詣ったという話をしていました。
英彦山にも千本杉や鬼杉があって雰囲気が似ていますが、今では宿坊はほとんど取り壊され、昔泊まった宿坊も廃屋になっていました。一方の羽黒山は今も宿坊が多数残っており、参詣者が多く門前町も賑わっていました。

爺 杉
羽黒山参道の杉並木を数百メートル歩くと、すぐ脇の杉林の中にご覧のようにしめ縄をはった杉の巨樹が現れます。立て札には「羽黒山の爺杉(樹齢約1000年)」とだけありました。
画面の右方に一部写っているのは東北地方唯一の五重塔で、国宝に指定されています。平将門の創建といわれていますが、現在の塔は再建されたものです。この杉は塔創建の頃に植えられたものでしょうか。
明治の廃仏毀釈では羽黒山でも多くの堂宇が破壊されたにもかかわらず、この塔だけが遺っている理由はわかりませんが、あまりにも立派で壊すにしのびなかったのかもしれません。
五重塔に近づいてみて周りの杉の方が高いのに気づきました。爺杉がいかに巨大か、五重塔、周りの杉、人物と比較すれば想像できると思います。

本間家の赤松
酒田市本間家邸宅の赤松、見事な門かぶりの松です。受付の人たずねたら樹齢約400年といっていました。
本間家は江戸時代中頃より大地主として全国的にその名を知られていました。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われたように藩主よりも財力がありました。しかし小作人を搾取するばかりの地主ではなく、収入の約2/3は今でいう失対事業や公共事業(河川工事や防風、防雪のための植林など)、飢饉の時の救済事業に使ったので、土地の人からは本間様と様付けで呼ばれていたそうです。
この邸宅の表側の半分は幕府巡検使の宿舎として建てられ庄内藩主に献上されました。この地方ではヒノキが育たないので紀州から運んだそうです。裏側半分が本間家の住宅として使われていました。当時は正面玄関は藩主、菩提寺の住職、県知事のみ使用が許されていましたが、いまは山形県の文化財に指定され、一般に公開されて観光客の出入り口になっています。
本間家に収集されていた多くの書画のコレクションは戦後いち早く公開され、いまは本間美術館として酒田市観光の目玉の一つになっています。

高津地蔵の銀杏
何度か訪れたことがあるのに気がつかずにいましたところ、銀杏の古木があると聞き立ち寄ってみました。
天平年間行基が全国巡遊の途中立ち寄ったときには、この銀杏がすでにあったといいますから、ゆうに1200年は超えていることになり、霊木として崇められてます。
惜しいかな中央の主幹は途中で折れています。目通り周囲5.8メートル、大きなひこばえが 5,6本伸びて、左の1本が24メートルに達しています。
全体を撮影できませんでした。手前の方は参詣者があげた線香の煙です。

岩を掴む木
巨樹・古木ではありませんが面白い木を見つけましたので紹介します。
紅葉を見に行った折りに水を汲もうと男池に立ち寄ったところ、傍らにご覧のような木がありました。まるで5本の指で岩を掴んでいるように見えます。
男池は大分県庄内町の黒岳登山口にあり、名水百選にも選ばれた湧水で、きれいな水がこんこんとわき出ていて、大勢の人が水を汲みに来ています。
ます。

川棚の樟の森

山口県豊浦町川棚温泉から5〜6キロ 山の方にはいったところに珍しい1本のクスがあります。遠くからはまるで森のように見えることから樟の森と呼ばれています。
大正11年に天然記念物に指定されており、推定樹齢1000年余、樹幹の周囲約11メートル、高さ約21メートル、樹枝の最長約27メートルとありました。
根本近くから四方に枝を伸ばし、地を這うように伸びた枝には支柱がしてあります。主だった枝を数えたら18本ありました。写真1がその全体の姿、写真2が枝分かれしたところの姿で、根もとに祠があります。

一心行桜

南阿蘇の白水村に1本の桜の古木があります。
説明では戦国末期島津の軍勢に敗れた宇土の城主が故郷の白水村に逃れてきて、戦死した部下の菩提を弔うために、毎日桜の木の下で一心に行を納めたというので、一心行の桜と名付けられたということです。根もとには小さな祠と墓石がありました。樹齢は書いてありませんが、推定すると少なくとも4百数十年になります。
数年前ある人の文章を読んで訪れたときは、周りはほんとの野原で農道を通って行きましたが、今回は広い立派な取付け道路ができ、桜の近くには広場が造成され、お堂まで建てられていました。午前7時というのにご覧のように花を観賞する人、写真を撮る人で混雑していました。

蒲生の楠

10年ぐらい前の新聞で鹿児島県に日本一の巨木があることを知り、一度訪ねてみたいと思っていましたが、やっとその所在がわかりました。鹿児島ICの2つ手前の姶良ICから7〜8キロ入った蒲生(かもう)町にあります。
昭和63年の環境庁の巨木・巨木林調査で日本一であることが証明されました。
1123年領主蒲生上総介が宇佐八幡を勧請して蒲生八幡を建立したとき、すでに神木として祀られていたといいます。樹齢は1500年と推定され、大正11年に国の特別天然記念物に指定されています。樹高30メートル、根周り33メートル、目通り幹周り24メートル、樹幹の内部は約8畳敷きの広さの空洞になっており、一般の人が入れないように扉に錠をかけてあります。
樹齢は武雄の楠の半分でも日本一大きいのは、鹿児島の気候など地理的条件に恵まれたためでしょうか。 傷みが強かったらしくだいぶ治療が施されています。