11/10号 |
『名文を書かない文章講座』 (村田喜代子) 評者 (作家 山田稔) |
これは「朝日新聞」連載中に読ませてもらった。本では”講座”となっているが新聞連載のときには”口座”
となっていた。著者の気持ちとしては講座などという硬い感じではなく、口で語るように、普段着の
読み物にしたかったに違いない。”文章”といってもなにも小説や論文の類といった狭い範囲ではなく、
エッセイや手紙、新聞の投稿などを視野に入れての”口座”であったと思われる。そしてなにより
著者には「私は高いところから文法論などをひっさげて、文章の書き方について教えるというようなことは
できないし、したくもありません」というような意味合いがあったのではないだろうか。 そういう姿勢でわかりやすく語っていて、とても興味深くおもしろかった。いろいろ細かい注意点も参考に なったが、一番なるほどと納得したのは「良い文章とは『自分にしか書けないことを、だれが読んでも わかるように書く』、この二つの条件をみたしたものだ」というところ。これは村田氏が直接言ったので はなく、『高校生のための文章読本』という本にある言葉だという。(だから私や評者にとっては孫引きと いうことになる。)こういう本を持ち出すことも村田氏らしいところである。で、この言葉は、不特定多数の人に 自分の書いたものを読んでもらおうと思うものにとっては、座右の銘にしなければならない言葉だと思った。 というか少々耳の痛い言葉である。いつも完全に出来ることではないが、常に心がけなくてはならないことだ。 ところでこの文を読むまで私は村田喜代子の著書を一冊も読んでなかった。いや興味は前々からあった のだが。幸い今「朝日新聞」で彼女の小説が連載されている。骨董にさほど知識のない私としては、少々 タイトル(「人を見たら蛙に化<な>れ」)から想像していた内容と違うので、戸惑ってはいるが、 展開やいかに。 舞台が九州北部、中部地方で、詳しい地名が出してあるところや、出身地も近いせいか、 それに骨董美術品についての詳細が書かれているせいか、なんとなく、松本清張の作品を思わせたりも する。彼も出世作は芥川賞を取っているし。 とにかくエッセイストを目指す人、エッセイで賞金を 稼ぎたい人、新聞の投稿欄に採用されたい人はまず、基礎としてこの本を読むべし。 |
10/20号 |
斎藤美奈子の誤読日記
(24) かういう藝の見せ方もある 『闊歩する漱石』(丸谷才一) |
私は一応、丸谷才一の愛読者である、と言っていい。”一応”と断ったのは熱狂的とまではいかないからだ。
何がなんでも新刊が出たら真っ先に読む、とか、情報はなるべく漏らさないように注意する、とかいった
いわゆるファンという感じではない。しかし雑誌や新聞に彼の著書のことが載っていれば、必ず読む。
この前も朝日新聞読書欄に「本」についての依頼文が、3回にわけて掲載されていた。そこに載せていた
写真がいかにも丸谷氏のおしゃれな感じを表していた。書庫の前で撮ったもので、その入り口に貼ってあった
写真にはかのマリリン・モンローが写っていて、なんと(!)ジョイスの「ユリシーズ」を読んでいるでは
ないか。これを見つけた丸谷氏はどんなにうれしかったことだろう(丸谷氏はジョイスの研究者)。まさに
この写真を書庫の入り口に貼ることに、彼の生きていく姿勢みたいなものが表されているなあと感心した。 寡作ということもあるが私は長編小説は全部読んでいると思う。評論、エッセイの類は相当数あるので 全部に目を通してはいないが、日本語論(「日本語のために」「文章読本」など)和歌の評論(「後鳥羽 院」)軽めのエッセイ、派手な仕掛けの見栄を切ったような評論(「忠臣蔵とは何か」)などを読んだ。 いずれも、まず文章がうまいので頭に入りやすいということが有難いし、この紹介文でも述べられている ように”博覧強記”を絵に描いたような方なので、こちらも賢くなったような気になるし、論の立て方 が工夫されているのでどんどん引き込まれていき興奮が得られる、といいことずくめ。早く言えばおもし ろいの一言ですむが。そんな丸谷氏が好きな言葉の代表は「景気がいい」と「格が高い」である、と 思われる。この二つの言葉、かなり全体のトーンを表してますよ。 で今回の漱石論、漱石論はいっぱいでてますからねえ。そんじょそこらの 漱石論と一緒じゃあつまらない。でもって丸谷流漱石論のいっちょ上がりというわけでしょう。丸谷氏は 自著はすべて旧かな遣いなので(文庫になったらそうできないが)この評論者の斎藤美奈子女史も がんばって旧かなで書いてます。ご苦労様です。 |
10/6号 |
斎藤美奈子の誤読日記
(22) 年季の入った「清純派」漫才 『ああ言えばこう*嫁行く』(阿川佐和子、檀ふみ著) |
いきなり関西の女性漫才コンビ”若井小づえ、みどり”の名前が出てきたのでびっくり。あまりにも
著者の二人とはかけ離れたイメージなんで・・・。しかし確かにさほど若くない二人が結婚願望を持ちネタ
にしている点だけは共通する。それが本音かどうかは定かでないとしても・・・。 この二人、本当に いいコンビだ。同じような境遇で育ち、物の見方、価値観、センスなど一致する部分も多いだろう。 そんな二人がああ言えばこう返しながら、進めていく会話やエッセイはおもしろい(といってもこのコンビの エッセイをちゃんと読んだことはないが)。テレビのトークでよく見せてもらうのだが、特に檀ふみさんは かなりおもしろい人だ。その外見とか昔の「連想ゲーム」での優等生的回答からは想像できない、かなり ぶっ飛んだおもしろさがありそうだ。この人の話を聞いていると浮世離れしたところもあり、こちらまで ゆったりした気分になってしまう。私にとっては癒し系タレントの一人だ。 しかし彼女の話しぶりは 天然ボケの部類に入れられるだろうか。たとえば「踊るさんま御殿」などでさんまに突っ込まれて大受け するようなタレントとは誰が見ても異なる。阿川さんもしかり。またナンシー関から鋭いパンチを受ける 確率も低そうだ。なぜか?もちろん二人ともかしこいからと言えばそれで終わりだが、もう少し言うと、 物を書く人というのは周囲をよく見ているし、その中の自分の立場を客観的にわかっている。それとは別に もちろん問いかけに対する反応も早いから、違和感を抱かせるような発言はまずないだろう。そのとき ほんとにボーっとしてれば別だが・・・。この二人が「さんま御殿」の真中に座って、大受けの発言をする ようになったら、もうやばいですね。 * 嫁の上に×が付いているのが正解・・(しかし表記できない・・) |
9/29号 |
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ここ何年かの、日本でいうところの”少年”、ティーンエイジャーたちの惨状はすざましく、
大人達を震撼させ続けている。もっとも大人も年代に関係無く、耳を疑うようなさまざまな(たとえば幼児
虐待や主婦の幼児殺人など)事件を起こしてはいる。だが少年たちの事件ほど現実感に乏しく、
不可解ないわゆる”心の闇”あるいは”心の空洞”を感じさせるものはない。
思春期かそれ以下の年齢の子供を持った親で、そのような事件や状況が我が子にいつか襲ってくるの ではという不安を持たない人はいないと思う。事件の加害者、被害者どちらの立場にもなりうるし、事件に 関わらずとも、いじめにあったり、ひきこもりになったりする可能性もある。そういう不安を抱えてい る親達にとって、今週紹介された上記2冊の本はぜひ参考にしたいものだ。 『伊藤ふきげん製作所』の紹介文を読むと、”<『シートン動物記』で読んだ野ブタの群れみたい> な<上下関係のはっきりしない関係>でかたちづくられていた”という伊藤家、詩人の比呂美さんはとても 自由な発想の持ち主だと思うし、規制にとらわれないおもしろい人だと前前から見ていたのだが、その 伊藤家の子供達さえ、今の日本のというか世界のというか、世の中の潮流には逆らえないのだ。 彼女の長女は十三歳で、そう、中学生になったら要注意だと親は思うちょうど その歳だ。といっても伊藤家には伊藤家独自の事情もある。離婚、そしてイギリス人との再婚、ということ もその一つだ。でも幼児からの親子関係をきっちり作っておけば、いつかはふきげんも嵐も過ぎ去ると 思うのだが・・。 尾木氏はこのところの少年事件でよくテレビでもお目にかかる。ソフトな語り口で 的確に今の子供の実態を掴んでいるように見受ける。というのも中学校の現場に長年いたからだ。 現場にいた者の発言というのが一番参考になる。岩波新書版だし、ぜひ買って読んでみたい。読んだから 解決するというわけでもないけど。 |