プラントの語るボンゾ

 

 1965年ぐらいだった。俺はバーミンガムの西にあるブラック・カウンティというところに住んでいたんだけど、そこで「ザ・クローリング・キング・スネイクス」というリズム&ブルース・バンドで活動していた。
オールドヒル・プラザというブラック・カウンテイでは名の知れたホールがあって、そこでプレイしていたな。店は毎晩オープンしていて、最高のダンス・ホール、きれいな女、弾力のある木のダンス・フロア・・・・・とすべてそろっていた。
ある日、コンサートの終わりにオレンジ色のスエードのレザー・ジャケットを着た男が俺のところにやってきたんだ。・・・・・デカいツラをした生意気なやつだったよ。
そいつは俺に向かって「お前、なかなかやるじゃないか。だけどお前には俺が必要だぜ。俺みたいなベスト・ドラマーはそうそう見つかるもんじゃないからな。」って言ったんだ。
俺が「へえ、そうかな。」って返事をしたら彼は,プラム・ビート・ミュージックのグループとプレイしたことがあると言うんだ。でも俺は「お前がプレイしているようなポップスは好きじゃない。
俺はR&Bにぞっこんなんだ。」って言ってやったんだ。
ヤツ(ボンゾ)は俺に付いてきてプレイを披露してくれて・・・素晴らしかった。俺はヤツが自分のことをうぬぼれて、自慢しながらも、ほんとうのことを言っていたんで驚いてしまったね。
俺も口もたつけど、プレイもたつプレイヤーが好きなんだ。実際、俺は出身地では何年もの間、笑い者にされてきたんだ。というのも俺はいつも連中に「俺は今素晴らしいシンガーだから、いつか本当に大物になるぜ」って言っていたんでね。まあみんなに「いい加減にしろ。
何てバカなヤローだ」って言われていたな。俺が道路の舗装工事の仕事を始めた時、みんなは皮肉っぽいうすら笑いを浮かべながら、「お前は本当に大物さ。大成功してるよな。そうだろう?」って言われたものさ。
そして俺はアレクシス・コーナーと仕事をするようになったんだから、うまくやっていたと思うぜ。 ボンゾはほんとうに積極的で、とてもおもしろく、ユーモアのセンスがあって、うぬぼれやだったんで、最高のヤツだったよ。
あいつはいつもサングラスをかけて手袋をしていたので、一目でドラマーとわかるんだ。ザ・クローリング・キング・スネイクスはなかなかいいバンドだったんだけれど、ボンゾはいつも彼のドラムを「手入れするために」家に持って帰っていた。
あとになって思うと「ドラムの手入れ」とか言いつつ、彼は誰か他の人とプレイするために持ちかえっていることに気がついたよ。おれたちが彼を迎えにヤツの家へ行くと,彼の母親が出てきて「もう出かけました」って言うんだ。
彼は他の連中とギグするために出ていったのさ。だから俺は彼をクビにして別のドラマーをいれたのさ。そうしたら、アイツをほんとうになつかしがっている自分に気づいちまって。そういうわけで、俺は彼のガール・フレンドの家に会いにいったよ。
そして彼は俺に「あんなマネをしたのは過ちだった」ってあやまったんだ。
ヤツはいつも違う女とデートしているっっていうことも、問題のひとつだったな。
アイツがちょっと席をはずした時に、俺は彼が石炭置き場にベース・ギターを隠しているのを発見してしまったんだ。
そのベースは彼が当時いたバンドから盗んできた物で、彼はそれを売って次のギグに行くガソリン代にあてる心算だったんだ。 

俺達は、また一緒に組んで「バンド・オヴ・ジョイ」というバンドをつくった。
現に「ロバート・プラント・アンド・ザ・バンド・オヴ・ジョイ」には何バージョンかあって1967〜68年にはアメリカン・ウエスト・コーストやサンフランシスコ・ミュージックをプレイするカルト・バンドとなったんだよ。
俺達はジェファーソン・エアプレインの「ホワイト・ラビット」などの曲を音楽的に拡張してプレイしていて、そういったものは、あとにジミーやジョン・ポール・ジョーンズとやるようになったとき、レッド・ツェッペリンの「幻惑されて」や「ハウ・メニー・モア・タイムズ」などといった60年代後半にかなり人気のあった曲などの一部となっていったんだ。
バンド・オブ・ジョイは、まったくほんとうに、ほんとうによいバンドだった。俺達はかなり評価されて、イギリス中をツアーして回り400〜500人集められるところもあれば,10人も入らないところもあったよ。このバンドは万人受けではなかったんでね。
俺達はスコットランドの境界線でプレイして、そしてある街では素晴らしいファンを得、別のところではキンクスの曲をプレイしないというんで、ミート・パイなんかを投げつけられたりした。それでも俺達活動を続けたよ。
−俺達は同じベッドに寝、同じ女と遊び、同じ酒を分け合い、家に帰った時に自分たちの彼女に同じいい訳を使ったりした。今日では起こり得ないようなアドヴェンチャーの日々を生き延びていたんだ。俺達はロックンロールのパイオニアではなかったんだぜ。当時はジーン・ビンセントとエディ・コクランの時代だったもの。だけど、俺達は楽しみながらも、2人とも成功を急いでいることに気がついたよ。
ある日、俺達はジミ・ヘンドリックスなどがプレイした有名なクラブでプレイするために、ロンドンに行かなければならなかった。車で行く途中、たまたま柵のの近くに車を止めたんだけど,そのときボンゾがバンのバッグ・ドアのハンドルを柵に引っ掛けてしまってね。それと知らずに車を出した時にドアのハンドルが取れてしまったんだ。
ギグのクラブに着いて、何とかバッグ・ドアを開けようとしたが、ハンドルがないんだから、開くわけない。ボンゾはシャベルをかりてきてバンのバッグ・ドアをなんとかこじあけようとした。そこへキース・ムーンがロールスロイスでやってきた。彼は俺にシャベルを投げつけて言ったよ。「ちくしょう、あのドラマーが俺のそばを通るときに、シャベルで車のドアをこじあけたりするものか!俺はいつだって、彼と同じくらいすぐれたドラマーなんだぜ」って。
 そのあとも俺達はそのクラブでギグを重ねていったんだが、あまりに多くの人がボンゾに興味を持ったんで、俺は彼を失うことになるんじゃないかと不安になったよ・・・どのみち、そのとおりになっちまったけど。
俺たちエインズレー・ダンバーズ・リタリエーション・アンド・ティム・ローズとツアーしたんだけど、当時、ティム・ローズは「マウンテン・デュー」というヒット・アルバムを持っていた。
で、そのバンドのエインズレーがアメリカに渡ってしまうというんで、エインズレーのかわりにボンゾがやることになったんだ。だから俺はバンド・オブ・ジョイを解散してしばらくはAlexis Korner と仕事をすることにしたんだよ。
ボンゾにとってティム・ローズとの仕事はほんとうによい経験になったみたい。
あのトリオのダイナミックなパワーは素晴らしかったね。ストラトをプレイするティムとベース・プレイヤー、それとエインズレーからボンゾにになったドラムの3人。
ティムはアメリカ人なので、フォークのニュアンスをふんだんに持っていた。その音楽はいきなりぴたっと止み、そしてまた盛り返すものだった。その中からボンゾは、必要なときのみパワーを発揮しつつ、あとは抑えるといったプレイ法を多く学んだんだよ。それが、ツェッペリンでプレイしていくうちに完璧な奏法になっていったんだ。
俺はアレクシス・コーナーとの仕事が終わった時に、ニューヤードバーズ結成案をひっくり返すべくジミー・ペイジに声をかけられた。
それでバークシャイアにあるパングボーンに行きジミーと週末を過ごし、マディ・ウォーターズやジョーン・バエズ、ウディ・ガスリー、ハウリン・ウルフなどの曲をたくさんかけて、俺たちの音楽の趣味が合うってことを発見したんだ。
ジミーはプロコル・ハルムでプレイしたBJウィルソンというドラマーに会うつもりだと言ったが俺は「他のドラマーのことは忘れろ」といって、彼をボンゾに会わせたよ。
しかし、ボンゾのワイフが、ボンゾが俺たちといっしょにやるってことを許してくれなくってねえ。彼女曰く、ヤツは俺とツルんだら最後、何週間も家をあけて一文なしで帰宅し、うしろ向きに垣根の間をひきずりまわされたような風体で、バカヅラして笑うようになるって言うんだよ(笑)。
俺はどうにも手のうちようがなかったので、ジミーがボンゾに話を切り出し、いっしょにやるよう彼を説得するという事になったんだ。ボンゾは最初のリハーサルには姿を現さなかったけど、結局やってきたのさ。
そうして、あのバンドの音楽について大まかな話をし、基礎は完成したってわけ。

(一緒にプレイしてみて)
 ボンゾも俺も、どこかよそでそれぞれ仕事はしてきたんだけれども、こういった、たまらなく自由な環境でプレイした事はほかにはなかったんだ。

俺達はただ、ひたすらプレイして、リフを作って、すべてがそこから広がっていったよ。84小節ごとに様々な展開を見せながらね。俺は自分の声をスキャット(ルイ・アームストロングのように)して彼等に合わせて使ったよ。
おいてきぼりになりたくなかったからねえ。あるいは拍子記号を変えたり、ほとんど意味のないヴォーカルだけど、テナー・サックスの役割を果たすようなヴォーカル・フレーズでリズムに割り込んでいったり。
音楽を別の方向に変えてしまうように、次から次へと何かがかぶさっていくような音楽で、俺たちの音は自由空間を飛んでいた。最後にはとても自由な感覚が得られたし、これぞ、何年も探して求めていたものなんだって思ったよ。
ほんと、ジミーとジョーンジーには驚かされたよ。
だってボンゾと俺はずいぶん長くいっしょにプレイしてきたのに、こういった広がりのあるミュージシャン・シップを感じたのは初めてだったからね。
ジミーはヤードバーズのとても速いリズムをプレイして、ジョーンジーは何が出てこようがビクともしないのさ。彼はほんとうに流れるようになめらかなプレイをするんだ。
最初、俺とボンゾは週に25ポンドの運転者扱いだったよ。彼等も金がなくて、俺はバンを運転していたから。ボンゾとジョーンジーは、チョークとチーズのごとく、多くの意味でまったく違っていたね。
それと同時にまたすごく類似点もあって彼等は顔を見合わせるだけで互いに次に何をするかわかってしまうんだ。彼等のリズムは素晴らしいよ・・・・特にボンゾのプレイはね。
というのも、ボンゾはいつもバックビートでリズムを引っ張っていたんだ。
彼は音楽にセックスを持ちこんだのさ。バス・ドラムとスネアの間のスペースは、きわめて重大だったね。もし、ビートのちょうどトップで彼がプレイしたとしたら、、それはアップフロントすぎて音楽から官能は奪ってしまう。ボンゾはバックビートで引っ張って、彼とジョーンジーで、えもいわれぬ「いやらしさ」を表現していたのさ。
それと同時にジミーと俺はソングライターあるいはフロントマンとしてバンドに貢献し俺たちは肉体的にもちょっとヒワイに、ステージの前でお互い絡んだりしてたのさ。
まあ、今でこそ「カラミ」なんていって笑えるけど、当時俺はかなりマジにやってたんだぜ。とにかくあれはセックスだったな。ジョーンジーとボンゾはリズミックなセクシャリティを持っていたんだ。
当時は、音楽的要素ってものが、一般社会において今よりずっと強く明白だったので、自分のバンドを率いているホットなドラマーがたくさんいたよ。
バディ・マイルスとかカーマイン・アピスといった・・・。そして、みんな互いにチェックを入れていた。ボンゾはバーナード・パーディやアルフォンソ・ムゾンをよく観察していて、彼等のことをスゴイって感じていたね。多くの人がジョンを評価したけど、俺達は早く動きすぎて、自分たちのことなんて何も分析できなかったね。
世界一のバンドにいたからって何だというんだよ。次のギグがあれば、とにかく歌わなくちゃならないのは同じことだろ。
 振り返ってみれば、ジョンのプレイがいかに重要だったか、そしてまた、多くの人が彼のキットを手本にしたためにサウンドも向上したっていうのがわかるよ。
「レヴィー・ブレイク」のジョンのバスドラとスネアはスクリームしていてよい見本だ。あれはあまりにいい音なんで、5つのマイクで録ったんだぜ。

(ファミリーマンとしての彼は)

 彼は俺と同じくイングランド中部地方出身の人間だったからね。
彼は家に帰ると、自宅のパブで楽しみクレイジーになったり、また子どもたちを愛して、ジューク・ボックスのとなりのドラム・キットにジェイソンを座らせて、スティーリー・ダンやエルビス、テンプテーションズとかをプレイさせていたよ。
もし彼がちゃんとプレイできなければ、ボンゾはそのちっこいドラム・キットに座ってどうやるか教えてた。
 励ましたんじゃなく、怒鳴りつけてたね。
「バカな子だ、こうやるって教えたろ!」とか言って。そうするとジェイソンは「ああそうだった、今思い出したよ」とかいってたね。

(ボンゾをどんなふうにおぼえてもらいたいか)

 特にきまったセリフはいわないけど、ドラミングのアプローチ法のまったく異なるいくつかの曲ー例えば「アキレス最後の戦い」と「フール・イン・ザ・レイン」といった曲、そして「デジャ・メイク・ハー」などといった曲を聴くことをお勧めするよ。
とても、バリエーションに富んでて視野が広く、雷のごとく鋭敏なんだ。彼が本当に乗ってプレイしている時、彼のヘッドフォンには、ドラムの音がとてもよい音でかえってきていて、彼は「キャノン(大砲)!」と叫んでいたものだったよ。
あまりに音がよくて素晴らしいキットだったんだ。彼にはそれがわかっていたのさ。
彼はどう扱い、どうチューニングするか、イスの位置はどうしたらいいか、どの種のバスドラペダルを使うかなど、彼独特の素晴らしい感覚でわかっていたんだ。
それらはすべて、彼の中でバランスがとれてなくてはならなくて,彼自身がドラムキットの一部だった。
しかし、彼はまったく評価していなかったよ。あんなにボンゾは素晴らしいのにバカみたいな話さ。 
 ボンゾは最初に会った時,自分がいかに優れているか自慢したけど、時が経つにつれて、俺たち多くの音楽スタイルに接するようになって、まわりに天才がたくさんいたんでね。
ほんとうに素晴らしいミュージシャンが・・・。だからボンゾも、自分はもはやさほど優れていないや、と思うようになったんだ。これって狂ってるよ。
ボンゾ自身は俺にはもっと学ぶことがあるって考えていたけれど、もう学ぶことは何もなかったよ。もし彼がたゆまずプレイし続けていたのなら、彼は10回生命を授かったぐらい自分自身を楽しめたろうにね。
あらゆるドラマーの中で、ボンゾは本物のドラマーだった。威勢だけよくて、やたら機材の多いカッコつけのドラマーではなかったね。
彼にバスドラを一つ、スネアを一つ、そしてタムタムとハイハットとライド・シンバルを各一つだけ渡せば、あとはバッチリだった。俺も何人か素晴らしいドラマーとプレイしたけどね。
フィル・コリンズ、コージー・パウエルとかと。でも未だにボンゾこそ俺が求めるドラマーだったんだ。

(ボンゾのプレイはジミーとどのようにインスパイアしたか)

 レコードを聴いてもわかるように、、各自、互いに火を噴きながら、何かが起こりバイブレーションを交換し合うといった思想と音楽性を共有したものだった。
でも、どう感じたかはジミーに聞かなければわからないよ。

(ロバートはボンゾのプレイにどうインスパイアされたか)

 ジミーのときと同様、ともに飛び・・・プレイし、いっしょに天国に行くんだ。
そうならなかったらバンドをやめたほうがいいよ。もし自分のやってることが気に入らないのだったらやめてしまうよ。
でも、俺がやりたかったのは、これだったんだ。

(もしボンゾがここにいたら、彼に何と言いますか?)

 今度はお前が俺に酒を奢る番だぜ。
 

 

   
ドラムマガジン(NO.28)

 

ボンゾの1980年9月26日

 ボンゾは妻との間にジェイソン(1966年)ゾー(1975年)の2人の子どもをもうけて85万ポンドの遺産を残した。
しかし、スピードボール(ヘロインとコケインの混合物)と睡眠薬入りの酒に明け暮れていた。1980年6月32歳の彼はツアー先のドイツで卒倒し、心臓発作の疑いが持たれた。それでも酒を止めなかった。
1980年9月26日の昼時、自宅近くのパブで飲み出したボンゾはチーズロールを食べ、スクリュードライバーを4〜5杯飲んだ。
昼食後、リハーサルのために、ジミーページの家に車で送られリハーサルを行った。
その間も1時間に2〜3杯のペースでスクリュードライバーを飲みつづけた。
深夜、パイとチップスを食べたボンゾは。ページの90万ポンドの邸宅のソファーで眠ってしまった。
メンバーによってベッドに運ばれ、枕を何個か当てられ横向きに寝かされた。
しかし、ボンゾは自分の嘔吐物に喉を詰まらせて窒息死してしまった。

 

より理解を深めるならRusty Ledジョン・ボーナム特集記事の紹介もご覧下さい。

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