ZEPの聖地を旅する IN HIROSHIMA
1971年9月27日、広島では愛と平和のコンサートが開かれた
広島城
「Led Zeppelin トリビュート イン ヒロシマ」というLed Zeppelin 広島公演30周年記念イベントが2001年10月8日に行なわれました。
残念ながら当日のイベントには参加できなかったのですが、その前夜祭には参加ができたため、私は10月7日広島入りしました。せっかく広島に来たのだから前夜祭が始まる前に「ZEPの旅 広島編」をやってしまおうと思い立ちました。
広島市の地図
ZEPのご一行様は30年前の1971年9月26日に広島駅(地図@)に到着しました。
2001年10月7日私は前夜祭に参加するため福岡県から新幹線に乗り広島駅に着きました。
広島駅
ZEPのご一行様は新幹線で移動しました。今は新幹線はいくつもの型がありますが、ZEP来日当時は新幹線といえば、これです。これは1962年からの型だと駅で新幹線の写真を撮ってる私に話し掛けてきた、鉄道マニアのおじさんの説明で知りました。ZEPのメンバーは新幹線の中でも騒動を起こして日本人スタッフを震え上がらせました。
新幹線
広島駅南口で待っていたのは「Houses of the Holy」のペイジさんでした。ペイジさんとタクシーでZEPのコンサートが開かれた広島県立体育館(地図A)に行きました。建てかわったため、当時の建物とは違います。
広島県立体育館
広島公演の時ZEPのメンバーが登場する前に司会者から話がありました。その中にこんな言葉がありました。
「こんばんは。おまたせいたしました、皆さんの待ち焦がれたLed Zeppelinが広島にやってまいりました。今日の広島・・・この県立体育館での『愛と平和Led Zeppelinチャリティー・コンサート』のために日本にやってきたわけです。したがって、東京2回、大阪2回の公演は広島に来たついでに彼等はやって来たわけです。・・・・・・・特に広島でのコンサートはチャリティー・コンサートということで、彼らは今日はギャラは取りません!ノーギャラです!そして皆さんの拍手はあとで、彼等四人に、ひとつ盛大に送ってください。そして、彼等の、ノーギャラで、皆様方からいただきました入場料収入は、全て広島市を通じまして広島の原爆被災者に送るわけです。・・・ロック、音楽、ロックというものは、愛と平和、そして解放ですね・・・・・・・」(Led Zeppelin トリビュート イン ヒロシマのパンフより)
そしてここで、kimiyさんと待ち合わせました。kimiyさんが合流すると、3人で歩いて広島原爆ドーム(地図D)に行きました。原爆ドームは被爆時の広島の惨状をとどめる唯一の存在として、平和への願いを無言で訴え続けています。「人類の過ちの歴史を伝える財産」として、世界遺産に登録され、恒久平和のシンボルになりました。第二次世界大戦関連ではポーランドのアウシュビッツ強制収容所に次ぐ世界遺産の登録です。もともと広島県産業奨励館という建物でした。
原爆ドーム
ZEPのメンバーはこのドームを見学しました。そして平和公園(地図B)内にある原爆資料館に行きました。私たちもドームを見ながら横の道を歩き、平和公園に入りました(地図B)。ここはさまざまなモニュメントや平和の泉、平和の灯があります。毎年8月6日には「平和記念式典」が開催されます。核兵器の廃絶を願い世界中から数万人が集まります。
あのジミーちゃんが寝転んで写真を撮っているものと同じポーズで写真を撮りたかったのですが、現在芝生の中は立ち入り禁止になっていました。しかたがないので、芝生の端っこで記念撮影になってしまいました。
平和公園にて
それから原爆資料館に入りました。被爆資料を展示する施設です。館内は被爆当時の資料を公開しています。東館には被爆前後の広島の歩みを紹介。西館では被爆者の数々の遺品を展示し、核兵器がもたらした被害がいかに悲惨なものだったかを訴えています。
ここの資料を見てジョーンジーは絶句し、ジミーちゃんは涙を流したといいます。私やkimiyさんは何度か資料館に行った事があったのですが、初めて訪れたペイジさんは強い衝撃を受けたようでした。
原爆資料館
前夜祭の時間が近づいたので、会場(STUDIO DUCK)付近のマク○ナルドで軽く食べて会場に臨みました。
会場では開始前に主催者であり、春秋分点のメンバーでもある「まじかるZEPワールド」の谷口さん、「Tangerin」の小林さんとお話できました。
谷口さんと小林さんと一緒に
いよいよ前夜祭です。前夜祭では、ZEPのトリビュートバンドのIMMIGRANZと151Aの演奏と参加者によるセッションが行なわれました。
IMMIGRANZ 151A
★前夜祭(本編も含めて)についてはボードに書き込まれた参加者の声を載せることにします。
(kimiyさん)いやいや燃えましたね〜〜(^○^) ZEPファンはみんな昔からのお友達みたいです。ついコーフンするわたくし・・・ほほほ・・失礼いたしました(^^;)
(のばっちさん)前夜祭、イベント本編共にすごく楽しかったです。また何かの機会に御会いできたらいいですね!!
(L,B−side?さん)それにしても遠かったです、広島。疲れましたが、前夜祭ライヴは大満足でした〜!!
イミグランツ、151Aのみなさんありがとう!!そしてライヴに関わった全ての方々ありがとうございました!!
(PAGEさん)広島ではお世話になりました。そして、IMMIGRANTZの皆さま方、前夜祭での素晴らしい演奏ありがとうございました。も〜あの衣装とMCも最高でした。ビデオ撮影しながらMCでウケまくってましたよ。またこんな機会があれば喜んで参加したいと思います。今回見逃した方々も次の機会があればぜひ参加してほしいと思います。今回のイベントは俺にとって忘れることのできない貴重な体験となりましたので。
(151A・小宝さん)
広島では、どうもでした。たのしい2日間でした。前夜祭は約1名泥酔でしたので、まともな演奏できずでごめんなさい。
本番は、なんとかなりましたが、弦切れ、構成間違いなど、ZEPみたいなハプニングも(爆)また、やりましょう!!!
(IMMIGRANZ・ロバー頭さん)広島では本当にありがとうございました。私にとってあの夜の事は生涯忘れることができないでしょう。演奏そっちのけのMCは新しいロバー頭の発見でもありました。また広島に行きましょう。
(151A・青鈴さん)お会い出来てすごく嬉しかったです。沼田さん、はじめ、ZEPファンにとって、お会いしたかった人にたくさん会えて、この2日間は本当に充実した、素晴らしい日になりました。一生の思い出です。
7日も、心底楽しかったです。前夜祭は、酔っぱらってしまった約1名おりましたが(^^;ゞ演奏もちょっと酔っぱらってしまい、申し訳ありませんでした。
2日目、は緊張しましたが、皆、頑張って演奏しました。
これに懲りずに、また皆さまにはお会いしたいと思いますし、また関西にも是非来ていただきたいと思っております。
是非是非、またご一緒しましょう!
前夜祭終了後懇親会に参加させていただきました。大変盛り上がりました。会場は「福々亭」で瀬戸内料理を堪能しました。二次会は「スマトラ・タイガー」でここでは再びセッションが始まりました。それから三次会、四次会と夜はふけていくのでした・・・・・
懇親会にて
お酒を飲んでる間に翌日になっていました。午前中、超睡眠不足の体を引きずって、広島市役所(地図C)に行きました。当時の庁舎はなくて1985年に新庁舎に建てかわったそうです。ZEPのメンバーは市役所の市長室で当時の広島市長に会い、売上金700万円を寄付しました。市長はメンバーに感謝の意を込めて市民憲章を贈りました。
メンバーを代表してロバート王子がこんな挨拶をしました。
「僕たちが生まれた時、すでに原爆が落とされていました。しかし誰が悪い、ということではなく、それはすでに起こってしまったことであり、私たちと同じ人間の仲間が起こした事です。私たちに罪はないけれど、私たちの仲間の『過去』がやったことで、そのことに対しては申し訳なさを感じます。そして、少しでも自分たちが、苦しんでる人の助けになればと考えたのです。音楽は人々に平和と楽しさを与えるものです。その音楽をやっている僕たちが、少しでも力になれるのなら、実に光栄だと思います。」
広島市役所 市長室のZEP
それから再び平和公園に行きました。ペイジさんが「もっとじっくり見てみたい」と原爆資料館を時間をかけて見ていました。私は公園のベンチでボーっと座って待ってました。
ペイジさんと合流後、広島名物お好み焼きを食べに行きました。目の前で焼いてもらえるので、その手さばきに感動します。味も素晴らしいです。同じ時間に「Led Impulse」の、のばっちさんがいました。お互い食べるのに一生懸命で気がつきませんでした。
「お好み村」にて
食後,kimiyさんと合流。3人でイベント会場の南区民文化センターに行きました。谷口さんに挨拶をしてから帰ろうと思ったのです。
このイベントでは「for LED ZEPPELIN collectors only 」の沼田育美さんとZep広島公演に参加された中古レコード店「Groovin'」の内藤康則店長(福山店)お二人の講演、そしてZEPのトリビュートバンド、151Aと春秋分点のライブがありました。
会場に着いた時ちょうど春秋分点のリハーサルがあってました。谷口さんの奥様がいらして、会場に入れて下さいました。本番に参加できなくてがっかりしていたので、とても嬉しかったです。
リハーサルにお邪魔
そして私は会場を後にしました。後ろ髪を引かれる思いで広島駅に向かいました。
このイベントを主催された谷口さん、小林さんをはじめ、たくさんの方にお世話になりました。沼田さん、内藤さん、講演お疲れ様でした。151A・春秋分点・IMMIGRANZの皆さん、セッションに参加された皆さん、ライヴお疲れ様でした。スタッフの皆さん、素晴らしいイベントをありがとうございました。kimiyさん、ペイジさんお付き合いくださって、ありがとう。この場をかりてお礼申し上げます。
*前夜祭、懇親会及び当日のイベントについては青鈴さん、のばっちさん、IMMIGRANZの皆さん、ペイジさんがレポートUPしています。ご覧下さい。
今回のイベントが新聞記事に
2001年10月5日中国新聞(夕刊)
(記事)1971年九月に広島市で被爆者援護のチャリティーコンサートをした英国のロックバンド「レッド・ツェッペリン(ZEP)」=80年に解散=をたたえ、八日夕、南区民文化センターでZEP広島公演三十周年記念イベントが催される。関西の「151A」と広島の「春秋分点」の両バンドが出演し、ZEPの曲を演奏。ヒット曲「幻惑されて」のライブ録音をそっくり再現するなど工夫も凝らす。
ZEPは七〇年代の代表的ロックバンド。旧県立体育館に聴衆約五千人を集め、広島初の「総立ち」コンサートとされる。今回は当時の聴衆も招き、平和記念公園などでくつろぐ四人のスライド写真も交え、思い出話を聞く。
広島公演の収益金約七百万円をZEPは被爆者援護として広島市に寄付。世界三大ギタリストに数えられるジミー・ペイジは当時、「戦争を知らない私たちにの心の中にも、人類が原爆を落としたことへの恥ずかしさがある。」と言い添えた。
ファンでZEPホームページをそれぞれ持つ谷口悟さんと小林義男さんが準備した。
ZEPの広島公演の意義について(あくまでも個人的見解ですが)
ニューヨークのテロ事件は凄惨を極めました。あのビルの映像はあまりに衝撃が大きすぎました。しかしそれ以前からパレスチナが長い間どういう状況におかれているのか、私たちのところにはきちんと伝わってないのではないかという思いがあります。もちろんテロリズムを許してはいけません。殺戮は新たな殺戮を生むだけです。
今、世界的に孤立しつつあるアフガニスタンのタリバン政権を見てると、真珠湾以降の日本がこんな感じだったのかなあ、と思います。もし真珠湾攻撃の模様がテレビという媒体でリアルタイムで世界中に届いていたら、もっと世界の憎悪をかきたてていたでしょう。
原爆に関して、研究した話をいろいろと聞いていると、あの敗戦濃厚な時期にあえて2発の核爆弾を使用する必要があったのか、という気持ちが起きてきました。あれは攻撃することよりも人体実験の目的のほうが大きかったのではないかという漠然とした疑問をずっと持っています。
世界の多くの人たちは「原爆投下は正しかった」と理解しています。原爆が戦争終結を早めたからだと言います。もう少し突っ込んで言えば「卑怯な日本は原爆を投下されても自業自得である」というところでしょうか。特に連合国側の人たちは「正義が勝った」と位置付けていると思います。
また平和公園の中を歩くと、外国からのモニュメントをいくつもみつけることができます。国名を見ると、日系人がたくさんいるブラジルをみつけた以外は、ほとんどが冷戦下の東側の国でした。
これは「平和を願う」気持ちよりも政治的意図を感じて暗い気持ちになりました。戦後、東側の国が「広島、長崎」を西側の国を批判するための手段として考えていたなら悲しい事です。
原爆の目的や戦後の問題等を論議するために書いているわけではありません。私は一人の母親として、自分の娘だけでなく世界のすべての子どもが、人を殺したり、人から殺されたり、戦火にむごたらしく焼かれたりすることなく生きていける世の中であってほしいと願ってるだけの者です。
私が思うのはZEPのメンバーが連合国のイギリス人であり「原爆投下は正しかった」という雰囲気の中で育ったのではないか、ということです。そして、それにもかかわらず、広島に行き、被爆者のためのチャリティー・コンサートを開いたこと、原爆資料館に足を運んだこと、広島市民に謝罪したこと、気軽にできることではなかったと思います。そして立派なモニュメントを建てることなく、被爆者に直接役立てるように現金をポンと寄付したこと、それらのことに対してZEPのメンバーに深い尊敬と共感を覚えます。
私たちは広島での彼らを語り継ぐことにより、私たちの愛するバンドが、世界一偉大なバンドであると胸をはって言えるのではないでしょうか。
2001年10月 ゆう