ZEPの音のルーツとなった人々

★オリジナルアルバム編★

Robert Johnson「Travelling Riverside Blues」

 彼ほどのちのロックミュージシャンに影響を与えた人はいないでしょう。
「ギターでは,彼は自分の詩にめりはりをつける、リズミックでいてメロディックなくり返しのフレイズを使ったが、そこでは同じフレイズの中で、バス音とビンの首を使ってのスライド奏法とが対照の妙をなしていた。ひっきりなしのくり返しがかもし出す催眠術にかけるような効果が,彼の豊かで粗野な声の強烈さと引きたてあっていた。ときとして彼の歌い方は犬が吠えたてるような音を帯び、非常に情感がこもると同時に、きわめて体力を消耗する演奏となった。」

 ジョンソンが悪魔と契約したという説がまことしやかに囁かれていますが、本人も自分が悪魔の申し子だと本気で考えていたかもしれません。彼の曲には、悪魔、地獄、死をテーマにしたものが多いのは、その現われだと思います。
 彼が生まれたそのこと自体が、周囲にトラヴルを起こしました。彼が仲良くなった女性の夫から殺害されるまで、トラヴルは常について回りました。
 彼は一度だけ、家族を持ち、「人並みな幸せ」を手にするチャンスがありました。彼はその時だけ自分は「農夫」だと言っていました。しかし、妻の死産、同時に妻も亡くなるという不幸にみまわれました。その時彼は「人並みな幸せ」をあきらめたのではないか、と思います。 

 

Memphis Minnie「When The Levee Break」

 南北戦争後、奴隷は解放されたかにみえたが、結局、小作人として劣悪な環境の中で生活していることに変わりはありませんでした。居住地も、決して住みよい場所ではありませんでした。大雨が続き、洪水が起きればひとたまりもない状況で、したがって「洪水」をテーマにしたブルーズ・ミュージックも数多く生み出されました。

 メンフィス・ミニー(ミニー・ダグラス)1900年ルイジアナ州の川沿いの町に生まれました。たくさんのきょうだいの長女である彼女は10代から家を出て、ギター1本で生きていくことになります。サーカス団に入ったり、ミュージシャンと結婚したりして南部中をわたり歩きました。
「When The Levee Break」は夫のカンサス・ジョーがボーカルを取りましたが、ミニー自身も太く力強い声をしていて、当時彼女をしのぐ女性ヴォーカルはいないと言われていました。彼女は「男のように」ギターを弾き、多くの曲を残しました。その中の曲「ボール&チェイン・ブルーズ」はジャニス・ジョプリンが取り上げました。

 

Blind Willie Johnson 「Nobody's Fault But Mine」 「In My Time Dying」

 たぐい稀なスライド・ギターの才能と生命力溢れる歌声を持つ、ブラインド・ウィリー・ジョンソンはテキサス出身。1902年生まれでマーリンという町で育ちました。幼少の時から苛酷な境遇にありながら、非常に信心深く、教会で歌い、神をテーマにした曲を作りました。そして、ナイフでスライド・ギターを弾く奏法を考案したのも彼です。
 
 心優しく威厳のあるウィリーは40代後半で傷ましい死を遂げます。住んでいた家が火事になり、その後も湿って黒焦げになった新聞紙を積み上げただけのベッドで寝起きしていたため、肺炎にかかってしまいました。盲目であることから病院側は医療を拒否し、そのせいで命を落としたのでした。黒人が医療を拒否されても社会では問題にならない時代でした。

 

Sonny Boy Williamson U 「Bring It On Home」  (live)「Don’t Start Me Talking」

 ブルーズ・ハープの名手といえば、この人。彼はロバート・ジョンソンが毒をもられた夜、ステージでジョンソンと共演しています。
 ミシシッピ州出身。最高のもっとも影響力があるプレイヤーです。
「リズミックでいながらメロディックな自分のハーモニカに、短い歌のひとくさりとか、指をはじいたり、舌をうち鳴らしたりとかで区切りをつける、彼のタイミングの感覚は抜群だった。」
そしてラジオ番組のレギュラーになり、30年以上も番組に出演しました。
 50年代になるとヨーロッパの白人層で人気が高く、英国ツアーをするようになりました。どちらかといえば偏屈で変わり者の彼が、イギリスのティーンエイジャーの中でリラックスした演奏をしているのは不思議な光景に見えたようです。

 

Leadbelly 「Gallows Pole」

 この人,殺人罪で服役しました。それだけでなく、いくつもの罪を重ねていました。粗野でふてぶてしく傲慢な男でけんかが絶えませんでした。その生活の中で、あらゆるバラード、民謡等を、およそ自分の浮き草人生で、耳にしたものはどんな題材でも歌い弾いて吸収していました。「レッドベリーは12弦ギターを低めに調弦し豊かな響きのあるつま弾き方をした。」

 50年代の白人層に起こったブルーズ・ブームはレッドベリーにスポットライトを当てました。
荒れた生活のすえにグリニッジ・ヴィレッジ界隈のクラブのアイドルとなったレッドベリーは囚人から若い学生まであらゆる聴衆を相手に歌いました。その写真が残っていますが満面の笑顔・・・若い頃のふてぶてしさは表情から消えていました。

 

Muddy Waters 「You Shook Me」 「You Need Love」⇒「Whole Lotta Love」   (live)「I Am A Man」「Hoochie Coochie Man」 「Nineteen Years Old」

 「1941年二人の音楽関係者がロバート・ジョンソンを捜していた。しかし、ジョンソンはもう亡くなった後だった。彼等は小作人の男と知り合ったのだが、その男がおどろくほどロバート・ジョンソンによく似たギターの弾き方をしていた。彼ははマッキンレー・モーガンフィールドと名乗ったが、周囲の人間は彼を「マディ・ウォーターズ(泥んこ水)」とあだ名で呼んでいた。1915年生まれ。

 南部を出てシカゴで彼はエレクトリック・ギターを手にするようになります。チェスレコードと契約し、ラジオ出演もし、ブルーズ界に君臨していきます。晩年、ローリングストーンズとテレビで共演しました。ジャガーやリチャードにとっては夢のような出来事だったでしょう。

 

Howlin' Wolf 「Killing Floor」⇒「The Lemon Song」   「How Many More Years」

 1910年生まれ。大農園で働き、そこで多くのブルーズ歌手から学ぶことが出来ました。あの、攻撃的で、あまいヴァイブレーションがなく苦しそうな発声には強いインパクトがあり、一度聴いたら忘れられない歌手となります。
 40年代にはバンドを結成し、またメンフィスのラジオ曲でDJになり、ブルーズをたくさん紹介しました。
やがてシカゴを拠点とした活動をするようになり、チェス・レコードの重鎮として、シカゴ・ブルーズを頂点に導きます。

 

Otis Rush 「I Can't Quit You,Baby」

 30年代に生まれ,50年代以降にはシカゴで活躍した「モダンなアルペジオ・スタイルで演奏する」ギタリストです。チェスレコードに所属し、ウイリー・ディクソンから提供された曲もレコーディングしました。

 ヨーロッパツアーもこなし、62年から毎年開かれていた「フォーク・ブルーズ・フェスティバル」には必ず招待されていました。
98年04年には「ジャパン・ブルース・カーニバル」参加のため来日しました。

 

Joan Baez 「Babe,I'm Gonna Leave You」

 60年代のフォークソングの中心的存在です。「フォーク界でもっとも素晴らしく透き通った声と、ルネッサンスの絵に見るような微笑、そしてエリザベス朝的レパートリーを持っていた若い女性。」ボブ・ディランの影響を受けます。

 

Jake Holmes 「Dazed And Confused」

 1939年サンフランシスコで生まれます。ロックやフォークの影響を受け、ヴォーカリスト・ギタリストとしてバンド活動をしていきます。60年代から70年代にかけて活躍。アシッドのバッド・トリップを歌にしたりしました。

 

Bert Jansch 「Black Water Side」⇒「Black Mountain Side」

 ペンタングルは60年代に活躍。英国のフォークロック界の伝説的グループです。そのギタリスト、バート・ヤンシュはアコースティックギターの名手。フォーク、ジャズ、ブルーズの要素を取り入れた音楽をつくりました。
 ヤンシュは66年にソロアルバムを発表。「Down By BlackーWaterSide」というトラディッショナル・ナンバーを「Black Water Side」としてアルバムの中に入れてます。

 

Davy Graham「She Moved Thru’The Bizarre」⇒ 「WHITE SUMMER」

1940年11月22日イングランドのレイチェスター生まれ。
1960年代の最も幅広い音楽性を持ったギタリスト。
イギリスのフォークソングに、ブルース、ジャズ、中東の音とインドのラーガ等の要素を合わせた
英国のフォークシーンだけでなく音楽シーン全体にとって重要なミュージシャンである。

 

The Meters 「Cissy Strut」⇒「Royal Orleans」

 これは曲というより、リズムパターンをパクっているらしいです。
 アート・ネヴィルがニューオリンズ・ファンクを確立したアラン・トゥーサンの秘蔵っ子グループとしてミーターズを結成したものです。
 その後、ネヴィル兄弟が「ネヴィル・ブラザース」を結成しました。

 

Little Richard 「Keep A Knockin'」⇒「Rock'n'ROLL」   (live)「Long Tall Sally」

 イアン・スチュアートとセッションした時、ボンゾが突然リトル・リチャードのこの曲のリズム(ハイハットの連打)を叩き始めました。それにジミーがギター・リフを付け、ロバートが即興で歌い、「Rock'n'ROLL」ができあがりました。
「のっぽのサリー」はアンコールで演奏したことがあります。

 リトル・リチャードは32年ジョージア州で生まれました。いくつかのバンド(ヴォーカルもしくはピアニスト)を経て、55年にソロ・デビュー。たちまちロックンロールのビッグ・スターになりました。50年代の終わりに、聖職につくために引退しました。聖職になってしばらくは宗教的な曲を発表しましたが、62年ゴスペルで復帰し、世界ツアーを始め、ヨーロッパに着いた頃はステージはロックショーになっていました。
 小柄な体を振り回して動き、化粧をしたり、ピアノの上に乗って踊るなどの派手なパフォーマンスは、後のロック・ミュージシャンのステージに影響を与えました。
 

Sleepy John Estes  「Girl I Love She Got Long Black Wavy Hair」

スリーピー・ジョン・エステスは1904年テネシー州ラウダーデイルに生まれました。
11才の頃、事故で片目の視力を失いましたが、父親が買ってくれたギターによって農業の傍らブルースマンの道を歩む。29年〜41年に約50曲を録音。その後他のカントリーブルースマンと同じく活動の機会を奪われ以後消息不明となりました。
1962年にブラウンズヴィルで再発見されました。その5年程前の1957年頃には貧しさから全盲になってしまいました。
その後はハミー・ニクスンと共に多くの録音し、1976年には来日を果たしていますが、翌年の77年に亡くなりました。

★ライヴ編★

 

Tiny Bradshaw 「Train Kept AーRollin'」 

 オハイオ州、1905年生まれ。ジャズ畑のホレス・ヘンダーソン楽団から30年代に巣立ちます。リズム・ブルーズのバンドを持ち、重いバックビートを強調した、ジャンプ・ブルーズのバンドで知られるようになりました。バンドは数名のサックスのスターを世に送り出し、またロイ・ブラウン、ロニー・ジョンソン等のボーカリストと録音しました。
 ブラッドショーはまた「Train Kept AーRollin'」のソングライターとしても知られるようになりました。オハイオ州シンシナチで1958年に亡くなりました。 

 

Garnet Mimms 「As Long as I Have You」

 ガーネット・ミムズは60年代のアメリカのポピュラー・ミュージックシーンに早々と登場した黒人歌手の一人です。
 1933年、ウエストバージニア州に生まれ、フィラデリフィアで育ちました。1953年にはゴスペルグループの一員としてレコーディングしました。その後徴兵され、復員後は当時人気のあったドゥワップのグループを結成します。
 フィラデルフィアである程度の成功を収めた彼は、ニューヨークに進出します。Jerry Ragavoyとつくった曲「Cry Baby」が1963年にヒットしました。60年代において、ソウルミュージックのスタイルをつくりあげた一人と言えるでしょう。
 彼は英国でジミ・ヘンドリックスと仕事をした事もあります。
 ロバート・プラントは「バンド・オヴ・ジョイ」の時代からステージで彼の歌を取り上げていたようです。

 

Elvis Presley 「That's All Right」「Heart−Break Hotel」 「My Baby Left Me」「Hound Dog」「Surrender」「All Shook Up」「A Mess Of Blues」 「Gatta Lotta Livin’ To Do」「Let’s Have A Party」

 言わずと知れた「KING」、ロバートにとっては神様です。「Whole Lotta Love」のメドレーにプレスリーを入れるのは、ロバートの趣味です。
 35年生まれ。小さい頃から聖歌隊や,地元のラジオ・ショーで歌っていました。ハイスクール卒業後、トラックの運転手をしていて、母の誕生日に録音したテープがもとでデビューしました。56年「ハートブレイクホテル」がヒット。世界的なスターになりました。
 74年にZEPのメンバーはKINGと感激の対面をしています。
 77年8月16日メンフィスの自宅で心臓発作のため死亡。     

 

Bukka White 「Fixin' To Die」 「Shake 'em On Down」⇒「Custard Pie」

 「Custard Pie」は「Shake 'em On Down」を巧妙にパクってるそうです。
ライヴでは「Fixin' To Die」が1971年BBCラジオにて「Whole Lotta Love」のメドレーで登場しました。

 ミシシッピ州のパーチマン囚人農場に、犯罪者仲間の間でさえ荒くれ者と名が知れてる囚人がいました。
名前をブッカー・ワシントン・ホワイト。彼は各地を演奏して回っているうちトラヴルに巻きこまれて、一人の男を撃ち殺してしまいました。パーチマン農場の状況は凄まじいもので、釈放された時は「汽車、酒、監獄、死」以外のことは考えられなくなっていました。その後,彼がつくるブルーズはその4つがテーマになっています。
 収監されている間にも保釈中、あるいは脱獄中にレコーディングをしていました。ロバート・ジョンソン、サン・ハウスと並んでデルタ・ブルーズの代表的ミュージシャンです。

 

Albert King 「The Hunter」「Pretty Woman」「Crosscut Saw」

 「How Many More Times」「Whole Lotta Love」のメドレーに登場しました。

 1923年ミシシッピ州に生まれました。農園で働き、ゴスペル・グループで歌いながら、独学でギターをマスターしました。17歳にはブルースミュージシャンとして、演奏を始めます。インディアナ州ではジミー・リード等のシカゴ派ミュージシャンと共演。セントルイスに出て自分のバンドを結成。その傍らアイク・ターナーのプロデュースもやっていました。
 65年、ブッカー・T・ジョーンズと組んでアルバムをリリース。ロケット型のギターを逆さに持ち、左手で弾く彼は一躍ブルーズのスーパースターになりました。1992年没。

 

John Lee Hooker 「Boogie Chillun」「Long Distance Call」「Suzie Q」

 「How Many More Times」「Whole Lotta Love」のメドレーに頻繁に登場、「Boogie Chillun」をファンはシンプルに「Boogie Woogie」と呼びました。

 1920年にミシシッピ州で生まれた「ブギの達人」。子どもの頃姉のボーイフレンドからギターの手ほどきを受け,信心ぶかい父を悩ませました。両親が離婚した後に,何と母の再婚相手と組み,演奏活動を始めました。14歳で家を離れてシンシナティでゴスペルグループと共演し、その後デトロイトで自分のバンドを組みました。
最初のレコーディング・セッションから「ブギー・チラン」というミリオンセラーの曲が生まれていました。
 彼は幅広いレーベルから続々とレコードを出し、その時代の大衆の要求する音楽を提供し続けました。それは自分の原点であるデルタ・ブルーズから、ビートの効いた都会的なスタイルまで、変幻自在な音楽性を持ったため生涯を常に第一線で活躍し、2001年6月に亡くなりました。

 

Eddie Cochran 「Somethin' Else」「C'mon Everybody」「Weekend」

 「How Many More Times」のメドレーに登場しました。

 38年生まれ。54年にコーチャンブラザースの一員でデビュー。その後ソロになり「シッティン・イン・ザ・バルコニー」「サマータイム・ブルース」がヒットしました。60年、イギリス・ツアー中に自動車事故で亡くなりました。

 

Buffalo Springfield 「For What It's Worth」「Woodstock」

 「Communication Breakdown」「Whole Lotta Love」のメドレーに登場しました。ロバートやジミーはウエストコーストものが大好きです。特にバッファロー・スプリングフィールドはロバートのお気に入りでした。

 ニール・ヤング、スティーブン・スティルスなどによって66年に結成されたカントリー・ロックの草分け的存在です。アコースティックな音に、コーラスをフィーチャーしたヴォーカルというスタイルはウエスト・コーストの音楽シーンに大きな影響を与えました。3枚のアルバムを残して69年に解散。CSN&Y、ポコ、ロギンス&メッシーナにそれぞれ活躍の場を移しました。

 

Neil Young 「Down By The River」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場します。

45年トロントで生まれました。67年にバッファーロー・スプリングフィールドのメンバーとしてデビュー。68年にバンドが解散するとソロになりますが、70年にはクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングに参加します。しかし翌年にはグループを離れそれからはソロアルバムを発表しています。音楽スタイルは変化しつづけニューウエーブ、テクノ・ポップが台頭した頃はその影響を感じさせる曲をつくり、その後初期のロックンロールのスタイルを出したりもしています。 

 

Scott Mckenzie and John Phillips 「San Francisco」

 「Dazed And Confused」のメドレーに長く登場しました。

 スコット・マッケンジーが歌うこの曲は67年のビッグ・ヒットになりました。
50年後半、スコット・マッケンジーと仲間のジョン・フィリップスはドゥ・ワップのバンドを作って街角で演奏していました。母親同志が友達でもあることから、二人は頻繁に顔を合わせる間柄でした。
 解散,そして違うバンドを編成することを繰り返していましたが二人は、60年代に入ってママス&パパスを結成することについて議論しました。スコットはリズム&ブルースやジャズバンドのヴォーカリストを望んでいてジョンのバンドには参加しませんでした。
 67年、モンタレー・ポップ・フェスティバルに向けて,スコットは新しい歌を作ることをジョンに提案しました。花と愛と平和をテーマにした曲「花のサンフランシスコ」を,ジョンは約20分で書き上げました。
 「花のサンフランシスコ」は世界中で自由を象徴する歌、ヒッピーの聖歌となりました。
 その後もスコットはソロアルバムをリリースしたり、ライヴ活動も続けましたが、彼に対する「花のサンフランシスコ」のイメージが強く、それが音楽活動の足を引っ張ることになり、結局彼は音楽シーンから姿を消します。
 86年マッケンジー・フィリップス(ジョンの娘)、スパンキー・マクファーレン等の女性ヴォーカルを新しくフューチャーしたママス&パパスが結成されましたが、その後ジョンが健康上の理由で引退。ジョンのかわりにスコットがグループに加入しました。そして引退する98年までママス&パパスのメンバーとして活動しました。

 

Chuck Berry 「Roll Over Beethoven」「Maybelline」 「Hail!Hail!Rock'n'Roll」「School Days」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場しました。

「ロックの神様」とまで言われた彼は生年、出身地ともに明らかにしていません。26年(36年という説もある)ミズーリ州(カリフォルニア州という説もある)で40年代後半3人グループを率いていた頃作曲もするようになりました。55年シカゴに移り、レコードデビュー。ファースト・シングル「メイベリーン」が大ヒットしました。それからはティーンエイジャーが楽しめる曲を次々とヒットチャートに送りこみ、ステージでの「ダック・ウォーク」とともに不動の人気を得ました。2度の投獄で、音楽活動は中断しましたが釈放後もパワーは衰えてはいませんでした。

ライヴでは地元のありあわせのバンドとロクなリハーサルもしないまま演奏し、終わったらギャラの現金をスーツケースに入れてさっさと帰る事は有名ですが、ありあわせのバンドには、無名時代のブルース・スプリングスティーンやジミー・ペイジも参加した事があります。

 

Ben E King 「Stand By Me」「Spanish harlem」

「Stand By Me」は72年大阪でアンコールの時,フルヴァージョンで演奏されました。

 36年生まれ。58年当時はベンジャミン・ネルソンと名乗り、クラウンズというグループでリード・ヴォーカルをしていました。クラウンズはやがてドリフターズに改名。その時に彼もベン・E・キングに改名しました。
アトランティック・レコードからヒット曲を連発したが60年にはグループを離れソロになりました。
「スパニッシュ・ハーレム」「スタンド・バイ・ミー」等がヒットし、いまだにスタンダード・ナンバーとして親しまれています。

 

James Brown 「Cold Sweat」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場します。 

33年ジョージア州メイコン生まれ。ゴスペルから音楽活動に入り、自分のグループと共に活動していましたが60年代に入るとスタイルをリズム&ブルースに転換しました。ヒット曲を連発し、ファンキーで過激なサウンド、ダンサブルなソウル・ミュージックで一躍キング・オブ・ソウルと称されるようになります。

 

Jean Vincent 「Be Bap A Lula」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場します。

35年2月11日、ノースカロライナの近くで生まれました。12歳で初めてギターを手にします。その後家族とノーフォークに移ります.
55年9月ノーフォークのラジオ放送局の音楽番組にバンドのメンバーの一人として出演します。バンドは定期的に出演し、ビンセントが作ったバンドの持ち歌である「ビー・バップ・ア・ルーラ」等を演奏しました。その番組のDJはビンセントの将来性を見ぬき、独立させました。
その後「ビー・バプ・ア・ルーラ」がヒット。彼はスターの仲間入りをしました。

ピーター・グラントは彼のツアー・マネージャーをしたことがあります。

Isley Brothers 「It's Your Thing」

「コミュニケーション・ブレイクダウン」に入れこんで歌われました。

オハイオ州シンシナティ出身。ゴスペル音楽の影響を受けて育ちました。
56年、3人兄弟はニューヨークに出てきます。いくつかのマイナーなレーベルで録音した後、RCAと契約します。その1年後、ゴスペルにR&Bの味付けをした曲「シャウト」がヒットします。それからは次々とヒットを飛ばしビートルズをはじめとする,多くのイギリスのミュージシャンに影響を与えます.

 

Jimi Hendrix 「VooDoo Chile」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場します。

42年シアトルで生まれました。17歳でプロデビュー、BBキング、アイク&ティナ・ターナー、サム・クック、リトル・リチャードなどのバックアップをしていました。65年に元アニマルズのチャス・チャンドラーに認められ渡英,66年エクスピアリンスとデビューしました。67年「ヘイ・ジョー」がヒットし、その年モンタレーポップフェスティバルに参加しました。そこで演奏後、ギターに火をつけ、聴衆に捧げました。69年ノエル・レディングが脱退しグループは解散。次に「バンド・オブ・ジプシー」を結成します。70年9月死亡。24歳。あまりにも早過ぎる死でした。

 

Criff Richard 「Bachelor Boy」「Dynamite」「Love You Like A Harricane」 「Move It」「We Say Yeah」

リハーサルで歌われたり、「Whole Lotta Love」メドレーに登場します。

40年10月インドで生まれました。57年イギリスでロックンロール・シンガーとしてデビュー。プレスリーの雰囲気を持つ彼はスッキフル・グループで活動します。ソロ・シングル「デヴィル・ウーマン」がヒット。60年代を華々しく活躍しました。
70年代には人気が低迷しましたが,80年代に盛り返しました。

 

Solomon Burke 「Everybody Needs Somebody」

「Whole Lotta Love」メドレーに登場します。

ソロモン・バークはR&Bにメロディックなバラード、ミッド・テンポな歌を組み入れ、それに都会的に洗練されたアレンジ,マテリアルなバート・バーンズのプロデュースにより、初期のソウル・ミュージックのスタイルを確立しました。彼の影響を受けたローリング・ストーンズも「Cry To Me」をカバーしました。
しかし、彼はソウル・ミュージックのスターとしてよりも、ゴスペルのルーツを探って行く音楽活動を選びました。そして自分自身の「ゴスペル・ラジオ・ショー」を主催します。そのため一般聴衆よりも、マニアに好まれるミュージシャンになっていました。

 

Buddy Guy 「Sitting And Thinking」

1969年4月27日フィルモアイーストでのみ、フルコーラスで演奏されました。

36年ルイジアナ州レッツワースに生まれました。13歳で自家製ギターを弾くようになります。53年にはライトニン・スリム、スリム・ハーポなどの地元のスターと演奏を行なっていました。ブルース・フェーム・クラブのコンテストで優勝し、マイナーなレーベルでレコード・デビューしますがウィリー・ディクソンに認められチェス・レコードからレコードを出すようになります。70年にはローリングストーンズとツアーを行ないました。

 

Brenda Lee 「Let's Jump The Broomstick」

72年京都で「Whole Lotta Love」のメドレーに登場します。

ブレンダ・リーは44年、ジョージア州、アトランタで生まれました。父親は大工の傍らセミプロの野球選手として活躍していましたがブレンダが9歳の時に妻と4人の子を残し、事故で亡くなりました。
すでに地元で活躍していたブレンダは、56年スワンズボロのラジオ曲の番組でカントリー・ミュージックの第一人者レッド・フローレーに見出されます。それからは大スターの一員として息の長い活動を続けています。

 

Ricky Nelson 「Hello Mary Lou」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場します。

俳優であるオジー・ネルソンの芸能一家に生まれました。TVホームドラマ「The adventures of Ozzie & Harriet」(日本公開時タイトルは「陽気なネルソン」NHK)で一躍スターになりました。57年、ドラマ中でファッツ・ドミノの「I'm walkin'」を披露、これが評判となり、ある回でエルヴィスっぽい衣装を着て「ラブ・ミー・テンダー」を歌ったところ反響が大きくこれを機に歌手として売り出すことになりました。
「ハロー・メリー・ルー」「トラヴェリン・マン」「ラッキー・スター」などヒットを連発。バンド・スタイルは大いにエルヴィスのバックを意識したもので、またルックスの良さから単にアイドル視されがちでした。
1970年にはカントリー・ロックのバンド「ストーン・キャニオン・バンド」を結成しましたが事故で亡くなりました。

 

Buddy Holly 「Heartbeat」「Rave On」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場します。

 映画「ラ・バンバ」でその存在を知った方も多いと思います。
バディー・ホリーはテキサス州で生まれました。56年「クリケッツ」を結成しナッシュビルからニューオーリンズにかけて活動しました。一度だけイギリスツアーを行ないましたが、それがイギリスのビートブームを生み出す大きな要因となりました。
 59年飛行機事故で亡くなりましたが、死後にリリースされた曲が大ヒット。その後も度々ブームが起きました。

 

Jimmy Reed 「Down In Virginia」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場したことがあります。

25年9月ミシシッピ州ダンリース近くの町に小作農家に生まれました。7歳からギタ−を弾き始め39年に農作業を手伝うために学校を中退してからは教会の聖歌隊で歌うようになりました。40年にシカゴに出てその後ゲーリーで路上やクラブで演奏しましたが、53年ヴィー・ジェイ・レーベルと契約しレコーディング。この会社はジミーのプロモーションに力を入れ、ヨーロッパでR&Bブームがおきた時は活躍することとなりました。
 いつも、酔っ払っていたため、リラックスした演奏ができていたというエピソードがあります。76年オークランドで亡くなりました。

 

Fats Domino 「Blueberry Hill」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場します。

28年ニューオーリンズ出身です。本名はアントン・ドミノですが太っていたので「ファッツ」という愛称がついていました。バイオリン奏者の子どもとして生まれ、地元のクラブでピアノを弾いているところをスカウトされ49年にレコード・デビューしました。デビューから人気が出て、ミディアム・テンポのニューオーリンズ・スタイルといわれたロックンロール・サウンドを確立しました。

 

Jerry Lee Lewis 「Great Balls Of Fire」 「It'll Be Me」

ルイジアナ出身です。16歳になる前から聖職者となるように訓練を受けていましたが、不道徳な行為ともバランスを保ちながら貧しい少年時代を送りました。ピアノを独学で覚え、地元の酒場を歌いながら渡り歩き55年にサン・レコーズからレコード・デビューしました。シングルが大ヒットし一躍スターになったもののスキャンダルで人気を失いました。80年代はC&Wで復活しました。

 

Freddie King 「Hideaway」

「Whole Lotta Love」のメドレーに登場したことがあります。

34年9月テキサス州に生まれます。16歳の時にはもう、シカゴに出て行きます。53年にレコード・デビュー。60年にはクラブにたくさん客が呼べるミュージシャンになり、メジャー・デビューし、立て続けにヒットを飛ばすようになったうえ、エリック・クラプトン等の白人ミュージシャンが彼を賞賛しました。世界的なツアーをするまでになりましたが、肝炎をわずらい、76年に42歳の若さで亡くなりました。 



SPIRITS「FRESH GARBAGE」

初期のライヴで「As long as I have you」のメドレーで登場しました。

1967年にランディ・カリフォルニアを中心にロサンゼルスで結成。1970年には来日しました。

 *  *  *

 

特にメンバーはこんな先人たちの影響を受けています。

ジンジャ−・ベイカ−,カ−マイン・アピス.フロスティ−等
オ−ティス・ラッシュ,マット・マ−フィ−,バディ・ガイ,バ−ト・ヤンシュ,ジョン・レンボ−ン,イエンチ等
レイ.ブラウン,チャ−リ−.ミンガス等のジャズ.ベ−シストやモ−タウンの多くのベ−シスト
ザ.フ−がレパ−トリ−にしていたSHAKIN` ALL OVERの本家,ジョニ−・キッド&ザ.パイレ−ツのベ−シストやポ−ル・マッカ−トニ−。
キ−ボ−ドではスティ−ブ・ウィンウッド
トミ−・マックレラン,ロバ−ト.ジョンソン,スヌ−ツ.エルジン,ブッカ−.ホワイト,レイ.チャ−ルズ,スティ−ブ.マリオット等

参考図書 「ブルースの歴史」「CD名盤ガイド」「エッセンシャル・ガイド・ロック」「エッセンシャル・ガイド・ブルース」
K.Yさんどうもありがとうございました。

 

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