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■■ 紹運って誰?     (略伝)

「しらべ」的 『紹運』公いめーじ高橋紹運 たかはし しょううん (1548) 〜 (1586)
 高橋紹運は戦国時代末期、九州の豊後国(大分県)を本拠にし北部九州を支配した戦国大名・大友家の武将で、筑前国の御笠郡(今の福岡県の太宰府一帯)を領していました。世に義将として知られ、生涯を大友家の藩屏に尽くした人物です。

 薩摩の島津家に大敗して以来、凋落の一途をたどる大友家を見捨てず、盟友・立花道雪と共に孤立する筑前で反大友勢力を向こうに廻し奮戦します。

 紹運の最後の戦いである「岩屋城の戦い」は、日本の戦国史に於いて最も苛烈な激戦といわれ、豊臣秀吉の天下統一にも深い関わりを持ちます。

 天正14年(1586)、薩摩国の島津氏は、中央で勢力を増す豊臣秀吉の九州介入前に九州制覇を成し遂げる為、北上を開始。まずは大友方(豊臣方)に寝返った肥前国の筑紫氏と筑前国に残る大友緒城の攻略に重点を置きました。数にまかせて筑紫氏を下した島津氏は、7月12日に太宰府に着陣。九州8ヶ国の勢力を吸収し、その兵力は優に五万に達したといわれます。対する岩屋城に篭る紹運の兵力は僅かに763名、誰の目にも勝敗は決していた…と映っていました。

 7月14日から始まった戦闘は激烈を極め、島津方がやっとの事で城の外郭を破ったのは26日でした。砦に見紛う程の岩屋城、その城に篭った僅かな城兵、予想外の損害を受け焦る島津氏は、再三に渡り紹運に有利な降伏及び和議を勧告しますが、紹運は拒絶します。

 この戦いの最中、薩軍の一将が城方に矢止めを請い「何故にそこまで無道な大友氏に尽くすのか」と問いかけた時、紹運は
「(中略)主人の盛んなる時、忠を励み功名を顕わす者ありといえども、主人衰えたる時にも変わらず一命を捨てる者は稀にて候。貴殿も島津家滅亡の時、主を捨て命を惜しまれるか。(中略)武士足る者、仁義を守らざるは鳥獣に異ならず候。」
と応え、敵方の薩軍からも感嘆の声があがったといいます。

 ここに来て島津氏は覚悟の決断を下し27日に総攻めを決定。紹運は城兵と共に一進一退を繰り返し頑強に抵抗しましたが、数に優る島津軍は屍を乗り越えて猛攻をかけ紹運を本丸に追い詰めます。僅か五十余人となった満身創痍の城兵の見守る中、自らの役目を終えた紹運は自決。生き残った者達も後を追い、遂に一人も逃げ出す者も無く全員玉砕して果てています。剽悍で知られる薩摩の将兵も、紹運主従の総自決をみて足をすくませたといわれます。 

 この後、島津軍は宝満城を降し、立花城を包囲するも、「岩屋城の戦い」で多大な人的損害で攻略する事が出来ず、遂には時を失い、豊臣軍の九州上陸を許し九州制覇の野望は寸前で墜えてしまいます。

 九州の橋頭堡を確保した豊臣秀吉は、翌年大軍をもって九州に侵攻し島津家を降しました。戦後、大宰府に立ち寄った秀吉は、戦国最強を誇る最盛期の島津氏に、僅かな城兵で迎え撃ち、城兵と共に散った紹運を『乱世の華』と称え彼の死を惜しんだと云われています。


 彼の嫡男で立花道雪の跡を継いだ統虎は、戦国末期の数ある武将の中、敵味方関係なく最も信頼された武将と言われ、父の名を辱めることなく家臣・領民を愛し、世に「西国無双の勇士」と謳われ名声を博する、後の柳河藩主「立花宗茂」です。



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