憲法論点カード

 

 人権の根拠について

 日本国憲法における人権の観念として、(1) 固有性、(2) 不可侵性、および、(3) 普遍性をあげることができるが(憲法11条・97条)、このような人権の根拠は、人間の尊厳性に求めることができる。

 すなわち、日本国憲法が保証する基本的人権とは、人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、もってその尊厳性を維持するため、それに必要な一定の権利が当然に人間に固有するものであることを前提として認め、そのような憲法以前に成立している権利を憲法が実定的な法的権利として確認したものといえる。

 つまり、日本国憲法における人権の根拠は、憲法13条の宣明する人間尊厳の原理(個人主義)に求められるのである。

 在監者の人権について

 在監者の人権制限を正当化する根拠は、憲法が在監関係とその自律性を憲法的秩序の構成要素と認めていること(18条・31条参照)に由来する。

 この憲法が予定している在監関係を維持するために在監者の権利を特別に制限することは許されるが、その制限は、拘禁と戒護および受刑者の矯正教化という在監目的を達成するために必要最小限度にとどまるものでなければならない。

 そこで、閲読の自由の制限については、裁判所による厳格な審査が必要となろう。 この点に関して、判例は、監獄長の新聞記事抹消処分の許容限度につき、監獄内の規律・秩序が放置できない程度に害される相当の具体的蓋然性が予見される場合にかぎり、禁止・制限できる、という基準を採用している。

 髪形の自由について

 髪形の自由は、自己決定権(人格的自律権)の一種と解される。自己決定権とは、個人の人格的生存にかかわる重要な私的事項を公権力の介入・干渉なしに各自が自律的に決定できる自由をいう。

 そして、この自己決定権は、情報プライバシー権(自己情報のコントロール権)と並んで、広義のプライバシーの権利を構成するものとして、憲法13条によって保障されるものと解される(有力説)。 ただ、髪形の自由を自己決定権の一つと解したとしても、一定の規律の存在が予定される学校等においては、規制に重大な教育等の目的があり、かつ、規制の態様・程度がその目的と実質的に事実上の合理的関連性があれば、その髪形の規制は許容されると解することができる。

 平等の理念について

 平等の理念は、歴史的には、実質的平等(結果の平等)をも重視する方向へ推移している。

 もっとも、それは、憲法14条を根拠に、現実の経済的不平等の是正を国に請求する権利が直ちに認められることを意味しない。

 法的な義務は社会権の保障にかかわる問題であり、それを通じて具体化されるべきものであり、実質的平等の実現は国の政治的義務にとどまる。

 ただ、法の下の平等にいう「平等」の意味は、実質的平等の理念を抜きにして解することはできないので、平等原則違反の基準としての「合理的な取り扱い上の違い」(合理的差別)に該当するか否かを判定するに際しては、実質的平等の趣旨が最大限に考慮されなければならないといえる。

 政教分離原則の意義について

 政教分離原則は、信教の自由(20条1項前段)が政教分離なくしては完全に確保するのが不可能であるという意味で、それと密接不可分の関係にある。

 そして、国家が宗教に対してどのような態度をとるかについては、各種形態があるが、日本国憲法における政教分離原則は、いわゆるアメリカ型に属し、国家と宗教との厳格な分離を定めている(20条1項後段・3項、89条)。

 もっとも、国家と宗教の厳格な分離といっても、それが国家と宗教とのかかわりあいを一切排除するものと考えるのは適当でない。

 現代国家は、福祉国家として、宗教団体に対しても、他の団体と同様に、平等の社会的給付を行わなければならない場合もあるからである。

 そこで、国家と宗教との結び付きがどの程度まで許されるか、政教分離の限界が問題となる。

 学問の自由の内容について

 学問の自由(23条)の内容としては、(1) 学問研究、(2) 研究発表の自由、(3) 教授(教育)の自由の三つがある。

 (1) は、内面的精神活動の自由であり、思想の自由の一部を構成する。

 (2) は、外面的精神活動の自由である表現の自由の一部であるが、憲法23条によっても保障される。

 (3) については、従来は、大学その他の高等教育機関における教授にのみ認める見解が支配的だったが、現在では、初等中等教育機関においても認められるとする見解が有力である。

 ただ、普通教育では、教育の機会均等と全国的な教育水準を確保する要請等から、完全な自由を認めることはできず、そこでは、一定の範囲における自由が保障されるにすぎないと解されている(旭川学テ事件における最高裁判例も同旨である)。

 検閲の概念について

 検閲(21条2項)とは、一般に公権力が外に発表されるべき思想の内容をあらかじめ審査し、不適当と認められるときは、その発表を禁止する行為と解されてきたが、以下の点に注意すべきである。 (1) 検閲の主体は、公権力である。それは、主として行政権であるが、裁判所による事前差し止めも問題となり得る。

 (2) 検閲の対象は、従来は思想内容と解されてきたが、現代では広く表現の内容と解すべきである。

 (3) 検閲の時期は、思想内容の発表前か後かで判断されてきたが、表現の自由を知る権利を中心に構成する立場によれば、むしろ、思想・情報の受領時を基準として、受領前の抑制や、思想・情報の発表に抑止的な効果を及ぼすような事後規制も、検閲に該当すると解するのが妥当であろう(有力説)。

 いわゆるLRAの基準について

 LRAの基準とは、立法目的は表現内容に直接かかわりのない正当なものとして是認できるが、規制手段が広範である点に問題のある法令について、立法目的を達成するため規制の程度のより少ない手段が存在するかどうかを具体的・実質的に審査し、それがありうると解される場合には、当該規制を意見とする基準である。

 この基準は、立法目的の達成にとって必要最小限度の規制手段を要求する基準ともいえ、とりわけ表現の時・所・方法の規制の合憲性を検討する場合に有用である(有力説)。

 しかし、最高裁は、この領域の規制立法にLRA基準を適用せず、目的と手段との間に抽象的・観念的な関連性があればよいとする、いわゆる合理的関連性の基準を適用している。

条例による財産権の制限の可否について

 憲法29条2項は、財産権の内容が法律で定められる旨を規定するが、条例による財産権の制限が許されるかにつき、争いがある。

 この点については、財産権は全国的な取引の対象となる場合が多いので、統一的に法律で規定すべきであるとして、否定説(有力説)もある。

 しかし、条例は地方公共団体の議会において民主的な手続きによって制定される法であるから、特に地方的な特殊な事情の下で定められる条例については、それによる財産権の規制を否定すべきでない。肯定説(通説)が妥当である。

 また、現在では、各地の公害規制条例等のように、条例による財産権の規制は実際に頻繁に行われており、憲法上の疑義は事実上解消しているといえる。

 憲法31条の意義について

 憲法31条の規定は、アメリカの適正手続条項に由来し、人権の手続き的保障の強化にとって重要な意義を有する。

 したがって、同条により、(1) 単に手続きが法律で定められなければならないだけでなく、

 (2) 法律で定められた手続きが適正でなければならないこと(告知と聴聞の手続き等)、

 (3) 実体も法律で定められなければならないこと(罪刑法定主義)、

 (4) 法律で定められた実体規定も適正でなければならないこと(規定の明確性等)、が要請されると解される(通説)。 さらに、同条は、文言からも直接には刑事手続きについての規定であるが、その趣旨は行政手続きにも適用ないし準用されると解すべきである(通説・判例)。

 被選挙権の性格について

 被選挙権の性格については、選挙されうる資格であって、選挙されることを主張しうる権利ではないと解する説もあるが、被選挙権も広義の参政権(公務就任権)の一つであり、権利性を否定すべきでない。

 一般には、被選挙権、特に立候補の自由は、選挙権の自由な行使と表裏の関係にあるものとして、憲法15条1項によって保障される権利と解される(通説・判例)。

 しかし、被選挙権の制限については、右憲法15条1項のほかに、憲法14条1項の平等権(同条項の「政治的関係において差別されない」の中に含まれている権利)、憲法22条1項の職業選択の自由、さらに有力説によれば、憲法13条の幸福追求権との関係が各々問題となりうる。

 公務員の労働基本権について

 公務員の労働基本権の制限の根拠は、初期の判例では、公共の福祉や全体の奉仕者という抽象的な原則が挙げられた。

 しかし、その人権制限の究極の根拠は、憲法が公務員関係という特別の法律関係の存否とその自律性を憲法的秩序の構成要素と認めていること(15条・73条4号)に求められるべきである。

 ただ、公務員といっても、その職務の性質は多様であるから、労働基本権の制限は、その職務の性質の違い等を勘案しつつ、必要最小限度の範囲にとどまる内在的制約のみが許されると解すべきである。

 判例にも、基本的にかかる見解を採用する注目すべきものが存在したが、現在の判例は、その全面的な制限を一律に積極的に合憲とする傾向にあるといえる。

 憲法の実質的最高法規性について

 最高法規としての憲法の本質は、憲法が実質的に法律が異なるという点に求められるべきである。

 つまり、憲法が最高法規であるのは、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているからである。

 これは、自由の基礎法であることが憲法の実質的根拠であり、この実質的最高法規性は、形式的最高法規性の基礎をなし、憲法の真の最高法規性を支えるものであることを意味する。

 そして、日本国憲法第10章の冒頭にあって、基本的人権の永久不可侵性を宣言する97条は、硬性憲法の建前(96条)、およびそれから論理上当然に派生する憲法の形式的最高法規性(98条)の実質的な根拠を明らかにした規定であると解される。

 憲法前文と平和的生存権について

 平和的生存権については、憲法前文2項の規定に裁判規範性を認め、新しい人権の一つとして認めるべきであるとする説(有力説)もある。

 しかし、裁判規範とは、当該規定を直接根拠として裁判所に救済を求めることのできる法規範、すなわち、裁判所の判決によって執行することのできる法規範のことをいう。

 この点、前文の規定は、抽象的な原理の宣言にとどまり、裁判規範性を肯定できず、平和的生存権もその主体・内容・性質等の点で不明確である。

 そこで、平和的生存権は、人権の基礎にあってそれを支える理念的権利ということはできるが、裁判で争うことのできる具体的な法的権利性を認めることはできないとする説(通説・判例)が妥当であると考える。

 憲法における人間像

 近代立憲主義は、抽象的な個人を措定し、そうした人間像を前提として、自由権を中心とした人権の保障や、消極国家観に基づく統治のあり方が考えられたといえる。

 また、身分からの自我の解放を目指した近代人にとっては、集団ないし結社は自我の確立を妨げるものとして、消極視された。

 しかし、このような近代立憲主義の建前は、資本主義の進展に伴う現実との乖離によって、その修正を余儀なくされた。 そこで、現代立憲主義の下では、社会の中における具体的な人間像が前提とされ、社会権の保障や積極国家観が登場し、集団や結社の意義も自覚されるに至っている。

 憲法の機能について

 憲法は、国家における統治関係を規律する基礎法であり、次の二つの本質的機能が認められる。

 (1) 積極的機能。国家における統治は、すべて憲法によって授権または委任された場合にのみ成立し、通用する。

 この憲法による授権は、国家における統治の組織化・秩序化をいう、積極的・消極的機能をもつ。

 この授権関係から、国法秩序は、憲法−法律−命令−処分という段階構造が形成される。

 (2) 消極的機能。これは、国家権力の内容を規律し、それに方向を与え、その限界を画し、それを制限するという、制限的機能である。

 この機能をもつ憲法は、一方で国家権力を制限すると同時に、他方で国民の権利を保障するものが多い。

 憲法の根本規範性について

 自由は立憲主義の根本的な目的であり価値である。

 近代憲法の特質は、この自由の法秩序である点にある。

 組織規範・授権規範は、憲法の中核をなすものではなく、常に、より基本的な規範、すなわち自由の規範(人権規範)に奉仕するものとして存在するといえる。 この自由の価値は、市民革命期には、国民の憲法制定権力と不可分の関係にあるものと考えられ、超実定法的な自然権の思想に由来する。

 その意味で、それを実定化した自由の憲法規範は、「実定化された超実定法」として、憲法の中核を構成する根本規範だといえよう。

 そして、それを支える核心的価値が個人尊厳の原理(人間人格不可侵の原則)である。

 近代憲法が硬性憲法とされる理由について述べよ

 近代憲法が、その改正に通常の立法手続きよりも厳重な手続きを要求する硬性憲法とされる理由は、以下の通りである。 (1) 民主政原理が確立すると、主権者である国民を最高法規である憲法改正に何らかの方式で参加させるのが当然である。

 (2) 人権の保障は、特に少数者の権利を保護する点に意味があるから、通常の多数決でその保障規定を改正できるとすれば、その意義が失われる恐れがある。

 (3) 連邦制においては、改正手続きに連邦と支邦の双方の関与を認める必要があり、手続きが厳重となる。

 (4) 近代憲法は、権力の行使に厳しい枠をおいている最高の法であり、国民や代表者の反対を押し切って改正すべきでなく、国の根本法に対する容易で軽率な辺区を避ける必要がある。

 国民主権原理における権力性と正当性の両契機について

 国民主権原理には、(1) 国の政治のあり方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するという権力的契機と、

 (2) 国家の権力行使を正当づける究極的な権威が国民に存するという正当性の契機の二つの要素が含まれている。

 すなわち、元来、国民主権原理は、国民の制憲権(憲法制定権力)の思想に由来するが、この制憲権は、近代立憲主義憲法が制定されたとき、自らを憲法典の中に制度化し、国家権力の正当性の究極の根拠が国民に存するという建前・理念としての国民主権の原理(右(2) の要素)と、法的拘束に服しつつ憲法を改める憲法改正権(右(1) の要素)に転化したのである。

 日本国憲法における国民主権(前文1項・1条)の観念にも、かかる二つの要素が併存しているといえる。

 衆議院解散の実質的決定権が内閣にあることの憲法上の根拠について

 衆議院の解散の実質的決定権が内閣にあることの憲法上の根拠については、学説の対立がある。

 (1) まず、天皇の形式的な国事行為に対する「助言と承認」は実質的決定権は含まないから、憲法7条は根拠となりえないことを前提として、憲法69条を根拠とし、かつ、その場合に限定する説がある。

 しかし、それでは、政党内閣制の下では解散権を行使できる場合が著しく減少し、妥当でない。

 (2) 次に、右説と同様の前提に立ち、権力分立制や議院内閣制をとる憲法の全体的構造を根拠とする説もある。しかし、権力分立制や議院内閣制は必ずしも一義的な原則とはいえず、妥当でない。

 (3) むしろ、この点については、内閣が「助言と承認」をするに際し、その実質的決定を行っても、その結果として天皇の国事行為が形式的であればよいから、憲法7条を根拠とすべきである。

 委任命令について

 国会の唯一の立法機関性(41条)から、国会による立法以外の実質的意味の立法は、憲法の特別の定めがある場合を除き許されないという、国会中心主義の原則が導かれるが、法律の具体的な委任に基づく委任命令は許容されると解される(通説・判例)。

 なぜなら、(1) 社会福祉国家においては国家の任務が増大し、専門・技術的な立法や、事情の変化に機敏に即応した立法の要求が増加し、また、地方的な特殊事情に関する立法や、政治的処理が不適切な客観的硬性が望まれる立法の要求が増加する等、実際上の必要性から委任命令は条理上認められると解されるし、

 (2) 憲法73条6号但し書きは、委任命令の存在を前提とする規定を置き、その形式的根拠を明らかにしているからである。

 議院の自律権の意義について

 国会の各議院が、内閣・裁判所など他の国家機関や他の内部組織から監督や干渉を受けることなく、その(1) 内部組織や、(2) 運営に関して自主的に決定できる権能を、議院の自律権という。

 まず、(1) に関する自律権としては、会期前に逮捕された議員の釈放要求権(50条)、役員選任権(58条1項)、議員の資格争訟の裁判権(55条)などが挙げられる。

 特に、右裁判権は、議員の資格の有無についての判断を専ら議院の自律的な審査に委ねる趣旨のものであるから、その結論を通常裁判所で争うことはできないと解される。

 次に、(2) に関する自律権は、議院の自律権の中心的な内容をなすものであるが、議院規則制定権と議員懲罰権(58条2項)が最も重要である。

 行政権の概念について

 行政権は内閣に属するが(65条)、ここにいう行政権の意味については、全ての国家作用のうちから、立法作用と司法作用を除いた残りの作用であると解する控除説(通説)が妥当である。

 なぜなら、(1) 国家作用の分化過程を歴史的に見ると、包括的支配権のうちから、立法権と執行権が分化し、次いで執行権の内部で、行政と司法がわけられたのであり、控除説は、かかる沿革に適合し、様々な行政活動を包括的にとらえることができ、

 (2) また、控除説は、現代福祉国家における行政概念としては、確かに消極に失するうらみがあるため、より積極的な定義づけを試みる説も有力であるが、そのような新しい試みは、必ずしも多様な行政活動の全てをとらえきれていない、という問題点が指摘できるからである。

 議院内閣制の本質について

 議院内閣制(65条)の本質的要素としては、その歴史的沿革を踏まえれば、(1) 議会(立法)と政府(行政)が一応分立していること、(2) 政府が議会に対して連帯責任を負うこと、の二点であると考えられる(責任本質説)。

 これに対し、古典的なイギリス型の権力の均衡の要素を重視して(3) 政府が議会の解散権を有すること、という要素を加える説もある(均衡本質説)。

 確かに、議院内閣制は、元来、立憲君主制下で、君主と議会の権力の均衡をねらって成立した政治形態である。

 しかし、民主主義の発展と共に、各国の歴史・伝統・政党制のあり方に応じ、その性格が変化し、特に第一次大戦後は議会の世紀といわれるほど普遍化したが、様々な形態が生まれ、その本質的な共通要素は、政府の対議会責任であるといえる。

 司法権の概念について

 司法とは、一般に、「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家作用」と解されている。

 しかし、現代司法国家では、裁判にも一定の範囲で法創造ないし法形成の機能(立法的な作用)を積極的に営むことが期待されている。

 そこで、司法をより厳密に定義すれば、「当事者間に、具体的事件に関する紛争がある場合において、当事者からの争訟の提起を前提として、独立の裁判所が統治権に基づき、一定の争訟手続によって、紛争解決の為に、何が法であるかの判断をなし、正しい法の適用を保障する作用」となろう。

 すなわち、現代司法の概念では、(1) 具体的争訟の存在、(2) 適正手続きの要請等に則った特別の手続きの遵守、(3) 独立の裁判所、(4) 正しい法の適用の保障、が重要な構成要素となる。

 裁判の公開と傍聴の自由について

 憲法82条は裁判の公正を確保するために、裁判の公開の原則を定めている。

 ここに公開とは、傍聴の自由を認めることを意味するが、判例によれば、その内容は次の通りである。

 (1) 裁判の公開が制度として保障されていることに伴い、各人は裁判を傍聴することができるが、それは、各人が裁判所に対して傍聴することを権利として要求できることを認めたものでない。

 (2) また、傍聴人に対して法廷でメモをとることを権利としているものでもない(ただ、メモをとる自由は憲法21条の精神に照らして尊重されるべきで、故なく妨げられてはならない)。

 (3) 傍聴の自由は、報道の自由も含むが、法廷の秩序維持と被告人等の利益保護の見地から、それに対する一定の制約が認められる。

 違憲審査権の根拠について

 憲法81条は、通常裁判所に違憲審査権を認めているが、その理論的根拠は、次の通りである。

 (1) まず、憲法の最高法規性の観念である。憲法は、国の最高法規であって、それに反する法律、命令その他の国家行為は違憲・無効であるが、それは、それらの国家行為の合憲性判定機関があって初めて現実に確保される。

 (2) 次に、基本的人権の原理である。基本的人権が立法・行政の両権によって侵害される場合に、それを救済する憲法の番人として、裁判所による違憲審査制が要請される。

 (3) さらに、アメリカ的な権力分立の思想がある。司法は独自の立場で軽装の法令を解釈し、違憲と解釈すれば、その適用を拒否する責務を負い、違憲的な立法・行政行為を司法が統制し、権力相互の抑制と均衡を確保する必要がある。

 立法不作為の違憲審査の要件について

 立法の不作為は違憲審査の対象となるか。

 憲法により明文上ないし解釈上一定の立法をなすべきことが義務づけられているにもかかわらず、正当な理由もなく相当期間を経過しても、なお国会が立法を怠ったような場合には、その不作為は違憲と言わざるをえない。

 しかし、それによって直ちに裁判所による違憲審査が是認される訳ではなく、(1) 立法をなすべき内容が明白であること、(2) 事前救済の必要性が顕著であること、(3) 他に救済手段が存在しないこと、の要件(これらは台湾人元日本兵の損失補償請求事件における高裁判決が示した要件である)に加え、(4) 相当の期間の経過の要件が存する場合には、立法不作為の違憲審査が認められることもありうる、と解するのが妥当であろう(有力説)。

 

カード2

 

   人権観念の多様性

 人権の観念は、人間の存在の在り方の複雑さに対応して、理念的な性格のものから具体的なものに至るまで、多様なものを包摂しており、次の三つのレベルをもつものと解される(有力説)。

  背景的権利としての人権。これは、それぞれの時代の人間の存在にかかわる要請に応じて種々主張されるもので、右の の人権を生み出す母体として機能するものである。

  法的(抽象的)権利としての人権。これは、主として憲法規定上の根拠をもつ権利で、 も明確で特定化しうる内実をもつまで成熟し、憲法の特定条項(とりわけ13条)に定礎せしめうるレベルのものである。

  具体的権利としての人権。これは、裁判所に対してその保護・救済を求め、法的強制措置の発動を請求しうるものである。

いわゆる「二重の基準」について述べよ

 二重の基準の理論とは、人権を規制する法律の違憲審査にあたって、合理性の規制立法に関して適用される合理性の基準は、精神的自由の規制立法については妥当せず、より厳格な基準によって審査されなければならないという理論である。 これは、人権のカタログの中で精神的自由は立憲民主制の政治過程にとって不可欠の権利であるから、それは経済的自由に比べて優越的地位を占める点にその主要根拠を求めうる。

 すなわち、合憲性推定の原則は代表議会の多数意思を尊重するものであるが、それが尊重されるのはあらゆる意思が自由に表示されることが前提とされており、その前提そのものを制限する法令には合憲性の推定が働かないと考えられるからである。

  未成年者の人権制約について

 基本権が人格的自律に由来すると解する立場からは、基本権の制約は未成年者の発達段階に応じ、かつ、自律の助長促進にとってやむをえない範囲内にとどめられなければならないと解する。

 具体的には、(1) 自律の現実化の過程を妨げるような環境を除去することが求められると共に(27条3項参照)、(2) その過程に必要な条件を積極的に充足し(26条と学習権等)、(3) その過程に障害となる場合にはその過程そのものに介入することが求められる。

(1) と(2) は未成年者に権利を付与する趣旨であるのに対し、(3) は未成年者の自由への直接介入である。

 (3) は、成熟した判断を欠く行動の結果、長期的にみて未成年者自身の目的達成諸能力を重大かつ永続的に弱化せしめる見込みがある場合に限って正当化されよう。

 外国人の人権享有主体性について

 外国人の人権主体性については、憲法第三章の表題に「国民」とあることを根拠に否定説もあるが、人権の前国家的権利性、国際協調主義の見地から肯定説が妥当である。

 ただ、この説もすべての人権を外国人に保障するものではない。これらのうちで外国人が享有できる人権とそうでない人権とを区別する基準として、形式的に憲法の文言を重視する説がある。

 すなわち、「国民」と規定されている場合はその人権を享有できないが、「何人」と規定されている場合は享有できるとするのである。しかし、この説では、外国人に日本国籍離脱の自由(22条2項)を認めることになり背離が生じる。

 そこで、権利や自由の性質を考えて、それが外国人に保障されるかどうかを実質的に判定する説(判例、多数説)が妥当である。

 外国人の政治活動の自由について

 外国人の政治活動の自由については、外国人による多様な見解・視点の提起が国民の主権的意志決定を豊富にすること等の理由から、無限定に保障されるとする説がある。

 しかし、政治活動の自由は参政権的機能を有しており、他方、外国人には参政権が認められていないから、その趣旨と矛盾すると考えられるような政治活動の自由は、外国人には保障されないとする限定的保障説(通説・判例)が妥当である。

 日本国民の政治的意思ないし政治的意見の形成に対する直接かつ著しく不当な妨害ないし干渉を排除するのに必要な最小限度の制約を課せられてもやむを得ないし、参政権と参政権的機能を果たす政治活動の峻別は疑問だからである。

 法人の人権享有主体性の根拠について

 法人の人権享有主体性の根拠については、法人の活動は自然人を通じて行われ、結局その効果が自然人に帰属すると考える説がある。

 しかし、この説は、資本主義が高度化し巨大な団体(社会的権力)が出現する一方、社会の組織化が進み必ずしも人的基礎に結び付けることが困難な経済団体が生じるに至った現代においては適切でない。

 そこで、この点については、法人が社会において自然人と同じく活動する実体であり、特に現代社会における重要な構成要素であるという法人の社会的機能を重視する説が妥当である。

 この説では、法人格のない団体でも法人と同様な実体を備えている限り人権の享有能力が認められることになる。

いわゆる「特別権力関係理論」について

 国民のなかには特別の法律上の原因に基づき一般の統治関係とは異なった特殊な関係に入る者がいる。

 特別権力関係の理論とは、かかる関係について法治主義の原則が排除され、公権力には包括的支配権が認められ、それに服する者に対し法律上の根拠なしに一般国民に保障される権利・自由を制限できるとし、司法審査が及ばないとするものである。

 しかし、この理論は、国民主権を基礎とし、徹底した人権尊重と法治主義の原理を採る日本国憲法下では妥当ではない。 かかる特殊な関係においても人権の保障が原則として及び、その制限はかかる関係設定の目的達成に必要かつ合理的なものでなければならない。

  私人間における人権

 憲法の保障する人権規定が私人間にも適用があるかについては学説の対立があるが、以下の理由で間接適用説(通説・判例)が妥当である。

 この点については、自由主義法治国理念を前提として、公法と私法の区別を重視して、その適用を否定する無関係説もあるが、憲法秩序と社会生活の隔離が生じる恐れがあり疑問である。

 逆に、社会的法治国理念を前提に、憲法が社会の基本的秩序を構成する規範であることを重視した直接適用説もあるが、公法と私法の区別を軽視し国家権力の不当な介入の恐れがあり疑問である。

 そこで、右区別を前提に憲法の社会秩序規範性も考慮し、法律の概括条項に憲法の趣旨を取り込んで解釈適用し、間接的に私人間の行為を規律する間接適用説が妥当である。

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 確かに、公法と私法は区別され、私人間の問題は私的自治の原則によって解決されるべきものと解されるが、憲法の精神を全法秩序に及ぼす必要性もある。

 そこで、これを私法の一般条項の解釈によって私人間に適用する、いわゆる間接適用説が妥当である。(<短縮論証)

  傾向企業の法理について

 使用者の営む事業が特定の思想・信条と密接に、又は不可分に結び付いている場合(特定の政治的・宗教的傾向をもった企業である場合)に、使用者はこれに反する思想・信条(傾向)をもった労働者を解雇することができるとする法理がある。

 かかる解雇も、その事業の特殊性と相いれない場合には肯定してよいと考えられる。

 しかし、特定のイデオロギーの承認・指示を雇用契約の要素とすることは、正当や宗教団体のように事業目的とそのイデオロギーとが本質的に不可分である事業においてのみ許され、事業目的とイデオロギーとが単に関連性を有するのみでは足りないと解される。

  幸福追求権の法的性格について

 憲法13条の幸福追求権は、新しい人権の根拠となる一般的かつ包括的な権利であると解される。すなわち、憲法の人権規定は重要な権利・自由を列挙したもので、その全てを網羅したものではなく(人権の固有性)、社会の変革に伴い、個人の人格的生存に不可欠な権利・自由としての保護に値するものは、憲法13条を根拠に、新しい人権として憲法上保障されるのである。この点、幸福追求権の漠然性等を根拠に否定する説もあるが、個人の人格的生存については、他の人権規定でカバーされない限りにおいて(補充的保障)、その具体的権利性を肯定してよいと解する。

  環境権の憲法上の位置づけについて

 環境権は、人間の健康の維持と人たるにふさわしい生活環境の保全を求めて主張される権利だが、その内容から憲法上は次の三点から位置づけられる。

 (1) 環境権は自然環境との関係で成立する人格権という性質をもち憲法一三条の幸福追求権の一環としてとらえうる。

 (2) 自然環境の保全と改善に向けて公権力が積極的かつ有効な措置を講ずることを求める側面については憲法二五条二項の広義の生存権にその根拠を求めうる。公権力は各種公害法制の整備と行政措置を講ずる義務を負うことになる。

 (3) 国民の健康で文化的な最低限度の生活に直接かかわる環境破壊は、憲法二五条一項の狭義の生存権の問題が生じると解される。

  環境権の主体について

 環境権の主体は、地域住民である。環境は、他人の使用を排除して個人が独占することのできない公共的性格をもつため、環境権も集団的性格を有するからである。ただ、それは個人と集団が不可分であることを意味しない。

 環境権は、個々の人の人格や生存に基礎を置くものだからである。

 よって、住民の各人は、単に持ち分をもつにとどまらず、それぞれが独立して固有の環境権を有していると解される。 なお、法人は環境権の主体たり得ないと解する。

 環境権の客体は自然的環境に限定されると解されるところ、権利の客体である水・空気に財産的価値が認められても、経済的・財産的価値の保護が目的ではないからである。

 憲法一四条における法内容の平等について

 憲法一四条一項は、「法の下の平等」を規定しているが、ここにいう「法の下の」平等とは何を意味するか、争いがある。

 この点につき、立法者非拘束説は、法を執行し適用する行政権と司法権が国民を差別してはならないと解している。

 しかし、それだけにとどまらず、法そのものの内容も平等原則に従って定立されるべきだということも意味すると解する立法者拘束説(通説・判例)が妥当である。

 なぜなら、法の内容に不平等な取り扱いが定められていれば、いかにそれを平等に適用しても、平等の保障は実現されず、個人の尊厳の原理が無意味に帰するからである。

 平等違反の違憲審査基準について

 憲法一四条の「法の下の平等」における平等違反の違憲審査基準は何か。

 この点につき、一般には民主主義的合理性という基準が指摘しうるが、右基準では抽象的で具体的事件での判定には不十分である。

 そこで、ここでも二重の基準の考え方を加味して、権利の性質の違いを考慮しながら、立法目的と達成手段の二側面から合理性の有無を判断していくのが妥当である(有力説)。

 すなわち、精神的自由ないしそれと関連する問題の場合には、原則として立法目的と達成手段の間に事実上の実質的な合理的関連性があるかを検討すべきである。

 それ以外の人権、特に経済的自由の規制の場合には国会の裁量が尊重され、立法目的と達成手段の間に右の事実上の実質的な関連性が存在することまでは要求されないと考えられる。

 議員定数不均衡問題における二対一の基準について

 議員定数不均衡問題における違憲審査基準としては、形式的な平等原則、すなわち定数が人口数に比例していることに高度の民主的合理性があると考え、一人一票の原則の趣旨を没却しないように、最大格差二対一という計数基準を用いるべきである。

 二対一と形式的平等原則を緩和するのは、選挙は選挙区を単位に行われるが、その選挙区は行政区画を前提として決められるし、選挙の結果、できるだけ多様な国民意思が公正に国会に反映されることが「全国民を代表する」国会議員については憲法上要請されるため、人口比率だけでなく、社会学的意味の代表という契機も考慮しなければならないからである。

 衆議院の議員定数格差の基準について

 衆議院の議員定数の格差については、一対二を超えないことが限界であると解される。

 まず、憲法は、両議院の議員が全国民の代表であるとする一方で(四三条一項)、議員は基本的に選挙区を通じて選挙される存在であることを措定しているので(四七条)、国民各自の意見・利害を公正かつ効果的に国会に反映させる趣旨があり、その中には平等原則の実現が要請される。

 ところで、平等選挙とは、各有権者の投票価値を均等に扱う原則をいい、一人二票以上の投票権を認める複数投票制は不平等選挙として、憲法一四条一項に反すると解される。

 そこで、衆議院の議員定数の格差については、平等原則が直接妥当する。以上、右複数投票制が許されないことを類推して、いかなる理由であれ、一対二を超えないことが限界であると考えるべきである。

 思想・信条を理由とする不利益的取り扱いについて

 思想・信条を理由とする不利益的取扱いについては、憲法一四条と一九条が問題となる。

 まず、内心が外部に現れた面をとらえて不利益的取扱いをすることも信条による差別であって一四条の法の下の平等に違反する。

 しかし、一四条の保障は合理的理由があるときは差別が容認される。

 信条による差別は合憲性の推定がないとしても、この差別の理由を合理的に立証できるときは合憲とされるのである。

 これに対し、人の内心の思想・良心を侵害するものであるときは、その理由の如何にかかわらず合理性を欠くものであり、一九条に違反し、かつ、一四条に違反すると解すべきである。

 政教分離原則における「目的・効果」基準について

 政教分離については、いわゆる目的・効果基準(アメリカ判例理論)がある。 この基準は、次の三要件から成り立っている。

  世俗目的の要件。国の行為は世俗的な目的でなくてはならない。

  主要な効果の要件。国の行為は主要な効果(第一次的効果)が宗教を助長促進するものでも抑圧するものでもあってはならない。

  過度のかかわりあいの要件。国の行為は宗教との過度のかかわりあいを助長するものであってはならない。

 日本国憲法の政教分離原則(二〇条一項後段・三項)の限界を考えるにあたっても、この目的・効果基準により右   の内容を厳格に適用すべきである。

 この点、最高裁判所が右基準を変形し、その結果国家と宗教のゆるやかな分離を是認しているのは疑問がある。

 知る権利の法的性格について

 知る権利には次の三つの法的性格がある。

  自由権的性格。知る権利は国家からの自由という伝統的な自由権としての性格をもつ。

  参政権的性格。次にそれにとどまらず、国家への自由としての社会権的役割も演じる。なぜなら、個人は各種の事実や意見を知ることによって、初めて政治に有効に参加できるからである。

  社会権的性格。さらに、知る権利は、積極的に政府情報等の公開を要求することができる権利であり、その意味で、国家による自由の性格も有する。

 ただ、それが具体的請求権となるためには、情報公開法等の制定が必要であると解される。

 情報開示請求権の法的性格について

 積極的情報収集権たる情報開示請求権は、請求権的性格を有するため、憲法二一条一項の「表現の自由」の内実とすることに消極的な見解もある。

 しかし、 情報の流通の見地からは右権利が不可欠の要素であること、 この権利は元来立憲民主主義体制に内在していたものが積極国家化現象に伴い顕在化したものであること、等の理由から、積極的に解すべきである。

 ただ、この権利は、 政府情報の開示という作為を求めるものであること、 権力分立構造下の裁判所の地位の考慮から、法律による開示基準の設定と具体的開示請求権の根拠づけをまたずに、直ちに一般的に司法的強制の可能な権利をみることは困難である。

 従って、この権利は、抽象的な請求権たる性格をもつにとどまると解される。

   営利広告の自由について

 営利広告も原則として表現の自由(二一条一項)の保障対象となると解される。 この点につき、広告のような営利的言論と非営利的言論を区別し、前者は表現の自由の保障対象外とする説もあるが、両者の区別基準はあいまいであるし、国民にとっての知る権利の視点からは両者を明確に区別すべきでないからである。

 ただ、営利的広告の制約に関しては厳格性の緩和された合憲性判定基準が妥当すると解する。

 なぜなら、(1) 営利的広告は国民の健康や日常経済生活に直接影響しやすく、(2) その真実性は、概して政治的言論と違って客観的判定になじみやすく、(3) 萎縮的効果をおそれるべき度合いが少ないからである。

 広告の自由規制における合憲性判定基準について

 営利的表現である広告も表現の自由の保障対象になるが、経済的自由としての側面もあり、自己統治の価値も希薄なため、その内容規制も・時・所・方法規制も、非営利的表現の場合より厳格性の緩和されたやむにやまれぬ利益のテストを用いるべきである。

 このテストは、 立法目的がやむにやまれぬ利益、すなわち必要不可欠な利益であること、

  立法目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性があること、すなわち、両者の合理的関連性が出来る限り事実に即していて実質的なものであること、

  規制手段は、必要最小限度であること、というものである。

 この点、判例が広告を経済的自由として扱っているのは疑問である。

 税関検査について(判例の立場から)

 検閲とは、行政権が主体となって思想内容等の表現物を対象として、その全部または一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に発表前にその内容を審査したうえ、不適当と認めるものの発表を禁止するものである。

 税関検査は、 輸入を禁止される表現物は海外で既に発表済みであること、

  発表の機械を全面的に奪うものでないこと、

  思想内容等をそれ自体として網羅的に審査し規制するものではないこと、

  不服があれば、司法審査の機会が与えられており、行政権の判断は最終的なものでないこと、等の理由から検閲禁止に反せず合憲である。

表現の自由において判例が採用している「合理的関連性」の基準について

 表現の内容中立規制において、判例が採用している「合理的関連性」の基準とは、 立法目的の正当性、 目的と制限される行為との関連性、 制限により得られる利益と失われる利益との均衡との三点を検討し、規制が合理的で必要やむを得ない限度に止まるものである限り、合憲とするテストである。

 そして、 は、事実上の実質的関連性である必要はなく、観念的・抽象的関連性で足りる、 は、具体的・個別的な利益衡量は要求されず、得られる利益が失われる利益よりも常に重要なものと判断される傾向となる形式的・名目的な利益衡量で足りるとされているため、経済的自由規制における明白性の原則に近いテストとなっている。

 集会の自由の制限について

 集会の自由は、憲法21条1項により保護されているが、言論・出版等の表現の自由と同様に立憲民主主義過程に不可欠な自由であると共に、参政権的要素をもった精神的自由権である。

 ただ、この自由は、言論・出版の自由の場合と異なり、道路・公園等の利用という公衆の社会生活上不可欠の要請と衝突し、また集会競合による混乱の発生の可能性も含んでおり、人権相互の調整という内在的制約を受けることは否定できない。

 しかし、この自由の意義から、その規制は、その目的が人権相互の矛盾・衝突の調整といった必要不可欠なもので、規制手段もその目的達成に必要最小限度のものにとどまらなければならない、という厳格な違憲審査基準が用いられるべきである。

 この点、公安条例において、目的を治安維持におき、手段に許可制を設けている場合は違憲の疑いが強い。

海外旅行の自由の憲法上の地位について

 憲法22条2項は、「外国に移住する自由」を保障している。

 この自由は、外国が入国を認めることを前提として、外国に「移住」するのを公権力によって禁止されないことをいう。 そして、「移住」には、永続的なもののみならず、一時的旅行としての海外旅行の自由も含むと解するのが通説・判例である。

 この点につき、海外旅行の自由が憲法22条1項の「居住、移転の自由」に含まれるとする有力説がある。

 しかし、(1) 移動する地域が国外である点で永住も一時的外国旅行も共通していること、

 (2) 内在的制約に服する点では憲法22条1項と2項とで異なるところはないこと、等の理由から通説・判例の見解が妥当である。

旅券法一三条一項5号の合憲性について

 旅券法一三条一項5号の合憲性については 同上のような漠然かつ不明確な基準によって外国旅行を規制すれば、憲法上の権利を政府の自由裁量により奪う可能性があるので違憲であるとする説(多数説)、 海外渡航の性質上国際関係の見地からの制約を認め、同条を重大な犯罪行為に限定解釈して合憲とする説、 さらに広く国会の安全保障という見地から処分の合理性が認められれば合憲とする説の対立がある。

 海外渡航の自由が経済的自由の性質のみならず、精神的自由の側面を有することを重視すれば 説のように限定解釈を加える余地はなく、旅券が渡航許可書ではなく身分証明書の性質を有することから 説のような政策的制約を認めるべきでないので、 説が妥当である。

 合理性の基準について

 合理性の基準とは、立法目的とその達成手段の両面について、その合理性を支える社会的・経済的な一般事実の存在の推定(合憲性の推定)を排除するに足る合理的な疑いがあるかを問題とする基準である。

 これが経済的自由の制約についての違憲審査基準の原則とされるのは、 裁判所は非民主的な機関であり、民主的な機関である立法機関の行為を尊重すべきこと、 容易に立法機関の行為を否定すれば、裁判所に対する信頼も揺らぐ恐れがあること、 経済的自由に関する政策を経験的なアプローチで判断するのは困難であること、等の理由に基づく。

 職業選択の自由の規制についての審査基準

 職業選択の自由の規制についての審査基準としては、合憲性推定原則を前提とした合理性の基準が用いられるが、その規制目的に応じて次の二つに分けて考えるべきである(判例同旨)。

  他者の生命・健康への侵害を防止する等の消極的・警察的目的を達成するための規制については、裁判所が規制の必要性・合理性及び同じ目的を達成できるよりゆるやかな規制手段の有無を審査する厳格な合理性の基準が用いられるべきである。

  社会政策上の積極目的を達成するための規制については、当該規制措置が著しく不合理である場合に限って違憲にするという明白性の原則が用いられるべきである。

 ここでは立法府の裁量を広範に認め、規制立法の合理性の有無のゆるやかな審査を行うのである。

 憲法二九条三項を元に直接具体的請求権が認められるか

 法令が財産権の制限を認める場合に、憲法上補償が必要と解されるにもかかわらず、補償に関する規定を設けていないときはどうなるか。

 この場合に、当該法令を違憲無効であるとする考え方も有り得る。

 しかし、当該法令が補償を排除する趣旨のものでない限り、そのように違憲無効と断じ切るのは妥当でなく、直接憲法二九条三項に基づいて補償を請求できると解すべきである(判例同旨)。

 なぜなら、 同条項は、救済法としての性格を有するのみならず、 財産権は憲法が保障する具体的権利であり、公共の利益のための財産権の制限の場合には、憲法上補償請求権が発生するとみるべきだからである。

 生存権の法的性格について

 生存権の法的性格については、 プログラム規定説や 具体的権利説もあるが、 抽象的権利説(通説)が妥当である。

 まず、 説は、自助の原則が妥当する資本主義経済体制の特質・憲法規定の抽象性・財政上の理由から二五条一項は国の政策目標・政治道徳義務を定めたものとする。しかし、この説は、憲法が生存権を一つの「権利」として保障した意義を損なうので妥当ではない。

 次に 説では、国が二五条一項を具体化する立法をしない場合には国の不作為の違憲確認訴訟が提起できることになる。 しかし、権力分立制の下で司法権にかかる権限を与えるのは疑問である。

 そこで、二五条一項は、国民の抽象的権利を保障し、国の法的義務を定めたものとする 説が妥当である。

 「教育権の所在」の問題について

 教育権の所在については、教育の私事性を根拠とする国民教育説(杉本判決)と公教育の必要性を根拠とする国家教育権説(高津判決)との対立があるが、いずれも極端であり支持し得ない。

 まず、憲法二六条の規定の背後には、子供の学習権があり、それに対応して親を中心とした国民全体がその教育内容を決定する責務があり、それから委託を受けた教師にも一定の範囲での教授の自由が憲法二三条の一内容として認められる。 ただ、初等教育では、生徒に批判能力もなく完全な教授の自由は認められない。 次に、普通教育における全国水準の維持の要請から国も一定範囲の教育権を有すると解するのが現代福祉国家理念に合致しよう(学テスト判決も同旨である)。

 憲法の本質

 憲法の本質は、 その内容において立憲的、 その形式において成文的、 その性質において硬性であることが重要であり、それは社会契約説から基礎づけられる。

 すなわち、右説は、人民が自然権を有し、その権利を確実化するため社会契約を結び、政府に対抗する権利を有するという理論である。

 この理論では、 憲法の内容として重要なのは立憲的意味であり、 社会契約を具体化したものが根本規範としての憲法であるから、文書とすることが必要であり、成文憲法となる。 憲法の性質が硬性なのは、根本規範たる憲法によって作られた権力たる立法権は憲法を改正し得ず憲法に拘束されるからである。

 前文の裁判規範性について

 前文の裁判規範性については、これを肯定する説もあるが、以下の理由で否定すべきである。

 なぜなら、(1) 前文が裁判規範性を有するか否かは、前文が裁判所による具体的紛争解決の独自かつ直接的な準則たり得るかどうかということであり、前文が法規範であるからといって即裁判規範となるわけではない、(2) 規範といっても、一般的・個別的なものから、具体的・基礎的なものに至るまで各種のものがあり、前文は、基礎的・一般的規範の最たるものである、(3) 前文は、本文各条項を生み出し支える基礎的規範であり、前文は本文の各条項によって具体化されているので、裁判の基準となるのは本文条項であるからである。

 判例の法源性について

 判例の法源性については、(1) 憲法76条3項に裁判官は「憲法及び法律にのみ拘束される」とあること、(2) 裁判所法4条の反対解釈を根拠に否定する説もある。

 しかし、(1) の「憲法及び法律」には、成文法のほかに慣習法等の不文法も含むと解すべきであり、(2) の裁判所法の規定は法源性の問題とは無関係と見ることができ、否定説は妥当でない。

 そこで、(1) 日本国憲法の定める司法権が英米流のものであり、基本的に同種の事件は同様に扱うべきだという公正の観念、(2) 日本国憲法の解釈論的には、14条の法の下の平等、32条の公正な裁判を受ける権利、31条の罪刑法定主義を根拠に、判例の法源性を肯定する説が妥当と考える。

 条約と憲法の効力順位について

 条約とは、文書による国家間の合意であるが、国会のコントロールが可能であること(73条3号)、国際法の誠実順守の原則(98条2項)等から、条約は特別の立法手続きをとらずに国内法的効力を有するので(一元論)、憲法との優劣関係が問題となる。

 この点については、98条2項の精神や、前文、9条等を根拠に条約優位説も有力であるが、憲法優位説が妥当と考える。

 なぜなら、(1) 条約締結権は憲法に根拠を有し、その締結と国会による承認は憲法の枠内においてのみ許容されるべきであり、

 (2) 憲法改正について厳格な手続きが定められているにもかかわらず、条約優位説ではその手続きによらず憲法改正がなされ、国民主権主義に反するおそれがあるからである。

 内閣は、従前の法律を違憲と判断した場合に、憲法98条1項及び99条を根拠に、その執行を中止できるか。

 ここでは、内閣が「法律の執行」(73条1号)をする際に、合憲性審査をすることを認めるべきかが問題となるが、以下の理由で否定すべきである。

 第一に、憲法81条が合憲性審査権を裁判所に認めているからである。

 98条1項が憲法の最高法規性を定めていても、他の国形式の憲法適合性を誰が認定するかは別問題であり、憲法はその役割を裁判所に与えたものと解される。 第二に、権力分立制の見地からも設問のような場合の中止を認めれば、立法権を国会に独占させた憲法41条趣旨が没却される。

 憲法99条の憲法尊重擁護義務は道徳的義務にすぎず、国家機関の権限分配自体に影響を及ぼす規定とはいえない。

 日本国憲法の基本原理について

 日本国憲法は、民主主義の根本的指導原理を実現するために、次の四つの基本原理を採用している。

 (1) 個人の尊厳。これは、人間社会の価値の根源が個人にあると考え、個人を尊重しようとする原理で個人主義ともいう。この原理は、個人の自由と生存を尊重するため、基本的人権尊重の原理ともいえる。

 (2) 国民主権。個人主義によれば、政治権力の源も個人にあると考えられるため、必然的に国民主権主義の原理が生まれる。

 (3) 社会国家。個人を尊重する立場からは、国民の一人一人に対し、人間たるに値する生活をさせることが国家の使命であり、責任であるという国家観が生じる。

 (4) 平和国家。多くの人の生命・自由を侵害する戦争が個人の尊厳の原理と相容れないことは明らかである。

 権力分立の特性について

 権力分立は、複雑な国家作用をその性質に応じて、立法・行政・司法の三つに区別し、それらを別個の機関の独立の権限として配分すると共に、互いに抑制し、均衡を保たせることにより、権力の濫用を防ぎ、個人の自由を守る原理であり、次のような特性が見られる。

 (1) この原理は、国家権力から国民の自由を守るねらいをもつ自由主義的政治組織原理である。

 (2) これは、消極的に権力の濫用または恣意的な行使を防ぐための原理である。 (3) この原理は、国家の権力およびそれを行使する人間に対して懐疑的または悲観的である。

 (4) この原理は、その政治的中立性に特性がある。ただ、実際上は、専主制より民主制の方がなじみやすいといえる。

 権力分立の型

 権力分立といっても、時代により国によりその意味するところは同じでない。

 近代立憲主義国家が成立する際に、国家権力機構において国民代表(議会)が占めた役割の相違によって、(1) アメリカ的な三権が同格である型と、(2) フランス的な立法権中心の型とに分かれる。

 (1) 型は、圧倒的なイギリス議会という立法権に対する不信の思想に基づき政治組織が構想され、三権が同格と考えられ、権利分立はより自由主義的に理解された。

 これに対し、(2) 型は、圧倒的君主とそれに隷属した裁判所に対する議会の勝利により近代国家となったので、権力分立は立法権優位のものとなり、より民主主義的に理解されたのである。

 立法及び行政の司法審査は、権力分立の原則と矛盾しないか

 権力分立には、(1) 近代アメリカの自由主義的な三権同格の型と、(2) 近代フランスの民主主義的な立法権中心の型とがある。

 このうち、(2) 型では、裁判所の違憲立法審査権は、権力分立の原則に反することになり否認される。

 これに対し、(1) 型の下で、憲法は不可侵の前国家的・超国家的な自然権を実定化した法として法律と質的に区別される最高法規であるという思想と、法を解釈し憲法を擁護するのは、裁判所の特別かつ固有の職分という考え方を加えれば、司法権の行使に付随する権能としての違憲立法審査権が正当化され、権力分立の原則は、違憲立法審査制を支える大きな理論的支柱となる。日本国憲法81条もかかる(2) 型の思想に基づくものである。

 法の支配について

 法の支配とは、専断的権力(人の支配)を排除し、権力を法で拘束することによって、国民の権利を保障することを目的とした自由主義的憲法原理である。

 法の支配の内容として重要なものとして、(1) 憲法の最高法規制の観念、(2) 権力によって侵されない個人の人権、(3) 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重、(4) 法の内容・手続きの公正を要求する適正手続きなどをあげることができる。

 日本国憲法は、憲法の最高法規性を確認し(第10章)、詳細な人権のカタログを掲げつつ(第三章)、裁判所に違憲立法審査権を付与し(81条)、さらに適正手続き条項を規定し(31条)、明らかに法の支配の原理を採用している。

 法の支配と法治国家を対比せよ

 英米法の「法の支配」の原理に類似するものに、戦前のドイツの「法治国家」(法治主義)の観念がある。

 この観念も、法により権力を制限しようとする点で「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、次の二点で両者は著しく異なる。

 (1) 「法の支配」は、市民の政治参加が前提となっているので、民主主義と結合していたが、「法治国家」の観念は、専ら国家作用が行われる形式的手続きを示すものにすぎず、いかなる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。

 (2) 「法の支配」の「法」とは合理的内容でなければならないが、「法治国家」にいう「法」は内容とは関係ない形式的な法律にすぎず、したがって、人権保障において法律の留保を伴うことも許容されるものであった。

 国民主権の意義について

 国民主権の意義については諸説あるが、国民主権を (1)正当性の原理と (2)実定憲法上の構成原理との二側面から据える見解が妥当と考える。

 (1) の側面として、国民主権は国家統治のあり方の根源にかかわる憲法を制定し支える権威が国民にあることを意味する。

 この場合の国民は観念的統一体としての国民であるが、憲法改正の国民投票における有権者団は、主権者たる国民に同一視すべき存在といえる。

 (2) の側面として、まず統治制度の民主化が要請される。

 統治制度は、主権者たる国民の意思に基づき組織すべきだからである。

 次に、公開討論の場の確保が要請される。この点で表現の自由は国民主権と直結する重要な権利といえる。

 国民主権の具体化について

 国民主権の理念の具体化は種々の形であらわれる。

 (1) 憲法そのものの正当性の根拠が国民の意思にあるという意味がある。

 これは、憲法制定権者あるいは憲法改正権者として国民をとらえることに結び付く。

 (2) 国家の具体的意思形成に国民が関与できる過程が保たれ、それゆえ決定された国家の政策は正当性をもつという意味がある。

 これは、憲法上の機関としての国民の地位と結び付き、国民の選挙権が重要な意義を有する。

 (3) 国家権力と対置させて据えるべき国民の存在により国民主権の原理が維持されるという意味がある。

 これは、基本的人権の保障により、国政への国民の意思の反映、十分な監視ができるということである。

 国政への直接参加の方法

 国民が国政に直接参加する主要な方法は、次の三つである。

 (1) レファレンダム(国民表決)。これは一定の重要事項の決定を国民が直接投票で行う方法である。国民の直接意思が反映される点が長所だが、国民の無自覚を政権担当者が悪用するという危険もある。

 (2) イニシアティブ(国民発案)。これは、有権者の一定数による要求の下に、立法その他の発案をなさしめる制度である。この方法を国政レヴェルで取り入れると議会制度に混乱をもたらす危険もある。

 (3) リコール(国民罷免)。これは、国民が公務員をその任期満了前に直接罷免させる制度である。

 (4) その他、請願権の行使や、情報公開制度等でも国民の直接政治参加が問題となり得る。

 被選挙権、特に立候補の自由について

 被選挙権、特に立候補の自由については、選挙権と異なり権利ではなく、資格と考える説もあるが、憲法15条1項の保障する重要な基本的人権と考える説(通説・判例)が妥当である。

 なぜなら、(1) 被選挙権は、選挙権と密接な関係にあり、その要件が選挙権よりも加重されることが多いほかは、選挙権と同じく全ての国民に等しく認められるべきであり、国政に直接関与するという重要な内容をもつことを看過できない。 (2) 44条も、選挙権と被選挙権を区別しておらず、両者を一体として据えるべきである。

 (3) 特に、立候補の自由は、選挙権の自由な行使と表裏一体の関係にあり、自由かつ公正な選挙を維持するうえで、極めて重要といえるからである。

 国会の最高機関性

 国会の最高機関性(41条)の意味については、統括機関説もあるが、政治的美称説(通説)の見解が妥当である。

 前説は、41条の文言を重視し、国会が個々の機関の行動を統一し、国権の発動を統括する地位を有するという見解で、民主主義の原理を重視する説である。

 しかし、この説は、三権分立制を軽視し、81条の存在を無意義とするので、支持できない。

 そこで、これは政治的宣言であり、美称であるとするとする後説が妥当である。 この説は、国会が国民の代表機関として国政の中枢的地位に立つ重要な機関で、相対的に他の機関より優越することを政治的に表明したものと考えるので、三権分立の原理、自由主義的原理を重視するものだからである。

 立法の意義について

 立法には、(1) 国法の一形式として国会が制定する法規範の定立という形式的意味と、(2) 「法規」という特定の内容の法規範の定立という実質的意味がある。 (2) の意味の立法は、立憲君主制の時代には、国民の権利を直接に制限し義務を課する法規範を定立することだと考えられてきたが、現代立憲主義憲法体制下では、より広くおよそ一般的・抽象的な法規範を全て含むものと考えるのが妥当である。

 なぜなら、法律は不特定多数の人に対して、不特定多数の場合・事件に適用される法規範であると解することによって、それがだれに対しても平等に適用され、事件の処理について予測可能性が充たされ、法治主義の思想に適合するからである。

 二院制における第二院の存在理由について

 民主制にとっては、国民の意思を代表する機関は一つであれば足りるはずなのに、第二院が設けられることがある。

 その存在理由は、(1) 議会の専制の防止、(2) 下院と政府の衝突の緩和、(3) 下院の軽率な行動の抑制、(4) 民意の忠実な反映等である。

 第二院の組織が、貴族院型から連邦型・第二院制型へ移行するという時代的背景に伴い、第二院の主要な存在理由は、(1)(2)から(3)(4)へと移ってきているといえる。

 なお、特に、我が国の参議院の場合には、以上の理由に加えて、参議院の数の政治に対する理の政治による少数者の利益保護、重要課題に対する専門的接近の可能性、補充的役割等が存在理由として考えられる。

 議員の免責特権の現代的性格について

 議員の免責特権(51条)の性格については、(1) 国会の活動の保障面に完全に解消し当然の特権とする説と、(2) 手段的・政策的に創設された特権とする説の対立があるが、(2) 説が妥当である。

 なぜなら、かかる特権も平等原則との関連が問われるべきであるし、国民代表機関たる国会が国政の中心にあって審議の原理を充たすために議院の自律権の一環としてこの特権が認められるにすぎず、さらに現代社会においては一般私人の名誉・プライバシーの保護が重要で緊要な課題となっているので、かかる特権による侵害を放置することはできないからである。

 かかる見地より、議員の発言による被害者たる国民には、国家賠償法等による法的救済の可能性を認めるべきである。

 予算の修正について

 まず、減額修正について、明治憲法67条では、議会の権限が制限されていたが、減額修正権のみは認められると解されていたので、現行憲法の下でも、減額修正ができることには問題が少ないと言える。

 ただ、国会は予算と共に法律の議決を行う機関であるから、減額修正の結果、法律の執行ができない事態は回避すべく、両者を一致させる義務があるので、減額にも一定の限度があると解される。

 次に、増額修正について。前述の明治憲法のような規定がないこと、財政立憲主義(83条)の趣旨から原則として認められると解される。

 ただ、憲法は、他方で予算発案権を内閣に専属せしめているので、その建前を根本からくつがえし、予算の同一性を損なうような大修正は許されないと考える。

 条約の修正について

 国会は、条約を承認するにあたり、その内容に修正を加えることができるか。

 条約の内容を確定するのは、外国と交渉し締結する権限をもつ内閣の職務に属することであり、国会は修正を加えることができないと解される。

 たとえ修正しても、それは承認を拒否したことになる。

 その結果、内閣が国会の修正議決に従って相手国と再交渉すべきことになる場合もある。

 もちろん、相手国がそれを拒否すれば条約は不成立となる。

 このことに関連して、国会の部分的承認が可能かという問題もある。

 条約の内容にてらして部分的承認が可能である可分の性質をもつものならば、それは肯定され、承認された部分の条約のみが効力をもつことになる。

 議員の懲罰と司法権

 懲罰を受けた議員は、裁判所に出訴して、議決の取り消しを求めることができるか。

 この点につき、(1) 抑制均衡原則、(2) 国民の基本権保障において裁判所が占める地位、(3) 議員の地位が直接には国民の参政権に基礎をおくものであること等を理由に積極に解する説もある。

 しかし、(1) 懲罰権が議員に内在する固有の権利であること。(2) 個人の自由を侵害する処分が全て司法的抑制に服するという法治主義の原則は特殊の法律関係には妥当せず、各々のもつ自律権の範囲内において裁判所の審査権には服しない例外的領域があること、(3) 憲法構造の全体を支配する権力分立の原則から、各議院の自律性を尊重すべきであること、等の理由から消極説(通説)が妥当であると考える。

 国政調査権の範囲について

 国政調査権の本質は補助的権能であると解されるので、調査委員会の権能は議院の憲法上の権能によって制約されることになる。

 しかし、議院の権能、特に立法権は極めて広汎であり、憲法62条は対象を限定していないから、公共の利益に関する問題に関連のない純粋に私的な事項を除き、実質的に調査の対象は国政の全般に及ぶ。

 すなわち、調査権は、議院の権限に属する事項に合理的な関連性のある事項に及び、その関連性の不足が明白でない限り、調査目的の合法性は原則として推定されよう。

 ただ、調査権も無制限でなく、補助的権能である以上、調査目的は議院の権能を実効的にするものであり、対象・方法では権力分立原理や人権の原理からの制約もある。

 裁判内容に対する批判的な国政調査権の可否

 裁判内容に対する批判的な国政調査権の可否については、(1) 絶対許容説や、(2) 確定判決後許容説もあるが、(3) 絶対禁止説が妥当である。

 (1) 説は、議院の調査により、裁判官の裁判活動が直接制約されるものではないことを理由とするが、司法権の独立の意義を没却するもので妥当でない。

 (2) 説は、確定判決後の裁判内容に対する調査は裁判官の裁判活動に直接影響を及ぼさないことを理由とするが、後続の事件を審理する裁判官に対する影響力を看過するものであり、妥当でない。

 そこで、司法権の独立を全うするためには、裁判内容に関する批判的調査が権力分立の原則からして、調査権の限界を超えるものとして、一切許されないとする(3) 説が妥当である。

 国政調査権と行政権との関係について

 国会は唯一の立法機関であり、かつ議院内閣制の原理(66条3項、69条等)により行政監督権が広く認められるので、行政作用はその合法性・妥当性につき全面的に国政調査権の対象となる。

 検察事務も行政作用である以上、犯罪捜査、起訴・不起訴の妥当性も調査できる。

 しかし、検察権は、裁判と相互に密接な関連をもち、司法権の独立に類する原理が要請される。

 よって、刑事司法の公正・国家の法秩序維持の見地より、(1) 起訴・不起訴につき検察権の行使に政治的圧力を加える目的の調査、(2) 起訴事件に直接関連のある調査および公訴追行の内容を対象とする調査、(3) 捜査の続行に重大な障害を来す方法等は、違法・不当であると解される。

 行政国家現象の意義について

 現代社会国家(憲法25条)においては国家の基本的な政策形成および決定が実質上行政権を中心に行われている国家を行政国家という。

 これは、我が国では次のような現象として現れている。

 (1) 重要法案のほとんどが内閣提出法案であり、立法過程における実質的主導権が移転している。

 (2) 行政権は単に法律の執行にとどまらず、立法領域でも広汎な機能を有するようになり、行政過程そのものが変質している。

 (3) 財政的機能も実質的に内閣に移行している。

 (4) 計画権力は行政権が独占している。 等の現象がそれである。

 独立行政委員会と憲法65条の関係について

 独立行政委員会とは、内閣の所轄の下にありつつ、独立してその職務を行使する機関であるが、憲法65条との関係でその合憲性が問題となる。

 65条から行政は全て内閣の指揮・監督下に服させると解する必要はなく、そのうちで政治的に中立な作用を独立行政委員会に帰せしめることは、立憲主義の目的に合致し合理性が認められるので、その限度で職権行使の独立を認めても、65条違反ということはできない。

 ただ、65条が行政権を内閣に帰属せしめている背景には、行政の民主的コントロールの要請があるので、内閣のコントロールが不十分なところは国会によるコントロールで、ある程度補う必要があると解するのが妥当である。

 内閣総理大臣の憲法上の地位

 明治憲法下にあっては、内閣総理大臣は、いわゆる「同輩中の首席」にすぎず、他の国務大臣とは同格のものとされていた。

 これに対し、日本国憲法は、内閣総理大臣をもって、内閣の首長と定め(66条1項)、国務大臣の訴追に対する同意権(75条)、内閣の代表権(72条)等、内閣を組織し、主宰し、かつ代表する強い地位・機能を与えている。

 内閣は合議機関であって、閣議にあっては発言権は対等であり、内閣総理大臣は他の国務大臣に対して強い地位・権能を認めることによって、内閣の統一性をはかり、内閣の連帯責任の実をあげようとしたものと解される。

 衆議院の解散権が内閣にあるとする憲法上の根拠について−制度説の論証

 衆議院の実質的解散権が内閣にあるとする憲法上の根拠については、まず7条説がある。これは、内閣の天皇に対する助言と承認権を理由とするが、助言と承認は形式的国事行為に関するもので実質的決定権を読み取ることは困難であるから、妥当でない。

 次に、他の根拠規定を求めると69条しかないとする説がある。しかし、同条は不信任決議がなされたときの効果の定めに過ず解散権の根拠規定とは言えない。 さらに、解散は行政に含まれるので、65条により解散権は内閣に属するという説もある。しかし、行政権に当然解散権が含まれるというのは疑問がある。

 そこで、結局、議院内閣制から衆議院の不信任決議に対し権力分立の見地から内閣に解散権が認められたとする制度説が妥当である。

 地方自治権の性質について

 地方自治権の性質については争いがあるが、以下の理由から制度的保障説が妥当であると考える。

 (1) この点については、まず地方自治地権を前国家的権利と考える固有権説もあるが、これは主権の近代国家における単一・不可分性を無視し、憲法92条が地方自治の組織・運営を法律に留保していることの説明に窮する。

 (2) 次に、地方自治権は国家の統治権に伝来し、国家の政策的自制に基づく承認と考える伝来(承認)説もあるが、これでは、憲法が明文で地方自治権を保障した意味がなくなる。

 (3) そこで、憲法は立憲民主制維持のために地方自治を制度として保障したので、地方自治の制度の本質的内容・核心は法律で侵害できないと考える説が妥当である。

 法律留保事項と条例の関係について

 条例とは、地方公共団体の自主法をいい、民主的基礎を有するので法律に準ずるものと考えられる。

 他方、憲法の規定には法律に留保された事項があるが、これについて条例で規定できるかが問題となる。

 まず、憲法は財政権の内容について法律事項としているが(29条2項)、条例でそれを制限することも条例の準法律的性格から可能であると解される。

 次に、憲法は租税法主義を定めるが(31条、84条)、地方自治の本質(92条)、条例制定権(94条)を根拠に地方公共団体にも課税権があると解される。

 さらに、条例違反に罰則を設けることができるかについても、憲法31条、72条6号との関連で問題となるが、条例が自主法である以上、当然に肯定し得ると解される。

 司法権の範囲

 司法権の範囲について、憲法76条1項は何ら規定していないが、明治憲法における民事・刑事の裁判のみにとどまる行政型ではなく、行政事件の裁判も司法権の範囲に含まれるという司法型を憲法は採用しているものと考える。

 なぜなら、(1) 日本国憲法が法の支配原理に基づく司法型をとるアメリカ憲法思想の影響下に作られたものであること。 (2) 憲法81条が処分の違憲性を審査する権限を裁判所にあたえていること。

 (3) 憲法32条が全ての法律上の争訟につき裁判所に出訴し救済を求め得ることを保障していること。

 (4) 行政裁判に関する規定がなく、むしろ行政機関による終審裁判の禁止規定(憲法76条2項)があるからである。

 いわゆる客観訴訟について

 裁判所が司法権を独占的に行使するということは、裁判所が司法権のみを行使すること、つまり、裁判所が本来司法権ならざる権能を行使してはならないことを直ちに意味してはいない。

 本来的司法権を核として、その周りには法政策的に決定されるべき領域がある。 いわゆる客観訴訟の創設もそれである。 裁判所法3条も「その他の法律において特に定める権限」という。

 ただ、法律により裁判所に対して本来的に司法権ならざる権能を付与するについては、憲法上の限界があると解される。 すなわち、付与される作用は、裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、その決定には終局性が保障されなければならないと解される。

 宗教上の争いについての司法審査性について

 裁判所がその固有の権限に基づいて審判することができる対象は、裁判所法3条の「法律上の争訟」、すなわち、(1) 当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、(2) それが法律の適用によって終局的に解決できるものに限られる。

 よって、訴訟が右(1) の形式をとっているものであっても、その請求の当否を決するについての前提問題として信仰の対象の価値ないし宗教上の協議に関する判断に関するものがその核心となっていると認められるときは、当該訴訟はその実質において法律の適用による終局的解決が不可能なものであって、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」にあたらず、司法審査を否定すべきである。

 議事手続きの司法審査について

 ある国家行為を司法審査に不適合なものとして法治主義の支配に重大な例外を設ける場合には、その理由は、各事件毎に具体的に明らかにされなければならないし、国会の自律権の理論等で説明のつく限り、統治行為というような、憲法の明文の根拠もなく内容も不明確な概念の使用は不必要であり、避けるべきであろう。

 そして、議事手続きは、それが国会内部における高度の政治性のある行為という理由よりも、その効力の実質的な判断が憲法上各議院の自主性に委ねられた、各議院の自律に属する事項だという理由によって裁判的統制を受けないと解するのが妥当である。

 統治行為の意義・根拠

 統治行為とは、政治部門の行為のうち、法的判断が可能であっても、その高度の政治性ゆえに司法審査の対象とされない行為である。

 この統治行為論に関しては、(1) 裁判所の裁量的自制に根拠を求める自制説と、(2) 国民主権下の権力分立体制における司法権の内在的制約説との対立がある。

 しかし、(1) 説に対しては、何故に憲法上の権能の不行使が正当化されるかの疑問があるし、(2) 説に対しては、権力分立概念の多義性、司法の観念の流動性の故に必ずしも決め手にならないかの疑問がある。

 その意味で、統治行為論は、自制と内在的制約との微妙な結合のうえに成立していると解する説(有力説)が妥当であろう。

 「部分社会の法理」について

 部分社会の法理とは、法秩序の多元性を前提として、自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の内部問題は、一般市民秩序と直接の関係を有する場合を除き、司法審査の対象とならないというものである。

 しかし、この理論は、部分社会が無限定で、各種の性質の異なる団体を一律に扱う点で問題があるほか、法治主義の妥当しない領域を作り出す点では特別権力関係理論と同じ機能を営むので支持し得ない。

 そこで、団体内部の自治権を尊重し司法審査を否定するならば、その根拠は憲法の規定する団体結成の自由(21条、20条、22条、23条、28条)に求めるべきであり、団体の性質に応じた配慮をすべきであると考える。

 行政機関による終審裁判の禁止

 憲法76条2項は、行政機関による終審裁判を禁止している。

 これは、(1) 法の下の平等(14条)と裁判を受ける権利(32条)の保護の徹底を図り、司法権の統合的行使を通じて法秩序ある解釈運用を図る趣旨に基づくと共に、(2) 行政機関が司法権を行うことができないことは、三権分立主義から当然であることから理由づけられる。

 ただ、特殊な事項については、その専門的・技術的な性質や迅速な処理の必要から、準司法的手続きにより、行政機関により審判されることがあるが、それは終審として確定するものであってはならず、不服があれば裁判所に出訴できる途が認められていなければならないといえよう(裁判所法3条2項参照)。

 最高裁判所規則と法律の効力関係

 最高裁判所規則(憲法77条)と法律が矛盾するときの効力関係については、規則優位説、同位説、法律優位説(通説)もあるが、いずれも極端にすぎ支持し得ない。次のように分けて考える必要がある(有力説)

 (1) まず、憲法が裁判所の規則制定権を認めた趣旨から、裁判所の自律権に直裁にかかわる裁判所の内部規律事項と司法事務処理事項については規則の専属事項とし、仮に法律が定められても規則が優先すべきである。

 (2) 次に、刑事手続きの基本原理・構造など国民の権利・義務に直接かかわる事項については、憲法41条や31条の精神から法律が優位すべきである。

 (3) その他の事項については、同位を前提として前法・後法の関係で据えられるべきである。

 陪審制度の採用

 憲法上陪審制度を採用できるかについては、まず、憲法に明文がないことや司法権は裁判所に属するもので司法権の独立も要請されること等を理由に否定説(少数説)もある。

 しかし、憲法76条は訴訟手続きの全部が裁判所のみによって動かされなければならないとしているのでなく、実際上も検察官や弁護人が重要な役割を果たしていること等の理由から肯定説(通説)が妥当である。

 さらに、日本国憲法の司法権がアメリカ流のものと解されることや、陪審制度自体の合理性から、陪審の事実認定が適正なものとなるよう裁判官がある種の役割を果たすこと等の一定の条件の下では、裁判官が陪審の答申に拘束されるという陪審制度の採用も可能であると考える。

 司法府の自主性に関する憲法上の原則

 司法府の独立は、全体としての裁判機構を他の権力から分離・独立させ、その機構の運用を出来る限り司法府の自主性に委ねることを意味する。

 明治憲法下では、行政機関である司法大臣が司法行政権を握っており、司法府の独立の点で不完全であった。

 これに対し、日本国憲法は、次のような自主性保障の諸制度を設け、司法行政権も完全に最高裁判所に委ね、ほぼ完全な司法府の独立を実現させている。

 すなわち、(1) 行政機関による裁判官の懲戒の禁止(憲法78条後段)、(2) 下級裁判所の裁判官の任命権(憲法80条)、(3) 司法行政監督権(憲法77条及び第六章全体の趣旨)、(4) 司法運営のための規則制定権(憲法77条)がそれである。

 違憲審査制の性格

 憲法81条の違憲審査制の性格については、特別に設けられた憲法裁判所が具体的な争訟と関係なく違憲審査に行なう抽象的審査制を定めたものと解する説(少数説)もあるが、通常の裁判所が具体的訴訟事件を裁判するに際し、その前提として違憲審査を行う具体的(付随的)審査制を定めたものと解する説(通説・判例)が妥当である。

 なぜなら、(1) 司法権は本来具体的な法律上の争訟を裁定する国家作用であり、違憲審査制も司法裁判所の有する権限であること、(2) 抽象的審査制が認められるには、それを積極的に明示する規定(例えば、提訴権者や裁判の効力に関する規定など)が憲法上定められていなければならないからである。

 条約の司法審査制

 安全保障条約は、主権国としての我が国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲か否かの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点が少なくない。

 したがって、右法的判断は、司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対し承認権を有する国会の判断に従うべきで、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解される。

 立法の不作為に対する司法上の救済方法について

 立法の不作為は、その性質上政治過程の中で対処されていくべきものであり、原則として裁判過程になじむものではない。

 しかし、個人の重要な人権が実際に侵害されているのが明確な場合には、憲法訴訟の争い方いかんによっては、司法審査の対象となり得ると解される。

 問題となるのが、その争い方であるが、日本国憲法の定める権力分立構造の中における具体的審査制の下にあっては、立法不作為の違憲確認訴訟は否定されるべきである。

 しかし、通常の行政事件や国家賠償事件訴訟において不備ないし不十分な法律に基づく措置の違憲性を争う方法や、国家賠償を求める訴えにおいて立法不作為の違憲・違法性を争う方法は認められてよいと考える。

 適用違憲の手法について

 適用違憲とは、法令自体は合憲でも、それが当該事件の当事者に適用される限度において違憲であるとする判決手法である。

 かような場合、裁判所が、限定解釈、すなわち、当事者の行為の性質を、その行為を法令によって禁止されるその他の行為から区別する解釈をすれば、当該法令を犯す可能性のある者に対して、より確実な警告を与えることになるものである。

 しかし、立法者の意思が、行為の全てを規制するものなので、当事者の行為を当該法令の禁止するその他の行為から区別するという限定解釈は成立しないという場合、すなわち、合憲的に適用できる部分と違憲的に適用する可能性のある部分とが不可分の関係にあるため、両者を切り離す限定解釈が成立しないような場合、もしくは限定解釈は可能でも、それを行わずに法令を違憲的に適用したような場合に、適用違憲の手法が用いられることになる。

 最高裁判所に違憲とされた法令の改廃を立法府に義務づける法律を制定することに可否について

 設問の法律は違憲と考えるべきである。 なぜなら、(1) 憲法は、最高法規性(98条1項)に基づき、裁判所に違憲審査権(81条)を与えているが、司法権は法律を具体的争訟に適用しこれを裁定する国家作用であるから、司法権の行使として行われる違憲審査権も具体的事件を前提として(具体的審査制)、違憲判決の効力も当該事件についてのみ、その法規は無効と解されるにすぎない(個別的効力説)。

 (2) そして、違憲判決に当該法規を一般的に無効とする効力を認めれば、裁判所に消極的立法作用を与えることになり、国会の唯一の立法機関(41条)とする三権分立制に反するといわざるをえないからである。

 憲法判例の変更について

 先例には事実上の拘束力が認められるし、憲法判例を変更するには真に必要とする理由が存在しなければならないことは、いうまでもない。

 その理由としては、(1) 時の経過により事情が変更したということ、(2) 経験の教えに照らして調整が必要だということ、(3) 先例の誤りが極めて明確であること等が考えられる。

 よって、最高裁判所は、多数決で自由に判例変更を行うことはできるが、右のような判例変更の条件に適切な配慮を怠ったり、専ら裁判官の交替が原因で判例が変更されたと考えられるような場合には、その判例変更は不当だといわなければならないと解される。

 

カード3

 

 法律上の争訟

 司法権の概念の中核をなす「具体的な争訟」という要件は、具体的事件性の要件ともいう。裁判所法3条の「法律上の争訟」も同義である。

 判例は、「法律上の争訟」の意味について、(1) 当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ (2) それが法律を適用することにより終局的に解決できるものに限られる、とする。

 このような「法律上の争訟」にあたらず、裁判所の審査権が及ばないものとして、次のようなものがある。

(1) 具体的事件性もないのに抽象的に法令の解釈又は効力について争うこと

(2) 単なる事実の存否、個人の主観的意見の当否、学問上・技術上の論争

(3) 純然たる信仰の対象の価値または宗教上の教義に関する判断自体を求める訴え、あるいは単なる宗教上の地位の確認の訴え、などである。

 司法権独立の意義・内容

 日本国憲法では司法権の独立が強化されている。

 その理由としては (1) 司法権は非政治的権力であり、政治性の強い立法権・行政権から侵害される危険性が大きいこと。(2) 司法権は、裁判を通じて国民の権利を保護することを職責としているので政治的権力の干渉を排除し、特に少数者の保護を図ることが必要であること、などが挙げられる。

 司法権の独立の原則には、二つの意味がある。一つは、司法権が立法・行政権から独立していること(広義の司法権の独立)。もう一つは裁判官が裁判をするにあたって独立して職権を行使することで、裁判官の職権の独立とも呼ばれる。これにより、裁判官は、立法権・行政権はもとより、司法部内の指示・命令もまた排除される。この職権の独立こそ、司法権の独立の核心であるといってよい。

 これを側面から強化するのが 80 条、77条、78条などの諸規定である。

 違憲判断回避の準則

 違憲判断回避の準則とは、アメリカ型の付随的審査制の下で、憲法判断は事件の解決に必要な場合以外は行わないという「必要性の原則」に基づいて準則化された一連のルールをいう。

 その中で特に重要なのは「裁判所は憲法問題が記録上適切に提起されていても、もし事件を処理することができる他の理由が存在する場合には、その憲法問題には判断を下さない」というルールと、「議会の法律の効力が問題となった場合は、合憲性について重大な疑いが提起されても、裁判所が憲法問題を避けることができるような法律の解釈が可能かどうかを最初に確かめることが基本的な原則である」というルールである。

 後者のルールは、さらに「法律の違憲判断を回避する」解釈(限定解釈)と、「法律の合憲性に対する疑いを回避する」解釈(厳格解釈:恵庭事件)とに分けられる。

 憲法判断の方法

 憲法事件においては、当該法律の立法目的及び立法目的を達成する手段の合理性を裏付け支える社会的・経済的・文化的な一般事実が問題となる。これを立法事実という。

 法律が合憲であるためには、その法律の背後にある立法事実の存在と、その事実の妥当性が認められなければならない。 ただ、これも規制される人権や、その目的によってさまざまな類型がある。

 また、立法事実を特に検出し論証せず、法律の文面を検討するだけで結論を導き出すことができる場合もある。「検閲」が問題となる場合や、法文の明確性が争われる事件が、その典型である。

 かような文面判断の手法によって裁判所が違憲の結論をとる場合を「文面上無効」という。

 これは、判決の効力は法的には当該事件だけに及ぶものであるが、実際には一般的効力説的意味をもち、立法府と行政府を事実上強く拘束する。

 憲法判断回避の準則の評価

 憲法判断回避の準則は、アメリカの判例において形成されてきた理論であり、むげに否定すべきではない。

 しかし、それを絶対的なルールとして主張すると、違憲審査性の憲法保障機能に反する場合が生じる。

 そこで、裁判所は、事件の重大性や違憲状態の程度、その及ぼす影響の範囲、事件で問題にされている権利の性質等を総合的に考慮し、十分理由があると判断した場合には、回避のルールによらず、憲法判断に踏み切ることができると解するのが、妥当である。

 また、法律解釈による憲法判断の回避が是認されるためには、最小限、その法律解釈は法の文言と立法目的から判断して合理性をもつものでなくてはならない。

 法令違憲の判決と適用違憲の判決

 違憲判断の方法には法令違憲の判決と、適用違憲の判決がある。適用違憲判決には次のような類型がある。

 (1) 法令の合憲限定解釈が不可能である場合、すなわち合憲的に適用できる部分と違憲的に適用される可能性のある部分とが不可分の関係にある場合に、違憲的適用の場合をも含むような広い解釈に基づいて法令を当該事件に適用するのは違憲である、という趣旨の判決。

 (2) 法令の合憲限定解釈が可能であるにもかかわらず、法令の執行者が合憲的適用の場合に限定する解釈を行わず、違憲的に適用した、その適用行為が違憲である、という趣旨の判決。

 (3) 法令そのものは合憲でも、その執行者が人権を侵害するような形で適用解釈した場合に、その解釈適用行為が違憲である、という趣旨の判決。

 違憲判決の効力

 裁判所によって違憲とされた法律の効果はどうなるか。

 これについては、(1) 客観的に無効になる一般的効力説、(2) 当該事件に限って適用が排除されるとする個別的効力説、及び、(3) 法律の定めるところに任されているとする法律委任説がある。

 付随的審査制においては、当該事件の解決に必要な限りで審査が行われ、したがって、違憲判決の効力も当該事件に限って及ぶと解されるから、基本的には、(2) 説が妥当であろう。一般的効力を認めると、それは一種の消極的立法作用であり、国会のみが立法権を行使するという41条の原則に反することになる。

 これに対して、(1) 説は、法的安定性ないし予見性を害し、また平等原則に反すると批判するが、国会は、違憲とされた法律を速やかに改廃し、政府はその執行を控え、検察はその法律に基づく起訴を行わない、等の措置をとることを憲法は期待していると解するなら、この批判はあたらない。

 判例の拘束力と変更

 「判例」とは、厳密には、判決の結論を導くうえで意味のある法的理由づけ、すなわち「判決理由」のことをいう。

 「判決理由」の部分は、後に起こる別の事件で同じ法律問題が争点となったとき、その裁判のよりどころとなりうる先例として扱われる。その意味で判例は「法源」として機能する。

 ただ、この先例は後の裁判を事実上拘束するにとどまる、と解するのが妥当である。

 したがって、十分な理由がある場合には、判例の変更は可能と解されている。、そのような理由として、(1) 時の経過により事情が大きく変更した場合、(2) 経験の教えに照らして調節が必要となった場合、(3) 先例に誤りがある場合などが考えられる。

 なお、判例を変更するには、大法廷によらなければならない。

 内閣の法律案提出権

 国会の唯一の立法機関性(41条)により、国会による立法は、国会以外の機関の参与を必要としないで成立するという原則が導き出される。これを国会単独立法の原則という。

 これに対し、内閣法5条は、内閣の法律発案権を規定するが、これは、72条前段の「議案」に法律案も含まれると解されること、議院内閣制の下では、国会と内閣の協働が要請されており、また国会は法律案を自由に修正・否決できることができること、等の理由から、右原則に反するものではないと解される。

 「全国民の代表」の意味

 43条にいう代表とは、法的意味ではなく、国民は代表機関を通じて行動し、代表機関は国民の意思を反映するものとみなされるという趣旨の政治的な意味だと解するのが通説である(政治的代表)。

 具体的には、(1) 議会を構成する議員は、選挙区の代表ではなく、全国民の代表であること、(2) したがって、命令委任は禁止されること、を意味する。この表決の自由(自由委任の原則)が、政治的代表の本質的特色である。

 しかし、この考え方では、国民意思と議員の意思との乖離を問題としない点で妥当でない。

 「代表」の観念は、政治的意味の代表に加えて、国民意思と議員の意思の事実上の類似を要求する社会学的代表の意味も含めて考えるべきである。

 具体的には、国民意思を可能な限り公正・忠実に国会に反映する選挙制度の要請が憲法上の要求と解されることになる。

 自由委任と党議拘束

 政党政治が発達し、特に政党規律が強くなると、議員は事実上党議に拘束され、当の指図に従って行動することを強いられる。

 これは、自由委任の思想に適合しないという見解もあるが、現代の政党国家においては、議員は所属政党の決定に従って行動することによって国民の代表者としての実質を発揮できるのであるから、党議拘束は「自由委任の枠外」の問題と解するのが妥当である。

 ただ、議員の所属政党変更の自由を否認したり、党からの除名をもって議員資格を喪失させたりすることは、自由委任の原理に矛盾する。

 発言の免責特権

 憲法51条は、議員の議院で行った発言の免責特権を定める。

 この規定の目的は、議院の職務の自由を保障することにある。

 したがって、特権の保障は、厳密な意味の「演説、討論又は表決」に限定されない。議員の国会における意見の表明と見られる行為や、職務行為に付随する行為にも及ぶ。もっとも暴力行為はそれに含まれない。

 この職務行為に付随して行われた暴力行為について、その訴追に議院の告発が必要とする説もある。

 これは、議院の自律性の尊重を理由とするものであるが、それでは議院に新しい特権を認めることになるので、否定するべきである。

 承認されなかった条約の効力

 条約とは、外国との間における、文書による合意をいう。

 条約の締結は、内閣の権能であるが、他方、内閣が条約を締結するには国会の承認が必要であると規定されている( 73条3号)。

 この国会の承認は、国内法的、かつ国際法的に、条約が有効に成立するための要件であると解される。その意味で、条約締結は、内閣と国会の協働行為だと言うことができる。

 事後承認がない条約の効力については、無効説もあるが、条約締結手続きを定める憲法規定の意味が必ずしも明確でない国も存在するという事実に鑑み、国会の承認権の規定の具体的意味が諸外国にも「周知の」要件とされているような場合には、無効と解する説(条件付無効説)が妥当である。

 条約の意味

 憲法73条3号により国会の承認に付される条約は、条約という名称の有無にかかわらず実質的意味の条約をすべて含むが、それらの条約を執行するために必要な技術的・細目的な協定や、条約の具体的な委任に基づいて定められる政府間取り極め(行政協定)は、原則として含まれない。

 これに対して、憲法98条2項の「条約」は、それらを含む広義の概念である。

 国政調査権の範囲について

 国政調査権の本質は、補助的権能であると解されるので、調査委員会の権能は議院の憲法上の権能によって制約されることになる。

 しかし、議院の権能、特に立法権は極めて広汎であり、また憲法62条は対象を限定していないから、公共の利益に関する問題に関連のない純粋に私的な事項を除き、実質的に調査の対象は国政の全般に及ぶ。

 すなわち、調査権は、議院の権限に属する事項に合理的関連性のある事項に及び、その関連性の不足が明白でない限り、調査目的の合法性は原則として推定されよう。

 ただ、調査権も無制限でなく、補助的権能である以上、調査目的は議院の権能を実効的にするものであり、対象・方法では権力分立原理や人権の原理からの制約もある。

 内閣の衆議院に対する実質的解散権

 解散とは、任期満了前に議員の資格を失わせる行為であるが、内閣の解散権を正面から規定した条文は、憲法には存在しない。そこで、7条を手掛かりにその解釈が問題となる。

 天皇の形式的な国事行為に対する「助言と承認」は、実質的決定権を含まないから、7条は解散権の根拠たり得ないとする説がある。

 この説からは、解散権を69条の場合に限定したり、憲法の全体構造を根拠に解散権を根拠づけたりすることになるが、前者は解散権があまりに制約されすぎるし、後者は、その論拠とする権力分立制や議院内閣制が一義的な原則とは言えず、妥当ではない。

 この点については「助言と承認」に実質的決定権が含まれる場合もある、と解し、7条を根拠に内閣の解散権を認める説が妥当である。天皇の国事行為が形式的・儀礼的なものなのは、内閣が実質的決定を行う結果であると考えれば、問題はないと考える。

 地方自治の本旨

 地方自治の一般原則として、憲法は「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」(92条)と規定する。 ここに、地方自治の本旨とは、住民自治と団体自治の二つの要素をいう。

 住民自治とは、地方自治が住民の意思に基づいて行われるという民主主義的要素をいい、団体自治とは、地方自治が国から独立した団体に委ねられ、団体自らの意思と責任の下でなされるという自由主義的・地方分権的要素をいう。

 住民自治の原則を具体化するため、憲法は団体の長、及び議員を住民が直接選挙すること(93条3項)、一地方公共団体のみ適用される特別法の特例(95条)を規定している。

 条例制定権の性質

 地方公共団体は、条例を制定することができる(94条)。条例とは、地方公共団体がその自治権に基づいて制定する自主法である。

 自主法とは、法律・命令等の国家法に対する観念で、具体的には、(1) 条例は、地方公共団体の事務(自治事務)に関する事項しか規律できないが、(2) その範囲内では、国家法とは原則として無関係に、独自に規定を設けることができる、ことを意味する。

 条例による財産権の制限

 条例制定権は、自治事務の範囲内であれば、住民の基本的人権に制約を課すことも許される。他方、29条2項は、法律留保事項であるため、条例による財産権の内容の規制が許されるか問題となる。

 財産権の内容の規制は法律による必要があるが、財産権の行使は条例によることも可能である、とする説もあるが、内容と行使を明確に区別することは極めて困難であるから、むしろ条例は住民の代表機関である議会の議決によって成立する民主的立法であり、実質的には法律に準ずるものであるという点に、条例による内容の規制も許される根拠がある、と解するのが妥当である。

 条例制定権と法律

 条例制定権には、法律に反してはならないという限界がある。これは、94条が「法律の範囲内で」条例制定権を認めており、したがって、条例の効力は法律に劣るからである。

 そこで、すでに、法律によって先占された規制が存在する場合、それと競合する条例は一切設けることができない、と解する説もある。

 しかし「法令に違反しない限り」すでに法律による規制が定められている場合でも、法律の委任なくして条例を制定できると考える。

 ここに、「法令に違反しない限り」とは、競合する法律の対象事項と規制文言を対比するのみならず、それぞれの趣旨、目的、内容及び効果を比較し、両者の間に矛盾抵触があるかどうかによってこれを決するべきである。

 「租税」の意味

 憲法84条は、租税法律主義を定める。これは、租税は国民に対して直接負担を求めるものであるから、必ず国民の同意を得なければならないという原則である。 ここに「租税」とは、国又は地方公共団体が、その課税権に基づいて、その使用する経費に充当するために強制的に徴収する金銭給付のことをいう。

 形式的に租税といわれなくとも、国民にたいして強制的に賦課される金銭についても、租税法律主義の原則の趣旨からして、国会の議決が必要と一般には解される。

 租税法3条は「課徴金、専売価格もしくは事業料金については、すべて法律又は国会の議決に基づいて定められなければならない」と規定するが、83条又は84条から生じる結論を確認したものということになる。

 もっとも、租税は、特別の給付に対する反対給付の性質をもたないので、83条はともかく、84条の「租税」は、右手数料等から区別して考えるべきである。

 予算の法的性質

 予算とは、一会計年度における国の財政行為の準則であり、政府の行為を規律する法規範である。

 この予算の法的性格については、予算を「予算」という独自の法形式であるとみる説(予算法形式説)と、予算を法律の一種とみる説(予算法律説)との争いがある。

 予算法形式説が妥当である。

 なぜなら、予算は政府を拘束するのみで、一般市民を直接拘束しないこと、予算の効力は一会計年度に限られること、内容的に計数のみを扱っていることといった理由の他に、

 提出権者が内閣とされていること(73条5号・86条)、衆議院に先議権があること、衆議院の再議決制が認められていない事(60条1項・2項)という理由が挙られる。

 なお、この立場では、予算と法律の不一致の問題が生じることになる。

 予算と法律の不一致

 予算を法律とは別個の法形式であると解する立場からは、予算と法律の不一致の問題が生じることになる。

 なぜなら、法律と予算では、提出権者、議決手続き、要件が異なるからである。

 予算が成立したのに、支出を命じる法律が制定されない場合は、内閣は法律案を提出し、国会の議決を求めることになるが、国会には法律制定の義務はない。

 他方、法律は制定されたのに、その執行に予算がない場合は、内閣は「法律を誠実に執行」する憲法上の義務を負っているので(73条1号)、補正予算、経費流用、予備費支出のほか、法律の施行の延期等の方法で対処することが求められる。

 予算の修正について

 まず、減額修正についてであるが、明治憲法67条では、国会の権限は制限されていたが、減額修正権のみは認められると解されていたので、現行憲法の下でも、減額修正ができることには問題が少ないといえる。

 ただ、国会は予算と共に法律の議決を行う機関であるから、減額修正の結果、法律の執行ができない事態は回避すべく両者を一致させる義務があるので、減額にも一定の限度があると解される。

 次に、増額修正については、内閣の予算提案権を侵すから許されないという説もあるが、その解釈は、国権の最高機関としての国会の憲法上の地位や、財政民主主義の基本原則から考えると妥当でない。

 ただ、増額修正は、予算の性質上、必ずそれに相当する財源を伴うものでなければならない。それに加えて、予算の同一性を損なうような大修正は、やはり内閣の予算提案権を損なうものであるから、許されないと解する。

 公金支出の禁止と「公の支配」

 89条後段は「公の支配」に属しない事業への公金支出を禁止する。この「公の支配」の意味について、同条の趣旨の理解に関連して争いがある。

 同条を、私的な事業への不正な公権力の支配が及ぶことを防止する規定と解する立場からは、「公の支配」とは「その事業の予算を定め、その執行を監督し、人事に関与する等、事業の根本的方向に重大な影響を及ぼすこと」という意味に狭く解することになる。

 しかし、現代の福祉国家の下では、かように、国家の助成を制限する見解は現実的でない。

 同条は、公財産の濫費を防止し、慈善事業等の営利的傾向ないし依存性を排除するための規定と解するべきである。

 したがって「公の支配」とは「国や地方公共団体の一定の監督が及んでいるをもって足りる」と解され、具体的には、事業・会計の報告を受け、変更を勧告できる程度の監督権があれば足りると考える。

 教育の事業

 憲法89条に規定する「教育の事業」と

は、人の精神的又は肉体的な育成をめざ

して、人を教え、導くことを目的とする

組織的・継続的な活動をいう。

 最高裁判所裁判官の国民審査

 憲法は、最高裁判所の裁判官に対しては、とくに国民審査の制度を規定している(79条2項)。この制度は、最高裁判所の地位と権能(特に違憲審査権)の重要性に鑑み、裁判官の選任に対して民主的コントロールを及ぼすことを目的としている。

 この国民審査の法的性質については、リコール制(解職制)と解する説と、任命行為を完結確定させる行為とみる説とがある。

 これについては、リコール制とみる見解が通説・判例である。

 しかし、任命後初めて行われる審査が任命されたばかりでほとんど裁判をしたことない裁判官について行われることがありうることを考えると、任命後第一回の国民審査がなされる裁判官については、その審査は内閣の任命を国民が確認する意味も含まれていると解するのが妥当である。

 最高裁判所規則制定権と法律

 憲法77条1項は最高裁判所に規則制定権を認める。

 この狙いは、権力分立の見地から裁判所の自主性を確保し、司法部内における最高裁判所の統制権と監督権を強化すること、及び、実務に通じた裁判所の専門的な判断を尊重することにある。

 この規則事項は、同時に、法律でも定めることができる。規則制定権の範囲内の事項について法律と規則が競合的に制定された場合、両者が矛盾するときの効力関係については、争いがある。

 規則に法律より強い効力を求める規則優位説も有力であり、また、両者の効力は「後法は前法を廃する」の関係に立つとする両者同位説もあるが、憲法41条の趣旨に照らして、法律優位説が妥当とされよう。ことに刑事訴訟については、そう解することが憲法31条によって要請される。

 最高裁判所規則制定権と法律留保事項

 憲法77条1項は最高裁判所に規則制定権を認める。

 この狙いは、権力分立の見地から裁判所の自主性を確保し、司法部内における最高裁判所の統制権と監督権を強化すること、及び、実務に通じた裁判所の専門的な判断を尊重することにある。

 この規則事項は、同時に、法律でも定めることができる。問題は、刑事手続について、憲法31条が「法律」で定めることを要求しているにもかかわらず、規則で定めることが可能か否か、である。

 この点については、(1) 刑事手続の基本構造および被告人の重要な利益に関する事項は法律の所管に属するが、訴訟手続の技術的・細目的事項は規則の所管として認められる、と解する説と、(2) 法律事項についても、法律で規定されない限り、規則で定めることができる、と解する説とが、対立している。

 憲法が、規則事項をなんらの留保なしに定めている点を重視する (2) 説が、より77条の趣旨に合致すると考えられる。 裁判の公開と裁判を受ける権利

 憲法32条は国民の裁判を受ける権利を保障する。

 他方、憲法82条は、裁判の公開の原則を定める。これは、裁判の公正を確保するためには、その重要な部分が公開される必要があるとの趣旨による。

 それでは、すべての裁判が公開されなくてはならないであろうか。特に、国家の後見的作用として行われる非訟事件の裁判の扱いについて問題となる。

 この点判例は、32条にいう「裁判」と82条の「裁判」を同義に解した上で、この「裁判」を「性質上純然たる訴訟事件」の場合に限ると解している。

 しかし、この峻別論は硬直に失し、訴訟の非訟化という現代的要請に応えつつ32条の精神を生かすことは困難である。

 公開の原則は指導理念として、公開によらずに終局的解決をはかっても違憲でない法律関係が存在することを積極的に認め、それぞれの事件の性質・内容に応じて適切な手続き的保障を最大限そこへ加味していく考え方が妥当である。

 条約に対する違憲審査権の行使

 81条の文言に条約が除かれている趣旨がどこにあるのか、問題となる。

 これについては、もし条約優位説の立場をとれば、問題は生じないことになるが、憲法優位説が妥当と考えるので、条約の違憲審査権の可否が問題となる。

 条約優位説をとりつつも、条約は特に81条の列挙から外れていること、条約は国家間の合意という性質を持ち、一刻の意思だけで効力を失わしめることはできないこと、しかも極めて政治的内容を持つものが多いこと、等の理由から審査できないと説く説もある。

 しかし、条約は国際法であるけれども、国内では国内法として通用するのであるから、その国内法としての側面については、81条の「法律」に準ずるものとして違憲審査の対象となる、と解するのが妥当である。

 判例も砂川事件において、条約への違憲審査の可能性を認めている。

 

カード4

 

 大学の自治

 大学の自治とは、大学に置ける研究教育の自由を十分に保障するために、大学の内部行政に関しては大学の自主的な決定に任せ、大学内の問題に外部勢力が干渉することを排除しようとするものである。

 これは、学問の自由(23条)の保障の中に当然の範疇として含まれており、いわゆる制度的保障の一つと言うこともできる。

 大学の自治の内容で特に重要なのは、人事の自治と、施設・学生の管理の自治である。後者は警察権との関係が問題となる。

 特に、警備公安活動のために警察官が大学構内に立ち入る場合が問題である。

 これは、将来起こるかもしれない犯罪の危険を見越して行われる警察活動であるから、治安維持の名目で自由な学問研究が阻害されるおそれは極めて大きい。

 したがって、警備活動のために警察官が大学の了解なしに学内に立ち入ることは、原則として許されないと解される。

 人権と公共の福祉

 「公共の福祉」の条項が、どのような法的意味をもつのかについては、(1) 一元的外在制約説、(2) 内在・外在二元的制約説、(3) 一元的内在制約説と各説があるが、(3) 説が妥当である。

 (1) 説は明治憲法の「法律の留保」と変わらぬことになってしまうし、(2) 説は13条の公共の福祉を単なる訓示規定としてしまう点で妥当でない。

 (3) 説は、1) 公共の福祉とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である。2) この意味での公共の福祉は、憲法規定にかかわらずすべての人権に論理必然的に内在している。3) この原理は、自由権を各人に公平に保障するための制約を根拠づける場合には、必要最小限度の規制のみを認め、社会権を実質的に保障するために自由権の規制を根拠づける場合には、必要な限度の規制を認めるものとして働く。

 ただ、この説は、抽象的であり、具体的基準を判例の集積にゆだねている点に問題がある。

 幸福追求権の法的性格

 憲法13条の幸福追求権は、新しい人権の根拠となる一般的かつ包括的な権利であると解する。

 すなわち、憲法の人権規定は重要な権利・自由を列挙したもので、そのすべてを網羅したものではなく(人権の固有性)、社会の変革に伴い、個人の人格的生存に不可欠な権利・自由としての保護に値するものは、憲法13条を根拠に、新しい人権として憲法上保障されるのである。

 この点、幸福追求権の漠然性等を根拠に否定する説もあるが、個人の人格的生存について、他の人権規定でカバーされない限りにおいては(補充的性格)、その具体的権利性を肯定してよいと解する。

 幸福追求権から導き出される人権

 個人尊重の原理に基づく幸福追求権は、憲法に列挙されていない新しい人権の根拠となる一般的かつ包括的な権利であり、この幸福追求権によって基礎づけられる個々の権利は、裁判上の救済を受けることのできる具体的権利である、と解される。

 そして、この新しい人権が、憲法上の権利といえるかどうかは、それが個人の人格的生存に不可欠であることのほか、その権利が長期間国民生活に基本的なものであったか、多数の国民がしばしば行使しもしくは行使できるものか、他人の基本権を侵害するおそれがないか等、種々の要素を考慮して慎重に決定しなければならない。

 プライバシーの権利

 プライバシーの権利は、幸福追求権を根拠として認められた権利である。

 判例は私法上のみならず憲法上の権利としてこれを認める。そしてこの権利を自由権的なものとして理解し、「私生活をみだりに公開されない法的保障ないし権利」と定義づける。

 しかし、現代の情報化社会の進展を鑑みると、自由権的側面のみならず、プライバシーの保護を公権力に対して積極的に請求していくという側面が重視すべきである。

 したがって、プライバシーの権利は「自己に関する情報をコントロールする権利」(情報プライバシー権)と解するのが妥当である。

 これによると、政府が保有する自己に関する情報(個人情報)閲読・訂正ないし抹消請求しうることが求められることになるが、これは政府に対し、直ちに具体的な請求をなしうる権利ではなく、具体的立法をまってはじめて請求をなし得る抽象的権利にとどまると解する。

 プライバシーの権利の違憲審査基準

 個人情報は、(1) 誰が考えてもプライバシーであると思われるもの、(2) 一般的にプライバシーと考えられるもの、(3) プライバシーに該当するかどうか判然としないものに大別される。

 個人情報の収集・保有・利用ないし開示についてプライバシー権の侵害の有無が争われた場合、それぞれに対応した審査基準が用いられるべきである。

 (1) は人の人格的生存の根源にかかわるので、最も厳格な審査基準、すなわち目的は必要不可欠な「やむにやまれぬ利益」で、手段はその目的を達成するための必要最小限度のものに限定される旨を要求する基準によって、合憲性を判断しなければならない。

 しかし、(2) 等の情報については、原則として「厳格な合理性」の基準、すなわち立法目的が重要なものであり、規制手段が目的と実質的な関連性を有することを要求する基準によって審査されるべきである。

 宗教および宗教団体の意義

 20条1項前段及び2項の「信教の自由」条項に言う「宗教」とは、「超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」という広い意味を言う。 他方、20条3項の政教分離条項にいう「宗教」とは、それよりも限定された狭い意味、例えば「何らかの固有の教義体系を備えた組織的背景をもつもの」と解するのが妥当である。

 89条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」の意味について、判例は「特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行うことを本来の目的とする組織ないし団体」と解している。

 これによると「日本遺族会」は宗教上の団体にはあたらないことになる。

 しかし、これはより広く「宗教上の事業もしくは活動を行う共通の目的をもって組織された団体」と解するのが妥当である。

 思想及び良心の自由と謝罪広告

 憲法19条が、思想及び良心の自由を保障するとは、(1) 国民がいかなる考えをもとうと、それが内心の領域に止まる限りは絶対的に自由であること、(2) 国民がいかなる思想を抱いているかについて沈黙の自由が保障されること、を意味する。

 そこで、謝罪広告が問題となる。

 これについては、思想・良心とは、人の内心一般を指し、謝罪・陳謝という行為には、一定の倫理的な意味があることを重視して、謝罪広告の強制は違憲であると説く見解もある。

 しかし、「思想及び良心」は、「信教」や「学問」と内的関連性をもつはずのものであって、「思想及び良心」を内心領域一般とすることは広汎に失する。

 思想・良心とは、世界観、人生観など個人の人格形成に必要な、もしくはそれに関連のある内面的な精神作用であり、謝罪の意思表示の強制は思想・良心の自由を必ずしも侵害するものではないとする見解が妥当である。

 宗教的行為の自由

 憲法20条1項前段は信教の自由を規定する。ここにいう宗教の自由とは、信仰の自由、宗教的行為の自由、宗教的結社の自由が含まれる。

 宗教上の行為の自由も無制限のものではなく一定の制約に服する。

 しかし、それは行動の自由の規制であるとはいえ、内面的な信仰の自由に深くかかわる問題であるから、安全・秩序・道徳という一般原則から安易に規制が許されるわけではない。それは、必要不可欠な目的を達成するための最小限度の手段でなければならない。

 判例は、牧会活動事件において、「その制約は信仰の自由を事実上侵すおそれがあるので、その制約は最大限の慎重な配慮」を要するとしたうえで、当該牧会活動は、目的が相当な範囲にとどまり、手段方法も相当であったので、正当業務行為として無罪とした。

 新潟県公安条例判決の基準

 集団行動は、一定の行動を伴うものであるから、一定の制限に服する。

 もちろん、その規制は目的が必要不可欠なもので、手段が必要最小限度のものでなければならない。

 規制手段が必要最小限度のものというのは、それが原則として届出制で足りると解すべきである。

 許可制をとる公安条例の場合は、その条例の内容が、実質的には届出制と言ってもよいようなもので、裁判による救済手続も整っていることが必要である。

 この点、新潟県公安条例に対する最高裁判決が、次のように述べている。

(1) 集団行動を一般的な許可制を定めて事前に抑制することは許されない、

(2) しかし、特定の場所または方法につき合理的かつ明確な基準のもとで許可制をとることは憲法の趣旨に反しない、

(3) さらに、公共の安全に対して明らかな差し迫った危険を及ぼすことが予見されるときは許可しない旨を定めることができる。

 裁判所による事前抑制

 表現行為を事前に抑制することは許されない。

 なぜなら、この方法は、

(1) 情報が「市場」に出る前にそれを抑止するものであること、

(2) 手続き上の保障や実際場の抑止的効果において事後規制の場合に比べて問題が多いからである。

 憲法21条2項の「検閲の禁止」の原則は、これを確認したものである。

 青少年保護育成条例と検閲

 表現行為を事前に抑制することは許されない。憲法21条2項の「検閲の禁止」の原則は、これを確認したものである。

 検閲とは「公権力が外に発表されるべき思想の内容をあらかじめ審査し、不適当と認めるときは、その発表を禁止する行為である。」(有力説)

 検閲は、発表前の抑制のことと理解されてきたが、表現の自由を知る権利を中心に構成する立場をとれば、むしろ思想・情報の受領時を基準として、受領前の抑制や、思想・情報の発表に抑止的な効果を及ぼすような事後規制も、検閲の問題となりうると解する。

 この点、税関検閲や、青少年保護育成条例による悪書指定制度は問題である。

 裁判所による事前抑制

 表現行為を事前に抑制することは許されない。憲法21条2項の「検閲の禁止」の原則は、これを確認したものである。

 検閲とは、「公権力が外に発表されるべき思想の内容をあらかじめ審査し、不適当と認めるときは、その発表を禁止する行為」である。

 検閲の主体は、主として行政権であるが、裁判所の仮処分による言論の事前差止も検閲の問題となる。

 したがって、事前差止は原則として許されないが、裁判所による場合は、その手続が公正な法の手続によるものであるから、例外的な場合(例えば発表されると人の名誉・プライバシーに取り返しがつかないような重大な損害が生ずる場合)には、厳格な要件の下で許されることもあると解する。

 合理性の基準について

 合理性の基準とは、立法目的とその達成手段の両面について、その合理性を支える社会的経済的な一般事実の存在の推定(合憲性の推定)を排除するに足る合理的な疑いがあるかを問題とする基準である。

 これが経済的自由の制約についての違憲審査基準とされるのは、

(1) 裁判所は非民主的な機関であるので、立法機関の行為を尊重すべきこと、

(2) 容易に立法機関の行為を否定すれば、裁判所に対する信頼も揺らぐおそれがあること、

(3) 経済的自由に関する政策を経験的なアプローチで判断するのは困難であること、等の理由に基づく。

 25条1項と2項との関係

 25条1項の規定は生存権の保障を定めている。これは、国民が誰でも人間的な生活を送ることができることを権利として宣言したものである。

 この第1項の趣旨を実現するため、第2項は、国に生存権の具体化について努力する義務を課している。これを受けて、各種の社会福祉立法、社会保障制度、公衆衛生のための制度が整備されている。

 これに対し、第2項は国の事前の積極的防貧施策をなすべき努力義務のあることを、第1項は、第2項の防貧施策にもかかわらず、なお落ちこぼれた者に対し、国は事後的・個別的な救貧施策をなすべき責務のあり、厳格な司法審査に服することを宣言したもの、と解する説もある。 しかし、この説は、1項の救貧施策を生活保護法による公的扶助に限定し、他の施策をすべて防貧施策として広汎な立法裁量に委ねた点で問題があり、妥当でない。

 憲法29条3項の補償の要否

 憲法29条1項は「財産権は、これを侵してはならない」と規定する。この規定は、個人の現に有する具体的な財産上の権利の保障と、個人が財産権を享有しうる法制度、つまり私有財産制の保障という二つの側面を有する。

 そして、3項はこれをうけて、国が私有財産を収用・制限した場合には、「正当な補償」が必要であると規定する。

 ここで、どのような場合に補償を要するかが問題となるが、特定の個人に特別の犠牲を加えた場合には補償が必要であると解する(特別犠牲説)。

 すなわち、(1) 侵害行為の対象が、広く一般人か、特定の個人あるいは集団か、という形式的要件と、(2) 侵害行為が財産権に内在する社会的制約として受忍すべき限度内であるか、それを超えて財産権の本質的内容を侵すほど強度なものであるか、という実質的要件の二つを総合的に考慮して判断すべきである。

 「正当な補償」と生活権補償

 財産権の規制に対して与えられる「正当な補償」とは、いかなるものかについて、完全補償説と相当補償説が対立してきた。

 相当補償説は、当該財産について合理的に算出された相当な額であれば市場価格を下回っても「正当な補償」だとするが、この説は、戦後の農地改革という特殊な事情の下で主張されたもので妥当でない。

 損失補償制度は、本来適法な権力の行使によって生じた損失を個人の負担とせず、平等原則により、国民の一般的な負担に転嫁させることを目的とする制度である。

 とすれば、当該財産の客観的な市場価格を全額補償すべしとする完全補償説が妥当である。

 そして、完全補償という場合には、生活を建て直すための生活権補償をも含むと解するのが、救済法としての29条3項の趣旨に合致すると考える。

 告知聴聞を受ける権利

 「告知と聴聞」とは、公権力が国民に刑罰その他の不利益を科する場合には、当事者にあらかじめその内容を告知し、当事者に弁解と防御の機会を与えなければならないというものである。

 告知・聴聞を受ける権利は、憲法上明文の規定はないが、この権利は刑事手続における適性性の内容をなし、憲法31条によって根拠づけられると解する。判例も同旨である。

 31条と行政手続

 31条は、その文言から、直接には刑事手続についての規定であるが、その趣旨は、行政手続にも適用ないし準用されると解する。

 ただ、同条の補償が及ぶと解すべき場合でも、行政手続は刑事手続と性質が異なるし、多種多様であるから、事前の告知・弁解・防御の機会を与えるかどうかは、行政処分により制限を受ける権利・利益の内容・性質・制限の程度・行政処分によって達成しようとする公益の内容・程度・緊急性等を総合衡量して決定され、常に必ずそのような機会を与えることを必要とするものではない。

公務員労働基本権の判例の流れ(全逓東京中郵事件から全農林警職法事件へ)

 全逓東京中郵事件では、公労法17条の合憲性が問題となり、最高裁は(1) 制限は合理性の認められる必要最小限度に認められること、(2) 必要やむをえない場合に限ること、(3) 科せられる不利益は必要な限度を超えないこと、(4) 代償措置が講じられること、という判断を示し、これを合憲とした。

 他方、正当な争議行為には公務員といえど刑事免責(労組法1条2項)があるとし、被告人を無罪とした。

 さらに都教組(地方公務員)事件では、合憲限定解釈を行い、違法性の強いもののみ(二重のしぼり)処罰されるとした。 ところが、全農林警職法事件において、一転、一律かつ全面的な制限を合憲とする判決がでた。その根拠は次の通り。

 すなわち、(1) 公務員の地位の特殊性と職務の公共性、(2) 財政民主主義、(3) 市場抑制力の欠如、(4) 人事院等の代償措置の存在、である。

 選挙権の法的性格

 選挙権とは、選挙という集合的な行為に、各有権者が一票を投ずることによって参加することができる権利をいう。

 これは、参政権(15条1項)に中で、最も重要なものである。

 この選挙権の法的性格については、それを選挙人としての地位に基づいて公務員の選挙に関与する「公務」とみるか、国政への参加を国民に保障する「権利」とみるかについて争いがある。

 選挙権は、人権の一つとされるに至った参政権の行使という意味において権利であることは疑いないが、公務員という国家の機関を選定する権利であり、純粋な個人権とは違った側面をもっているので、そこに公務としての性格が付加されていると解するのが妥当である(二元説という)。

 禁治産者等が選挙権を制限されているのは、選挙権の公務としての特殊な性格に基づく必要最小限度の制限とみることができる。

 

(C)田中義教