○【証拠裁判主義】
317条は「事実の認定は、証拠による」と規定し、証拠裁判主義を採用している。これは事実認定が客観的な証拠によらなければならないとする近代刑事裁判の原則を示すと共に、事実認定の適正を要請する趣旨である。
すなわち、(1)同条は「証拠による」とした以上は、法が適法と予定したものであるはずであり、したがって証拠能力があり、適式な証拠調べを経た証拠を意味する。
また、(2)裁判で問題となるすべての事実について証拠を要求するのではなく、本条は旧法のいう「罪を断ずる」場合の規律規定であるから、「罪を断ずべき事実」つまり公訴犯罪事実についての要求だと考えるのが相当である。
証拠能力があり、適式な証拠調べを経た証拠による証明方法を厳格な証明というが、317条は、公訴事実の立証は厳格な証明によらなければならないという実定法的意味を有することとなる。
直接証拠 公訴事実を直接に証明する証拠
間接証拠 間接事実を証明する証拠(状況証拠)
*要証事実との関係による分類
供述証拠 人の知覚・記憶・表現・叙述という審理過程を経て裁判所に到達する証拠
非供述証拠 供述証拠以外の証拠
*伝聞証拠や自己負罪拒否特権の適否で問題となる
実質証拠 要証事実(主要事実)の存否の証明に向けられた証拠
補助証拠 実質証拠の証明力に影響を及ぼす事実(補助事実)を証明する証拠
*補助証拠は、証明力を減殺する弾劾証拠、これを強める増強証拠、証明力を減殺された者を回復する回復証拠に区分される。
補助証拠のうちどの範囲の証拠が「証明力を争う証拠」(328条)に含まれるか争いがある。
本証 挙証責任を負う者が提出する証拠(合理的疑いを容れない程度まで証明を要する)
反証 挙証責任を負う者の相手方が提出する証拠
人証 証拠方法が生存している人間である場合
物証 証拠方法がそれ以外の物である場合
*人証=供述証拠、物証=非供述証拠、ではないことに注意!例えば、供述調書は証拠方法としては物証であるが、証拠資料としては供述証拠である。
証拠調べの方法による分類
証人 口頭で証拠資料を提供する証拠方法。証拠調べの方法としては、尋問(304条)または質問(被告人の場合−311条)
証拠書類(書証) 書面に記載されている内容が証拠資料となる証拠方法。証拠調べの方法としては朗読(305条)である。
証拠物 その物の存在および状態が証拠資料となる証拠方法。証拠調べの方法としては、展示(306条)である。
証拠書類(書証)と証拠物たる書面の区別については争いがある。証拠物であれば展示で足りるが、書証なら朗読しなければならないからである。
そもそも、この分類は証拠調べの方法の違いから生じたものである。
とすれば、書面の内容のみが証拠となるか、書面その物の存在・状態も証拠となるか否かという基準によるべきである(判例)。
証拠を公判廷に提出して裁判官の事実認定の資料となし得る適格性(証拠調べをなしうる適格性および事実認定の用いてよい適格性)を証拠能力という。
裁判官の自由心証主義の例外である。
証拠能力の三つの観点
(1)自然的関連性の要件
証拠が要証事実に対して最低限の証明力を有しているか否か
(2)法律的関連性
証明政策上、一定の手続と構造に従った認定が求められているか否か
(3)証拠禁止
手続適正等の優越的利益の保護という手続政策上証拠の利用が禁止されるか否か
証拠能力のない証拠の取調請求や証拠決定に対し当事者は異議申し立てができるし(309条)、裁判所も職権で証拠排除できる(規205条の6、207条)。
このような証拠能力の有無は、すべての証拠について必要とされるわけではない。
要証事実との関係で相対的・多元的に決まるのである(多元的許容性のルール)
要証事実が厳格な証明となる場合に初めて証拠能力が要求され、自由な証明で足る場合には必ずしも証拠能力は要求されない。
証拠が裁判官の心証を動かせる力を証拠力という。
証明力の評価は原則として裁判官の自由心証に委ねられる(318条)。
証拠と事実との論理的関連性(狭義の証明力=非供述証拠)と、証拠の信用性(信憑性=供述証拠)との二つの側面がある。
証明力が類型的に著しく低い場合は自然的関連性を欠くので、両者は相互に関連しあう関係にある。
厳格な証明 証拠能力を有する証拠による適式な証拠調べ(304〜310条)を経た証明方式
自由な証明 厳格な証明でない自由化された証明方式
適正な証明 当事者の申立を条件として自由な証明から厳格な証明への可変的移行を認める証明方式(自由な証明の一種)
【厳格な証明を必要とする事実は何か】
「事実の認定は証拠による」(証拠裁判主義:317条)。
ここに「証拠」とは、適式な証拠調べを経た証拠能力を有する証拠の意味と解するのが通説である(厳格な証明)。
しかし、厳格な証明と自由な証明という機械的な区別には疑問がある。事実以外の証明については適式な証拠調べは一切不要とするならば、適正手続の保証を定めた憲法31条の趣旨に反するからである。
かといって、すべての事実の証明に適式な証拠調べを要求するならば、裁判所の負担が大きく、現実的でない。
そこで、自由な証明とされるもののなかに、当事者の申立を条件として自由な証明から厳格な証明への可変的移行を認めるもの(適正な証明)を認めて、柔軟な運用を期するべきである。
「事実の証明は証拠による」(317条)。
ここに「事実」とは公訴犯罪事実と限定的に解する説もあるが、刑罰権の存否およびその範囲を基礎づける事実と解するのが妥当である。
具体的には
(1)公訴事実(構成要件該当事実、修正された構成要件該当事実)
(2)違法性・有責性を基礎づける事実
(3)処罰条件たる事実
(4)附加刑を科す事由たる事実
(5)法律上の加重・減免事実
(6)以上の主要事実を立証する間接事実
被告人のアリバイ事実についても厳格な証明を要するか。
被告人のアリバイ事実など公訴事実を否定する事実も刑罰権の存否に関する事実であるので、厳格な証明が必要となるとも思える。法が被告人に有利な証拠にも明文で証拠能力を要求している場合があること(322条1項等)がこれを裏付ける。
しかし、これは当事者主義の形式的な適用である。被告人はそもそも無罪の推定を受け、検察官が被告人の犯罪事実を立証しなければならないのだから、被告人の主張するアリバイ事実は、むしろ弾劾証拠の性格をもつと言える。また、証拠能力のある証拠がないばかりに無罪の立証ができないとすれば正義に反する。
よって、この場合は厳格な証明は不要であると考える(田宮)。
量刑事実は厳格な証明の対象となるか。
量刑資料といっても@犯人の性格、年齢等、A犯罪の動機、目的、方法等、およびB犯罪後の情状の三種類に分けられる(248条)。
Aは犯情と呼ばれるもので、犯罪事実に直接的・間接的に関係しているため、厳格な証明を要すると解すべきである。
では、@やBはどうか。例えば、結審後の示談書の提出を量刑に考慮できるか。証拠調べは終了しているため厳格な証明を行うには弁論の再開(313条1項)をしなければならないため問題となる。
刑罰権の範囲を基礎づける事実とは刑罰権の内容そのものを直接基礎づける事実とはいえないので、原則として自由な証明で足るとするのが判例である。
確かに、量刑資料は複雑であり、必ずしも事実の存在自体が決定的な意味を持つわけでなく、また資料を制限するとかえって不当な結果を生じるおそれがある。
しかし、大多数の事件においては刑の量刑が被告人の関心事とされ、情状の果たす役割が大きいのだから、これが自由な証明で足るとするならば適正手続の要請を欠く。
そこで、量刑に関する証拠には厳格な意味での証拠能力は必要でないし、証拠調べも適宜な方法でなし得るが、当事者の異議のある場合には厳格な証明を要すると解するべきである(適正な証明説)。
示談書提出後、弁護人が証拠申請を理由に弁論の再開を求めた場合には、弁論を再開することになろう。
そして、示談書を証拠とすることに検察官が同意すれば、326条の同意書面として証拠調べを行う。これに対し、検察官が同意しなかった場合には、伝聞証拠であるから証拠能力なしとして請求を却下し、そのうえで被告人側が示談書を作成した者の証人尋問を請求したときは、その者を証人として取り調べることになると言えよう。
訴訟法的事実(証人尋問や送付嘱託の存否に関わる参考的事実・強制、約束、不当に長い拘禁など自白の任意性の基礎となる事実等々)については厳格な証明の対象となるか。
訴訟法上の事実は、刑罰権の存否や範囲を基礎づける事実ではないので、厳格な証明を要しないとするのが判例・通説である。
しかし、すべての訴訟法的事実について自由な証明で足るとするのは妥当ではない。訴訟法的事実といっても自白の任意性の基礎となる事実のように事件の実体と密接に関連するものもあるからである。
かように、事件の実体と密接に関連する訴訟法的事実については、厳格な証明までは必要ないが、個々具体的に当事者に争う機会を与えるべきであり、当事者の申立があれば、自由な証明から厳格な証明への可変的移行を認めるべきである(適正な証明)(渥美・田口)。
日常の社会生活において普通の知識・経験を持っている一般人なら誰でも当然に知っている事実を公知の事実という。
【刑事訴訟において、裁判所は証拠に基づかないで事実を認定することができる場合があるか】
「事実の認定は証拠による」(317条)。これを証拠裁判主義という。裁判の正確さと公正を客観的に示すためである。
よって、原則としてすべての事実は証拠によって認定されなければならないことになる。
しかし、だからといって公知の事実についてまで証拠による必要はない。証拠によらなくても裁判の正確さと公正さに影響はないからである。
もっとも、何が公知の事実といえるかは、明らかでないが、一般に「日常の生活に置いて普通の知識・経験を持っている一般人なら誰でも当然に知っている事実」と定義しうる。
なお、公知の事実といっても、ある時・所でのみ公知である場合、裁判所のみならず、当事者も、その限定された地域に属している必要があるとされる。
では、裁判所に顕著な事実はどうか。
判例は、裁判所に顕著な事実は証明の必要がないとする。裁判の正確さに影響しないからである。
しかし、刑事訴訟においては裁判の正確さだけでなく、これに対する当事者および国民一般の信用が重要である。
とすれば、裁判所に顕著な事実といっても証明の必要があると解するべきである。
さらに、犯罪阻却事由のように主要事実であっても弁論に現れない事実についてはどうか。
そもそも、刑事訴訟の基本原則である当事者主義の訴訟構造の下では、検察官は犯罪・刑罰の成立を基礎づける事実を主張しなければならないが、その不成立を基礎づける事実の不存在まで主張する必要はない。
検察官は有罪立証のために、一応は犯罪事実の証明だけをすれば足りる。そして、被告人の犯罪・刑罰の軽減・不成立を基礎づける事実については被告人が争う必要がある。
もっとも、検察官は無罪の推定の下、客観的挙証責任を負うのだから、被告人が争う意思を明らかにした後は、その軽減・不成立を基礎づける事由の不存在を証明しなければならないとするべきである。
最後に、法律上推定された事実についてはどうだろうか。
法律上推定された結果、証明の必要はなくなるといえる。
もっとも、推定の基礎となる事実の証明は必要であり、推定事実の存在は直接に立証される必要がないという意味にすぎない。
【自由心証主義】
証拠の評価を形式的な規制でしばらないやり方を自由心証主義という(318条)。
人間(裁判官)の理性に信頼をおくという近代合理主義と、陪審は国民の代表であり、その法的判断に法律的規整は加えないとする近代国民主権主義に基づくものである。
ただ、いかに自由な心証によるとはいえ、ほしいままの主観的認定が許されるものではなく、経験則や論理法則にそった合理的心証形成でなければならない。それはこの制度自体が合理主義の産物であるので当然のことといえる。
【自由心証主義の制約】
(1)資料の限定 裁判官の自由な判断に委ねられるのは、証拠の証明力であって、対象足る証拠の範囲は、証拠能力による制約を受ける。この点、大陸の法制と比較して「制限された自由心証主義」と呼ばれる。
(2)例外 法律上の例外として、自白には補強証拠が必要なことが規定されている(憲38条3項・319条2項)。
また、一般に承認された科学的法則には拘束される。
そして、被告人らの供述拒否権の行使は、その不利益に判断してはならないというルールがある。さらに、民事判決の確定力の効力で形成判決の場合は、それを裁判の基礎とする必要がある。
【自由心証の合理性を確保する制度】
(1)予断や偏見のおそれのある裁判官を、除斥・忌避・回避の制度によって当該手続から除外する。また鑑定の制度により、裁判官の自由心証を科学的に行わせている。
(2)自由心証の合理性を間接的に担保することを目的とするものとして、証拠能力の制限、有罪理由の法定(335条)、また当事者主義的な諸制度も裁判官の心証形成を合理的たらしめるのに間接的に奉仕している。
(3)最後に、自由心証を強力にコントロールするものとして、上訴による審査がある。適示された証拠(335条)から判決の採った結論を導くことができないときは、理由不備ないし理由齟齬として絶対的控訴理由となる(378条4項)。上告審においても事実認定は、職権破棄理由とされている(411条3項)。
(4)なお、再審手続による事実誤認の救済制度もある。この点に関する規定として、再審理由として証拠の明白性を規定した(435条6項)がある。
無罪推定原則とは、被告人は無罪であるとの推定(仮定)の下に公判手続を進めるべきであるとする原則をいう。
無罪推定原則についての明文規定はないが、訴訟のやり方いかんで被告人が処罰されるとすれば公判でのデュープロセスの要請に反するから、憲法31条から無罪推定原則が要請されると解される。
(渥美は「公平な裁判所」からもってくるんだよね)
実質的挙証責任とは、証拠調べを尽くした結果、要証事実の存否がいずれとも決しがたい場合、不利益な判断を受ける一方当事者の法的地位をいう。
自由心証がつきたところで、要証事実の存否がいずれとも決しがたい場合でも、裁判所は裁判を拒否することは許されないから、裁判所の判断を可能にするようにあらかじめ真偽不明によって生じる不利益な判断を受ける当事者を定めておかなければならない。
このような裁判所に向けられた判定のためのルール(当事者の結果責任)を実質的挙証責任という。
被告人には無罪推定原則が及ぶから、実質的挙証責任は検察官が負担するとされる(挙証責任検察官負担の原則)
【検察官の挙証責任】
ある要証事実の存否が不明であるときに、これによって不利益な判断を受ける当事者の法的地位を実質的挙証責任という。
刑訴法では「疑わしきは被告人の利益に」の原則(利益原則)が妥当するので、検察官が被告人の有罪につき合理的な疑いを越える程度に至るまで立証しない限り、被告人は無罪とされる(無罪の推定)。つまり、刑事訴訟における挙証責任は検察官にあることになる。
これは明文の規定はないが、デュープロセスの一部といえるから、憲法31条の 保障するところに属する。また、336条が「証明がないときは無罪」としていることからも推測される。
【検察官の挙証責任の範囲】
検察官の挙証事項は違法阻却事由まで含まれるか。
この点、違法阻却・責任阻却の事実や、犯罪の主観的要素の不存在については、被告人に挙証責任があるとする説もあるが、これでは「疑わしきは罰す」ということになり、妥当でない。
検察官の挙証事項は利益原則の適用の範囲の問題であり、利益原則は、元来は犯罪事実についての原則であるが、現在ではそれに準ずる事項、つまり被告人の罪責の存否・範囲に直接影響する全ての実体法的事実に適用があるから、構成要件該当事実はもちろん、違法性や責任を基礎づける事実についても検察官に挙証責任があるとするのが妥当である。
もっとも、すべての犯罪阻却事由について、検察官が常にその不存在を争点として積極的に立証する必要はないだろう。被告人に負わせる必要はないが、証拠提出の責任(一応の証拠を提出する責任)を負わせても、現行法の手続の性格・構造に反しないと解される。
法が個別的な場合に明文で被告人側に挙証責任を転換した場合がないわけではない。
例えば、@刑法207条、A刑法230条ノ2、B児童福祉法60条3項、C爆発物取締罰則6条などである。
これらは、被告人が立証に失敗すると、疑わしいのに罰せられることになるから、形式的にはすべて利益原則に反することになる。
そこで、これらが合憲といえるためには、利益原則ないし無罪推定原則の例外として、なお合理性を保ちうる特別の場合でなければならない。
右合理性の有無については、
(1)被告人の挙証事項が検察官の挙証するその他の部分から合理的に推認されること、
(2)被告人による立証が相対的に容易であること、
(3)被告人が挙証責任を負う部分を除去して考えてもなお犯罪としての可罰性が認められること、などの事情を基準に考えるべきである。
証明の程度については、証拠の優越で足りると解すべきである。
なぜなら、証拠収集のための強制捜査権限をもたない被告人に、合理的疑いを超える程度の証明を要求すれば、真実性の証明はほとんど不可能となり、制度そのものの存在意義が没却してしまうからである。
証明の方法についても、自由な証明で足りるであろう。もっとも、判例は名誉毀損について厳格な証明を要求している。
裁判所の不利益な判断を受けるおそれのある当事者がこれを免れるために行うべき立証行為の負担、又は証拠を探して提出するのは裁判所か当事者かという訴訟追行上の負担
訴訟の当事者主義化に伴い、立証仮定をも当事者の負担という形で整理・分析する必要があることが意識されたことによる。
しかし、自己に不利益な判断を下されるのを回避するために積極的に証拠を提出するという意味での負担であれば、それは実質的挙証責任を前提とした、その反射ともいうべきものであって、独自の観念ではない。
このように、形式的挙証責任という概念は、当事者主義を説明するためには、必要でも有用なものでもないといえる(田宮)。
それでは、立証行為の面で被告人側の責任はまったくないかというとそうではない。証拠提出責任という概念が登場してきている。
証拠提出責任とは、一応の証拠を提出すべき責任をいう。
英米でいう証拠提出責任は、陪審による事実審理を開始するに際して、陪審審理をするまでもない事件を省くため、検察官が裁判官に「一応の証明」を提出すべきことを義務づけられていることからくる。
我が国では被告人に立証の負担を要求すべき場合に、利益原則ないし無罪の推定原則との抵触を避けつつ、訴訟の当事者主義化を図れるため、この観念を導入しようとする動きがある。
【推定規定(法律上の推定)の許容基準】
一定の事実(前提事実から一定の他の事実(推定事実)を推認する法的処理を法律上の推定という。
明文である事実(前提事実)から他の事実(推定事実)を推認するよう推定規定(麻薬特例法18条等)が設けられていることがあるが、これはそもそも許されるか。
推定とは、挙証責任を負う当事者にとっては証明主題の変更を許すものであるが、相手方にとっては挙証責任の転換を伴うこととなるので問題となる。
そもそも、犯罪事実の存在は検察官が合理的疑いを容れない程度まで証明する必要がある。
したがって前提事実から推定事実の推認は強制的であり、転換される挙証責任は実質的挙証責任であるとすれば、利益原則ないし無罪の推定原則に抵触することとなる。
しかし、(1)裁判官に対する推定の拘束力が許容的であり、
加えて、(2)前提事実と推定事実の間に合理的関連性があり(合理的関連性の基準)、
また、(3)推定事実の不存在についての立証が被告人に比較的容易であること(便宜性の基準)
であれば、利益原則ないし無罪推定原則とも抵触を避けられる。
そこで、これを要件として、推定規定の存在は許容すべきである。
【被告人の証明の程度】
証明の程度についても、被告人に合理的疑いを容れない程度までの証明を要求すれば、これは実質的挙証責任の転換であり、利益原則ないし無罪の推定の原則に反する。
そこで、この場合は、推定事実の存在を疑わせる一応の証拠の提出をもって足りるとする説(証拠提出責任説)もあるが、これでは容易すぎて、逆に推定規定を置いた意味が没却されてしまう。
そこで、推定事実の存在に疑いを投げかける合理的な事実の提出(修正された証拠提出責任説)をもって足りると解するべきである。
【因果関係の推定規定】
公害法等の推定規定がある場合、裁判所は因果関係を認め得るか。
推定とは、前提事実から推定事実を推認することである。
推定には、事実上の推定と法律上の推定とがある。前者は、経験則にそって行われるべき推認をいい、あるべき自由心証ということと同義である。後者は推認のルールが法規化されたものをいう。
ここでの推定規定は、推認のルールを法規化したものであるから、法律上の推定の問題である。
法律上の推定は、推定事実を前提事実に移すものであるが、同時に覆し得ないものでないので、相手方当事者は反証によって推定事実を否定してもよい。
このようにそれは、挙証責任を負う当事者にとっては証明主題の変更を許すものであるが、相手方にとっては、挙証責任を転換するものとなる。
【因果関係の推定規定(その2)】
法律上の推定は、相手方にとっては、挙証責任を転換するものとなるため問題となる。
この点、当該推認は強制的であり、転換する挙証責任は実質的挙証責任であるから、前述の利益原則に反し、認められないとする説もある。
しかし、転換するとされる挙証責任の内容から利益原則の例外たりえる合理性が認められる場合には、右推認を許容すべきであると考える。
具体的には、(1)前提事実から推定事実を推認することが合理的な場合であるという意味で、両者に合理的な関連があり、
(2)推定規定を必要とする特別の事情がある場合でなければならない。
なお、この場合被告人が行わなければならない反証の程度であるが、利益原則との兼ね合いからすれば、説得責任まで要求し得ず、推定事実の存在に疑いを投げかけられるだけの合理的な事実が示される必要があると解する。
間接事実から経験則・論理法則を用いて要証事実を認定する場合の合理的な自由心証過程を事実上の推定という。
これは、裁判官のあるべき自由心証を述べたにすぎない
悪性立証とは、被告人の悪性格(前科、余罪を含む)の立証によって、具体的に起訴された被告人の犯行を認定することである。
人の前科等の悪性格の立証によって、被告人の犯行を認定することができるか。
事実の認定は証拠によらなければならない(317条:証拠裁判主義)が、ここにいう証拠とは、適式な証拠調べを経た、証拠能力のある証拠をいうと解される。
よって、悪性格の立証が証拠能力を有するか否かが問題となる。
証拠能力とは、犯罪事実認定の資料とするため、公判廷での取調が許されるための要件をいい、それは(1)自然的関連性、(2)法律的関連性、(3)証拠禁止に触れないこと、をいう。
(1)証拠は犯罪事実の認定の資料であるため、犯罪事実の証明に直接・間接に役に立つものでなければならない。
したがって、悪性格の立証が、その証明にほとんど役に立たないとすれば、証拠がその要証事実に対して、必要最低限度の証明力を有していなければならないとする自然的関連性の要件を欠くとして証拠能力が否定されるとするべきである。
例えば、全く異なる種類の前科などについては自然的関連性を欠くといえる。
(2)では、同種前科であれば、証拠能力は認められるか。
仮に証拠が自然的関連性を有していても、それが裁判官の証拠力の評価を誤らせるおそれがある場合には、証拠能力が否定される。これを法律的関連性といい、その関連性の要否は要証事実との関連から政策的見地から、相対的・多元的に判断される(多元的許容性のルール)。
悪性格の立証は、たとえ要証事実と自然的関連性があるとしても、裁判官に不当な偏見等をもたらしやすく、その判断を誤らせるおそれがある。
また、要証事実の範囲を超えた事実を争うこととなるから被告側の防御を困難にし不意打ちの危険が大きい。
そこで、原則として、その立証には証拠能力は与えられないと解するべきである(判例同旨)。
しかし、前科などの悪性格を一切事実認定に用いることができないとすれば、証拠が制限されて立証が困難となり、実体的真実の発見の要請(1条)に反することとなる。
そこで、要証事実と悪性格の立証が合理的関連性を有する場合には、政策的に一定の例外を認めるべきである。
まず、第一に、前科前歴が構成要件要素となっている場合には、当然例外が認められるべきである。
次に、特殊な手口・方法による同種犯罪について、犯人と被告人の同一性を結びつける証拠として認めるべきである。
犯罪の手口が似通っていることは、犯人と被告人を結びつける証拠として合理性が高く、誤判のおそれが少ないからである。
さらに、同種犯罪によって知情、故意、動機、計画などの主観的要素を立証する場合にも、認めるべきである。
主観的要素は、被告人が否認した場合、客観的要素の立証によって推測するしかないが、この場合、証拠を限っては立証が著しく困難になるからである。
【余罪と公訴事実の証明】
公訴事実を立証するために、被告人の同種前科、起訴されていない犯罪事実(余罪)、非行歴などに関する証拠を提出することは、どの程度許されるか。
これを許すことは、裁判官に不当な偏見を抱かせ認定を誤らせる恐れがあり、また不告不理の原則に反するので、原則として許されない。
ただ、すでに客観的事実及びそれと被告人との結び付きが他の証拠で立証されているときに、犯罪の故意など主観的要素を類似事実で立証することは許される(判例)。
また、犯罪の手口など態様にきわだった特徴がある場合にも、類似事実による立証が許されてよい場合もあるだろう。
しかし、余罪事実を認定して、実質上それを処罰する趣旨で考慮し、それがため被告人を起訴犯罪だけで処罰するよりも重く処罰することは、まさに不告不理の原則に反し、許されないと解される。
起訴されていない余罪を量刑資料とすることはできるか。余罪の量刑への考慮の是非が問題となる。
刑の量刑においては、できるだけ多くの資料を用いるべきである。したがって、余罪を単に被告人の性格、経歴、および犯罪の動機、目的方法等の情状を推知するための資料として用いることは、原則として許されると解するべきである。
しかし、起訴されていない犯罪事実をいわゆる余罪として認定し、実質上これを処罰する趣旨で量刑の資料に考慮し、これがため被告人を重く処罰することは許されないと解するべきである。
なぜなら、もしこれを許せば、
(1)不告不理の原則に反し、ひいては憲法31条に反する、
(2)317条に定める証拠裁判主義に反し、かつ自白と補強証拠に関する憲法38条3項、319条2項3項の趣旨を没却することになる、
(3)その余罪について後日起訴され有罪判決が出た場合、再び刑事上の責任を問われることになり、憲法39条にも反する、があげられる。
【余罪と量刑】
余罪事実を認定して、実質上それを処罰する趣旨で考慮し、それがため被告人を起訴犯罪だけで処罰するよりも重く処罰することは許されないと考える。
なぜなら、それは検察官による公訴提起がない限り、裁判所は審判しないという「不告不理の原則」に反し、憲法31条に違反するのみならず、自白に補強証拠を必要とする憲法38条3項の制約を免れる事となる恐れがあるからである。
しかし、刑事裁判における量刑は、被告人の性格、経歴及び犯罪の動機、目的、方法等すべての事情を考慮して、裁判所が法定刑の範囲内において、適当に決定すべきものであるから、その量刑のための一情状として、いわゆる余罪をも考慮することは、必ずしも禁ぜられるところのものではないと解すべきである。
【共同被告人の証人適格】
共同被告人に証人として供述を求めることができるか。
共同被告人には証人適格がないので、共同被告人のままではできないとするのが判例・通説である。
しかし、これは同一手続の下での証人の場合であり、手続を分離して、X被告事件の審理中ということにすれば、Yは訴外の第三者になるから、これを証人として喚問することができることになる(通説・判例)。
ただ、ここでは手続の分離・併合を安易に認めるべきではなく(反対尋問権を保障するため証人にしたのだから)、証人に対する被告人の反対尋問が重要等を確認するべきであり、また起訴事実ないし関連事実については、その意思に反して証人に喚問することはできないと解すべきである(田宮)。
【公判廷における共同被告人の供述】
共同被告人の供述を他の被告人の証拠とすることは許されるか。共同被告人は被告人としての黙秘権を有しているため(311条)、他の被告人の反対尋問権の行使が難しいため問題となる。
この点、311条3項により反対質問の機会が与えられているので、供述に証拠能力を認めてよいとする説(判例)や、他方、反対尋問は311条の限度では十分でなく、手続を分離して証人として尋問しない限り証拠として採用できないとする説もある。
しかし、両者とも極端にすぎる。黙秘権と反対尋問権の相克という問題の本質に照らせば、他の被告人の反対質問に対して共同被告人が黙秘権を行使することなく答えた場合、つまり反対質問が十分効果をあげた場合は、その場合にのみ証拠となし得るとする説が妥当である。
なお、かような事情がなければ手続を分離して証人として供述を得るしかないだろう。
【公判廷外の共同被告人の供述(判例)】
共同被告人Yの公判廷外の供述を他の被告人Xに対して用いる場合には、どのような要件が必要であろうか。
この点、322条により、例えばXと共犯関係を承認するYの供述録取書は任意性さえあればXに対する証拠能力が与えられるとする説もある。
しかし、YはXに対して第三者であり、XはYを反対尋問する権利を有するから、321条1項各号の要件によらなければ証拠能力を認められないと解すべきである。
ただ、Yが被告人として黙秘権を行使し、又は公判廷外供述に異なる供述をしたときは、321条1項各号により直ちに証拠能力を認めてよいとされる(判例)。
【公判廷外の共同被告人の供述(田宮)】
公判廷外の共同被告人Yの供述(主として供述調書)を、共同被告人Xの証拠として利用することは許されるか。
この点、両者にかかわる不可分的内容の供述であることを理由に、被告人作成の供述書面として322条を適用する説があるが、この説は、共同被告人の第三者性、したがって被告人の反対尋問権をあまりにも軽視し過ぎるというべきで妥当でない。
他方、共同被告人の地位の二面性を理由に、321条・322条を競合適用する説もあるが、この説は供述の任意性については、319条1項の適用又は類推を考えるべきであるから、322条を援用してもあまり実益がなく妥当でない。
結局、共同被告人の第三者性および被告人の反対尋問権を重視した321条1項を適用する説が妥当である。
なお、被告人が証拠とすることに同意をすれば、反対尋問権を害することにならないのだから、証拠とすることは問題ない。
【共犯者の自白(判例・平野)】
共犯者の自白に補強証拠は必要か。その自白を、自白していない共犯者の立証に使う場合に問題となる。
この点、共犯者の自白を本人の自白と同様に扱い、その自白に補強証拠が必要とする説もある。
しかし、(1)自白とは、被告人本人が自分の犯罪事実を認める供述のことであり、共犯者の自白は、本人にとっては第三者の供述にすぎないこと、
(2)本人の自白と異なり、本人は共犯者に反対尋問が可能なことなど、相違点があること。
(3)補強法則は自由心証主義の例外であるから厳格に解すべきこと、
等の理由により、この説は妥当でない。
共犯者の自白については、本人の自白の場合と異なり補強証拠を要しないとする説が妥当である(判例・通説)。
よって、共犯者の自白の証明力は裁判官の自由心証に委ねられるべきであるが、一般に共犯者の供述は危険性が高いので、その認定は慎重にあるべきだろう。
【伝聞と非伝聞】
(1)言葉が要証事実の場合
例:Aが「犯人はXだ」と言っていたと いうBの証言
Xを被告人とする裁判ではXはAに直接反対尋問をすることができないので、これは伝聞証拠ということになる。
他方、Aを(名誉棄損の)被告人とする裁判では、AはBに反対尋問をすることが可能である。これは目撃証言そのものだからである。よって伝聞証拠ではない。
例:Aが公判で「犯人はXだ」と証言したが、公判外で「犯人はXではない」と供述していた場合。
後の供述は、公判の証言を弾劾するためには使える。
(2)行為の一部をなす言葉
例:Aがお金を渡すとき「はい、お年玉」といっていたというBの証言
言葉が非供述的なものとまではいえないが、行為と混然一体の関係にあり、これに意味付けを与えるためのその一部とと評しえる場合である。
かような場合は贈与行為の目撃証言の一部といってよい。
例:被害者が「やられた、小森」と叫んだ場合、この被害者の供述
とっさの機会に口をついて出る自然的発言である。行為的言語として伝聞証拠とならない。
(3)状況証拠である言葉
例:運転者AがBに「ブレーキが故障している」といった場合のBの供述
供述の存在自体を他の事実を推認すべき前提事実として立証する場合である。
この場合、ブレーキの故障の有無でなく、Aが故障に気が付いていたという事実を推認する証拠として用いるときは伝聞証拠にはならない。
【伝聞の意義】
犯行計画を記したメモを共謀の立証として使用することができるか。要証事実との関連で、伝聞証拠となるかが問題となる。
まず、メモが共謀者の犯罪の意思・計画という心の状態に関する供述を記載した書面である場合は、その意思・計画を立証するためには、伝聞法則の適用はないと考える。
なぜなら、反対尋問は知覚・記憶・叙述の各過程に行う正確性のテストであるが、この場合は知覚・記憶を欠落するものであり、反対尋問のテストに適合するものでなく、その作成が真摯になされたことが証明されれば足りると解すべきだからである。
他方、メモが共謀内容そのものを記載した書面である場合についてであるが、この場合には、そのメモは、その存在事態が要証事実を立証するものとなるので、伝聞証拠とはいえず、証拠とすることが可能であるとかんがえる。
【伝聞法則の意義】
供述証拠は、体験事実について、知覚>記憶>叙述という過程を経て裁判官の所へ到達する。この過程に誤りがないかどうかは反対尋問によってテストされなければならない。この反対尋問を経ていない供述証拠を「伝聞証拠」という。
そして、伝聞証拠には証拠能力を認めないとする原則を「伝聞法則」という。反対尋問によるテストがなされない供述証拠は、その真実性の担保に欠け、虚偽の危険を内包するからである。
憲法37条2項は、被告人の反対尋問権を保障しており、伝聞証拠を原則として排除したものであり、法320条1項もこれを受けて、原則として伝聞証拠は証拠とすることはできない旨を規定している。
【メモの理論】
現在は記憶を失ったが、作成当時は、直接知識の保有者であり、それに従って正確に記載したといえる場合に、その証人が記載した書面を見て供述する場合は、「よみがえった現在の記憶」として供述自体が証拠となることは問題ない。
しかし、その書面を見ても記憶が蘇らなかった場合は、その書面を「記録された過去の記憶」として伝聞の例外として証拠と認めようという理論がある。これを「メモの理論」という。
この点、これを323条(公文書・商業帳簿に類するその他の書面)として書面としての証拠能力を認める説もあるが、これでは無条件に証拠能力が認められてしまい妥当でない。
321条3項の検察官・警察官の検証書面、あるいは4項の鑑定人の鑑定書面の規定を準用してこれを認めることが可能であろう。(田宮は疑問を留保)
【ポリグラフ検査と自然的関連性】
ポリグラフ検査の回答書に証拠能力を認めることができるであろうか。回答書に必要最小限度の証明力たる自然的関連性を認め得るかが問題となる。
この点、現在では統一化・規格化された検査機械が使用され、かつ科学警察研究所において指導・育成された技術者が検査を実施していることから、回答書に対する一般的な信頼性は認め得る。
そこで、個々の検査において、機械および技術者の信頼性を肯定する事情が認められるならば、回答書の自然的関連性を肯定してよいと解する(通説であるが田宮は反対)。
【ポリグラフ検査回答書の証拠能力】
ポリグラフ検査回答書は反対尋問を経ていない供述証拠であるから、そのままでは伝聞証拠として証拠能力が否定される(320条1項)。なぜなら、供述証拠は反対尋問を経なければ、信用性に乏しく、誤判の生じる虞れがあるからである。
とはいえ、法は必要性・信用性があることを条件に伝聞法則に一定の例外を認めている(321条以下)。
問題は伝聞例外のどの規定を根拠に証拠能力を認めるべきかであるが、同検査は、専門的な技術者による判断を含むものであるので、特別の知識経験のある者に、その専門的知識又はそれに基づく判断の報告をさせる鑑定が、もっとも近似する制度である。
そこで、鑑定書に関する321条4項を準用して、同条の要件を充たす限りにおいて証拠能力を肯定されると考える。
なお、中立性・公正性確保のため、その反対尋問の及ぶ範囲は、検査者の能力・中立性等の鑑定人としての適格性にまで及ぶと解すべきである。
【写真】
写真を証拠としてしようする場合、撮影者を反対尋問できるであろうか。
この点、写真を撮影者により対象の状況が報告される報告文書と解し、一種の供述証拠として、321条3項の類推適用によりこれを肯定する説もある。
しかし、写真の対象は供述ではないから、中間に人を介して伝達するにしても、伝聞証拠とならない。したがって非供述証拠であると解される。
確かに写真は対象を正確に再現するが、それでも要証事実の存否の証明に役立ち得るかという関連性の問題は残る。
この場合、右関連性立証の方法としては、必ずしも撮影者らを証人として喚問する必要はなく、その他の方法で右関連性を確認できればそれで足りるものと解される(判例)。
ちなみに、検証調書や鑑定書に添付されている写真は、供述と一体化しこれを補充するものであるから独立性をもたず、右書面と同一の証拠能力をもつと解すべきである。
【録音テープ】
まず、現場録音のテープについては、音声それ自体を立証しようとするときは、現場写真と同様に非供述証拠とかんがえてよい。視覚か聴覚かの相違に過ぎないからである。
したがって、録音者の尋問その他の証拠で、テープ編集状況を確かめて関連性が肯定されれば証拠とできる。
他方、陳述の意味内容が問題となる供述録音の場合は、供述証拠として伝聞法則の適用がある。
【ビデオテープの証拠能力】
現場撮影のビデオテープを証拠として用いる場合、供述証拠として伝聞法則(320条1項)の適用をうけるであろうか。
この点、その生成過程に撮影者の主観的評価が入るなどとして、これを供述証拠と解する説もある。
しかし、そのような主観的評価が入ったとしても、写し出された物自体の正確性を歪めるものではない。
思うに、現場撮影ビデオテープは、現場の状況を科学的・機械的に正確に収録するものであり、伝達過程に供述の要素を含まないから、非供述証拠と解する。
したがって、伝聞法則の適用はない。
立証事項との関連性が立証されれば、証拠能力が認められると解する。
(そして、関連性の有無は、刑罰権の存否・範囲に直接かかわる事実ではないので、厳格な証明を必要とするものではない。よって、撮影者の尋問を要せず、場合によっては、写真自体により明らかになれば足る)
【犯行再現ビデオテープ】
犯行再現ビデオテープを証拠とする際、供述証拠として伝聞法則の適用を受けるか、問題となる。
思うに、犯行再現ビデオテープは、被疑者が再現状況通りに身体的動作による供述を行ったものであり、いわゆる供述写真と供述録音が合体したものである。
よって実況見分における指示説明であると同時に、自白の性質を併せ持つといえるので、321条3項(検証調書)及び322条1項(自白調書)の準用があると解するのが妥当である。
【再伝聞(平野)】
伝聞証拠の中に伝聞供述が含まれている場合を「再伝聞」(二重伝聞)という。
例えば、検面調書の中に「被告人乙が「自分が放火してきた」といっていた」という項の供述記載あった場合である。
この甲の供述は、(1)書面である点で伝聞であり、(2)その供述の中に他人である乙の供述を含んでいるという点で、二重に伝聞となっている。
この点、再伝聞は単純な伝聞よりさらに危険であるので、全てを排斥すべきとする説もある。
しかし、再伝聞の各過程に、321条ないし324条の要件が具備されていれば、それを排斥する文理上の根拠に乏しいし、実質的にも不当でないと解される。
そこで、再伝聞については、二つの伝聞の複合として法定の要件を具備すれば証拠能力を肯定してよいと考える(判例・通説)。
自白とは、自己の犯罪事実の全部またはその主要部分を認める被告人の供述をいう。
犯罪事実のみならず間接事実をも含めて、およそ自己に不利益な事実を供述する場合を「不利益な事実の承認」と呼ぶが、その意味では自白もまた不利益な事実の承認の一種である。
自白には、証拠能力や補強法則の適用があるが、不利益事実の承認は証拠能力上は自白と同様に扱われるが(322条1項)、補強証拠の適用はないので、この点に両者の区別の実益がある。
【322条1項】
被告人が作成した供述書又は被告人の供述を録取した書面で被告人の署名もしくは押印のあるものは、その供述が被告人に不利益な事実の承認を内容とするものであるとき、又は特に信用すべき状況の下にされたものであるときに限り、これを証拠とすることができる。
ただし、被告人に不利益な事実の承認を内容とする書面は、その承認が自白でない場合に置いても、319条の規定に準じ、任意になされた疑いがあると認めるときは、これを証拠とすることはできない。
有罪の自認とは、起訴された犯罪について有罪であることを自認することである(319条3項)。有罪の答弁ともいう。(例:「起訴事実に相違ありません」との冒頭陳述の際の供述)
自白と有罪の自認との関係であるが、例えば、被告人が構成要件該当事実を認めた上で違法阻却事由を主張する場合、被告人は有罪の自認をしているわけではないが、構成要件該当事実については自白が成立する。
有罪の自認も自白の一種として扱われる(319条3項:『前二項の自白には、起訴された犯罪について有罪であることを自認する場合も含む』)。もっとも、有罪の自認は、簡易公判手続きを開始しうる手続き上の効果を伴う(291条の2)。
(1)その供述が「自白」にあたるか
(2)自白に当たるとして証拠能力があるか(自白法則、排除法則の適用)
(3)その自白に補強証拠があるか(補強法則の適用)
の順で検討すること。
319条は、『強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留または拘禁された後の自白その他任意になされたものでない疑いのある自白はこれを証拠とすることはできない』としている。かように自白の証拠能力を否定する証拠法則を自白法則という。
任意性に疑いのある自白の証拠能力を否定する理由はなんであるか。
この点、任意性に疑いのある自白は類型的に虚偽を内包している危険性が高いので、証拠能力を否定するとする説もある(虚偽排除説)。
しかし、そうであれば虚偽を内包しない自白ならよいのか、ということになり「任意性」の有無を調べるためには自白の真実性を調べなければならなくなり、証拠能力の問題が証明力の問題と混同されかねない。
また、人権特に供述の自由を侵害するような違法・不当な取り調べによる自白を排除する趣旨とする説もある(人権擁護説)。
しかし、この説では、任意性があれば、瑕疵ある意思表示であっても証拠能力があることになるし、またそのような心理状態の立証は難しい。
確かに、任意性というからには「供述を採取される側」の心理に着目せざるを得ない。この点で、虚偽排除説も人権擁護説も正しい側面がある。しかし、これのみに着目して任意性を判断することは困難である。
そこで、任意性の認定方法として「供述を採取する側」の取り調べ方法にも着目し、自白法則を、自白採取過程における手続きの適正・合法を担保する一つの手段として理解する見解(違法排除説)を加味して理解するのが妥当である(総合説)。
*短く述べるときは、違法排除説単独でいいんじゃないかな
(1)約束自白
自白すれば起訴猶予にするという約束に基づく自白について、任意性を否定(百選79)
虚偽排除説および違法排除説ならば説明しやすいが、人権擁護説によれば苦しい。
(2)偽計による自白
分泌物検出云々というあざとい虚言を述べて自白を引き出した点、許されざる偽計を用いたとして、任意性を否定(百選80)。
やはり人権擁護説では苦しい。
(3)黙秘権の不告知による自白
黙秘権の不告知のみを理由に任意性を否定する判例はない。しかし、取り調べの強引さ、執拗さに加えて、黙秘権の不告知を「黙秘権の告知を受けることによる被疑者の心理的圧迫の解放がなかったことを推認させる事情として、供述の任意性の判断に重大な影響を及ぼす」として、任意性を否定したものもある(百選81)。
(4)違法な身柄拘束中の自白
現行犯の要件を具備していない違法な身柄拘束中の自白について、「身柄拘束の要件がないことが一見明白であるときのように身柄の拘束の違法性が著しく、右の憲法及びこれを承けた刑事訴訟法上の規定の精神を全く没却するに至るほど重大であると認められる場合には、その身柄拘束中の供述がたとえ任意になされたものとしても、その供述の証拠としての許容性を否定すべきものと解するのが相当である」が、
「本件現行犯人の逮捕の違法性は、右の憲法およびこれを承けた刑事訴訟法上の規定の精神を全く没却するに至るほどに重大なものとまではいえないから、本件現行犯逮捕に伴う身柄拘束中になされた被告人の供述は証拠としての許容性を否定されないというべきものである」(百選82)
ここまで来ると、違法収集証拠の排除法則の守備範囲になるとも思われる。
もっとも、田宮のように「違法収集証拠の排除法則こそがより一般的なもので自白法則はその中に含まれ、右二規定(憲38条2項、刑訴319条1項)は自白に関する典型的な場合を例示したものなので、それ以外にも排除されるべき場合はある」と解すれば、違法収集証拠の排除法則と自白法則は同じものとなるから、任意性の法理で処理しても間違えじゃないことになるか・・・・。
(5)接見交通権を侵害して得られた自白
逮捕拘留されていない余罪を理由に、接見指定権を行使することは許されない。もっとも余罪について任意捜査としての取り調べは許されるが、その取調中に弁護人が被疑者に面会を求めてきた場合に捜査官の採った措置が問題となったが、裁判所は任意性に問題がないとして証拠能力を認めた(百選83)。
これも、違法収集証拠の排除法則の守備範囲に近い。
判例は、任意性説(接見交通権の侵害の事実を任意性の有無を判断する際の一つの資料とする)にたっているとされる。
違法排除説なら、自白の任意性の有無にかかわらず手続き違反を理由に証拠の許容性が否定されるかも。
重大違法排除説なら折衷的な見解でまとまる。
法は、補強証拠がなければ自白のみで被告人を有罪とすることはできないとしている(憲法38条3項、法319条2項3項)。これを補強法則という。
本来、証拠の証明力は、裁判官の自由な判断にゆだねられているはずである(自由心証主義318条)。
しかし、自白に誤りがあれば事実認定全体が誤りと化してしまう危険がある。自白の証拠価値は極めて高いからである。
そこで、自白に補強を要求して事実認定者の自白偏重による誤判を防止しようとしたのである(自白偏重防止説)。この意味で、補強法則は自由心証主義の例外である(裁判官の証拠の証明力の認定に縛りをかけた)。
自白の補強証拠に関する問題は二つに大別される。
一つは、「自白」の意義につき、憲法論として「公判廷の自白」も「本人の自白」に含まれるか。また、共犯者の自白が「本人の自白」に含まれるか、が問題となる。
二つは、「補強証拠」の意義につき、そもそもいかなる証拠が自白の補強証拠となりうるか。また、補強を要するのは自白のどの部分か、補強証拠はどの程度の証明力を持たねばならないか、である。
以上の点について見解の対立がある。
田宮は、補強法則を広範における証拠法則とは捉えず、取り調べ中心の捜査を是正し自白以外の物証を探せという捜査機関に対する指針の現れと捉える(操作指針説)。
そうすると、補強法則は一種の証拠能力(有罪判決言い渡し)の要件となる。自由心証主義の例外ではない。この点、通説は、補強法則を証明力の問題として扱うので、自由心証主義の例外として扱う。この点が異なる。・・・ま、通説でいいでしょう。
渥美は、自由心証主義の捉え方がちと違うんで、自由心証主義の例外とはみない。自白は一般に信用できない証拠なので、証明力に見合った認定という自由心証主義の趣旨からすると当然のことを述べたにすぎないとする。・・・こっちの方が面白いんだけど、椎橋先生が試験委員を抜けたので渥美では書けないなぁ。
刑訴法319条2項は「公判廷における自白であると否とを問わず」補強証拠を要する旨を規定するが、これは憲法上の要請であろうか。「本人の自白」(憲法38条3項)に公判廷の自白も含まれるかが問題となる。
この点、判例は、319条2項は憲法の趣旨を一歩進めたものであり(創設規定)、憲法論としては公判廷の自白に補強を要しないとしている。公判廷での自白は強要のおそれがないことが理由となる。
しかし、そもそも補強法則の根拠は、自白があまりに信用されやすい証拠であるため、自白偏重による誤判の危険が高いことから、誤判を防止するために認められたものである。
とすれば、公判廷の自白であろうと公判廷外の自白であろうと誤判の危険の点で変わらないだから、憲法38条3項の「本人の自白」は当然公判廷外の自白を含み、刑訴法319条2項はその趣旨を確認したものにすぎない(確認規定)と解するべきである。
『甲 乙両名は、共謀の上丙を殺害したとして起訴された。甲に対する証拠として、乙の「甲に頼まれて丙を射殺した」という検察官面前調書がある。しかし、乙は、公判廷では曖昧な供述をするのみであった。一方、甲は終始、乙に依頼したことを否認している。甲の有罪の認定での問題点は。』(昭和61年第二問)
この問題では(1)共謀の立証方法>厳格な証明。(2)共犯者の自白の証拠能力>321条1項2号の伝聞例外。が問題となる。
そして、それらを肯定した後に、検面調書に証拠能力が認められるとしても、この検面調書のみで甲の有罪を認定できるか、共犯者たる共同被告人の自白は「本人の自白」(憲法38条3項)、「その自白」(319条2項)として補強法則が適用されるかが問題となる。
この点、共犯者の自白は引っ張り込みの危険があり、信頼性に欠けるし、自白した者(乙)は補強法則で守られるのに、否認した者(甲)は有罪となるのは不均衡であるとして、「自白」に共犯者の自白を含めて補強証拠を要求する説もある。
しかし、引っ張り込みの危険は、共犯者に対する反対尋問で正し得るし、自白した方が無罪となり、否認した方が有罪となるのも、自白が反対尋問を経た供述よりも証拠力が低い以上、当然である。
そもそも、補強法則は自白偏重による誤判回避のための制度であり、引っ張り込みの危険を理由とする証拠力の低さを理由とするものではない。
よって、条文通り、自白には補強法則は適用されないと解すべきである。
もっとも、共犯者の供述は引っ張り込みの危険があるという点は、反対尋問で正し得るとしても、共犯者が客観的情況については真実を語り、行為の主体のみ虚偽を述べた場合、反対尋問でこれを正すのは難しいので、その認定は慎重にするべきである。
「昭和58年第二問」
『次の事実を認定するためには、被告人の自白のほかに補強証拠を必要とするか。
(1)自動車の無免許運転で起訴されている被告人について、当該自動車を運転した者が被告人であること
(2)右の被告人が自動車運転の際、免許を有していなかったこと
(3)覚醒剤取締法によって覚醒剤の所持を許可されている者でないのに覚醒剤を所持していたとして同法違犯でき訴されている被告人について、同人が当該物件を覚醒剤であると知っていたこと
(4)右の被告人が覚醒剤取締法によって覚醒剤の所持を許可されている者にあたらないこと』
補強を要する事実の範囲−罪体説と実質説
自白について補強を要するとして、どの範囲まで補強を要するか。明文規定がないため問題となる。
この点、判例は自白の真実性を担保する程度の事実に補強証拠があれば足りるとしている(実質説)。
しかし、そもそも補強法則の趣旨は自白偏重による誤判を防止しするため、わざわざ裁判官の事実認定を拘束したものである。それを自白の真実性の担保の有無を裁判官自身が判断するのでは、何のために事実認定を拘束したのか分からない。補強法則の趣旨が没却されてしまう。
そこで、裁判所の認定基準を明確化し恣意的な判断を防止する観点から、犯罪を構成する重要部分(罪体)について補強証拠を必要とすると解するべきである(形式説・罪体説)。
罪体の意義
では、その犯罪を構成する重要部分(罪体)とはいかなるものであろうか。
確かに、誤判のおそれを重視すれば犯罪事実のすべて(客観的側面、主体的側面、主観的側面)について補強を要するとするのが良いようにも思える。
しかし、このすべてについて補強を要求するのは捜査機関に困難を強いることになるので妥当ではない。
したがって、少なくとも罪体とは犯罪事実の客観的側面(何人かによる被害の発生という客観的側面)についての補強が必要であるとするのが、基準の明確性という点で妥当と考える。
もっとも、自白による誤判は、架空の犯行に基づくよりも、多くは犯人を被告人と誤認するところから生じるのであり、犯罪事実の主体的側面(犯人と被告人との結びつき)については自白内容の信用性をより慎重に吟味するべきである。(日和見・・・・)
補強の程度
補強証拠にどの程度の証明力が要求されるかについては、自白の証明力との相関関係で証明力の程度を問題とする立場もあるが、補強証拠の範囲について罪体説を採る以上、自白の証明力とは一応区別し、補強証拠自体で一応の証明力を有する必要があると解するべきである。
犯罪成立阻却事由(犯罪の消極的側面)と補強の要否
犯罪の阻却事由についても、補強証拠が必要かが問題となる。
思うに、犯罪の阻却事由についての挙証責任は検察官にあるが、その存在を示す証拠提出責任は被告人にあると解する。
だとすれば、このような阻却事由については補強証拠を不要としても、誤判にはつながるとはいえない。
したがって、補強証拠は不要と解する。
このほか、犯罪事実以外の事実(累犯前科・処罰条件たる事実)については補強を要しない。
補強証拠の証明量−相対説(判例)と絶対説(通説)
補強を要する事実の範囲に補強証拠があるとしても、それだけで有罪と認定できるわけではない。
自白が存在する以上、補強証拠だけで要証事実を合理的な疑いを容れない程度まで証明できる必要はないが、補強証拠も証拠である以上、一定の証明量が必要とされるので、どの程度の証明量があればよいかが問題となる。
この点、自白と補強証拠が相まって合理的な疑いを容れない程度まで立証されれば足りるとする説もある(相対説:判例)。
しかし、これでは自白の証明力が高ければ補強証拠の証明力が低くても良いということになり、裁判官の事由心証主義を制限してまで補強証拠を要求した補強法則の趣旨が没却されてしまう。
補強法則の趣旨からすると、補強証拠が自白から独立して一応の(要証事実が存在しそうだという程度の)証明量を持つことが必要であると解すべきである(絶対説)。
301条の解釈
『322条および324条第1項の規定により証拠とすることができる被告人の供述が自白である場合には、犯罪事実に関する他の証拠が取り調べられた後でなければ、その取調を請求することはできない』
補強証拠の範囲について実質説を採り、補強証拠の証明量について相対説を採る判例の立場からすると、補強証拠と自白とが同時に取り調べ請求されても補強証拠の取調が先行すれば301条の要請は充たされると解することになる。
だが、301条は、公判廷外の自白については「他の証拠」(補強証拠)が自白とは独立して判断されることが要請されていると言って良い。
とすれば、実質説のように自白に信用性に問題があるとき補強証拠と総合して判断すると解するのは、301条の建前にあわないことになる。
そもそも、補強証拠は自白とは独立して一応の証明量を持つことを要すると解するべきである(絶対説)。
とすれば、301条は補強証拠が取調られ、裁判官に一応の心証を抱かせる程度の証明を果たした後でなければ、自白の取調請求自体ができないことを定めたものと解すべきである。
また、公判廷での自白についても、301条の趣旨からすれば、要証事実について補強証拠によって一応の証明を果たすまでは被告人質問(311条)は許されないと解するべきである(渥美、田口は公判廷内での自白については301条の制約もないので実質説的見地から考えて良いとする)。
いかなる証拠が自白の補強証拠となるか。それが補強証拠適格の問題である。
補強証拠も犯罪事実認定のための実質証拠であるから、まず、補強証拠には(1)証拠能力がなければならない。
さらに、法が自白に補強証拠を要求する趣旨から考えれば、補強証拠には(2)自白から実質的に独立した証拠である必要があると解する。
伝聞法則、排除法則(毒樹果実法理)の適用が問題となる。
未収金控え帳のような帳簿の場合、伝聞例外としての323条2項の適用が問題となる。
また、共犯者たる共同被告人の供述を補強証拠に用いる場合、その証拠能力の要件が問題となる。
さらに排除法則については、例えば覚醒剤自己使用罪の尿の鑑定書が採尿手続きの違法を理由に排除された場合(鑑定書は違法収集証拠に密接不可分の証拠として排除される)、被告人を自白だけでは有罪となしえないことになる。
まず、大前提として、被告人の自白(不利益事実の承認を含む)はどの段階でなされても同価値であり補強証拠足り得ない。
(1)被告人が記載した帳簿類
では、被告人が記載した帳簿類はどうか。
捜査を意識しないで作られたものであるかがポイントである。
被告人が記載した帳簿類は嫌疑を受ける前にこれと関係なく機械的に記入し、323条2号の書面として独立の証拠となりうるものについては自白からの独立性を肯定できるので、補強証拠たり得る(判例:被告人が販売未収金関係の備忘のため闇米と配給米とを問わず、その都度記入した未収金控え帳が補強証拠と足り得るとした事例)。
(2)共犯者の自白
共犯者の自白を本人の自白の補強証拠として採用することができるか。
共犯者の自白については、これが被告人の自白とあらゆる意味で同じというわけではないから、たとえ共犯者の自白であっても本人の自白以外に証拠がある以上、法の予想する定型的な誤判の危険は一応解消したと見てよい。
よって、実質的に独立した証拠として補強証拠適格を肯定しうる。
(共犯者の自白への補強の要否につき補強不要説なら当然の結論であるが、補強必要説でもこれを補強証拠となしえる)
(3)被告人の犯行再現行為を録画したビデオテープ
被告人の犯行再現行為自体は自白ではないから補強証拠適格を有するとも考えられる。
しかし、実質的に見れば犯行再現行為は自白的要素を含むから、これに補強証拠適格を認めたのでは自白で自白を補強したのと異ならない。
よって、自白から実質的に独立した証拠とはいえず補強証拠適格を欠く。
(4)被告人の自白を鵜呑みにして書かれた被害届
被害者の被害届は、被告人の供述以外の証拠といえる。
しかし、その被害届が実質的に被告人の自白をもとに書かれたものであれば、自白で自白を補強することに他ならない。
よって、自白から実質的に独立した証拠とはいえず補強証拠適格を欠く。
違法な捜査方法によって発見された証拠物は、証拠能力を有するか。違法収集証拠の排除法則とは、違法に収集された証拠の証拠能力を否定する法則をいうが、排除法則には明文の規定がないためかかる法則を認め得るかが問題となる。
この点、供述証拠の場合は、収集方法の違法性が証明力を類型的に減少させるとも言い得るが、証拠物はたとえ押収手続きが違法であっても、物それ自体の性質・形状に変異をきたすことはなく、その存在・形状などに関する証拠価値には変わりのないことからすれば、たとえ収集方法に違法があっても証拠能力を否定する理由はないように思える。
しかし、かといって違法な収集方法で得た証拠をそのまま証拠として許容してしまえば、捜査機関は法の定めた手続きを遵守しなくなり、法が捜査に適正な手続を要求し(憲法31条)、また個人のプライバシー権を保障した趣旨(35条)が没却されてしまう。
そこで、次のような場合には排除法則を認めるべきである(判例同旨)。
(1)証拠物の押収などの手続きに、憲法35条およびこれを承けた刑事訴訟法218条1項の所期する令状主義を没却するような重大な違法があること(違法の重大性)
(2)これを証拠として許容することが、将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合(排除相当性)
「違法の重大性」
排除基準としては、この二つの要件を重畳的に適用すると解される(重畳説)。しかし、その中心は「違法の重大性」である。
では、ここにいう「違法の重大性」とは何か。
判例は、操作の違法形態が被疑者の身体に対する有形力の行使である場合には「重大な違法」を認定するが、その他の場合(例えば捜索の違法、所持品検査の違法など)には違法宣言はするが重大な違法とは認定しない場合が多い。
証拠発見に先行する手続きに違法があった場合はどうか。
判例は、違法判断のあり方について「採尿手続きの適法違法については、採尿手続き前の一連の手続きにおける違法の有無、程度をも十分に考慮してこれを判断するのが相当である」として、先の手続きの違法が後の手続きに波及する場合のあり得ることを認めている。
すなわち、先行手続と後行手続が同一目的に向けられ、かつ後行手続が先行手続を直接利用してなされた場合には、後行手続は先行手続の違法を帯びる(同一目的・直接利用の基準)としている。
もっとも、証拠発見後の違法行為は考慮されないのが判例である。
毒樹果実法理(派生証拠の理論)とは、違法に収集した物(毒樹)に基づいて発見された証拠(果実・派生証拠)を排除する法則をいう。
適用が考えられる類型としては以下のものがある。
(ア)違法収集証拠と密接不可分の証拠
(イ)違法収集証拠にその発見を負う第二次証拠
(ウ)違法収集証拠を梃として得られた証拠
(エ)反復自白
等である。
これらの毒樹果実について証拠利用を肯定すれば、排除法則が証拠能力を否定する趣旨を没却してしまう。
そこで、派生証拠についても原則として排除法則を適用すべきである。
もっとも、派生証拠の利用が原則として許されないとしても、それを常に排除するとかえって真実発見を妨げ合理的ではない。排除しても違法抑止効が期待できない場合もあるからである。
そこで、(1)独立入手源法理(独立源から証拠を入手した場合)や(2)(不可避的・必然的発見の法理)違法行為がなくても適法な捜査によって証拠を入手し得た場合、さらに(3)(希釈法理)違法行為の毒性が十分に希釈された場合、などは一次証拠との関連性が薄いので、例外として排除法則の適用がないと解するべきである。
この点、不任意自白に基づいて発見された証拠物について、(1)を認めた裁判例(百選84)もある。
一般論としては、捜査の必要(公共の福祉)と人権とを比較考量的手法で調整し、(1)事件の重大性、(2)証拠の重要性、(3)違法の重大性、(4)手続の違法と証拠との関連性の要件を挙げた伊藤少数意見がいいんじゃないの?
で、(4)の関連性の要件で、上の毒樹果実例外の要件を吟味すれば説得的だと思う。
【違法収集証拠の排除法則】
違法収集証拠の排除法則とは、証拠の収集手続が違法であった場合に、その証拠能力を否定し、事実認定の資料から排除する原則である。供述証拠については、自白法則があるので、特に物を証拠とする際に問題となる。
この点、明文の規定がないこと、物証については誤判のおそれがないので、実体的真実主義にそぐわないこと、等の理由で排除法則を否定する説もある。
しかし、実体的真実主義も絶対的原理ではなく、適正手続主義の要請が重視されるべきこと、憲31条の精神や、憲38条2項、319条の趣旨からして、明文がないことから否定すべきでないこと等を理由に肯定すべきである。
反復自白とは、例えば警察官による違法な取調の結果なされた自白に証拠能力が認められない場合に、同一人に対して検察官が適法な取調をなして同一内容の自白を反復させた場合のように、違法に得られた自白に引き続いてなされた(第一自白と同趣旨の)第二自白のことをいう。
この場合の反復自白に証拠能力が認められるであろうか。二次証拠が証拠物ではなく供述証拠であるため、そもそも違法収集証拠の排除法則の適用があるか、自白法則の適用があるかが問題となる。
自白法則について、自白を採取される側に着目する任意性説(虚偽排除説・人権擁護説)によれば、両者は別物ということになるが、自白法則を自白を採取する側に着目し、捜査機関の違法な自白採取を抑制する制度と解すれば(違法排除説)、違法収集証拠排除法則と自白法則は一体として理解することができる。
とすれば、違法な手続による第一次自白から生じた第二次自白を派生証拠(毒樹の果実)と位置づけることができ、第二次自白に毒樹果実法理を適用して排除することが可能となる。
(あー、なんと消化不十分なまとめかただ(笑))
よって、反復自白が、毒樹果実法理の例外にあたるか否かを検討して排除の有無を探ることとなる。
なお、この際、第二次自白を採取した機関がいかなる機関か(検察官か裁判官か)によって第二次自白の証拠能力が第一次自白から受ける影響に違いがあるかが問題となる。希釈法理を適用するだけの特別の事情があるか否かが問題となるのである。
問題となった判例(58年7月12日最高裁判例)では、別件逮捕中に本件自白(第一自白)がなされ、勾留質問でも自白が維持され(第二自白)、さらに勾留中にも自白(第三自白)がなされたというものである。
法廷意見は第二自白の勾留質問は捜査官とは別個独立の機関である裁判官によって行われるので、第一自白の違法が遮断されるとしている。
(我が国の勾留質問が果たしてそこまでの実質を備えているか疑わしいが)これを前提として伊藤意見は同じ捜査機関による証拠収集の場合には、「特段の事情がない限り、第一次証拠収集の違法は第二次証拠収集の違法につながる」として、第一自白との関連性の程度などを総合的に考慮した上で、第三自白を排除した点注意すべきである。
つまり、同じ捜査機関か別の機関かで希釈法理を適用すべき「特段の事情」の有無に変化があるというわけである。
さらに、違法の連続性という問題もある。
違法な第一自白の後、弁護人との接見交通がなされ、しかる後に第二自白(反復自白)がなされた場合、この弁護人との接見交通が反復自白を許容する「特段の事情」にあたるかが問題となる。
単に弁護人との接見交通がなされたというだけで遮断を認めるべきではない。
遮断の条件としては、第一自白が違法手続による物であって証拠能力を欠くこと自体を被疑者が知悉していたことが必要である。さもなくば、単なる違法自白の繰り返しとなってしまうからである。
排除法則の根拠として「排除相当性」を挙げるとすれば、将来における違法な捜査の誘因となるおそれがない捜査方法ならば排除法則の適用は必要ないことになる。
そこで、どういう場合が排除法則適用の限界にあたるかを述べる。
(1)いわゆる「必然的発見の例外」
たまたま一部の捜査官が違法捜査をやったが、彼がそのような違法捜査をやらなくてもいずれ他の捜査官が適正な手続きを進めてその証拠に達したはずであるという場合である。
この場合、違法手続きと証拠との因果性に欠け、違法捜査の抑止の観点からすれば例外となし得る。
(2)いわゆる「善意の例外」
違法捜査をした捜査官がその手続きを合法的と信じていた場合である。
この場合も、排除法則を適用しても抑止効を持たないため例外となしえる。
(3)いわゆる「申立適格の有無」
違法捜査を受けた者以外の者に対して証拠が提出された場合、その者に排除申立の適格性があるかという問題である。
この点は、司法の廉潔性あるいは違法捜査の抑止という観点からすれば、申立適格を被害者に限定する根拠はなく、第三者の申立適格も肯定されると解される。
第三者に対する違法行為によって取得された証拠(例えば、捜索・差押令状の執行にあたり立会人がいなかったので、隣人を無理矢理手足を押さえて立ち会わせた結果得られた証拠など)について被告人に排除申立適格が認められるか。
現行法上、排除法則の申立手続について明文規定はなく、違法収集証拠は公判の証拠調べに関する異議(309条、規則205条〜206条)を通じて排除されることになるが、このような異議に申立適格があるのかが問題となる。
違法収集証拠の排除は証拠禁止に属するもので、排除の主張はプライバシーの侵害を受けた者の、自己負罪拒否特権と同じ意味での証拠法上の「特権」といえるから、排除申立適格は違法証拠収集行為の被疑者に限られ、被告人には認められないことになる。
したがって、第三者に対する違法行為によって取得された証拠は原則として排除されない。
違法収集証拠の排除は証拠法上の特権であるから、その証拠調べに一般的同意を与える以上、特権法規(責問権の放棄)として証拠能力が認められる。
また、326条1項の「同意」を証拠能力付与行為と捉えれば、その同意により証拠能力が認められる。
もっとも、権利侵害が重大な場合にはその同意の効果は認められない。
(S49−2出題)
私人の違法行為が捜査機関の教唆などに基づく場合は捜査活動と評価でき排除法則の適用があることに争いはない。
問題となるのは、私人が独自に違法に収集した証拠の証拠能力である。
この点、排除法則を司法の無瑕性の維持を根拠と解すれば、裁判所が違法行為の共犯者になるのを避けるべきだという理由で排除を認め得ることになる。
しかし、排除法則を捜査する側の違法行為に着目するならば、私人による違法収集証拠を特に排除する理由はないというべきである。
もっとも、私人による圧力で任意性に疑いが生じているのなら、この自白は排除される可能性はある。
違法収集証拠を被告人の供述の証明力を争うための弾劾証拠として許容することができないかが問題となる。
いったん弾劾証拠としての利用を認めると、違法収集証拠が間接的にではあるが有罪の心証形成に影響を与え、排除法則を潜脱する危険が生じるから、違法収集証拠は弾劾証拠としても許容できないと考える。
もっとも、被告人に有利な方向では弾劾証拠の利用を肯定する余地はある。
近時、違法捜査による被告人の苦痛を「犯行後の状況」として有利な情状として考慮する裁判例もある。捜査機関でなくとも拘置所職員による暴行の結果、被告人が受けた苦痛を量刑事情として考慮しうるとするものもある。