補強を要する事実の範囲に補強証拠があるとしても、それだけで有罪と認定できるわけではない。
自白が存在する以上、補強証拠だけで要証事実を合理的な疑いを容れない程度まで証明できる必要はないが、補強証拠も証拠である以上、一定の証明量が必要とされるので、どの程度の証明量があればよいかが問題となる。
この点、自白と補強証拠が相まって合理的な疑いを容れない程度まで立証されれば足りるとする説もある(相対説:判例)。
しかし、これでは自白の証明力が高ければ補強証拠の証明力が低くても良いということになり、裁判官の事由心証主義を制限してまで補強証拠を要求した補強法則の趣旨が没却されてしまう。
補強法則の趣旨からすると、補強証拠が自白から独立して一応の(要証事実が存在しそうだという程度の)証明量を持つことが必要であると解すべきである(絶対説)。
『322条および324条第1項の規定により証拠とすることができる被告人の供述が自白である場合には、犯罪事実に関する他の証拠が取り調べられた後でなければ、その取調を請求することはできない』
補強証拠の範囲について実質説を採り、補強証拠の証明量について相対説を採る判例の立場からすると、補強証拠と自白とが同時に取り調べ請求されても補強証拠の取調が先行すれば301条の要請は充たされると解することになる。
だが、301条は、公判廷外の自白については「他の証拠」(補強証拠)が自白とは独立して判断されることが要請されていると言って良い。
とすれば、実質説のように自白に信用性に問題があるとき補強証拠と総合して判断すると解するのは、301条の建前にあわないことになる。
そもそも、補強証拠は自白とは独立して一応の証明量を持つことを要すると解するべきである(絶対説)。
とすれば、301条は補強証拠が取調られ、裁判官に一応の心証を抱かせる程度の証明を果たした後でなければ、自白の取調請求自体ができないことを定めたものと解すべきである。
また、公判廷での自白についても、301条の趣旨からすれば、要証事実について補強証拠によって一応の証明を果たすまでは被告人質問(311条)は許されないと解するべきである(渥美、田口は公判廷内での自白については301条の制約もないので実質説的見地から考えて良いとする)。