profile休みの日の部屋>2001年


12月3日


 今日の夕日はきっと綺麗なはず。そういえば沖縄にいながら、海がすぐそばの場所にすんでいながら最近ゆっくりと夕日を見ていない。
今日は、はじめて沖縄に来たときにみたような、燃えるような夕日に会えるのかな
あのときのように新鮮な気持ちで、そしてあの時には気づかなかった自然のことも常に胸にしつつこれからも進みたい







11月6日


今日の沖縄は風も強くて寒かった。でも今日は修学旅行生を本部の里と山と海に連れて行った。
最後に海にたどり着いて、みんなで浜辺に落ちているサンゴや貝殻、それに漂着物を探していると、アダンの木下にあるペットボトルに何となく目が行って、思わず手にとってみた。ペットボトルは中国のもので、中にはなんと手紙が入っている!たくさん落ちている漂流物の中で不思議にそのペットボトルに目が行ったのは、読んで欲しいと言う気持ちが伝わったからだろうか。
それにしても、海で流れ着いた手紙というのは物語などではみたことあったけど、自分が手にするのはほんとに初めてだった。
手紙は中国語で書かれていたけど、修学旅行生に中国人のハーフの子がいたので通訳してもらうと、なんと驚いたことに南から流れ着いたのではなく、北海道よりも北の、ロシアとの国境の黒龍江省から流れ着いたものだった。反流に運良く乗って流れ着いたと思われるけど、とてつもない長旅を経て手にした手紙だった。

「東の国にいる貴方へ読んで頂きたいです」

「私は黒龍江省に住む女の子です。この手紙を拾って読んでくれた方に、私はすぐにでも愛していると伝えたい・・・この手紙を拾って読んでくれた男性に、私はすぐにでも貴方の幸せをお祈りしたい・・・」
他にも文が書かれていたが、全体としてこのような温かい文章だった。
住所もかかれてなく返事もできないので彼女とこれから交流することはないだろう。でも、数千キロの長旅の末、自分の元に届いたということに、とてつもない奇跡と運命的なものを感じた。東ではなく西へと流れ着いたけど。幸せを願ってくれたこの手紙は大事にとっておきたい。
今ごろ、この手紙を書いた子は手紙が届いた夢でも見ているのだろうか。 みんなも海に行ってら漂流物を探してみるといい。ひょっとしたら、心温まる宝物がずっとみんなが気づくのを待っているかもしれないよ。









11月1日


 さっき、仕事帰りにCDショップに行って思わず買ったCD。「ちゅらさん」オリジナルサウンドトラック。
18曲が収録されているこのCDは、18曲全てが聴いているとたまらなく懐かしく、心を温かくさせる。ほんの最近終わったばかりのドラマなのにほんとに懐かしい。
 21世紀最初の連続テレビ小説「ちゅらさん」、その舞台は沖縄だった。僕が銀行員の仕事を辞め、新たな道を沖縄へ向けた日と、ほぼ重なるように始まったこのドラマでは、沖縄の抜けるような青空、どこまでも広い海そして沖縄のほのぼのとした温かい雰囲気が全国のたくさんの人に伝えられた。沖縄が大好きな人はもちろん、いままで沖縄に興味がなかった人たちも、このドラマで沖縄の暖かいてぃだ(太陽)とさわやかな風、そして沖縄の元気な心を感じ取ったに違いない。
 沖縄に住みながら、この曲を聴いてここまで懐かしくなるのも不思議だけど、  てぃだも、風もずっと変わらないけど
世界が変わってしまったからあの頃が懐かしいのかな。
 ちゅらさんはほんとに楽しかった!あの頃、沖縄のことが好きになってくれていたみんなは、いまもあの気持ちでいてくれてるのかな?
いま、修学旅行のキャンセルが相次いでいる。沖縄は危ない所と思われることに胸が痛む。こんな世の中だからこそ、みんなには是非沖縄に来て欲しい。ここは人間らしさを取り戻せる場所だと思うから。
 沖縄の暖かい空気を伝えてくれた「ちゅらさん」。それが終わってしまった今、僕たちが一人でも多くの人たちに沖縄の素晴らしさを伝えていかなければいけないと思う。そんな今の僕が幸せに感じる瞬間はやんばるで自然ガイドをして出会う修学旅行生の子供達が「沖縄最高!」と言ってくれる時だ。
 いまもBGMはちゅらさんの懐かしい曲が流れている。みんなもCDを聴いたり、ビデオを見たりしてあのときの暖かい空気をもう一度感じてみてはどうだろう。明日も頑張れそうな気持ちになれるはず。





10月19日


 沖縄に引っ越して1月が過ぎた。ようやく落ち着いてきたけど、まだテレビもついてないし買い揃えないといけないものもまだまだある。完全に落ち着くのはもう少し先かな?
それにしても、引っ越してきた日のことはかなり印象に残っている。
長く沖縄に居座った台風16号がやっと離れていった直後鹿児島から車ごと船に乗って沖縄に向かった。台風直後だけあって、ものすごいうねり!そして6時間ほど遅れて、28時間も激しく揺られ続けて意識も朦朧・・・・そしてようやく本部港に上陸。
もう時計は夜の10時半を回っていた。あたりは真っ暗。船を下りてもフラフラと揺れる状態でとりあえず名護方面へと真っ暗な道を進んだ。
俺はほんとに沖縄についたんだよな・・あまり実感わかないままカーナビのスイッチを入れた。最後にスイッチをつけていたときの鹿児島新港付近の地図が表示された。それからしばらくの間、現在地検索をするカーナビ。そして画面が変わった。現在地は海沿いの道、そしてナビ画面のその海には「東シナ海」の文字が。真っ暗闇の中それを見て、沖縄に来たんだ、遠くに来たんだという実感がジーンと沸いてきた。あの瞬間は忘れない







9月22日


 4月からずっと続いていた長い休みも今日で終わりだ。明日からは沖縄で働く人。沖縄の力の一部になれるチャンスをもらえた。
これからの沖縄生活がうまくいきますように。

TINKの活動も早く再開させたいな。






9月13日


 明日、ずっと慣れ親しんだこの町を離れる
今日はとても静かな夜だ。いろいろなことが思い出される夜だ。
仲間たちとハラハラドキドキしながら過ごした、あの輝ける冒険の日々も
古いアルバムを開いて、それを見ながら家族と笑いながら過ごしたあの夜も
仲間たちと共に心を燃やし、そして涙した あの最後の夏も
みんなあの日のここにあった・・・・
目を閉じて思い返すいくつかの場面には
あの頃確かにそばにいた仲間たち そして 大好きな福岡の景色
楽しかった  ほんとに温かかった

夢を諦めずに追って、追って、福岡を離れることになるけど
本当に両親のようにこの街を愛してる

僕が産まれた日から今日まで
ありがとうございました!
また会いに来ますから
いつまでも元気で、素敵な故郷でいてください
ほんとに大好きです! 福岡

それでは、行ってきます!







8月20日


 先日あるサイトの掲示板で、沖縄に引っ越すときなぜ「移住」という言葉を使うのかという書き込みがあった。たしかに沖縄の情報誌などでも見出しは引越しというよりも「移住」という言葉が目立っている。
 その書き込みでは、移住という言葉は悲壮感があるということも書かれていた。これは、かつての海外への移民計画などで過酷な立地条件で過ごしたという人たちがいたからであると思う。
 僕も沖縄へ移る場合だけ移住という言葉を使うことは、うちなーんちゅの立場からするとどういう気持ちになるのかなぁと思ったことがあった。同じ日本なのに大げさだなぁ、と感じているのかなぁと考えたこともあったけど、このことはもう忘れていた。でも、先日の書き込みでふと思い出したので書いてみることにした。

 僕は沖縄へ引っ越すことは移住の場合もあるし、引越しの場合もあると思う。必ず「移住」というわけではないのだ。そして移住という言葉自体には別に悲壮感などはないと思う。
 たとえば、僕がいま会社員であるとして転勤で沖縄に住むことになったとする。果たしてこれは移住というだろうか?こういう場合は引越しと言った方が自然だ。じゃあどういう人たちが移住する人なのか。

 沖縄には、俗に言う沖縄病というものがある。これは他県にはみられない不思議な病気だ。それにかかってしまうとみんな沖縄の虜になり、家に帰ったその日のうちからすぐに沖縄に戻りたくなったり、恋しくなったりしてしまうのだ。あまりに病気が重くなると、沖縄に住みついてしまうようになる(僕ももうじきそうなります)。
 そういった沖縄に住んでしまう人たちは、いままでの内地での生活を捨てて、沖縄で新しいことを始めようとする人たちが多い。このように新天地に全く新しいものを探しにでる場合、移住という言葉を使うのだと思う。

 しかし、例えば福岡の会社をやめて音楽をするために上京した場合なんかは、新天地に新しいものを探しにでるといっても、移住という言葉は似つかわしくない。
沖縄は内地とは違い、気候も亜熱帯に属し、独自の文化を育んできた。そういった根底が違う場所へと移るということも移住である要素じゃないかと思う。転勤で沖縄へ移った場合は、たとえ根底が違う場所へ移ったといっても、仕事は内地のことをそのまま継続し、会社の方の根底は内地にいるときと同じだから移住とは言わないのだと思う。
 以上のことを当てはめていくと、沖縄でなぜ移住という言葉が使われるのか、そして沖縄へ引越しすることとの違いが分かると思う。これに自分自身を当てはめると、どちらかというと僕は沖縄へ移住する派だ。会社もやめて、自分のやりたい新しいものを探すし、福岡から初めて離れて沖縄へ渡るし。

 移住という言葉に悲壮感が・・・という話もあったが、引越しにしても移住にしても、それによってうまくいった人といかない人のどちらもいるはずだ。外国に移住した人達も全員が過酷で終わったわけではなく、成功を手にした人もたくさんいる。
 それに、沖縄に「移住」している人たちを「移民」というだろうか?言わないと思う。そこが今までの歴史上の移住と沖縄へ住みついてしまう人たちとの違いだ。植民的な目的もある移住とは違って、僕たちがやろうとしているのは「引越し感覚の移住」である。「移住感覚の引越し」といってもいいかもしれない。そういう意味で、「移住」する人たちは気軽、身軽で前向きな人が多い。だから、沖縄への移住という言葉自体には悲壮感があるものではないと思う。

 以上がいまの沖縄で使われる「移住」のRyu的解釈でした。

 普段は別にこのようなことはこだわらず、引越しとも、移住ともどちらも使っているような気がする。別にどちらでもいいと思う。でも、このような素朴な疑問ほど掘り下げて究明したくなってしまうのが子供の頃からの僕であるし、これが冒険心にもつながっているんだろうなーって思う。それにしても、ちょっと堅い文になってしまった(^_^;。すっかりこの疑問のことは忘れてしまっていたけど、某サイトへ書き込みされていたDさん、思い出させて頂きましてありがとうございました(^o^)。また素朴な疑問が浮かんだら徹底的に究明しようと思います。それではみなさん、残りの夏を楽しんでくださいね。また会いましょう。







7月28日

 久し振りにこの部屋に入ってみました。梅雨時からそのまんまだったから、そろそろ空気入れ替えしないと。6月、7月と写真の更新ばかり集中していたんだけどようやく一段落したので、またここにも来ることにしよう。
 以前、僕は地元のキャンプ場でアウトドアの指導員をしていた。自然が好きだし、子供達にキャンプや自然を通して感じるいろいろなことを伝えたいという気持ちがあって、本当に楽しい時間を過ごした。これから住むことになる沖縄でも、できれば子供達やいろいろな人たちにアウトドア体験を通じて、自然の大切さなどを伝えていくことができたらと思っている。そんな日は、僕が「乾ききった畑」から「実りある畑」にかわったときに訪れるのかもしれない。
 沖縄は、面積的にはとても小さいけれど、そこに息づく自然はとても奥が深く、貴重で、自分にとっては未知のものばかり・・・壮大なスケールの冒険で追い求める宝物のようなものだ。そういう意味では、やんばるの森なんかは僕にとっては全く未知のたくさんの宝物が眠っているフィールドそのもの。でも、そのフィールドの宝物をすべて極めるなどという心・技・体は、いまの自分には全く備わっていない。福岡ではTINKER−BELL一筋でいながら、本当に自然を体感できる、自然に包まれるような時間や、自然の宝物探しといった、少年時代から大好きだったはずのことを果たしてどれだけ作り出しただろう?僕の冒険心に広がるフィールド自体も、もう何年間も未開の地となっている。いまでも「アウトドアの達人」などとたまに言われることがあるけど、忘れたことも知らないことも多い。まったくの初心者とそうかわらないというのが現状だ。
 ただ、自然も冒険も一度も嫌いになることなく、今でも大好きだ。その上にまったく未知の沖縄の自然が存在し、そして未開の自分自身がいる。言い換えれば、これから限りなく楽しめるシチュエーションが出来上がっている。
 沖縄に住んだら、沖縄の自然に息づくさまざまなものを、自分自身が乾ききった畑のように吸収し、そしてその「畑」が実り豊かになったら、その実った種をたくさんの人の心に植えることができたらと思っている。そういう意味で、いまの僕とこれからの僕はどちらも「畑」にたとえればピッタリくる。
 また書きます。







 

6月12日

 最近、以前よりもこのコーナーの更新が早くなってることにみんな気づいてますか?
普段何気なく思いついてたことを書いていたこのコーナーは僕自身存在を忘れていたこともあったりしたんだけど、
中にはかなり熟読してくれる人もいて「はやく次の日記かいてよ!」とリクエストまで受けることも(笑)
でも、とても嬉しいことだなと思うので今日も9日ぶりに更新です。

 そんなリクエストをくれる人に、先日「どうして日記は博多弁でかかないの?」という、思ってもない質問をうけた。
そこまで考えたことはなかったけど、それは、何気なしに書いているからかな、と思う。
古典や民謡で、古いことばや訛りが多用されているのはそれはごく自然であるかもしれないけど、たとえば最近の歌に英語が部分的に使われたり、演歌の一節に方言が使われていたりするのは、「アクセサリー」的なのもとしての所以が大きいと思う。
 僕は昔からの博多のことばは知らないので、自分の知っていることばをだけを方言にしたり、語尾をかえてみたりして文を書くのは、ある意味「アクセサリー」をたくさんつけて文の内容よりも、そのアクセサリーに読む人の目が行くようになってしまうことになるだろう。たとえれば、紅白歌合戦で毎年ものすごい衣装で登場する歌手がいるが、衣装は印象に残っても何を歌ったのかは全然印象に残らないというやつかな(?)。
 会話の上では普段使うことばの節々に訛りはあって、それが一番自然だけど、文章は指で発する上に方言独特のイントネーションを表現しにくい。
だから、ここで何気なく飾り気なく書いている文章は博多弁じゃないんだと、自己分析をさっきした結果でた。う〜〜ん、何気なく書いていたのにこんなことが裏にあったとは自分でもびっくり!といっても、自分が標準語と思っていても実はそうではないものもあるだろうから、ここに書いている文章はけっこうめちゃくちゃかも(^_^;。
 でも、無意識に自分がやってることを質問されて、それを自己分析するのは意外に面白い!質問くれた方、ありがとうございました。答えはこれでよかったでしょうか?
今度、一度博多弁バージョン、チャレンジしてみようかな?








6月3日

 人生、生きていく中で偶然はない
今日 友達がそんなことを言ってた
いままで偶然の結果と思うことがたくさんあったけど
毎日 自分の進んでいる道で出遭ういろいろなものが
必然的なものだとしたら、なおさら毎日を大切にしたい
偶然手に入れたと思っていた宝物を、今まで以上に大切にしたい 






5月23日

 沖縄行きまであと2日。ここまで待ち遠しかった沖縄は初めてだ
いてもたってもいられないこの気持ち。この時間 早送りできないものかな
 夢の力ってすごい。いまの自分をここまでの気持ちにさせてるのは
沖縄病だけじゃなくて、きっと夢の力が加わったから
僕の「夢」の一文字には 自然、冒険、友情、恋愛、未来、風が生きてる
そのすべてが明後日から始まる冒険で実現していくことを祈ってる
今度の冒険はいままでで一番すごい宝が見つかりそうだ
そんな冒険を目前に トム・ソーヤーとしてドキドキするし
心が燃えてる  いたたまれない






5月20日

 

どこまでも広がる青い空が好き
どこまでも広がる母なる海が好き
こんなに素直に思えるのは いつ以来だろう

今年の五月の鮮やかな緑は 心にも若葉を
今年の五月の優しく、さわやかな風は 心に風をくれた

すべてを捨ててはじめた冒険    本当は少しだけ不安だった冒険
でも、いまのボクの両手には あの頃なかった宝物
島のたくさんの仲間達  追いかけ続けたくてたまらない夢
同じ夢を持つ大好きな人  少年時代に燃えていた冒険心

そんな両手いっぱいの宝物がいまのボクの心に
素直に自然を愛する心を思い出させてくれた
あたらしい希望と、眠っていた風を起こしてくれた

そんな両手いっぱいの宝物だけど
まだまだ冒険は始まったばかり
途中で宝物を落とさないように  そして新しい宝物も手に入れるために
秋には島に冒険の基地を作らないといけないな・・・・

いまボクは心に風がある  風に乗っている
こんなの何年ぶりだろう・・・
いまボクは生きている・・・それを感じる

風はあるけど金はない
でもそれはあの頃も同じだった
だったら今のほうがずっといいんじゃない?

辛いことが待ってるかもしれない
でもそれもあの頃と同じ
今のほうがずっといいに決まってる
こんな気持ちで毎日いられるんだから






5月15日



 最近、トム・ソーヤーになることが夢だったときの気持ちが再燃してきている。
少し前まで日々の生活に忙殺され、社会の荒波にもまれながら いろいろと忘れたものがあったようだ。
そういう時間にいた頃は、そういうことを忘れたことすら気づかないんだけど 今はそういうことに気がつくようになった。
沖縄に出会えただけでなく、トム・ソーヤーになる夢を蘇らせてくれるような人とも最近知り合うことができた。
子供の頃の夢も、大人になってからの夢も追いかけることができる僕は本当にラッキーだ。
 そういう冒険心が復活したのか、今日は勉強が終わったあとに 
子供の頃に当時の冒険仲間たちで大人になってからの夢を約束しあった「海が見える丘」まで行ってみた。
その冒険はいまのTINKER−BELLのスタートでもある18年前の出来事で、この日記の2年前の10月に詳細をかいている。
 当時、僕の部屋に放課後にみんなで集合して冒険に出ていたんだけど、あの丘にたどり着くまで1時間以上かかっていたと思う。
しかし今日歩いてみるとたったの15分だった。冒険にかかる時間は好奇心と正比例なので、きっと当時の僕たちはその丘にたどり着くまでに
いろいろなものを発見して、そのたびに感激したり驚嘆したりしながら冒険していたのだろう。好奇心と感受性が底なし状態だった少年時代の僕と今の僕が
冒険対決をしたら、きっと今の僕はほとんど勝てないんじゃないかなって思う。
 丘までの道のり15分・・・でも、この15分の道のりを歩くのに僕は18年の時間をかけたんだな・・・・
子供の頃に見上げた大きな丘は いまは住宅地になってたくさんの家が建っていた
 きつい坂道を登り終えて振り向いた
 みんなで海を見た丘  夕焼けの中、みんなで約束をした丘
 僕には、もう海も 沖に浮かぶ船も見えなかったけど
 大人になった今 約束した仲間たちはもういないけど
 この丘は僕の夢の原点にかわりない
 南の島に場所は変わったけれど
 僕には、海も山もしっかり見えている  そして大切な仲間たちもいる
 これからも沖縄で、残された少年時代を駆けぬけていきたい
 だからやっぱり僕はトム・ソーヤーになろうと思うんだ

 
 



 

4月19日



 
少し前まではその人の存在すら知らなかったり
CDでその人の歌声を聴くといったとても遠くの存在だった人たちが
いまでは僕の大事な友達であり、仲間であったりする。
 とても不思議な気持ちだ。
 知り合うきっかけは ふとしたこと
 でもその出会いがそれだけにとどまらずにいろいろな感動や新しいつながりを
プレゼントしてくれる
 逆にふとしたことだからこそ もしかしたら僕はそんなみんなの誰とも会うことなく
今を過ごしているかもしれない
 相手の気持ちを考えながら、そして自分の気持ちに素直になって
夢を追いかけるという生活を思い始めたときから
 ほんの少しだけど自分の前に無数に散らばっている「キッカケ」をつかめるようになったみたいだ
とても楽しいし、もっと大事な仲間も欲しいから こんな不思議なストーリーはこれからも続いて欲しい






4月1日


 
大きな分岐点だ
ずっと前から見えていた分岐点が、いま自分の目の前にある
さあ進もう   自分が素直に進みたい方向へ
いままで自分をしっかり守っていた、頑丈な、とても重い鎧を脱ぎ捨て
進むんだ 自分のために






3月25日


  今の職場も、退職まであと5日間となった。それにしてもよく思い切ったことしたなと自分で思う。ただ、前向きなことだから気持ちはとてもワクワクしている。
自分が新しい道を選択したせいか、周りにも新しい道を選ぶ同年代の人が最近目立つような気がする。スポーツ、芸能界などでたまたまそうなのかもしれないが。
 やはり生きている以上夢は持つものだと思うし、夢はやっぱり追うべきだと思う。ただ、今の世の中それがとても難しいことだったりする。夢を追うときはたくさんのものを置いていかないといけないから。
 僕はその点身軽だし、なんとか夢を追うことはできそうだ。もし夢にたどり着けなくても前向きに生きている以上、満足できると思う。「前向き」  いまはこの気持ちを一番大切にしている。
 先日かつしくんのMotherEarthが活動休止宣言をしたということを知った。しかしそれは、かつしくんと清貴くんが休止したわけではない。留学、そして新たなものを吸収していくための前向きなものだと思う。夢を追うためには置いていかないといけないものがあるといったが、またとりに行くことができるものもあると思う。いつの日かさらに大きくなったMother Earthを感じることができればと思っている。
 来週の今日からは僕も新しい人生。ただ、しばらくはコツコツと一歩ずつ進むだけ。もちろん方向は「前」を向いてだ。




2月11日 

 休みの日に実家に帰って勉強するときは、自分の部屋ではなく、2階にある父の書斎でやっている。
自分の部屋は散らかりすぎているし、とても落ち着いて勉強できる雰囲気じゃないからだ。
 この2階の書斎も10年ちょっと前までは子供部屋に使われていて、もともと僕や弟が使っていた部屋だった。それを、壁などを張り替えたりして綺麗な落ち着いた部屋に改装した。父は僕以上にアウトドア派だから、この部屋はいまはすっかりとアウトドア派の男の書斎となっている。
 でも、この部屋の押入れだけは昔のまんまの時間と空気が詰まっている。
今日、勉強の合間にこの押入れを開いてみた。この押し入れには、僕の子供の頃からの宝物や思い出に残るもの、残したいものを当時の僕がつめこんでいる「思い出箱」がある。20年以上前に、母が買ってきた箱だ。
 「ああ、こんな箱があったなぁ」と。  何年振りだろう、この箱を開けてみた。
 いろいろな時間のいろいろなものがある。日記、絵日記、おもちゃ、絵、手紙・・・・・この箱の中はまさに僕のタイムマシーンだ。普段の生活では思い出すことすらないであろう、ある日の出来事、その時間が、それらひとつひとつをみると思い返されていく。大きな箱なのでとにかくたくさんのものが入っている。幼稚園くらいのときから、高校の頃のものまで・・・・高校の頃のものはいったいいつ入れたんだろう?最近のものの方が逆に思い出せない。
 笛をみつけて吹いてみたり、小学1年の時に父へ書いた手紙の意味不明さに笑ったりと、いろいろとタイムスリップを繰り返して行くうちに、、奥の方から母子健康手帳が出てきた。自分で入れたつもりはなかったんだけど、初めて開いてみた。
 僕が生まれる何ヵ月か前から、ずっと丁寧にいろいろなことが書かれている。見開きに母と僕の名前が書かれている。その当時の母は、今の僕よりも年下だ。それでも、ここまでいろいろなことに気を配り、自分を育ててくれたんだなと、胸が熱くなった。
 この思い出箱は少年時代の宝物がいっぱい詰まったまさに「宝箱」だ。あんまりみてると時間を忘れてしまうので、また今度気分転換にゆっくりとみてみようと思う。ただ、今日は両親への感謝の気持ちを改めて思い返すことができた。去年からいろいろと心配をかけてしまっているので、今年はその分親孝行もしたいと思う。



1月27日

 21世紀。いよいよ新しい人生が始まるまであと少しになってきた。
いまになってやってて良かったと思うのはインターネットだ。竹富島を知ったのもインターネットだし、そこでもたくさんの友達ができた。また、今年から移り住む沖縄にも、まだ会う前から友達になった人達がたくさんいる。本当にとても心強い。
 とりあえずで買ったパソコンだけど、あのとき始めてなかったら今頃何をしているんだろうなぁと思う。なんとか始めてみたホームページも開いて3年が経った。知識がないので大したページではないけど、いろいろな人と交流ができているので、やってて良かったなと思う。