第一部:南向き

 
あの日、南向きの大きなガラス張りの窓から、道をつかつかと 歩いていく人たちの姿がよく見えた。
窓から見える四角い空は、明るくも、確実に光を遮る執拗な雲に覆われていた。
雨は、緑に染め変わった木々につやを与えていた。



「リュウ、あんたさっきから窓の外を眺めてばかりね」

さつきがあきれたように言葉を吐いた。
あんたは
ここへなにをしに来たの、とでも言いたげだ。
その店で給仕を務める「メイド」と会話をすることが、その店を訪れる者たちの、一つの目的でもあった。

俺には、しかしそれ以外の目的があった。

その店には天井から吊り下げられた大きな画面があった。
初めて見るアニメが流れていた。



時間が交錯する。
あの子はなんという名前だったろう。



その店には
かつて、限られた時にしか出されない、名物のコーヒーがあった。
メニューにも載っておらず、そして明るい時間にしか出されなかった。
そのため誰もが知っているものではなかった。
その時間を共有する者たちだけの、暗黙の認識。
俺は、コーヒーにはミルクも砂糖も入れることはしなかった。
もしも俺にとってミルクや砂糖を入れるのが常であったにしても、そのコーヒーにそれを足すことは、決してかなわなかっただろう。

カップに注がれた、黒々並々とした液体の記憶。


駅のホームに電車が滑り込んでくるのが見えた。
パンタグラフだけが、うっすらと確認できた。
暗くなりかけのこの時間、そのコーヒーが
出されることは、決してなかった。
只の一日を除いては。



外の明るい時間に、そこにいることが好きだった。

店は、夜になればまた違ったにぎわいを見せた。
にぎやかな事が決して嫌いではなく、そして夜のにぎわいに酔いしれる事も少なくなかった。
店の、夜の表情も好きだった。
何ものにも替え難い、夜の世界。
夜の住人。

一方で、解放的な安心感が、明るい時間にはあった。
絵を描く者も、他愛ない遊びに没頭する者もいた。
話すこと、歌うこと、あらゆることが静かに思えた。
ゲームをすることも、画面を眺めていることも、外を眺めていることも、沈黙すらも、自由だった。
何より、煙に悩まされないことがいちばんありがたかった。



あるとき、俺の脳裏に思考が過った。
その窓は、単に明かり取りのために南に向いているのではないのではないか。
もっと大事な役目、そんなものがあるとしたら、それは何なのだろう。
一体、俺達に何を見せるために。



「どうせまた何かくだらないことでも考えてるんでしょう。リュウのことだもん。」

さつきが不意に話し掛けてきた。

「人が考えることの多くなんて、所詮くだらないことばかりだろうさ。でも、今考えてることは、そうくだらないことだとは思えないのだけどね。」

さつきはため息をついて押し黙った。
話を聞いたところで理解できないとでも思ったのだろう。
話が尽きた様子を見計らって、メイドがさつきに話し掛けた。

「好きなアニメはなんですか。」
「ううん、えっとね、我が家のお稲荷さま。って知ってるかな。」

共通の話題があれば、意気投合するまでにたいした時間は要らない。
二人はすぐに、クーちゃんは男と女のどちらがいいかとか、コウは世間知らずだけどそれがいいとか、恵比寿とかいうコンビニ店員の声優が誰とかだという話に なった。



今では、この窓から外の景色がきれいに見えるのは、夏の時期の夕方早い時間と明け方しかない。
もうあの頃のように、外の景色を見ることが自由ではなくなった。



あの子には、窓の外の景色 がいつもはっきりと見えていただろう。



そこからパンタグラフが見られるのは、あと何回なのだろう。
俺は知っていた。
その窓から見える景色は、いつしか、もはや景色とは呼べないものになってしまうのだ。
そうなるまで、あとどれだけの時間が残されているのだろう。
大きくても、四角い窓から見える景色には限界がある

大きな窓は、これまでほとんど変わることのない景色を見せ続けた。
そのことは少なからず安心を与えてくれた。
窓から外を眺める時間の大部分が、暗い時間に限られてしまった今となっても変わることのなかった安心感。
それが近い将来、変わる。

俺はどうしてもこの景色を焼き付けておきたかった。
記憶というものは、どういうわけか、いつの間にか霞がかかったようにぼやけてしまっている。
変化する前の景色を細やかに覚えておける自信がなかった。
たちまちこの窓が曖昧さの象徴に見えてきた。



雨が降っていたあの日、道を急ぐ車に水をはねられたことを覚えている。
雨が上がるまでこの場所で過ごした。
今から丁度一年前。
5月6日。
初めてここに来た日。
そうだ。
俺はあの日のことを確実に覚えている。



選択。
残されたか、あるいは思い出すことも許されない程に忘れ去ったか。
裁きにかけられた過去の記憶。
そして、これからその天秤に載せられるであろう将来の記憶。
俺は今、その曖昧さに戸惑っている。
記憶が残されていたことに対する安心感と、もしかしたら知らない間に失われるかもしれない憂い。
そして確実に失われる景色。
心のなかを、なんとも表現し難いモヤモヤとしたものが渦巻いていた。

あの窓は、将来、俺にその答えを与えてくれそうな気がした。



黒々としたコーヒーの味が、俺を現実に呼び戻した。


 

 


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ゆたぽん作
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