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  続・おたより  
   
  不適格ココロ 2006.11.29 ココロニュース42号 おたより  
 

自己疎外からの脱出
乗松 優(九州大学大学院)

北九州市立S小校長が自殺したのを知ったのは、ココロ裁判を傍聴してから一週間後の朝だった。私はその日の前日、学会報告のため上京していたのだが、宿で第一報を知ったとき、何か事件は起こるべくして起こったなという印象を受けた。当日の朝日新聞には、北九州教育委員会大庭清明教育長による次のようなコメントが掲載されている。

「結果としていじめを隠したと思われて仕方がない。対応が極めて不適切だ(2006年11月13日付け)」

いじめ隠蔽と校長の自殺を繋げる手がかりは、今のところはっきりしていない。しかし、教育長が指摘するように、いじめの対応における問題点は果たして永田校長だけにあったのだろうか。この問いを手がかりにしながら、裁判を傍聴した感想を書きつづりたい。

結論を先取りすれば、(北九州市に限らず)いま教育の現場で起こっている諸問題は、個人に帰するほど単純であるとは思えない。私は未だ大学院で教育サービスを受ける側にあるが、同様の問題を高等教育機関においても実感する。私は根本的な原因がむしろ、自らの責任を放棄して誰彼が悪いとあげつらう組織の機能不全にあるように感じられる。

これまで『ココロニュース』に掲載された傍聴記の幾つかにも書かれてあるとおり、私にとっても初めて見る裁判はひとつひとつが新鮮であった。物腰の柔らかい裁判長、弁護士など代理人を立てずに闘う原告。どれをとっても、私がイメージしていたものと異なっていた。しかし、私が最も違和感を覚えたのは、被告席に座る北九州市教育委員会の態度そのものであった。裁判は「事実」を詳細に検証し積み重ねる場であるにも関わらず、彼らは提出された資料確認をする以外、審議中ほとんど口を開くことはなかった。それどころか裁判長自身が、原告側から提出された問題に対して、教育委員会が真摯に答える心づもりがないであろうことを指摘する始末であった。

私は、このような「謙虚」な方々を以前テレビで見たことがある。それは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において虐殺に荷担したかどで告発されたセルビアの一兵卒である。彼は国際戦犯法廷で有罪を言い渡された際に、「私は悪くない、上官から命令されただけだ」と言ってその場に泣き崩れた。無論、事実はその通りであったかもしれない。そして見方によっては、彼自身も戦争の一被害者と言えるかもしれない。しかし、事の本質を見極めることなく組織が命ずるがままに、無批判に現実を受け入れていくあり方自体、紛れもなく「有罪」に値すると私には感じられた。

教育の現場と戦場を比較することは大いに無理があるかもしれないが、私は「良き社会」の有り様をイメージすることもなく、嵐が過ぎ去るのをただ黙って堪え忍ぶような教育委員会の姿に、セルビア兵と共通する何かを感じた。ココロ裁判は、そうした保身主義や官僚主義にとらわれて批判性を失った多くの「現代人」の横っ面をはたき、人間として自発的な能動性を取り戻す勇気ある闘いだと私には思える。


ぜひとも、証人尋問の獲得を!
松岡 勲(学校労働者ネットワーク・高槻)

11月6日の「ココロ裁判」福岡高裁口頭弁論を久しぶりに傍聴しました。福岡地裁判決のとき以来の傍聴でした。(高裁段階の審理については、学労ネット・高槻の仲間が2度傍聴に行っていますので、原告ががんばっておられる様子を聞き、休憩時間訴訟をやっています私たちは元気づけられてきました)

高裁段階の裁判は地裁段階と違い、比較的短期日で終了する傾向にあるので、「ココロ裁判」がその壁をどのようにして突破しようとされているのかとても関心がありました。今回の弁論は、東京地裁の「君が代」違憲判決と北海道人事委員会処分取消裁決の画期的意義を非常に的確にまとめあげられ、展開されました(「準備書面(7)」)。このふたつの判決(裁決)をテコに「ココロ裁判」において「一審被告の立証は欠かせず慎重な事実審理のためにその採用は欠かせないものである」と証人採用・事実審理を迫られる原告団の攻勢的裁判戦術は見事!でした。裁判はこのまま安定的に継続するものと確信しました。 原告の方々が、福岡地裁判決で北九州教育委員会の行政「指導」が「教育基本法10条(教育は、不当な支配に服することなく…)」違反であるとしつつも、校長に裁量権が存在したとして原告の主張を認めなっかたことを批判し、卒業式・入学式で校長は全く裁量権を持たず、市教委の顔色を伺い、市教委の指導に汲々と従うのみであったことを事実をもって主張されていました。その事実に立ち、証人尋問がぜひとも必要であることを力説されている姿は、私たちの休憩裁判で証人尋問を要求してきたこれまでの経過と重なりました。

私たちの裁判はようやく被告側が証人申請をせざるを得ないことろまで追い込むことに成功し、今後次のような展開になります。来年1月15日に被告大阪府側の大阪府教育委員会教職員課課長補佐、被告高槻市側の校長2名の尋問、2月14日に被告校長3名の尋問と続きます。この過程で被告高槻市側の教職員課長も証人に引っ張り出したいと思っています。ここまで行けば証人尋問で半ば勝ったも同然になります。最近、被告の陳述書がやっと到着しましたので、これから尋問戦術の原告検討会を始めます。

「ココロ裁判」の傍聴を続けて来て、北九州市のみなさんに強く影響され、高槻でも弁護士なしの本人訴訟をやりたいと考えて裁判に踏み切り、今の段階まできましたが、今後、「ココロ裁判」が証人尋問・事実審理を獲得されますよう、高槻の地から連帯のエールを送ります。(2006・11・22)


パンクは死なず
丸田弘篤(fnf/fufフリーターユニオン)

先ずは個人的な趣味の話から入らせてもらいます。僕はパンクがとても好きです…といったら、この裁判でパンクを感じたと書く気だろうという突っ込みが入ると思います。そのとおりですが、それが何か?

パンクとは、言うまでも無く抵抗であり、変革を求めるものであるわけですが、その重要な要素としてDIYというものがあります。日曜大工のDIYではありません。本来の意味でのDIYです。DO IT YOURESELF=要するに、自分たち自身で何事かを行っていくということです。自分のことは自分でヤルということが、どうしてパンクであり、抵抗の重要な要素なのか?それは、社会の中での既存の枠組みを拒否し、そこから逸脱していく姿勢だからです。つまり、資本や体制によってあらかじめ用意されているものによって自分の欲望を満たすのではなく、自分たち自身で欲望を満たすものを作り出していく。あるいは、あらかじめ用意されているものも自分たちの欲望に合わせて好き勝手に使っていく。そうするためには、自分たちのことは自分たち自身で行う姿勢を持たなければならないからです。そうでなければ、何事かを行っても、資本や体制に回収されるための努力にしかならなくなってくるでしょう。それは、一見能動的に見えてもきわめて受動的なものでしかありません。さてさて、ココロ裁判はまさにその、DIYを実践している現場だと思います。自分たちで、自分たち自身の抵抗を作り出していくこと。これを、パンクといわずして何と言う?いわゆる「裁判の原告」という枠に収まった存在で、「普通」の裁判をやっていたら、東京や北海道で起こったことのさきがけとなることは、無かったはずです。

日本のパンクは、ここにある…多分、いや、きっと。


教育基本法について福岡県教育委員会へ申し入れ報告
きっかけは中央政治から離れたところから見えてくるはず!

11月15日、「教育基本法の『改正』ではなく、その目的=憲法の理想実現を求める申し入れ書」を持って福岡県教育委員会へ行ってきた。当日は北九州市や佐賀県鳥栖市から来た方もいて16名の参加。奇しくもこの日は衆議院の特別委員会で教育基本法改正案が強行採決か?!という日…だったけど、教育委員会のフロアにはそんな雰囲気は一ミリたりともなし!

県教委側は、教育基本法の担当ということで「企画調整課」が対応。きちんとした回答をもらえるように一週間前にファックス・電話しておいたのに、教育委員や教育長には連絡していなかったことが判明。文書の取り扱いも杜撰で、冒頭から市民の声を軽視する県教委の姿勢が露わになった。で、ようやく本題に入ると、申し入れ項目「1.これまでの教育は教育基本法に則って行われてきたのか、その認識を問う」については、「教育基本法に則ってやってきました。これはもう当然であって言わずもがな」との回答。「ウソこくな!」と言いたい気持ちを押さえ、続きを聞いてみる。「2.今後とも、教育基本法を遵守しその目的実現に向けた教育を実践すること」「3.政府に対し、教育基本法の『改正』ではなく、まず、その制定の目的を実現する教育行政を求めること」については、「お答えを差し控えたい」との「お答え」。無責任かつ主体性のない対応に、参加者から質問が続いたが、「国会で審議されていることであり、公務員としては意見を控えたい」「推移を見守りたい」の繰り返しに終始した。

ところで、この間、教育基本法「改正」反対の運動が盛り上がっている(のだそうです)。しかし、東京の国会情勢(それも、民主党の茶番劇)だけが全てかのような雰囲気には何だか違和感がある。(教科書問題もそうなのだけど)法律ひとつが変わったら即「いつか来た道」になるかのようなもの言いも、また非現実的なプロパガンダだと思うし。というようなことも思いつつ、福岡県教委に行ってきたのだが、地方自治だとか教育行政の独立だとか、戦後教育法制の大原則は、もはやタテマエとしてすら認識されていないという現状を再認識させられた。そんな状況だからこそ、きっかけは中央政治と離れたところからこそ見えてくるような気がしている。各地域で教育委員会と向き合う人が増えるだけでも結構、状況は変わると思う。とか、えらそうなことを言っている自分も、実は福岡県教委は初めてだったんですが…。  
(すみたに@都教委追っかけ)

福岡県教育委員会への申し入れ


教育基本法の改悪を止めよう!11・12全国集会に参加して
原告 牟田口カオル

「ココロ裁判」原告団としてこの全国集会に参加させてもらったわけですが、この報告を書く前の11月16日、強行採決、衆議院通過。が、気をとりなおして報告します。

11月12日、市民グループの若い人たちが企画、実行の中心を担ったというこの集会には、北から南から「改悪を止めよう」との思いで8000人が集まり、日比谷公園の音楽堂を埋め尽くした。スポーツ観戦に行かない私は、こんなに多くの人を一度に見たことが無いというくらいだった。この集会の前段に、全学労組の独自の集会が1時間ほどあり、それを終えて音楽堂へ移動するとすでに会場はいっぱいで、会場の最後尾をうろちょろするはめになったけれど、この集会の意義は大きかったと思う。この大きな動きをメディアはほとんど報道してないようだが、ここまで改悪反対の動きが高まってきたのだと実感することができた。もちろん一人一人が自分の足元でできることをしていくことが大切であることは言うまでもないが、一所で結集するという見える運動はパワーをつくるものだ。そんな改悪反対の声が高まる中で、強行採決がなされた。しかし、多数の横暴がさらけ出され、このような醜い者たちが教育を変えようとし、「美しい国づくり」だの言って強行に国をかえようとしていることが見えたと思う。疑念は、今後広がり深まるにちがいない。

今、やらせのタウンミーティングが問題になっているが、基本法を改悪しようとする国の野望は何年も前からはっきり打ち出されていた。2002年、教育基本法「全面見直し」を掲げ中央教育審議会が地方5箇所で公聴会を行ったとき、私は福岡会場に応募し参加してみて、これが改悪のためのアリバイ作りだとよ〜くわかった。当時、市民の間では教育基本法には関心が低かったもかかわらず、公聴会では、抽出された意見発表者の半数から「改正」論者の論をなぞった内容で意見発表がなされた。このこと自体が世論操作といえる。会場はぐるりと監視の者が取り巻き、ものものしい雰囲気があり、傍聴者の反対意見を威圧していた。そんな公聴会を通して、多くのマスコミは主催側の意図どおり「改正」をクローズアップさせた。今の教育はまちがっている、改革が必要だ、基本法の「改正」が必要だとの世論づくりにせっせと加担していった。今日の強行採決に至るまでの全過程がやらせだったと言っても過言ではない。

それから4年。全国各地で集会や学習会、街頭でのよびかけ、リーフレット配り、新聞意見広告…様々な地道な改悪反対の努力が続けられ、「子どもはお国のためにあるんじゃない」、「戦争のできる国づくりNO」の声は大きくなった。そして、全国集会8000人。16日には国会前ヒューマンチェーン5000人、そして国会前は連日騒然としているそうだ(マスコミは報道しないが)。私は集会の前日の11日に東京へ飛び、「世界平和アピール7人委員会」の講演会で武者小路公秀さん言葉を聞くことができた。「未来は変わる。昨日、今日の続きだけでなくいろいろな要素がでてくる。努力しているうちにチャンスがあったらつかまえる」そのとおりだと思う。日比谷公園では、若い女性が二人でダンボール箱をかかえ、威勢よく声を張り上げていたのは札幌市教職員組合の方で、せんべいとティーバックのセットを売っていた。「みんなで教育基本法改悪させんべい!」と「みんなで教育基本法をまもらなくっ茶!!」だあった。ちょっとした工夫で楽しく運動ができるんだと感心。いい東京みやげにといくつか買って職場で配り、概ね喜んでもらえた。


こころこうき・・・しんどいけど、抗うしかない!・・・

ここ1か月ぐらい、連日、単位不履修問題やいじめ自殺問題などがマスコミ報道されている。報道がヒートアップしていく中で、学校を取り巻く問題としながらも、学校の対応や教員の資質ばかりを問題視する言葉が独り歩きし始めている。テレビ報道で対応の不備を謝罪する教育委員会・校長の姿を幾度も見かけた。駅の売店で「子どもを殺すのは親か、教師か!」などというショッキングなタイトルの雑誌も見かけた。

ここ数年、教員の仕事は様変わりしてしまった。小学校英語、パソコン、食育、習熟度別少人数指導、特別支援教育など次々と規制緩和が持ち込まれ倍増した仕事量に、いつしかその日の仕事をこなすだけで精一杯の超過密労働になってしまった。それでも大半の教員は、不登校・いじめなどの問題に向き合い苦悩しながら生徒指導に取り組んできた。そんな現場の苦悩とはまったく別のところで教員・学校バッシングが続く。

10月末、市教委指導部は突然、学校現場の頭越しに「全戸家庭訪問・面談によるいじめ問題総点検」なる方針を提示した。誰が!いったい何のために!この手のトップダウン施策は今に始まったことではない。ゆとり教育批判、学力低下問題報道からの「放課後なるほど教室」「夏の教室」施策など、どれも現場労働の実態を知らない官僚的発想の産物(?)。トップダウンで持ち込まれるたびに学校現場はせわしなくなり、重苦しい時間が増えていく。「またか」とぼやきながらも、明日に持ち越さないようにと上から下ろされてきた仕事をなんとかしてこなそうとする。現場には現場の仕事があり、現場にいる人たちは外からの声を拒んではいない。しかし、市教委の思いつき施策に振り回され、上意下達やむなしとする空気が職場にできあがっている。官僚発の見かけばかりの言葉がいつしか独り歩きして、現場からの声が踏み消されていく。郵政民営化のときもそうだった。今回の教員・学校バッシングの陰には、教育基本法を「改正」しようとする勢力の影があるように思える。学校教育「再生」を言うなら、現場の声に応えよ。予算を、人員を増やせ、学級の子どもの定数を減らせ、教員に教育の自由を保障せよ...。行政官僚の論理に振り回されてはならない。ココロ裁判と同様に、今は「トップダウン」を学校現場が直面している問題を覆い隠し、教員・学校バッシングに乗っかって現場管理を強めようとする教委の「介入」としてきちんととらえ、現場の言葉を実感できる人たちとともに、それに抗う声をあげ続けよう。(いのうえ)

 
 

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