2010年春 最近の原告事情
まだまだ、とおくまでいくんだっちゅうの…と、思えば遠くへ来たもんです。
まだまだ、各所で生き延びている原告らのほんの少し成長した姿(?)を、お世話になってきましたみなさんに、ご報告いたします!
最近の職員会議(卒業式)事情
原告 友延 博子
今年も卒業式の時期がやってきた。月行事に職員会議(卒業式)という文字を見ると、若干緊張するのは昔も今も変わらない。新任校長にかわって初めての卒業式だ。緊張はするが、会議で校長がどんな受け答えをするのか楽しみでもある。卒業式の職員会議の日は普段の会議とはやや違う雰囲気がある。
私「君が代について、教育委員会の指導部からどのような指導がなされたのか」
校長「指導の内容を言っていいかどうかわからないので保留にしたい」
警戒心が強いのか、言うことで自分が不利になると思っているのかよくわからないが、とにかくスタートから不誠実で感じが悪い。(中略)
私「始業式の時、誰もいないのに頭を下げてステージに上がっていたが、何に向けて、または誰に頭を下げているのか」
校長「慣例です」
その後、こちらが何を言っても「慣例です」を繰り返すだけ。これもまた開き直りにしか見えず超感じが悪い。(中略)
私「児童にも、君が代を強制するのか」
校長「(やや沈黙した後)その答えになると思うので…」などと言って、突然「国歌斉唱時は式次第にのっとり…」と職務命令を読み上げたのには予想外の展開でびっくり。
こちらもムッとしてその後やや険悪なムードになった。それにしても事前に「日の丸」や「君が代」は強制すべきでないという要求書も出し、校長の職務命令で内心の自由を侵すことの重さを伝えていたにもかかわらず、「めんどくさいから、今日の会議で、言っとこう!」みたいな勢いとノリで職務命令を出す校長とは何なのだろうか。自分が出した命令によって職員が懲戒処分を受けるかもしれないという責任の重さを少しも感じていないように思う。違反する可能性のある私は二階の放送室にいるのだから、形式的に出しておけばいいと思っているのだろうか。しかし、卒業式当日、「今日は全員そろっているのでもう一度言います。国歌斉唱時には式次第にのっとり…」と二回目の職務命令を発したのである。
とにかく一回言っとこう」というノルマ的な考えならまだかわいいが、ここまでくると、これはどう見ても確信犯だ!何か挑戦的な意図さえ感じられた。普段の学校経営では職員との摩擦はほとんどなく、良好な関係を保っている校長だが、硬い表情で命令を出す様子は「これは私がやるべき重大な仕事だ。きっちりやるぞ!」的な強い意志を感じ、こりゃ負けられん!的な気分にさせて貰った職員会議だった。私たちの裁判は最高裁の判決を待つ段階ではあるが、どんな結果がでようとも「日の丸・君が代」の問題はずっとこれからも自分が向き合っていくものだと改めて感じた。
「厳粛さ」が暴き出したもの
原告 山根 弘美
学習指導要領の卒業式のめあての一つにあげられるのが「厳粛な気分を味わわせる」である。「厳粛」を広辞苑で調べてみると、「おごそかで、心が引き締まるさま。厳格で静粛なこと」とある。表向きには「厳粛な気分を味わわせる」と言いながら、式で「厳粛さ」を醸しだし、「日の丸・君が代」を重々しく感じさせ、根付かせるための演出でしかないだろう。この「厳粛さ」がいろいろなものを縛り、どこの学校でも変わり映えのしない格式張った卒業式が執り行われるのである。校長の中には、それを御旗にして式場の在校生が卒業生のために作った壁画をはがさせたり、対面式の卒業式や卒業生が保護者の方を向いて呼びかけを行うことを止めさせたりする者もいる。そして、卒業式の練習では、じっと黙って動かないことや決められた動きをスムーズにすることが大切にされることが多い。この「厳粛さ」をあまりに突き詰めようとすると、子どもたちに多大なストレスやプレッシャーを与えることになる。そして、卒業式の主役であるはずの子どもたちがどこかに置き去りにされ、ただ大人が満足するだけの式になってしまう。
しかし、「厳粛さ」を突き詰めようとするあまり、馬脚を現してしまった校長がいる。この校長は、普段は言葉づかいがとてもソフトで子どもに対して腰の低い優しい校長という印象を周りに与えていた。ところが、卒業式の練習で子どもたちも驚く姿を現してしまったのである。特別支援学級の子どもがいつもとは違う雰囲気に少し体を動かしたり、声を出したりしたらしい。(担任も他の職員もそんなに気にならない程度のものだったと言っていた。)ところが、いつもは「○○ちゃ~ん、駄目でしょう」と言っていた校長が、「なんか、いつまで甘えとるんか」とものすごい剣幕でその子を怒鳴りあげたという。その場にいた子ども達も、職員も驚いたと言う。6年間、その子と一緒に過ごしてきた子どもたちは、その子が少々声を出そうが、動こうがきちんと対応できるし、そこからざわついたりはしない。子どもたちは、その子のことがとても好きで大切な友だちと思っている。大したことでもないのに、その友だちを叱りつける校長の姿を見て「今まで優しい人と思っていたけど、本性を見た」と言って、卒業して行った。
思いがけず「厳粛さ」が校長の本性を暴き出し、子どもたちが人を見る目を養うことが出来たが、この子ども達のように校長の行動をおかしいと思い、本質を見抜ける子に育った子たちはいい。しかし、この校長の行動を無批判に受け入れる子ども達だったらどうなるだろう。きちんと出来ない子は駄目だ、「障害」を持っていてもみんなと同じに出来ないと駄目だと思ってしまうだろう。
今年も「厳粛さ」を追い求めるあまり子どもの気持ちが置き去りにされる卒業式が行われ、余計な緊張感を強いられている子どももいたのではないだろうか。「厳粛さ」が卒業式に本当に必要なのかどうかは疑問ではあるが、型にはめ込んで無理矢理に作り出すものではないはずだ。子どもたちが自分たちの成長を振り返り、自分たちの節目を大切に思えたとき、心が引き締まり、自然とそれにふさわしい態度をとるだろう。決して、恫喝して作り出すものでは無いはずだ。
年 号
原告 稲葉 とし子
“生まれてきたことの意味を知りたい! 一度きりの人生を悔いなく生きたい!”と、教師をすっぱり辞めてから、三度目の春を迎える。
この二年間やりたいと思っていたことにチャレンジし、多くのことを学ばせていただき、様々な素敵なご縁をいただいた。そして今、縁あってセレモニーの司会を生業とさせていただくようになった。教師は、生徒たちを卒業させて社会へ送り出す仕事だが、セレモニーの司会は、人生最後の卒業のお手伝いをさせていただく仕事で、自分にあった仕事を見つけられたかなと、不思議なご縁を感じている。
その仕事に就くための教室で、抵抗を感じたのが、「年号」であった。
テキストのシナリオの中に開式の辞があり、「只今より、平成○年○月○日、行年○歳を一期としてご往生なさいました、故○○様の葬送の儀を、執り行います」となっており、最初は心の中に葛藤があった。結婚式の司会教室では、「二〇〇八年」と西暦に変えて読んだりできたが、葬儀は何故か(自分の中で)西暦に変えて読むことはできなかった。だから現在も元号で開始の辞を述べている。
教師時代、組合に加入して君が代・日の丸の強制に反対の声を上げるようになってから、元号を使うことはなかった。というより、頑として西暦を遣い続けた。年休届けも初めのころは西暦で書き、それを教頭が消して書き直していた。だんだん教頭が可愛そうになり(卒・入学式での不起立に配慮してくれるようになったので)、西暦は書かずに空欄にして出すようになった。試験問題、職員会議での提案プリント、学級通信や学年通信は当然西暦。また、人権・平和部会が全校生徒に配布するプリントも西暦で出していた。あるとき校長が、「先生、すみませんが、このプリントは校長の僕の責任で出すことにもなるので、先生が平成と書きたくないのなら、H○年と( )書きででも入れてもらえませんか」とお願いしてきた。卒・入学式での不起立で処分が出ないようにいろいろと配慮してくれていた校長だったので、(H○年)と小さく入れた。
これほど元号に対して抵抗してきた私が、現在「元号」を受け入れているのは何故か?
そこには戦争につながっていく「強制」がないからだろう。学校現場では、指導要領の名を隠れ蓑にして、君が代・日の丸が強制されている。年号の強制もその延長線上にある。その強制が怖いのだ。かつて戦争への道を歩んだ国のありようを見てしまうからだ。
私がもう少しベテランになって、ご喪家にも安心していただけるようになったら、打ち合わせのときに「開式の辞は、西暦と元号とどちらにいたしましょう。」と訊けるようになればよいなと思う。ほとんどのご喪家には「???」と思われるかもしれないが、中には私のように「元号」に拒絶反応を示すほどこだわっている方もいらっしゃるかも…?
もし、選ぶことも許されないのだとしたら、戦争に向かう足音が一般社会にも響き出したことになる。そうなると、またもや私の闘いは場所を移して始まってしまうのだろう。
卒業式への招待状
原告 牟田口カオル
2月末、最後の職場だった小学校から卒業式への招待状が届いた。今回卒業する子どもたちを4年生のときに担任していて、しかも退職していて都合をつけることのできる今の私としては、喜んで参加したい。ただし「君が代斉唱」そのものが無ければ、である。もう昔の話になってしまったが、36年前は新採先であった大阪府では「君が代斉唱」が無かった。それは何のわだかまりもなく祝う気持ちをいっぱいに出し合った温かい卒業式だったことを、今でも鮮やかに思い出す。そんな卒業式だったら、飛んで行きたい。
さて、君が代斉唱のとき起立しなくても、来賓扱いだから処分されることは無い。では、さあどうする?と、つらつら考えているうち、「君が代」に起因する在職中の様々な事が思い返されてきた。ここに、今でもありありと蘇る忘れ得ぬシーン、ワースト3を挙げてみよう。
1.「君が代」斉唱のとき。教頭が、ハイヒールの音を高鳴らせロングスカートの裾をぱっ ぱっと蹴りながら、会場の一番後ろに座っている私の所までやって来て「牟田口先生、 起立して斉唱してください」と大きな声で繰り返し言った。
2.養護学校に勤務しているとき、突然校長が「証書の授与は、従来のフロアからステー ジ上に変える」と言いだした。多くの職員が反対したけれど校長はひたすら儀式の型(4 点指導)にこだわって強行した。そのため、フロアでなら自力で証書を受け取りに行け る子どもたちが、補助教員に抱えられながらステージ上で証書を授与されていた。
3.「君が代」斉唱のとき。私への処分が連続しないようにと職員の方々が配慮して放送の 仕事を割り振ったのに(放送室はステージ袖の2階)、斉唱のとき、校長は教務主任をわ ざわざ放送室まで行かせた。教務主任は息を切らして階段を急いでのぼってきて、私が座っている様子を現認してもどった。
これらはほんの一例。ここまでするか?みたいな凄まじいことが、「4点指導」のもとでは起こるのである。がんじがらめの管理職の言動は異常をきたし、教育者としての自覚も理性も無くなる。ある意味、痛ましい。また、自分は「君が代」を歌わない、弾かないため、教員生活全般にわたる制約を受けたともいえる。たとえば担当学年を限定されたことや、専攻科目であった音楽を担当教科や分掌から外さざるを得なかったことなど。
さて、卒業式への招待をどうするか。もう自分には処分は無いといっても、在職中に「君が代」強制から受けたものは重たく大きい。ゆえに、40秒の我慢は重すぎる。つらつら思い出し、考えているうち、あえて参加したくはないと思った。私は昨年退職したが、「君が代」強制への闘いを終わるわけにはいかない。歌わない自由を認めさせることは、この国の思想良心の自由にかかわることであるので。
2月26日、毎年行っている「君が代」強制に抗議する申し入れ活動に「うい」のメンバーや市民とともに参加した。処分された者は変わらないが、当局の担当職員はメンバーが移り変わる。担当職員は、先輩達の行跡を踏襲するばかりで自ら考え判断することなく、従来の「4点指導」を繰り返し、問われると「指導要領に則り」としゃーしゃーと言う。彼らの発する「4点指導」がどんだけ現場の硬直や問題を引き起こすのか、知らないふりしているのか。かつて強制された現場を知るものとしてしゃべっているうち、「もうこんなことはずいぶん言ってきたのに」…という苛立ち感がわいてくるのだった。見猿、聞か猿、言わ猿状態の者に伝えるということの難しさを感じつつ。
しかし、歌わない自由を認めないなど、こんな変なことがいつまでも続くとは思えない。自分の命が終わる前に「君が代」強制がない社会になることを望みながら、これからは現場を離れた立場にあってできることをしていきたい。また、北九州市教委の「4点指導」及び強制の実態と、それに対していかなる悪戦苦闘があったのかを、日本の教育史上にもしっかりと記録しておかねばならないと思う。思想良心の自由を獲得する闘いとして後の世に意味をもつであろう。
裁判で自分の時は止まったかも
原告 梶川 珠姫
いよいよ最高裁判決を残すのみとなった今、裁判で私自身の時は止まった気はするが、この間世の中は着実に動いていたことを実感する。
教員となった30数年前「日の丸・君が代」が学校で強制されるようになった。あの頃は、職員会議での校長と職員との攻防は一日では終わらないときもあった。卒業式に出席しないとか、「日の丸」設置はすべての準備が終わった後で校長自らに行わせるとか、反対の意思表示の抗議文を校長に手渡したりとか、いろいろ策を講じた時代であった。しかし、処分が実行されるとの情報で、周りの職員は「君が代」斉唱時に起立することを選択していった。私はその波に乗れずに処分された。切支丹弾圧で「踏み絵」のことを知り、「踏めばいいのに、そうすれば殺されずにすむのに、幕府の絵は本物じゃないのに」「鰯の頭も信心からっていうのに」なぁんて思っていた昔があったが、自分自身が直面すると起立しない側に留まってしまったから。
処分が厳重注意から戒告となり3ヶ月減給に跳ね上がっていく中、校長は相変わらず学習指導要領だけを根拠に「日の丸・君が代」を強制してくる。「日の丸」に尻を向けることになるということで、対面形式の式が姿を消した。その代わりに式歌を卒業式が終わった後に生徒が壇上に上がり、卒業証書授与要覧にも式次第の閉式のことばの次に、括弧付きで保護者代表謝辞と並んで「別れの歌合唱」とある。それを苦渋の選択というかどうかは分からないが、94年に異動した学校で当たり前のように行われていたので、校長の真意を聞くと、音楽科からの申し入れで式の中ですることに反対したからではないと言っていた。それ以降はどこに異動してもその方式であった。教員は君が代の強制と真っ向からは対決せず、うまく対面形式だけを維持したのだろう。
今や卒業式の職員会議での「日の丸・君が代」に関するやりとりは、私以外は皆無である。喧々囂々あった時代から、日の丸賛成派の発言が出る時代へ、そして言っても無駄という冷たい雰囲気の時代を経て、今は我関せずといった感である。職務命令にしても、校長はさらっと言ってのける。最初は「職務命令」と言うのも憚っていたのに、堂々と何度も口にする。今も昔も根拠は変わらず、「学習指導要領」それ以上でもそれ以下でもない答弁にもかかわらず、校長は自信すら見せて言う。教育委員会の後ろ盾はそんなに強いのだろうか。この間、職員会議の無力化と並行して校長の権力(裁量)拡大を実現したはずではなかったか。みかけの権威だけを増やし、実は上からの命令に従順なだけ。校長自身も深く考えることをせず、与えられたことを一生懸命やっているだけ。
とにかく目先のことを次々にこなしていくのは教員にも共通する。以前と比べると全てにおいて、仕事量が増えたと思う。評価するにも観点別で、テストは同じだが点数を分類し、パソコンに入力し通知票や指導要録を作成する。手書きのときよりも増加している。年間計画や反省文も同様、記録が大事と生徒指導でも書類を作らされる。もちろん不必要とは思わないが、それを書き溜めることがどんな意味を持つのか考えもせず説明責任とやらのために、超勤しながら教員は夜遅くまで残っている。
一人でも、私は「卒業式は中学校最後の授業である」と力説し、「生徒が一番大事なのだと教える場に国家が介入して欲しくない」との反対意見を言った。「報告、連絡、相談」の言葉は保身のための言葉、日の丸君が代反対は自分を取り戻す意思表示。職場以外でも一人だったらきっと流れに呑み込まれていただろう。裁判をするという意思表示がなかったら、今現在の教員生活すらなかったと思う。判決に期待はしないけれど、裁判をしながら自分がしたくないことを、したくないと言える今があると実感している。
変るものと変らないもの
原告 横山浩文
以前勤めていた職場に横暴な校長がいた。私は、逆らうように卒業式で「着席」した。その後、ココロ裁判の存在を知り、数年後原告団に加わりいろいろなことを学ぶ中で、当時の「着席」という行為は、どちらかというと管理職への反発の面が強く、自分自身の思想信条の自由を守るためという意識はあまりなかったと気づかされた。人は経験を重ねるにつれ感じ方や考え方、行動までも変っていくのが常だが、今直面していることが、自分自身の原則的な信条にかかわる要素が強いのか、それとも相手との関係の中で生まれている相対的な要素が大きいのかを見極める必要があると思う。
裁判は、三審制度という敗者復活戦はあるものの、原告と被告の勝ち負けの決着をつける一発トーナメント戦のようなものだ。その意味では勝ち負けを争う相対的な要素が強い。だからこそ、司法の判定がどうであれ、自分にとって絶対的なこと原則的なことを見失わないようにしたいと思う。あくまで闘う方法の一つとしての裁判である。市教委の四点指導が「不当な支配」にあたること、市教委が四点指導を正当化するための根拠にしている学習指導要領中の「国旗国歌条項」について法的拘束力はないとした福岡地裁亀川判決の意味が変ることはない。裁判でもすでにいくつかの収穫を得ているのだ。
これからも変らないもののために、闘い方は変えながら、しなやかにそしてしたたかに生きのびていきたい。思想信条の自由を守るために、現場で日の丸・君が代の強制に反対の声を上げ続けるという姿勢をあくまで貫き通していきたい。迷ったら原点に返ろうと思う。それが自分の学んできたことに対して、そして裁判を支援してくれた人に対して誠実に応えることになるはずだから。
こだわる? こだわらない?!
原告 永井 悦子
この3月にはわが子の義務教育最後の卒業式がありました。この子が小学校に入学するときには「内心の自由を護るように」北九州市教育長に手紙まで書いた私ですが、今回は「一同礼」で礼をするのか、「君が代」を歌うのかなど、全く子どもと話をしませんでした。ある意味、子どもに任せようと思いました。本人にはも十分伝えているし、知ったが故に悩ませたことも事実だったし、高校受験で卒業式直前までぴりぴりしてもいましたから。でもそれにもまして、私自身のこのことへの緊張感が薄くなってきていました。これも事実です。
卒業式が終わって数日後、「君が代」を歌ったかどうか尋ねると、覚えたところは歌ってあとは、口パクをしたとのこと。今までは、歌詞を覚える気がしなかったので、選択肢は「歌わない」か、大きな口を開けて大きな声で歌えという強制指導に対して、外形的に歌ったふりをする口パクのいずれかだったのです。しかし、意外に歌ったと聞いて驚きました。義務教育9年間の「君が代」斉唱の強制のため、哀しいかな耳で覚えてしまった歌詞を歌ってしまうわが子に何と言えましょう。「すまないな。母さん」というように話す子どもに、「自分の選択だから」と強制はしませんでした。聞けば、社会科担当の教務主任から「君が代」の指導があったということです。しかし、内容は覚えていません。ただ強制ではなくまともな指導だったようです。それは、もしおかしいことを言っていたら、この子どもアンテナに引っかからないはずはないからです。今回はいろいろな君が代のプレッシャーを感じず、式に出られたことでは安心しました。
この子の小学校の卒業証書には、校長に要求して生年月日は西暦併記になりました。中学校でも同じことを求めましたが、西暦は認められませんでした。私がこだわってきたこと、正しいと思うことは変わりません。でも、どこまでこだわるか、主張するかは、変わってきました。わが子に、また職場である学校の子どもたちにも、種は播いています。これからその種がどのようになっていくのか、見届けていきます。
新たな一歩を踏み出すことに
原告 井上 友晃
自らの良心にかけて人権侵害を糾し、弱者を救済するという「司法の心」を、なんと裁判官自ら封印してしまっている。そして、思考停止したままに、ほんの一つの最高裁判例のみを鵜呑みにした高裁判決を下した。病気で休んでいた私は、自宅で判決の知らせを受けて拍子抜けしてしまった。市教委や校長らが勢いづくかもしれんと、ちょっと思った。しかし、病休も明けて学校に出てみると、判決の影響はほとんどなく、何事もなかったように学校の日常は淡々と過ぎていった。
あの日から1年半近く経った。相変わらず、卒・入学式では「日の丸・君が代」は「国旗・国歌」としてあるのが当然というかのようにして、強制され続けている。教職員も、保護者もただ黙って応じている。市教委は行政権力を背景に、学校での「国旗・国歌」指導の徹底を目指した。そして、一切の例外を認めずに校長への4点指導を強めた結果、行き着くところまで行ってしまった。「日の丸・君が代」だけではなかった。トップダウンで不条理は命令や施策がまかり通りだした。
いつのまにか、CRTとかNRTとか言って、学力テストがどの学校でも実施されるようになった。少数ながらも、校長の査定でボーナス昇給する教員も出てきた。かつての学テ闘争や勤評闘争などを忘れたかのように、学校は行政権力の言いなりになり出した。
議論するよりも、押し黙ることが増えてきた。仕事の煩雑さが増して、忙しさとともに、押し黙る風景が学校に蔓延るようになってきた。そんなことを感じながらも、日々自分にノルマを課して、闇雲に学校で働いていることに嫌気がさしてきた。正直こんな働き方には疲れた。思い切って、この春退職することにした。これまでの歩みを、心の中で反芻しながら、自分の人生を信じて新たな一歩を、今踏み出すことにした。
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