謡曲を読む(2)
愛するほどに恨めしく、恨むほどに愛しい女心 ”砧”
漢王の命で胡に攻め入り捉われの身になった蘇武、蘇武の妻が遠い異国の夫の身を想い
夫の為に高楼で砧(布を台の上に置き木槌で打って布地をやわらげたり光沢を出したりする道具)を打つ。
その思いが通じたか万里の外なる蘇武の旅寝の夢に故郷の砧の音が聞こえたという。
その故事に習いシテ(領主の妻)は訴訟のため都に出たきり3年も帰らぬ夫を想い砧を打つ。
夫を想いと言うよりむしろ 帰らぬ夫を恨み一人寝の寂しさをかこい、涙ながらにかき鳴らします。
“古里の、軒端の松も心せよ、おのが枝えだに、嵐の音を残すなよ、
今の砧の声添えて、君がそなたに吹けや風。
あまりに吹きて松風よ、わが心通いて人に見ゆならば、その夢を破るな“
かき鳴らすうち、心はますます千々に乱れます。
夫への恋慕と恨みの交錯。合い重なって波打つように訴えます。
“八月九月、げに正に長き夜、千声万声の、憂きを人に知らせばや。
月の色風の気色、影に置く霜までも、心凄き折節に、砧の音夜嵐、悲しみの声虫の音、
交じりて落つる露涙、ほろほろはらはらはらと、いずれ砧の音やらん“
心さびしい秋の夜の極み、砧の音・夜嵐の音・忍び泣く声・虫の音が入り混じり、
乱れ落ちる露や涙、いずれが砧の音か分かりません。
秋深い夜寒の悲傷、“ほろほろはらはらはら”の擬音が心に染み入ります。
今年も帰らぬとの知らせに妻は病の床に伏し、痩せて痩せてついに空しくなります。
あわてて帰国した夫は梓弓の力を借りて妻の霊を呼び寄せます。
題材を取った今昔物語と違って、ここでの夫は結構律儀です。
たちまちにして亡妻(シテ)現れ
“さりながらわれは邪淫の業深き、思ひのけぶりの立居だに、
安からざりし報ひの罪の、乱るる心のいとせめて、獄卒阿防羅刹の、
笞(シモト)の数の隙(ヒマ)もなく、打てや打てやと報ひの砧、
恨めしかりける。因果の妄執“
妻はかって帰らぬ夫に音や届けと砧を打ったがために地獄に落ちています。
亡者を責める鬼達が鞭を持って妻に砧を打ち続けるよう休む間も与えません。
“打てや打てや”と攻め立てます。
“因果の妄執の、思ひの涙、砧にかかれば、
涙はかへって、火炎となって、胸の煙の、炎にむせべば、
叫べど声が、出でばこそ。
砧も音なく、松風も聞こえず、呵責の声のみ、恐ろしや“
亡き妻のこの世における妄執の涙が砧に降りかかるや否や、涙は炎に変わって
なおも妻を責め苛みます。炎と煙に咽ぶ妻、声を出そうにも声も出ず、
砧も、松風も音立てず、獄卒の喚き声だけが響き渡ります。
妻が夫に攻め寄ります。
“二世と契りてもなほ末の松山千代までと、かけし頼みはあだ波の、
あらよしなや虚言や、そもかかる人の心か“
“君いかなれば旅枕、夜寒の衣現とも、夢ともせめてなど、
思ひ知らずや恨めしや“
二世を契ったのは嘘だったのか、夜寒に砧を打った自分の心を夢でも良いから
思い知って呉れなかったのが恨めしい。
妻は夫に復讐しようと言う訳ではありません。
ただただ待つ女として夫への恋慕と恨みが入り混じり死に切れぬ妄執に身を焦がし苦しむのです。
愛するほどに恨めしく、恨むほどに愛しい。終わる事なき問い返し、紅蓮の炎が照らす心の闇。無限の地獄
恐ろしいですね。怖いですね。
それにしても 夫を想って砧を打ったが為に地獄に落ちて獄卒からこれ程攻められるとは
何か割に合わない気もします。
妻を田舎に置いて都で遊んでいたかも知れない夫こそ地獄に落ちたほうが理に合いそうですが、
地獄の観念が違います。愛が深いほど苦しみが深いのです。それが妄執=地獄。
別に悪い事をしたから地獄に落ちるのじゃなく、苦しみそのものが地獄です。
苦しみながら死んでしまえば彼岸に行っても苦しみから逃れる保証はありません。
死んでも続く愛執故に自ら選んだ苦しみ地獄。
作者世阿弥は この能が当時の人に理解しにくいだろうと書き残したそうですが
かえって現代では今風の味わいがあります。
自ら愛し、自ら苦しむ事は良く有ることです。
こんなに愛してるのに、砂を噛む様な思いをさせられて、哀しい、苦しい。
神様仏様なら苦しむ事も無い、と言うより人の為に自らを捨てるのが使命のようですが。
凡人は残念ながらその様に作られてないようです。
目一杯愛して、目一杯苦しんで、死んでも地獄行き、大変ですね。
結局 妻は夫の法華経読誦の功徳で成仏しますが 今の私たちは救われるのでしょうか。
一般に能では恨み辛みを語る事で無事成仏できる事が多いようです。
ところで まがい物の宗教が“悪い因果の報いで不幸になったんだ、病気になったんだとか、このままじゃ地獄に落ちるよ”とか言いますが とんでもない。
善行を積んでも病気にもなれば苦しみもする。地獄の苦しみを味わう事も有る。
そんな脅しの手を使って欲しくない、苦しみに追い討ちをかける事 獄卒の如し。
お釈迦様は衆生がどうすれば妄執を断ち切り安心出来るかを考えて呉れたのじゃないでしょうか。
お布施をすれば安心するよと言われれば水掛け論ですが。