**大正編まとめ
大正編  目次
大正編  年表
大正歴代内閣
内閣・政党の動き(”大正政変”以降)
*第1次世界大戦勃発
*平民宰相・原敬
*”政党”が戦争への勢いを止め得なかった理由
大正デモクラシー  党利党略に溺れ軍部にすり寄った政党
大正歴代内閣         目次に戻る
(ヤオテハタカヤキ)
山本権兵衛・大隈・寺内・原・高橋是清・加藤友三郎・山本・清浦奎吾 内閣・政党の動き(大正政変から大隈復帰、立憲政友会・原敬・高橋是清、犬養毅暗殺で政党政治の終焉まで)

内閣・政党の動き(大正政変以降目次に戻る

大正政変
1912年大正元年
政友会を与党とする西園寺公望第二次内閣が陸軍の二個師団増設要求を拒否したことに始まる
陸軍が2箇師団増設に固執した原因は
  @帝国国防方針(1907)が軍事的政治的拡張目標からソ中を”仮想敵”
  A韓国併合(1910)
  B中国辛亥革命(1911)
陸軍は抵抗する西園寺内閣を”軍部大臣現役武官制”を楯に(陸軍大臣を出さなかった)倒閣、
陸軍大将・桂太郎の内閣を作り上げたが西園寺と桂の信頼関係は崩壊、桂園時代は終焉
1913年
大方の都市実業者層、民衆、新聞雑誌等が陸軍の横暴を批判
”積極財政”で閥族との共存共栄を続けてきた与党・政友会も野党・国民党とともに立ち上がり、
政友会は桂との協力関係から”閥族打破・憲政擁護”へ一転
大隈らの立憲同志会とともに
第一次憲政擁護運動が起こったが、
普選導入を唱えることもなく、
海軍山本権兵衛内閣成立で2ヶ月で収束
”大正政変”狭義には1913年桂B内閣が第1次護憲運動で倒れた事を指すが
広義には西園寺A内閣が陸軍に潰されてから、桂B内閣崩壊を経て山本内閣成立迄を言う
桂辞任で2ヶ月野にあった政友会は、海軍・山本権兵衛内閣成立とともに妥協して与党に返り咲き
原総裁内相・高橋是清蔵相の”積極主義”が復帰
山本内閣は政友会を通じて地主・都市実業家層の支持を取り付け”軍部大臣現役武官制”の修正も行ったが
シーメンス事件(海軍収賄事件)勃発 言論界・都市民衆は再度の民衆運動
政友会・原敬は政府擁護、民衆運動弾圧に走ったが、逆に”貴族院”が海軍予算案を否決して
山本権兵衛+政友会内閣倒閣

1914年
山本の後継は立憲同志会を与党としての
大隈重信に大命降下
民本主義者・吉野作造も大隈内閣を支持、二大政党対立と普通選挙制導入を期待
(普通選挙制導入で地主党・政友会支配の終結を提唱)元老は大正政変に手を貸した政友会を忌避、
すでに政界から引退していた老政治家・大隈を起用(各政党・貴族院での幅広い人脈を期待された)
 大隈重信:大隈は明治14年政変で下野、立憲改進党(→進歩党)結党、一時板垣自由党と合同、
 憲政党として隈板内閣を組閣したが、短命で分離、憲政本党を立党     
 大隈憲政本党は桂園時代(山縣系桂太郎と伊藤系西園寺の対立と妥協の時代)に付け入るスキも無く、
 大隈は一旦引退していた
 一方大正政変で倒れた桂太郎は新党・
立憲同志会を結党するが、総裁にならぬ間に死去、
 
加藤高明(外交官出身、岩崎弥太郎の娘婿)が意を継ぎ総裁に
 桂太郎の置き土産・立憲同志会を与党として政界復帰した大隈第2次内閣の外相として第1次大戦参戦、
 対華21ヶ条要求などで辣腕を振るう
 大隈は三菱をバックに記録破りの選挙費を使い、立憲同志会が議席を伸ばして政友会は衰退
 
(大隈+立憲同志会・加藤高明)
1914年 
第1次世界大戦勃発
中国辛亥革命
日本は日英同盟による英国からの要請もあり対独宣戦布告 、
 山東半島のドイツ租借地膠州湾青島を攻撃占領、山東鉄道を独から奪取、独領南洋諸島も占領
当初大隈内閣は、陸海軍の軍拡を容認、外相・加藤高明は
対華二十一ヵ条要求して陸軍に協力
 @山東省のドイツ権益を日本が継承
 A南満州・東部内蒙古における日本の優越権承認
 B中国最大の製鉄会社・漢冶萍公司を日中合弁として色々経営制限
 C中国沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと
 D中国政府の顧問として日本人を雇用すること
(大隈内閣は内に立憲主義、外に帝国主義)
山東省のドイツ権益を接収、ドイツ南洋諸島を占領
(お為ごかしにドイツを追い払ったが、いっかな中国に返還しなかった、”火事場泥棒?”)
中国では反日が盛り上がる
経済面でも不況に悩む日本にとって大戦軍需は正に”天佑”だった
日本経済は第1次世界大戦で息を吹き返した
貿易が伸展、造船・製鉄業・海運業が飛躍
しかし1920年綿糸生糸の暴落にはじまる戦後恐慌
だが三井・三菱・住友・安田等財閥は恐慌を機にカルテル・トラストで切り抜け
より大きなコンツェルンとして発展していった
(財閥は景気が良くても悪くても成長する術を知っていた)
労働総同盟から左派・日本労働組合評議会が分裂
治安警察法改定、労働争議調停法で労働運動弾圧、大戦景気に乗じて対外対内、帝国主義政策を推し進めた
これが”議会中心主義”を力説、藩閥に抵抗してきた大隈の晩年(軍閥桂太郎立党・加藤高明の立憲同志会と提携したといえ)

大戦景気は政友会と陸軍を景気づけた (”戦争は儲かるのだ!”)
政友会支持基盤の地主層を富裕化、陸軍も大隈を離れて政友会に接近
吉野作造は民本主義で排外拡張主義を批判
組合運動・社会運動・農民運動・婦人運動が始まりと盛り上がり、
一方に政府の弾圧
政友会は第一党に返り咲き、憲政会は衰退
大隈内閣は選挙干渉・贈賄事件で揺れる
***
第1次世界大戦の影響(世界情勢)
@アメリカがイギリスに変わって世界一経済大国に
A1917年、世界初の社会主義政権ソヴィエト誕生
Bソヴィエト誕生で列強対立は更に激化・複雑化
C労働運動・社会運動の激化
D植民地・従属国の民族運動
E極東における日本の進出が決定的になった
1919年ヴェルサイユ条約(第1次大戦、パリの講和会議)で
日本は山東半島のドイツ権益を継承、ドイツ領南洋諸島の委任統治権を獲得
F日本は強国の仲間入り
G日本はその事で逆に孤立化
1919年朝鮮で三・一独立運動(万歳事件)中国で五・四運動(反日運動)
H1920年国際連盟結成、日本は常任理事国に
***
1916年
@相変わらず政党政治を嫌悪する山県は大隈に辞任を迫り、一の子分
陸軍元帥・寺内正毅(まさたけ)を首相に
(軍閥内閣・超然内閣)
A寺内は政友会に接近、次期内閣・原敬への道をお膳立てした
寺内正毅内閣(山県が擁立)はロシア革命波及を恐れて
シベリア出兵(アメリカの要請に応じて)
しかし折しも景気は戦後不況へ、物価騰貴特に米価の高騰が都市の消費生活者を直撃、被差別部落・炭鉱労働者等が立ち上がる
米騒動頻発

1918年
政党嫌いの山縣が農民騒動を抑えたい一心で
立憲政友会・原敬に後継指名
(桂園時代の始まりも、山縣=桂が国民慰撫に政友会を利用した)
原敬の積極財政、小選挙区制導入して選挙は圧勝
寺内内閣倒れて、原敬(政友会)内閣へ
原によって日本初の政党内閣が成立したと言われるが、山縣妥協の産物
平民宰相が誕生したがシベリア出兵は続行
高橋是清蔵相を起用しての
積極財政(大戦景気をバックに国防充実・教育振興・産業奨励・交通整備)
憲政会等提出の
普選法案を拒否して、あえて解散・総選挙で圧勝(大正デモクラシーに敵対)
平民宰相・原敬は普通選挙に反対し続けた
政党政治家大隈も原敬も”政策”より”権力保持”が一番、
権力を握る為或いは権力を握るや政党政治に反駁、山縣=桂や軍閥にすり寄ってきた
これが政党が弱く、権力争いに終始、ひいては戦争への”勢い”を阻止できなかった根因である
2大政党制まで否定され、吉野作造人気急落
急進学生らの関心も普選・民本主義からロシア革命・社会主義に
(ちなみに山川均さえ”普選は労働者の革命意識を鈍らせる支配階級の罠”と反対していた)
***
平民宰相・原敬  目次に戻る

原敬  盛岡出身のメディア言論人 
 1882年(26歳)外務官僚に、天津・パリ・ベルギー・スイス等で外交官活動
 1889年(32歳)農商務省へ(井上馨大臣、陸奥宗睦大臣などを補佐)
 1892年(36歳)再び外務省へ(日清戦争)
 1897年(41歳) 大阪毎日新聞へ 1898年 社長に
 1900年(44歳) 伊藤の立憲政友会創設を補佐、政友会総務委員兼幹事長、伊藤内閣逓信大臣
 1901年(45歳) @次桂内閣時には大臣を辞任して大阪北浜銀行頭取、
伊藤総裁の政友会立て直しに尽力
1902年(46歳) 衆議院議員当選
1904年(48歳) 日露戦争開戦、政友会は西園寺総裁
1906年(50歳) @次西園寺内閣内務大臣、1908年A桂内閣時には辞任して欧米視察
1911年(55歳) A西園寺内閣内務大臣 原の“積極財政主義”は西園寺とも対立した、
西園寺内閣は影の原内閣とも言われた
1912年(56歳) 大正へ  B桂内閣成立で内務大臣辞任 
閥族山県の手先として人気が無かった桂は、新党同志会設立を目論んだが失敗
1913年(57歳) 大正政変(原を中心とする@護憲運動が桂を倒し
@ 山本権兵衛(海軍大将)内閣成立 内務大臣(閥族との妥協と批判もされたが)
1914年(58歳) シーメンス事件で A大隈内閣 、第3代政友会総裁に、翌年総選挙では大敗
1916年(60歳) 護憲三派首会談(憲政会・加藤高明、革新倶楽部・犬養毅、立憲政友会・原敬) 
 元陸軍大将朝鮮総督・寺内正毅内閣
1918年(62歳) 米騒動、シベリア出兵、第19代内閣総理大臣(平民宰相、初の本格的政党内閣)に
1920年(64歳) 総選挙で勝利
1921年(65歳) 東京駅で暗殺
”大正デモクラシー”は
@本格的政党内閣・平民宰相原敬の誕生
A大正政変
によって実現されたと言われる
ところで
”民本主義者”吉野作造は”普通選挙制と二大政党制”を主張
しかし平民宰相・原敬はこの二つに敵対した
@地主を有権者とする選挙に訴えて圧勝、普通選挙法を潰した
A元老・山県が握る軍閥・官僚閥に政権を譲っても、政友会以外の政党に政権を渡さなかった
(政党嫌いの山県と同盟、日本初の本格的政党内閣は原によって自己否定された)
原敬は平民宰相とは名ばかり、平民を裏切り続けたと言われる
平民宰相・原は大正デモクラシーの象徴だったが、自身の手で大正デモクラシーを潰す事になる
”民本主義”の敗北
(ちなみに山川均さえ”普選は労働者の革命意識を鈍らせる支配階級の罠”と反対していた)
学生達や社会主義者(山川均ら)も普選運動から社会主義革命に関心を移していった
***
1919年 
パリ講和会議・ヴェルサイユ条約で日本は五大国入り、国際連盟加入、中国では反日五四運動
明治維新から僅か半世紀で世界の大国の仲間入りを果たせたのは
正に 第1次世界大戦軍需のお陰であった
一方軍・政府そして国民も”禁断の味”を知ってしまった
1921年 
政友会フィクサー原敬暗殺され、財政家・火だるま宰相・
高橋是清が後継
原敬が何故暗殺されたか、歴史の謎とされている
単独犯鉄道マン、一応原が普選に反対したのが許せなかったとの事であるが
政友会は高橋是清総裁に不満な床次竹二郎らが分裂して政友本党・立党
高橋は中国駐屯の日本軍、撤退を主張
米ハーディングの提唱で
ワシントン会議(植民地帝国主義→非植民地帝国主義、軍縮と太平洋極東問題協議)
@米英仏日4カ国条約(各国領土権益の保障と太平洋諸島非要塞化、日英同盟解消)
A海軍軍縮条約(米英5、日仏伊1.67)
B中国等も加え9カ国条約(中国内政不干渉・門戸開放、日本は石井・ランシング協定破棄、山東還付撤兵)
軍事予算膨張に悩む高橋は、渡りに船と”協調外交”、軍部は激怒
高橋は元老の信頼もなかった、”参謀本部廃止論”が禍して失脚、
短命に終わったが、憲政会に政権を譲るよりは軍政を選んだか?
結局憲政党(後の立憲民政党)も立憲政友会も山縣=桂軍閥に操られてきた
高橋是清及び次の加藤友三郎・山本権兵衛内閣は曲がりなりにもワシントン体制を受けて軍縮を使命とした
1922年
海軍・加藤友三郎内閣     関東大震災
1923年
海軍・山本権兵衛A内閣(ともに政友会が与党として支持)
虎の門事件(難波大助の皇太子狙撃事件)で総辞職→清浦清吾(山縣系・元警察官僚・司法大臣・貴族院議員)の超然内閣1924年
清浦清吾超然内閣 反清浦・普通選挙を掲げた第2次護憲運動巻き起こり5ヶ月で総辞職
   立憲政友会・高橋是清もついに立ち上がった
   憲政会(旧立憲同志会)・加藤高明
   革新倶楽部(←反桂の立憲国民党)・犬養毅 も
   しかし 政友本党(床次)は清浦に癒着(政権亡者とそしられる)護憲三派と対立
加藤高明・護憲3派連立内閣
加藤高明
  貴族院・枢密院に対する政党の勝利だった
 護憲三派内閣は
治安維持法と抱き合わせで普通選挙を約束
 吉野作造が掲げた”二大政党制”に紆余曲折が有ったが、”普通選挙”は大正末期ついに実現した
 但し”成人男子”にのみ選挙権、おまけに”治安維持法”と抱き合わせだった
 ”法”は出来、二大政党時代が始まったが、逆に党利党略に溺れ、”政党政治”崩壊への始まりとなった
 外相幣原喜重郎の国際協調外交
  1921−22年 ワシントン会議 幣原全権  詳細上記
      1925年  日ソ国交樹立 日ソ基本条約
  1926年以降昭和になるが
  1927年  田中義一内閣時 日米英(米英対立で決裂)
  1928年  田中義一内閣時 世界初の戦争放棄宣言 62カ国調印
  1930年  浜口雄幸内閣時 海軍軍縮条約、統帥権干犯問題を引き起こす
1924-32年犬養暗殺まで政友会と憲政会(後の民政党)が交互に政権担当した
2大政党時代
 (足を引っ張り合った政争が政治不信を招き軍部の台頭を赦した)
 政友会(支持基盤は地主・財閥、積極財政、拡張外交、今の自民党に近い)
 憲政会(支持基盤は都市中産階級、均衡財政、協調外交、今の民主党に近い)
1925年 
普通選挙法を公布したが、国体を変革し又は私有財産制度を否認する結社を弾圧する”治安維持法”を前もって公布
1926年 昭和へ
1927年 憲政会と政友本党と合併して
立憲民政党となる
1932年 
犬養総理暗殺で政党政治に終止符

大正デモクラシー
  目次に戻る
1912-1926の大正年間、第1次世界大戦前後の世界的デモクラシーの風潮、産業革命の進展、都市労働者の増加と窮乏化(特に日露戦争による戦災や増税が重なった)を背景に、普選運動、社会労働運動、教育運動等さまざまな自由主義的・民主的運動が高まった
理論武装は 吉野作造の”民本主義”(主権は天皇にあっても、国家の政治目的は民衆の利福にあり、政策の決定は民衆の意向に従うべしとする立憲民主制、摘発を恐れ、敢えて”民”に主権があると言わなかった)
美濃部達吉の”天皇機関説”(統治権は法人である国家に属し、国の最高機関である天皇が国務大臣の輔弼を受けて行使する)
1905年 日比谷焼討事件 
 戦争で働き手(血税)を奪われながら、何ら見返り無く、更に戦後の物価騰貴・増税に苦しまねばならなかった庶民
 日露戦争終結でロシアから賠償金を取れなかったポーツマス条約に対する庶民の不満が爆発した大衆暴動が”大正デモクラシー”への一つの切っ掛けになった
1912年 大正政変で西園寺内閣を倒閣せしめた陸軍の横暴に政友会・立憲同志会らが立ち上がり”第1次護憲運動”
1914年 第1次世界大戦の大戦景気で息を吹き返した日本経済だったが、底辺は物価騰貴で、逆に苦境を強いられた
1918年 日本史上最大規模の民衆暴動”米騒動”(第1次世界大戦で米価高騰、更にシベリア出兵で拍車)は
 政党きらいの山縣をして、平民宰相・原敬に、日本最初の政党内閣を組閣せしめた
1924年 第2次護憲運動は清浦奎吾の超然内閣を潰した(立憲政友会・憲政会・革新倶楽部が連携)
1925年 普通選挙法成立(25歳以上の男性に選挙権)、但し治安維持法と抱き合わせ」
*社会運動
1911年 青鞜社(平塚らいてふ)
1912年 友愛会(労働条件や環境改善を求めて)
1920年 新婦人協会(女性の参政権を求めて)
1921年 日本労働総同盟
1922年 日本農民組合
1922年 全国水平社
*大正デモクラシーの問題点
政党政治が確立され、民意が政治の動向を左右するようになった事で、問題点も生み出した
政党は選挙に勝つことを至上命令に、党利党略に溺れ、互いに足を引っ張り合った
不況になると十分な経済対策を打ち出せない政党に国民は失望、
むしろ大陸進出によって経済の混迷を打開できるのではと、軍部に期待するようになっていた。
その国民の人気を獲得するため、選挙での勝利と政権争奪に血道を上げる政党は、
軍部や反政党勢力に自ら接近し、その力を利用しようとした。
しかし、その政党の思惑とは裏腹に、軍部の台頭を招く結果に陥ってしまった
政党が国民に迎合して軍部にすり寄ったと言うのだろうか?
確かに”ポピュリズム”は”政党政治”の陥りやすい最大の危険だが、
軍部に期待するようになった国民の責任だろうか?
国民が軍頼みにならざるを得なくさせた政党の責任だろうか?
ちなみに現在、金正恩らが主張する”先軍思想”、短期的には効率的に国力を強化する戦略かも知れないが、
その行き着く先は日本の歴史が明示するところで有る



近現代史概要