フランス革命
(参照:図説 フランス革命 芝生瑞和 河出書房新社
フランス革命 歴史における劇薬 遅塚忠躬 岩波ジュニア新書など)
フランス革命=旧体制(アンシャンレジーム)が民衆によって打ち壊されて行く過程
フランス革命は一つの“劇薬”(社会変革に極めて有効で有りながら、危険な作用鵜を併せ持つ)だった
何故“劇薬”が用いられたか?
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古い体制の行き詰まり
A
古い体制の徹底的変革を求めて“劇薬”を要求する人々(窮迫した貧民・農民等一般大衆)が変革の担い手になった
フランス革命が徹底した理由
矛盾の堆積(腐敗した貴族・高級僧侶と窮乏する農民・都市貧民)、ブルジョアジーと貴族の力関係拮抗
革命の原動力となったブルジョアジーと農民・貧民蜂起
ルイ14世(太陽王) 絶対王政最盛期(神授説)
ルイ15世
ルイ16世
産業革命で金融商業ブルジョアジーという新階級が経済の主役となり
封建的土地所有制度や古い身分制度に縛られた手工業者の同業組合などが新しい経済になじまなくなった
**時代背景
@啓蒙思想(科学と進歩が地上の幸福をつくりだす、“理性主義”)
モンテスキューの三権分立論、ヴォルテールの懐疑主義、ルソーの急進的人民主義、百科全書家ディドロ
A重商主義→重農主義→アダムスミスの自由貿易論(資本主義の萌芽)
B戦争と宮廷の奢侈で財政逼迫、インフレーション
16世紀“大航海時代”の主役、スペイン・ポルトガル→17世紀オランダ→
18世紀イギリスとフランス(太陽王ルイ14世)が覇権を争う
→スペイン継承戦争(1701年、ルイ14世が孫をスペイン王にした事でイギリスが干渉)、
オーストリア継承戦争(1740年、オーストリアとプロイセンの対立を軸として、イギリスが前者を、フランス・スペインなどが後者を支援した)、
7年戦争(1756年、プロイセンのフリードリヒ大王=英 対 オーストリアのマリア・テレジア=仏・露、イギリスがフランスを破り、イギリス経済の世界的優位が確立した)
更に1770年代頃からイギリスは産業革命で覇権を確実にし、フランスは転落の危機
→1786年英仏通商条約で安価で良質な英国製品の流入でフランス経済圧迫
→国内体制の変革が急務となった
政逼迫でルイ16世の財務総監カロンヌが、身分差無しでの新課税、僧侶貴族の免税に手を付ける
革命の最初の口火を切ったのは貴族の王兼に対する反抗だった(三部会招集の要求)
**革命第1段階
反革命 妥協的改革 徹底的革命 反資本主義
貴族層 ブルジア層 民衆・農民層
序幕から登場の貴族、議会に代表されるブルジョア、議会外の実力行使で旧体制にとどめを刺す民衆・農民、
革命の主役達が出揃った
ブルジョア層は自由主義貴族と結んで妥協的改革か民衆・農民と結び徹底的革命か、選択を迫られる
1789年5月 三部会招集(第1身分=聖職者、第2身分=貴族、第3身分=平民)
貴族の要求で招集された三部会は貴族の思惑を超え、第3身分が政治的目覚める結果になった、ブルジョワが中心になってアンシャン・レジームへの不満が高まる
第3身分は折からの啓蒙思想の影響も受け、“人間性の名において”封建的諸制度の廃止、“絶対王制”から“立憲王制”への変革を要求した(人間尊厳回復を目指して)
アンシャン・レジーム(旧体制)とは
a.身分差別(聖職者・貴族は免税)
b.領主制で貴族(領主)が様々な貢租を課税する権利を持つ
c.統治権力が国王に集中する絶対王制
アンシャン・レジームへの抵抗と云う共通目標を持ちながら、
やがて第3身分内で2つの層が対立する様になった
貴族対第3身分の対立に加えて、第3身分内でのブルジョア対大衆(貧困層)の対立
A.富裕なブルジョア層(大規模な商業・製造業を営む富裕な商工業者、地代・利息で生活する人
弁護士等専門的職業の知識人、かなりの職人を使う親方など)
資本主義の発展に必要な自由・所有・権利の平等を主張(資本主義の成長がブルジョアの権力獲得をもたらす)
しかし 富裕なブルジョアは買官で貴族になり得て権力に取り込まれる
たから、独力で革命の担い手になる事は出来なかった(イギリスでは逆に貴族のブルジョア化が進んだ)
ブルジョアは本質的には反旧体制だが、特権をちらつかされて大人しくなる
しかし1789年には彼らが野生を取り戻し革命の口火を切った、何故か?
a.イギリスに追い詰められて危機感を持った
b.貴族がブルジョアを閉め出そうとした
c.各地で民衆・農民が蜂起、自分の財産も危ないと思い、蜂起を鎮めるためにも旧体制打破に踏み切った
B.貧しい民衆や農民層
旧体制のしわ寄せを一身に受けていたが、ブルジョワの担う資本主義の発展による階層分化で一層の窮乏化に晒されていた、但し近代資本家と労働者の対立とは異なる、彼らは賃金増額や労働条件の改善を求めたわけではない、食べていけるだけの“パンと土地”を求めて立ち上がった、彼らこそ根源的に旧体制の転覆を求めた
始めに彼らを指導して旧体制を倒し、その後の新しい社会の設計図を描いたのもブルジョアだったが
彼らが実際行動を起こすことで革命が現実となった
フランス革命はブルジョアの頭脳と大衆の力が結合して初めて遂行された
@
1789年6月、国王から締め出された国民議会の第三身分や下級僧侶達が“テニスコート”の誓い
→国民議会設立宣言(貴族出身の第三身分代表シェイエスの実力行使、解散すれば徴税停止、国王への拒否権決議)→王の抵抗と譲歩→第1第2身分も国民議会に合同
A
1789年7月 憲法制定のための委員会設置、国民議会は立憲国民議会へ(ミラボーの演説)→
“立憲国民議会”が憲法制定に着手
王は財務総監ネッケルを解任、デムーランが武装蜂起をアジ演説、市民軍結成→
“貴族の反撃”を恐れた大衆が廃兵院で武器を奪取パスティーユ襲撃→
国王は屈服、国民衛兵創設、バイイ市長、ラファイエット司令官就任承諾
→貴族の亡命、ブルジョアの保身危機、革命の波は地方に波及、
“貴族の反撃”と“野盗襲来”の噂に”“防衛的反作用”に駆られた農民の反乱→立憲国民議会が封建制廃止を決議
(特権身分の租税特権廃止、領主の対農民夫役禁止・狩猟権・裁判権破棄、農奴制廃止、
但し農民は20〜25年分の年貢支払いと引き替えに土地所有権を獲得)→
B
1789年8月 立憲国民議会で“人権宣言”採択(封建制からの解放、自由・所有・安全・圧政抵抗の基本的人権)
→制限選挙法、王党派は二院政・国王拒否権を主張、中間派(ラファイエットら立憲派・ラメットら三頭派)
ロベス・ピエールら民主派が対立、三頭派に妥協
→国王は封建制廃止令や人権宣言に裁可を与えず、マラーやロベス・ピエールら急進派の怒り
→1789年10月 民衆の主婦達が“パンをよこせ”とヴェルサイユに大行進、ラファイエット・市民軍と合流、
人権宣言等を認めさせた上、国王を取り囲んでパリに奪う
→立憲国民議会は財政改革のため教会財産没収、修道教団廃止、ローマ法王への初収入税廃止
“僧侶に対する民事基本法”への忠誠要求で、僧侶は宣誓僧侶(フランス革命支持)と忌避僧侶(反革命・ローマ法王支持)に分離
→そして革命一年のパリ祭(全国連盟祭)ラファイエット・ミラボーの絶頂期→ナンシーの反乱
→1791年6月 国王夫妻の逃亡(マリー・アントワネット妃の恋人でスエーデン人フェルゼン伯の先導、オーストリア・プロイセン王やミラボーが応援)失敗→
立憲王政派(ミラボー・ラファイエット・バルナーヴら)ジャコバンクラブから離れフイヤン・クラブ結成
王の処遇をめぐってフイヤン派のラファイエットが急進派を弾圧(シャン・ド・マルスの弾圧)
急進派 ジャコバン派(ロベス・ピエール)山岳派(ダントン・マラーらコルドリエ・クラブ)
→オーストリア皇帝レオポルト二世(アントワネットの兄)プロイセン国王フリードリッヒ・ウイルヘルム二世
ピルニッツ宣言で反革命の武力行使宣言で脅す
**革命第2段階 憲法が制定され立法議会が招集された
妥協的改革の1791年体制
(有産者のみの参政権、旧体制破壊の不徹底、弱肉強食の経済的自由主義(ル・シャブリエ法=団結禁止令)、
以後第3身分、特に民衆の動きに応じて、政治情勢は妥協的改革と徹底的革命の両路線をジグザグに進展する
C
1791年10月 憲法成立、立憲国民議会は立法議会に
→インフレと生活窮迫、ジロイド内閣のオーストリア宣戦布告、プロイセン侵入による祖国の危機、戦意無い正規軍、王室の敵国内通に民衆と義勇兵・連盟兵が立ち上がる
→“貴族の陰謀”と“外国との共謀”に不安不満を抱き、ブルジョアに裏切られた民衆の直接的行動
1792年 八月十日の民衆蜂起(パリ・コミューン結成)チュイルリー宮殿に乱入、議会は王の職務停止を宣言
ヴァルミーの戦いでロベスピエール・マラー・ダントンら(モンターニュ=山岳派)に扇動された革命軍が、
プロイセン侵入軍+後衛オーストリア軍・亡命貴族軍に勝利
ラファイエットは反乱軍鎮圧を試みるが、適わぬと見て逃亡自らオーストリア軍の捕虜になる→
議院内ブルジョア各派は大衆との同盟に踏み切るかどうか、愈々選択を迫られる
D
1792年9月 王政廃止(王権停止)、ロベス・ピエールの共和制へ、封建制度完全撤廃、農地解放(しかし小土地所有農民の形成は仏の資本主義化を遅らせた)ロベス・ピエールは徹底的革命路線に踏み込む
国民公会招集(新憲法制定・普通選挙に始動)、宣誓忌避僧侶の追放
→反革命勢力の内乱・外国からの武力介入を誘導する
→モンターニュ派=山岳派(パリのサン・キュロットを主な支持基盤、急進派、ロベス・ピエール、ダントン、マラーが中心、議会外支持者を含めてジャコバン派)対ジロイド派(支持基盤は上層ブルジョアジー・地方議員、ブルジョア利益を代表して大衆連携には消極的)の対立、中道の平原派
(サン・キュロットとは主に手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民を指し、
当時のパリでは貧困層に属した)
1791年1月 ルイ16世処刑
1793年10月 マリー・アントワネット処刑
1793年6月 ジロイド派追放
1793年6月 幻に終わった93年憲法(ジャコバン憲法) 直接普通選挙、人民投票制度、抵抗権、奴隷制廃止
社会的デモクラシー
民衆は“飢えない権利=生存権”で、ブルジョアの神聖不可侵な“所有権”に歯止めをかけ、パンと土地を求めた
ロベス・ピエールは“生存権の優位”を提言、“公的扶助”は社会の恩恵ではなく“義務”と主張
“社会全てのメンバーの生存権を保障するのに必要なものは、みんなの為にリザーブされ、
それ以上の超過部分だけが個人の所有に属する“
ジロイド派は何故没落したか?
イギリス・オランダ・スペインなど対仏同盟包囲網に強気で宣戦布告、無理な徴兵にヴァンデの農民反乱
デュムーリエ将軍の裏切り、モンターニュ派の追求に逆ギレしてパリ・コミューンを告発、国民公会の反撃→
E
1793年10月 ジャコバン独裁
徹底した平等主義(財産所有の制限、発展しつつある資本主義にとっては桎梏)
軍の近代化(国民皆兵制、兵器増産は後のナポレオン連戦連勝を用意)によってイギリス・オーストリア等撃退
フェデラリスト(ジロイド派の連邦主義者)の反乱ヴァンデの反乱等国内反乱を鎮圧
恐怖政治(公安委員会・保安委員会設置)“反革命容疑者に関する法律”(反革命分子の徹底的監視・弾圧・処刑)
“全最高価格法(統制経済維持のための法)
ロベス・ピエール演出の“最高存在の祭典”(キリスト教の礼拝に代わり、“理性”の聖化)
→ロベス・ピエールは暗殺されたマラーを神格化してエベール(過激派)ダントン(寛容派)処刑、
F
1794年7月 疑心暗鬼になった国民公会議員がロベス・ピエールを処刑
平原派・沼地派(持つ者の要求を満たそうとする共和派)によるテルミドールの反動
(公安委員会は骨抜きに、経済統制政策は放棄して超インフレへ、富の集中から近代権力集中国家へ)
ジャコバン派狩り、ジェルミナール・プレリアールの蜂起は鎮圧され、指導者を失ったサン・キュロットは息の根を止められる
“平等”より“所有権”を強調したテルミドール憲法
→1795年10月 王統派蜂起(ヴァンデミールの蜂起)に国民公会側はナポレオンを起用して粉砕→国民公会解散、総裁政治へ
→ナポレオンの軍事的活躍、共産主義の祖・バブーフの処刑、
総裁政府は左・ジャコバン派、右・王統派の突き上げと度重なるクーデターで不安定状態
→“傷ついたエゴのため、成功という鎮痛剤を求め、自ら傷ついた傷口を永遠になめ続けた”ナポレオン
H 1799年11月 ブリュメール18日のクーデターでナポレオン皇帝へ→軍隊と警察という暴力装置の国家独占、中央集権国家を建設
結果的に革命は資本主義的発展を可能にするブルジョア革命に落ち着いたが
ブルジョアが徹底的革命路線という“劇薬”も経験したことで、革命の偉大と悲惨両面をもたらした
**“劇薬”の痛み 1793年―94年ジャコバン独裁・恐怖政治と大衆運動
大衆運動は正義と暴力、崇高と残酷、偉大と悲惨両面を持つ
“貴族の陰謀”や“外敵との共謀”に対する不安など大衆の屈折した心情が、
“防衛的反作用”(やられるまえにやっつけろ)で暴動に走らせる事になった
そしてその風潮から独裁と恐怖政治が生まれた
独裁をもたらした原因
独裁=反対者の排除
@
フランス革命の社会構造そのもの故に話し合いが困難だった
特に1792年共和制移行でブルジョワ各派は貴族側・民衆側相容れないどちらに付くかを迫られた
A
反対者の排除を正当化する論理
ロベス・ピエールは自分が一般的利害を代表、相手は個別的利害を代表しているに過ぎないから排除すべきと云う論理を組立てた(自分こそが正義を代表するから正統)
そして左派(エベール派)も右派(ダントン派)も個別的利害にこわる徒党として排除した
B
議会内の党派が大衆運動と連動した
公共の利害を代表する革命政府は非常時政体として国民の基本的人権、三権分立を一時棚上げにした
テロは大衆運動の中から生じたが、山岳派は大衆的テロを上から組織化した
恐怖政治の犠牲者は35000から40000人に達した
劇薬無しにすませる道はあったのか?
フランス革命は89年当初から民衆と農民の参加した複合革命だったから“劇薬”なしには済ませなかった
と云うのが遅塚忠躬氏の見解
イギリス革命は主に“自由”を目指した(大衆は脇役)、フランス革命は主に“平等”を目指した(大衆が主役だった)
日本もブルジョワは革命の主役になれなかった(ブルジョアの成長前に欧米諸国に独立を脅かされた)
劇薬無しに日本は近代化を達成したが、それ故に基本的人権の保障がなおざりにされ、敗戦の犠牲を払った
フランス革命はリーダーも大衆も含めて、
偉大でも有り悲惨でもある人間達が創り上げた“劇薬”に至る巨大な熱情の噴出だった
*各党派
王統派
王族関係者
立憲君主派
フィヤン派
三頭派
オルレアン派
共和派
ジロイド派
ジャコバン派(山岳派・モンタギュー派)
ロベス・ピエール派(ジャコバン中道派)
ダントン派(ジャコバン寛容派)
エベール派(ジャコバン急進派)
ジャコバン過激派
ネオ・ジャコバン
平原派(泥沢派・テルミド−ル派)
アンラジェ(最過激派)
世界史のマップ https://sekainorekisi.com/より