源平絵巻(2)   後白河法皇(1129―92)  非力の帝王

かの 老獪な源頼朝をして“日本一の大天狗”と うならしめた後白河は 鳥羽天皇の第4皇子、母は待賢門璋子、異母弟近衛天皇の急死に伴い即位する。崇徳排斥のため鳥羽天皇、近衛の母美福門院の意向で ほんの中継ぎ程度に擁立される。後白河自身にとっても晴天の霹靂であった。皇太子で有った訳でもなく、29歳 当時にしては余りにも高齢の天皇誕生であった。即位半年後には皇統継承の機会を奪われた崇徳の反乱“保元の乱”を経験、早くも3年後には子息二条天皇に譲位法皇となり、更に翌年には側近信西、信頼及び源平の権力争い“平治の乱”を見る。

その間、後白河は為す術もない。“平治”に亡びた天分縦横の切れ者、鳥羽・後白河の院政を切り盛りした信西が後白河を評している。“和漢比類無き暗主、古今聞く事無い愚妹、ただ取り柄と言えばやりたい事を制法に拘らずやり遂げる実行力、一度聞いた事を絶対忘れない記憶力のみ”

記録所設置、荘園整理などの政治体制固めは主に信西の功績であり、保元・平治の勝利も源平武将による物であった。

天皇・法皇の二極政治、我が子二条天皇の反抗すら意のままに出来ない後白河は、日々をただ今様(流行歌)に耽溺するすね物と言っても良い非力な帝王であった。

清盛は後白河法皇と二条天皇の間に立って“あなたこなた”と働きを見せる。そして二条没後、
清盛は常に法皇と共にあった。




お互いが権力掌握のためお互いを必要とする。平家一門の隆盛とともに法皇は“治天の君”として専制君主の地位を得る事になる。

後白河は清盛の妻時子の妹滋子(建春門院)を寵愛、その子高倉が皇位に立ち、清盛は娘徳子(建礼門院)を入内せしめる。

しかし後白河と清盛の蜜月は長く続かなかった。後白河に欲が出たのかも知れない、清盛覇権に対する嫉妬かも知れない。二人の激情家の溝が深まって行く。

建春門院没翌年、後白河が関わったと見なされる鹿が谷事件発覚。その2年後には清盛の娘盛子の遺領没収(関白基実領を盛子が相続する事で清盛が実質的に横領したとされる)嫡男重盛の遺領没収を契機についに清盛が反旗を翻す。院政停止、後白河鳥羽殿幽閉。

利益に為には体面・慣習を無視して憚らない二人の性格が真っ向衝突する。

幽閉の身にあっても さほどに後白河に動揺はない、変わらぬ今様三昧であったと思われる。

世間の方が騒がしくなる。前代未聞の法皇幽閉・福原遷都の失敗・南都攻め、清盛の強攻策への宗門など世情の反感、後白河の子・源以人王の蜂起。

清盛すでに熱病に倒れ 混乱と政治的空白。清盛膝を屈して法皇復権する。清盛は失意の内に病没する、葬儀の日も後白河は平然と今様にうち興じている。

彼にはすでにままならぬ政治への無関心が産まれていたのかも知れない。

源平の争いいよいよ騒がしく、源氏優勢を伝えられるや後白河は密かに頼朝と接触する。

源義仲倶利伽藍峠に平家を破り意気揚々と上洛。後白河はひとまず叡山に難を逃れ、勝者義仲に昨日の官軍平家追討を命ずる。

兵站を欠く田舎武者義仲の乱暴狼藉、あげくは頼朝追討の院宣を拒んだ法皇に弓引き幽閉する。

法皇は素早く頼朝を頼り、源義経、義仲を討つ。義経の武威止まるところ知らず、怒濤と如く一ノ谷・屋島・壇ノ浦とついに平家を追い落とす。平家一門絶滅。

後白河には権力を手にした源氏の統領・頼朝の恐ろしさが見えていた。義経を懐柔、義経に対し頼朝追討を命ずる。

しかし頼朝に対する自らの兵を持たない義経の非力、慌てて頼朝に弁解状を送る。頼朝曰く“日本一の大天狗めが!”

武力と武力の激突、政治の空白の中で まさに右往左往“策におぼれた”とも言われる後白河です。

愚昧の激情家と言われる反面“貴人に情無し”無類の策士とも言われる後白河です。

しかし思い起こして欲しい。中世の幕開け、勃興する武の時代に 自ら保有する武を持たなかった最高権威者に他の選択があっただろうか?

人としての欲を持った恨みもある、激情に駆られ至上神の体面を棄て形而下の財を人民と相争った恨みもある。しかし貴人なりの嫌みな存在ではある物の、武士達を翻弄したと言うよりも武士達に翻弄された側面を強く感じます。

一度人民の地平に下り落ちれば 武力無き身の悲しさ、策を弄するしか術もなく時にひたすら逃げる事しか術がなかったのでは無かろうか。もともと後白河は権力を望んだのだろうか?身に余る権力を保持しようとしたのだろうか?権力を放棄して今様に遊び呆けながらも仏に守られた自分を望んだのではなかろうか?

ここにも運命を切り開くつもりが逆に運命に翻弄された武力無き激情家の悲劇を見る。この後数年を経ずして歴史は後醍醐という自前武力を握った天皇の悲劇を見る事になる。

平家物語最終章、ただ一人の平家生き残り建礼門院を訪ね、来し方を振り返り仏法に思いをはせる“大原御幸”は虚構であろうが、結構後白河らしい姿のような気もします。

病に伏した晩年 崇徳・安徳・信西などの亡霊に悩まされた事も多かったが、その最後は念仏を唱え、印を結び居ながらにして眠るが如き大往生であったと言う。

安徳天皇に象徴される 抗すべき手立て無き死、後醍醐天皇に象徴される 徹底抗戦の上の壮絶な死 そして後白河の 逃げ回り生き抜いた死。