歴史ちょっとだけ  “後白河法皇”再論

平家物語では

鹿ヶ谷の謀議で ただ一言“猿楽仕れ”と平然と命じ、安徳出産の際には自ら千手経の陀羅尼をあげ水晶の数珠をおし揉み安産祈願、鳥羽殿幽閉の際には“われは夕さり失はれなんずと思し召す”ついては湯浴みをしたいと嘯いた後白河。

あくまで 陰の存在として描かれています。

一見救いがたい暗君に見えながら、一度行動を起こすや従来の慣習、制法にかかわらず必ず成し遂げる実行力、驚異的な暗記力。武家に立ち塞がった最大の存在として、変化期を乗り切りついに最後を全うし、終章大原に建礼門院を訪ね 過ぎ去った動乱地獄をふりかえる後白河。その大いなる”しぶとさ”の根源は何でしょう。

後白河法皇  棚橋光男  講談社メチュエ

異色の歴史家 故棚橋光男氏は鎌倉幕府成立史の裏返しではなく 中世成立期の王朝国家そのものの位置づけの中で後白河論を展開しました。

 後白河それ自体の精神史の内在的分析
 文化創造の場の孕む高度の政治性の把握
 古代から中世への王権の質的転換の解明

まずは 11世紀後半から13世紀前半まで 中世期国家の成立と変遷を辿る事で 中世期王朝の性格、鎌倉幕府政権の限界を論証しました。

鎌倉幕府を中核とする在地領主層が国制上の限界(院・天皇権力を中核とする荘園領主制)を突破せず癒着した要因

 都市京都を中心として蓄積されきたった非農業的生産と技術の体系
 分業と流通の体系
  職と官途の体系 
  政治=法技術(知識)の体系

武家の権力から独立性を保ち得たと言うより武家権力の前に大きく立ち塞がった中央政権の独自性を捉える意味で網野先生とも共通するところがありますが 
網野先生が非農業民の生産流通力の側面に力点を置いたのに対し

棚橋氏は 王朝国家の文化的側面 政治=法技術等 知的財産に照明を当てました。

まずは 氏の著作“後白河法皇”の 後半 中世国家成立史を 見ていきます。

11世紀後半〜12世紀半ば  後三条親政、白河親政・院政、鳥羽院政

行政機構、訴訟機関、法体系に中世国家の及びその枠組みが形成された         在地領主制が構造的に組み込まれ国家構成上諸権力の重層的編成や機能分掌       が顕著になるなど中世国家の基本的属性が明らかになった

新しい在地支配の秩序=“職”の出現  
職=官職的(公権的)側面と不動産物権すなわち所有権的(私権的)側面
律令制古代の在地支配、族長的郡司制は9世紀後半に崩壊、従来の太政官変わって    国司が郡司任免権を掌握
10世紀初頭には国司の在地支配機関として国衙在庁官人制が組織される

在地領主層は在庁所職の掌握と“相伝の私領”への転化を通じて国内に於ける支配    身分を獲得 国衙機構は中央国家から分離されていたわけでなく、中央国家の中      下級実務官僚の環流を必要とした

在地領主層の荘園領主層への従属

12世紀半ば保元・平治の乱から12世紀末治承・寿永の内乱終息まで
   後白河親政・院政期の大半

院と平氏の複合権力
軍事・検断(刑事犯人の検察・断罪)機能の再編
中世王権の形成  律令古代秩序からの決別

院専制の特徴  院の仏事・法事への執心   顕密体制を外護する権力
叙位・除目における院の専権が律令制的位階制官職秩序を相対化              ”法に拘わらず”“人の制法に拘わらず”  
律令法の形骸化  律令に拘束された天皇に果たし得ぬ機能を院が果たした

公卿の合議体“陣定” 
訴訟の実質的審理権が諸国衙から中央国家に移行 領主間矛盾を調停


検非違使庁等  中下級官人の実務官僚機構が形成

律令の再編と慣習法の集大成  
王朝国家法から公家・武家・寺家にいたる個別私権門の法が形成

南都北嶺の強訴、荘園権門相互の合戦、王権内部の分裂抗争下
国家的軍事・検断機能の集中と組織が課題
平氏が軍事・検断機能の独占的把握に成功するも平氏が究極一門の公卿化と知行国    の把握を目途とする限り、国衙機構に結集した在地領主層を全体として自己の権     力下に編成し得なかった

荘園・国衙領体制の中で在地領主層一般の所領・所職知行を安定的に保証する方式    を開発しえなかった平氏権力の限界

12世紀末 鎌倉幕府成立から13世紀前半承久の乱の戦後処理まで  
 後白河院末期から後鳥羽親政・院政

京都王朝権力と鎌倉幕府権力の政治的分業と協業

中世王権が確立、軍事・検断権力は明確に封建的に構成

武家の統領“頼朝”の使命  
在地領主層の共同の権力機構たる国衙在庁機構の抑圧状況からの解放、

そして荘園下級所職の地頭職としての安定的保証

日本國総地頭・日本國総追捕使

都市貴族を中心とする諸権門の荘園支配と真っ向対立、
しかし 結果的には癒着に終わる

王朝国家は再編され縮小された官僚制を保持し公家・寺家権門と西国を中心としたその  所領的基盤、諸種の交通系統の掌握、これを背景として強靱に再生された。王朝国家に於ける社会秩序の骨格を支え、かつ東国を中心とする在地領主層をも一定の形でその社会秩序に吸引しつづけたものは“職の体系”であった
院を主宰者とする王朝国家のその政治性=法技術(知識)の歴史的蓄積の厚みは堅い障壁として存在し続けたのであったし、この政治=法技術(知識)の蓄積と都鄙間交通・社会的分業・流通の結節点としての都市京都の機能、これこそ荘園制を中世を通じて存続せしめた要因であり“日本の中世領主制”をして“荘園制の徹底的破壊”のうえにでなく、それとの歴史的癒着の上に立つコースを最終的に選択せしめた深部の要因であった。

では かような 中世期王朝の存続を可能ならしめ 王朝文化を形作った人物の分析に入ります。

まれに見る学識で王朝の実権を握り それぞれのやり方で恐怖政治を主宰した二人の人物。

頼長は保元の乱に敗れ、信西は平治の乱で惨殺されます。

そして 最後まで生き残った巨魁 後白河。

悪左府頼長  “偉大なる偏執狂”

関白忠実の次男、母は摂関家家司藤原盛実の娘いわゆる“諸大夫の娘”、異母系忠通とは出生時点で歴然たる格差 母の出自の卑しさをバネとして刻苦勉励。 

36才の失脚まで“執権”として実権を掌握。撥乱反正、律令復興、刑事尊重を基軸に王朝貴族社会の反感に包囲されつつ厳格・酷薄な政道を展開。保元の乱に破れ敗走中に絶命。

その学識は正統に対する異端、王朝貴族社会=伝統社会に対する反逆であったが 儒教の合理的側面を徹底的に追求した政治的実践の学であり、中世期王朝国家の法治的基礎を築いたと言える。

高貴なる精神を持した硬骨漢頼長は男色への傾倒等 異常、奇怪 ついには癒しがたい“狂気”にまで至る。

少納言入道信西  “斜に構えた俗物”

妻朝子が後白河の乳母だったことから、その皇位擁立に暗躍。保元乱後の政局で黒衣の宰相として活躍。平治乱で惨死

博覧強記、諸芸通達、その関心の広がり・雑駁さ・実際性・芸道への傾倒は頼長の学風と対照的

歴史書“本朝世紀”律令格式大全“法曹類林”編纂

科学技術・仏教・道教・神仙・文学などに至るその驚くべき蔵書目録は王朝の中世的再生に向けた政治的・社会的基盤の整備創りに欠かせぬものであった。

学風・性格は頼長と対照的ながら 政敵への恐怖の処断、王朝国家再生への貢献において共通する。

後白河法皇  “偉大なる暗闇”

政争の修羅場において酷薄と謀略、行動に於いて遍歴・漂泊と神出鬼没、気質に於いて癇癖と躁性、芸道精進において 真摯と偏執、美意識に於いて新奇とバロックを本領とした政治的巨人。

鳥羽・美福門院・関白忠通の提携で崇徳の子重仁親王即位の野望封殺のため“ワンポイントリリーフ”で擁立さる。

後白河親政というより“信西親政”、当の信西からも“暗愚の帝王”とそしられた“今様狂い”の前半生。

“時代”と言う怪物が“平時の暗主”を“乱世の梟雄”に押し上げる。

後白河をチーフプロデューサーとしパトロンとした工房で制作された絵巻物に見るあらゆるタブーを排斥する放胆さ、“業”の直視を可能にする表現技量の冴えは表現の可能性・限界を極度に追求した物だった。

少年の好奇心を隠しようもなく露出させ 政治と芸術と言う二つの狂気の世界を 激しく駆け抜ける後白河。

遊芸の徒との交わりが 独自のネットワークを形作る。

王権・文化(芸能)・漂泊の社会集団とのネットワークが王権を武家の怒濤の如き反乱から奇跡的に防御する。

美の主宰者、美の領導者、文化的カリスマ、後白河。死に臨んでの大音声念仏70遍の大往生。

棚橋氏の後白河論は せっかく 中世期国家の官僚機構や頼長・信西の法的社会基盤造成の功績に目を向けながら、いささか “制度”“機構”“法”を軽んじ、“人的紐帯=互酬”の論理に偏る嫌いがあります。

しかし 少なくとも 私が 前に自前の武力を持たなかった意味とはいえ“非力の帝王=後白河”と申したのは 訂正の必要がありそうです。

“制度”“機構”“法”“官僚制”等の力をも含めて “武”に対する“文化”の力を再認識すべきです。

そして 後白河の“暗闇”のような“カリスマ”性をも。

では 頼朝は はたして棚橋氏いわくの如く“端正で偉大な凡人”であったか? 又の機会に見ていきます。