源平絵巻(4)    

 木曽義仲・平家の公達・怪僧 文覚をめぐって“さまざまな哀歌"

義仲  風雲児の激情

父義賢(義朝の弟)が義朝の子・悪源太義平に殺されたのは義仲まだ2歳であった。

斉藤別当実盛達に一命を助けられ、山深き木曽に匿われる。

木曽源氏と言う家族的結合の中で育てられた義仲は義経はもとより頼朝より恵まれた環境にあったと申せます。

以人王の令旨を受けて挙兵北陸道に名を挙げる。

倶利伽藍の戦いに巧みな戦略で平惟盛を破りいちはやく京に入り、平家を都から追い落とします。

しかし義仲は木曽山中より外の世界を知らない清純無垢・善良なるも政治眼ゼロの田舎武者。

兵糧の現地調達と乱暴、両極端の激情家後白河と相容れる筈もなく、

頼朝と密約した後白河法皇との間に狂乱の対立がおこります。

無知故に狂おしいまでの激情に駆られた義仲、法皇に対する前代未聞の武力攻撃・法住寺合戦、

法皇の怒り、まさに動乱の中世の幕が開きます。

“平家物語”に語られる義仲こそ王朝文化に対抗して勃興し運命に翻弄される武士の象徴です。

“そもそも義仲十善の君に向かい参らせて戦には打ち勝ちぬ。主上にやならまし、法皇にやならまし”

と嘯く義仲ですが、“猫間”とか“鼓判官”での“おやじギャグ”の後では 何か微笑ましくもあり

心清純な義仲への空しさと同情をかき立てられます。

頼朝の命を受けた義経が義仲を破ります。

愛妻巴との別れ、愛する乳母兄弟・今井四郎との今生の別れ、

平家物語は時代に翻弄された風雲児義仲の穢れ無き魂の最後を哀切込めて詠います。

“日来は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや”戦いに疲れ果て、死を悟った一代の風雲児。

今はただ兼平と一所でこそ討死しようとあどけなく兼平に語りかける義仲、

朝日将軍と呼ばれる天下の武将にただ静かな自害をとなだめすかす兼平。

“ふか田ありとも知らずして馬をざっとうち入れたれば馬のかしらも見えざりけり、

あおれどもあおれども、うてどもうてども はたらかず”

一人残した兼平を気遣って振り返った義仲の内兜に致命の矢が見事に当たります。

兼平“今は誰を庇はんとて軍をばすべき。身給え。東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本よ”と叫び

太刀の鋒を口に含み馬上から真っ逆さまに飛び落ちて落命します。

生まれくる命、しかし月足らず実を結び得なかった命へのいとおしさ溢れる描写です。

 

平重盛  王朝美学に殉じ死の国を憧憬

平家物語、平家の公達のさまざまな最後が消え去りゆく者達への哀歌として平家物語に詠われます。

1177年、清盛が初めて後白河に牙をむいた鹿が谷事件、そして2年後後白河法皇幽閉事件。

清盛の嫡子 重盛は父清盛を向こうに回し声涙下る熱弁を奮います。

“悲しきかな、君の御ために奉公の忠を致さんとすれば、迷廬八万の頂より猶高き父の恩、忽ちに忘れんとす。痛ましきかな、不孝の罪を逃れんと思えば、君の御ために既に不忠の逆臣となりぬべし。進退惟きわまれり、是非いかにも弁えがたし。申し請くるの詮は、ただ重盛が頸を召され候らえ”

朝恩絶対の理にたつ重盛と人間としての信義を法皇に求めた清盛。

現代の感覚では制法の批判者として清盛と同次元まで下って清盛と対決する後白河の背信を責める清盛に理がある様ですが 当時は王朝文化・倫理の体現者・重盛に理が有った様です。

平家物語において重盛は武勇・才知・風貌いずれにも優れた理想的人物として描かれています。

清盛も重盛には叶いません。我が子の言を容れ矛を収めます。

しかし重盛は激情に走る父への諌死のような形で早逝します。

逆に重盛の死が清盛の後白河に対する反逆心に火を付けます。

父清盛の重盛に対する愛情が胸を打ちます。重盛を手放しで賞賛し、愛した清盛。

真っ向諫言された重盛に先立たれた3ヶ月後。

その重盛の喪中に管弦の遊をなし、あまつさえ知行国を没収した後白河に清盛の怒りは関を切り、

ついにクーデターを起こし鳥羽殿に幽閉します。

後白河と清盛、余りにも激情的な個性の力業の中で、クールな批判者重盛は病死とはいえ死を望まざるを得ませんでした。

重盛は宗盛達と異母兄弟として小松殿の家系と呼ばれています。重盛の熊野三社への病的なまでの没入、

死の国熊野への憧憬、彼岸を求めての激しい願望。

そして嫡子惟盛、資盛、清経、有盛など小松殿の公達はおしなべて弱々しく、

妻子へん恩愛断ちがたく悲運の中で死を求めて彷徨う姿は有る意味で美しく、

滅び行く王朝文化の美学は正に小松殿公達に描かれています。

平宗盛  情愛故の未練

第3子宗盛は未練であった。

清盛没し平氏の采配を任された宗盛は凡庸にして無能であったとされる。

ただ おろおろと都落ちを決意、和平を望みながら その優柔不断が為 

転がり落ちる様に屋島、壇ノ浦の敗戦を向かえる。

一族が入水を急ぐ間も宗盛・清宗父子は船べりに立ちつくす。

みかねた家人が海中に突き落とすが、巧みな水練と我が子への思いが禍して死に場所を得ず源氏の手にかかる。

平家物語では徹底的に凡庸、臆病、決断力を欠く宗盛とこき下ろされましたが、

歴史家上横手先生は“彼はいったいどのような悪事をはたらいたのか?”と弁護します。

妻を愛し子を愛し部下を愛した宗盛、身に余る平家統領の重荷の中で後白河や頼朝に裏切られ

翻弄されながら平和と生を願った宗盛です。

死に臨み一旦念仏行に入りながら“右衛門督も已にか”と 

共に戦った我が子への思い故に念仏を辞めてしまった最後の執念、

往生際の悪さにむしろ好感が持たれます。

 

平知盛  見るべきほどの事は見つ

清盛第4子知盛は“平家物語”に控え目ではありますが、最も美しく勇壮に描かれています。

“如何なる親なれば、子は有て親を扶けんと、敵に組を見ながら、如何なる親なれば、

子の討るるを扶けずして、斯様に逃れ参て候らん”

一子知章を自分の身代わりに一ノ谷に失い、我が子を助け得ず死に遅れた思いに脇目もふらず慟哭する知盛。

我が子すら見捨てて逃げた自らの生への執着と利己心をあるがままに見つめる知盛。

軍馬や敵方捕虜の命を奪おうとする者どもを一言の下に制止する一方、味方の裏切りは決して許せなかった知盛。

運命を 人間の弱さを 我が身を抉るが如く知り極め、滅び行く平家の定めを心底感知しながら、

ついに戦う心を失う事なかった男、知盛。

壇ノ浦にいよいよ最後がおとずれる。

安徳帝入水、我が妹であり安徳帝の母・建礼門院の入水。錦の衣は海面を紅葉のように染めていきます。

 “軍は今日ぞ限る。者ども少しも退く心あるべからず。天竺震旦にも、日本吾朝にも、ならびなき名将勇士と言えども、運命つきぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ“ と船の屋形に立ち出で大音響に呼ばわります。

“世の中はいまはかうと見えて候。見苦しからん物ども皆海へ入れさせ給え”と自ら船内を掃き清めます。

動揺する女房達に“めずらしき東男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ”とこたえ“からからと”爽快にわらう知盛。

一門の栄華・戦い・苦悩・悲惨そして最後、様々な回想も瞬時

“見るべきほどの事は見つ、いまは自害せん”と鎧を二領着用、ずぶりと海中に消えゆきます。

戦う運命を見つめ尽くし知り尽くした男、知盛。

この知盛の最後に栄枯盛衰、無常の世の流れの中で 戦い抜き、生き抜いた人々の営みが万感の重みで詠われます。

 

平重衡  南都焼討ちの総大将

清盛 福原還都に失敗、彷彿とわき起こる反平家の声。

清盛第5子重衡は 以人王挙兵に手を貸して反平家運動の拠点と成った南都攻めの総大将。

1190年12月28日、放った火はたちまちにして燃え上がり興福寺、東大寺の大伽藍を紅蓮の炎が包む。

焼死人数3500余とされ、仏罰間違い無しと都人の反感をかう。

“おめき叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無間阿鼻の炎の底の罪人も是には過ぎじと見えし”

しかし その後も常勝を重ね武勇かくかくの重衡であったが一ノ谷の合戦に源氏の手に落ちる。

囚われの身となった重衡は“南都炎上”の罪を一身に負い、自ら潔く死罪を求める。

誠に器量人というか艶福家というか、

未だ人情を解し得た頼朝はじめ敵方の人々の好意と愛する女人に囲まれた最後が飾られる。

頼朝より与えられた千手前との束の間のロマン、正妻藤原邦綱の娘輔子との死後の再会を約した別れ。

潔く勇猛、優しく数々の女人を愛した貴公子、重衡は木津川の畔で斬られ、

その首はかって南都攻めを下知した般若寺大鳥居の前に懸けられます。

 

文覚  革命に生きる絶倫の怪僧

“修行と言うはいか程の大事やらん、試いて見ん”

若くして大峰・葛城等各地の霊場を遍歴、王法の守護者として神護寺を再興。

“文覚は行はあれど学はなき上人也。あさましく人を罵り、悪口の者にして人に言われけり。天狗を祭るなどのみ言われけり”(愚管抄)

“天狗を祭る”、彼は常人を越えた一種の心霊術体得者であったとされています。

*    “天狗”は“太平記”で活躍しますが

天台・真言のような平安以来の伝統を持つ仏教界の僧で国政の動きにも大きな関心を持ち、

又は深い交渉を持つ者達で天狗道に陥った者。

およそ生前に驕慢にして無道心の者が現世に於いて志を得なかった場合天狗道に陥ると言われているが、

彼らは仏道を知るが故に地獄に陥る事はなく、又無道心なるが故に極楽に往生出来ない。

天狗道にあっては常に政治界の動乱に限りない関心を持つ(冨倉徳次郎 平家物語より)

御所に乱入“ひたすら仏法、王法のため一生を尽くすと言えども退出すべからず”

気迫で同じく奔放な後白河の心を掴みます。

優柔不断の頼朝を説き、平家打倒の挙兵と後白河との提携を成功させます。

しかし権力を掌握した頼朝にとって反骨の文覚は次第に煙たい存在になっていきます。

時めぐって 平惟盛の遺子六代の助命をめぐって頼朝との対立が深まります。

権力者の位置を確保した頼朝と未だ王法・仏法樹立に命を懸ける永遠の革命児・文覚の溝。

頼朝にとって革命の教唆者・文覚は既に許せぬ存在になっていました。

晩年 後鳥羽上皇とも対立した文覚は隠岐の島に流されますが、その影響力は承久の乱にまで及んだと言われます。