太平記  粗筋を読む(1)

永井路子 太平記 文藝春秋 を参考に 太平記の粗筋を見ていきます。

internetは主に下記のサイトを参照させて頂きました。

  http://www.j-texts.com/sheet/thkm.html   原文

  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/katakori/jtaiheiki.html  翻訳

         javaがご専門だそうですが凄い方ですね

1.

ここに本朝人皇(にんわう)のはじめ、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇(ぎよう)にあたつて、武臣相摸守・平高時と云う者あり。この時 上(かみ)君の徳にそむき、下(しも)臣の礼を失う。これより四海大(おほき)に乱て、一日もいまだやすからず。狼煙(らうえん)翳天、鯢波(げいは)地を動かすこと、今に至るまで四十余年、一人(いちにんとして)春秋に富むことを得ず、万民手足を置くところ無し。

鎌倉の源頼朝が平家を追討、諸国に守護、荘園に地頭が置かれ、その後頼家・実朝が大将軍の位を継ぐ。

実朝が頼家の子公暁に討たれて、3代の源家は途絶え執権北条氏が実権を掌握する。

後鳥羽上皇との間に起こった承久の乱を乗り越えて時政の子義時から泰時、時氏、経時、時頼、時宗貞時と善政をうたわれたが次第に守護地頭勢力が伸張、国司等が軽んじられていく。

高時の代に至り“民のつひえを思わず、ただ日夜に逸遊を事として前烈(ぜんれつ)を地下に羞しめ、朝暮に奇物(きもつ)をもてあそびて、傾廃(けいはい)を生前(しやうぜん)に致さんとす”

“みる人眉を顰(ひそ)め、きく人唇(くちびる)を翻(ひるがへ)す”

一方時の帝、31歳にして図らずも即位した後醍醐はまれに見る才徳の持ち主として周公、孔子の道に従って諸道の廃れを興すとともに制法に捉われない革新の政治を行なった。時に天皇家は持明院系、大覚寺系二つの家筋に分かれ、両系統交替に幕府権力が介入する状態であった。

後醍醐の政治的意欲は現状を容認するを許さず、ついに倒幕への密議をこらす事になる。

無礼講、山海の珍味を前に薄絹の女どもをはべらせ密かに進められる倒幕計画。密計まもなく幕府に漏れる事となり、側近日野資朝、俊基、土岐頼貞、多治見国長などが捕らわれる(正中の変)

2.

正中の変に失敗したものの、意を翻す後醍醐ではない。怪僧文観の仲介で醍醐寺勢力等を取り込み、護良親王を比叡山に送り込む。しかし又も事は露見日野資朝、俊基を討たれ、文観は遠島に。


後醍醐は笠置に脱出する。

天皇の影武者を買って出た師賢をめぐって叡山・唐崎の合戦。六波羅方海東左近将監、愛息幸若丸と僧兵快実との勇壮な一騎打ち。

3.

笠置山中では後醍醐が不思議な霊夢を見る。童子2人現れ楠正成の登場を暗示する。

“鎌倉勢の武力は力ずくで武力対決を図るだけのもの、計略をもってこれに当たれば怖れるに及ばず、合戦は時に勝ち時に敗れるもの”

“正成一人(いちにん)未だ生(いき)て有(あり)と被聞召候はゞ、聖運(せいうん)遂に可被開と被思食候へ”

正成は散所の長者か悪党か、輸送業者か、或いは寺社勢力に結びつく在地の豪族か。

4.

正成との初の会見をおえたものの後醍醐はついに六波羅に捕らえられ隠岐の島に流され、皇位は光厳に。


一方正成は居城赤坂に有って30万騎の兵を相手にゲリラ戦を展開する。

備前児島高徳の天皇奪取計画。“天莫空勾践(天勾践をむなしゅうするなかれ)時非無范蠡(時に范蠡無きにあらず)”

主上詩の心をさとり龍顔御快く笑ませたまう。

5.

笠置落城、後醍醐捕縛を伝え聞いた大塔宮護良であったが危機一髪奈良を山伏姿となって熊野・十津川から高野、吉野へと遍歴する。


6.

赤坂城を出た正成は湯浅城を乗っ取り、2千余騎を率いて住吉・天王寺に進出。天王寺秘蔵の“未来記”により、上皇隠岐脱出の未来を知る。“西鳥来たって東魚を食らう”


7.

吉野金峰山寺に身を隠した大塔宮も幕臣二階堂道蘊に責められ落城。最後の酒宴、宮の身代わりとなり決死で落とす村上義光。

“「天照太神(あまてらすおほみかみの)御子孫(ごしそん)、神武(じんむ)天王(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)第二(だいに)の皇子一品兵部(いつぽんひやうぶ)卿(きやう)親王(しんわう)尊仁(そんにん)、逆臣(ぎやくしん)の為に亡(ほろぼ)され、恨(うらみ)を泉下(せんか)に報(はう)ぜん為に、只今自害する有様見置(みおい)て、汝等が武運忽(たちまち)に尽(つき)て、腹をきらんずる時の手本(てほん)にせよ。」と云侭(いふまま)に、鎧を脱(ぬい)で櫓(やぐら)より下へ投落(なげおと)し、錦の鎧直垂(よろひひたたれ)の袴許(はかまばかり)に、練貫(ねりぬき)の二(ふたつ)小袖を押膚脱(おしはだぬい)で、白く清げなる膚(はだ)に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切(かききつ)て、腸(はらわた)掴(つかん)で櫓(やぐら)の板になげつけ、太刀(たち)を口にくわへて、うつ伏(ぶし)に成(なつ)てぞ臥(ふし)たりける”

正成千剣破(ちはや)城の果敢な戦い。新田義貞の幕府離反。

8.

後醍醐は隠岐を脱出、名和長年を頼って船上山に立てこもります。赤松円心も蜂起、京洛に六波羅勢と戦います。


太平記全般クライマックス、昔中学校の日本史の先生が講釈師のように語ってくれたのを思い出します。

9.

形勢不利を見た高時は足利高氏に再三の出陣を催促します。しかし高氏は逆に船上山後醍醐に密使を送り朝敵高時追討の綸旨を受けます。都に妻子を残し、偽の誓約書で高時をたぶらかし高氏は六波羅勢攻撃に加わります。


武運傾き六波羅勢の相次ぐ自害切腹。

10.

関東では新田義貞が倒幕の兵を挙げ、ついに鎌倉滅亡の口火を切ります。


高時を守る長崎高重。

“高重数代奉公の義をかたじけなうして朝夕恩願を拝したてまつる御名残、今生においては今日を限りとこそ覚え候え”

と高時に覚悟を促し、身を軽くして今一度最後の戦いに挑む前、崇寿寺長老南山和尚を訪ねて問う。

「如何(いかなる)是(これ)勇士恁麼(いんも)の事(じ)(勇士は死に臨みいかにあるべきか)」和尚答曰(こたへていはく)、「吹毛(すゐもう)急(きふに)用(もちゐて)不如前(ただ剣をふるって前進あるのみ)」

再び最後の戦いを飾った高重も全身矢を負い高時の面前で切腹。高時はじめ一門主従870余人が折り重なって切腹します。ここに鎌倉幕府は滅亡。時に1333年5月22日。

"平家”の静謐な死に比べ終わり無き戦いの中での燃え落ちる日輪を思わせる壮絶な鎌倉武士の死が描かれています。

11.

九州・長門・北陸路など国中の北条探題も時待たずして崩壊、後醍醐は帰還再祚します。

“悲しきかな義を専らにせんとして忽ちに死せる人は永く修羅の奴となって苦しみを多劫の間に受けん事を。いたわしいかな、恥を忍んでいやしくも生くる者はたちどころに衰窮の身となって笑いを万人の前に得たる事を”

 

年表   http://www.h5.dion.ne.jp/~bey1992/chronicle/chronicle.html より

1318

花園天皇が退位し、後醍醐天皇が即位する。

 

院政を停止し天皇親政とする。

幕府、記録所を設置し、大津・葛葉を除く諸所の新関を廃止する。

1324

幕府、悪党鎮圧令発布。

六波羅、後醍醐側近の倒幕計画を弾圧(正中の変)。土岐頼貞、多治見国長の館を急襲。このころ大覚寺創建。

工藤高景ら、正中の変の首謀者として日野資朝、日野俊基を捕らえ鎌倉に送る。

1325

護良親王天台座主となる。後醍醐天皇、前年より関東調伏の祈祷を開始。

幕府、日野資朝を佐渡に配流。日野俊基は釈放。

夢窓疎石、南禅寺住持となる。

1326

北条高時が出家、崇鑑と号する。

佐々木高氏が出家、道誉と号す。

1327

東大寺衆徒、伊賀黒田荘の悪党を訴える。

幕府造営成り、将軍守邦親王が移る。

1329

北条高時、夢窓疎石を鎌倉円覚寺住持とする。

 

後醍醐天皇、春日社および東大寺、興福寺に行幸。

後醍醐天皇、日吉社に行幸、翌日延暦寺に行幸し大講堂を供養。

1331

六波羅、後醍醐天皇の倒幕計画を探知、長崎高貞らを派遣し、日野俊基、文観らを捕らえ、鎌倉に送る。(元弘の変)

鎌倉より京へ軍勢が差し向けられ、後醍醐天皇、神器をもって奈良へ逃れる

後醍醐天皇、大和笠置寺に行幸。

六原の兵が比叡山を攻撃、尊雲・尊澄法親王は笠置山に逃れる。

足利貞氏死去。足利高氏、鎌倉軍として大仏貞直らとともに京へ出陣する。

楠木正成ら河内・赤坂城で挙兵、翌月21日陥落し、正成は逃亡。

後伏見上皇の詔により、持明院統の量仁親王が京で即位、光厳天皇(北朝第1代)となる

幕府軍笠置山へ進軍し、笠置山落城。翌日後醍醐天皇がとらわれる。

赤坂城陥落。楠木正成は逃亡。

1332

幕府、後醍醐天皇を捕らえ隠岐へ配流。

幕府、日野資朝を佐渡で殺す。

幕府、日野俊基を武蔵国葛原で斬る。

護良親王、吉野で挙兵。楠木正成がこれに呼応して河内赤坂、千早城で挙兵

楠木正成、赤坂城奪回。

1333

楠木正成、摂津国四天王寺に六波羅軍を攻撃。

赤松則村、苔縄に挙兵し、摩耶城へ入る

幕府軍、赤坂城を落とす。千早城の攻防戦激化。

後醍醐天皇、阿野廉子・千種忠顕らとともに隠岐を脱出。

後醍醐天皇、伯耆名和長年を頼り、船上山へ向かう。

足利高氏、名越高家とともに幕府軍を率いて伯耆へ向かう。

赤松則村、摂津国瀬河に六波羅軍を破る。

菊池武時、鎮西探題赤橋英時と戦い博多で敗死。

足利高氏入京。

足利高氏、丹波篠村八幡で挙兵。

足利高氏・赤松則村・千種忠顕ら京に突入。六波羅を攻め、陥落させる。六波羅探題北条仲時ら光厳天皇を奉じ近江国へ敗走。

新田義貞、上野新田庄生品明神で挙兵。翌日足利義詮がこれに加わる

六波羅探題北条仲時ら光厳天皇とともに近江に敗走し番場で自刃。光厳天皇、後伏見・花園両上皇が捕らえられる。

越中守護名越時有、宮方の大軍に包囲され自刃。名越時兼は逃れる。

鎌倉執権赤橋守時、大船で新田軍を迎撃し、敗死。

新田義貞、稲村ヶ崎から鎌倉へ進撃、鎌倉を陥とす。北条高時以下鎌倉東勝寺で自刃(鎌倉幕府滅亡)。

後醍醐天皇、光厳天皇を廃し、年号を元弘に戻す。

足利高氏、細川和氏らを派遣し関東を平定させる。

後醍醐天皇が帰京する。

護良親王が帰京、征夷大将軍となる。

綸旨による旧領の回復・安堵を令する。

この頃、記録所・恩賞方を設置。

諸国平均安堵法を発布。

足利高氏・新田義貞ら諸将の論功行賞を行う。高氏は尊氏と改名。

足利尊氏、早馬・使者と称し東海道諸駅で狼藉することを禁じる。

鎌倉幕府9代将軍守邦親王病死。

この頃、雑訴決断所・武者所など設置。

陸奥守北畠顕家、義良親王を奉じ北畠親房らと任地に赴く。

足利直義、成良親王を奉じ鎌倉に下向。