太平記 粗筋を読む(2) 建武中興より後醍醐最後まで
12.
さて 建武の中興なって後醍醐の理想の政治は実現したのだろうか?
@ 府側所領の大半は天皇の供御所や大塔宮領にされた
A 後醍醐の寵姫、阿野廉子や征夷大将軍になった大塔宮・文観等の専横・介入
B 恩賞の不公平
C 雑訴決断所(所領についての裁判を行う)の裁定の不安定
D 大内裏造営のための課税
によって 武士の不満が高まります。
13.
大塔宮と高氏・廉子との対立。後醍醐はついに武功有った大塔宮を高氏の弟、直義の手に委ねます。
“こは何(いか)なる我(わが)身なれば、弘元の始(はじめ)は武家のために隠身、木の下(した)岩のはざまに露敷(つゆしく)袖をほしかね、帰洛(きらく)の今は一生(いつしやう)の楽(たのしみ)未(いまだ)一日(いちにちも)終(をへざるに)、為讒臣被罪、刑戮(けいりく)の中(うち)には苦(くるし)むらんと、知(しら)ぬ前世の報(むくい)までも思召残(おぼしめしのこ)す方もなし”
大塔宮は父帝に綿々たる弁明文をしたためます。
中先代の乱。信濃に逃れていた北条高時の遺子、時行が蜂起します。執権直義かなわず鎌倉を落ちる。逆ギレした直義は大塔宮殺害の命を下します。えたりや応と宮も必死の抗戦をしますが、半年もの牢生活に足腰弱った身に勝ち目はなく
“被刺て宮少し弱(よわ)らせ給ふ体(てい)に見へける処を、御髪を掴(つかん)で引挙(あ)げ、則(すなはち)御頚(おんくび)を掻(かき)落す。篭(ろう)の前に走出(はしりいで)て、明(あか)き所にて御頚(おんくび)を奉見、噬切(くひき)らせ給ひたりつる刀の鋒(きつさき)、未だ御口の中に留(とどまつ)て、御眼(まなこ)猶(なほ)生(いき)たる人の如し”
宮は食いきった刀の先を口中にくわえたまま、その眼はらんらんと生けるが如く落命します。
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足利高氏は後醍醐新政府の命によりは高時を追討、高氏はそれを機会に実権を掌握します。
関東管領権と“尊氏”の名を与えらますが、自ら征夷大将軍を名乗ります。
頼朝の後継の地位を勝ち取った尊氏の専横が始まります。勝手気ままな振る舞いに、新田義貞との溝も深まり、一方直義の大塔宮殺害も露見、後醍醐はついに義貞に尊氏・直義追討を命じます。
ここで尊氏はちょっと複雑な動きを見せます。尊氏の真意は何処にあったのか古今解釈の別れるところです。
“吾が立身は君恩による物である。その恩を忘れる事は人間のする事でない。
そもそも帝がお怒りになっているのは、大塔宮殺害と帝に無断で兵を募った事にある。
いずれも自分がやった事ではない。私は帝に弓を引かぬ、お前達は勝手にせよ“と出家隠遁を選ぼうとします。
直義一人、大軍を率いて新田と戦いますが、連戦連敗。
困り果てた直義は、“たとえ相手が出家隠遁しても許してはならない”との偽の綸旨でもって“誠にさては一門の浮沈この時に候ひける”討つか討たれるかと尊氏の戦線復帰を求めます。尊氏力無く“尊氏もかたがたとともに弓矢の義を専らにして、義貞と死をともにすべし”と道服を脱ぎ捨てます。
戦線復帰した尊氏はさすがに勝利を重ねますが背後に恩賞に預かれなかった武士どもの離反があります。
落首に“かくばかりたらさせ給う綸言の汗のごとくになどなかるらん”
虚言・吝嗇、後醍醐の信用が地に落ちています。
15.
しかし北畠顕家が後醍醐側に付き新田に加勢、尊氏の形勢は逆転、海路九州に逃れる事になります。ここが尊氏の凄いところで、尊氏は九州筑前で見事軍を整え、大軍をもって都に反攻します。
16.
時に利あらず、楠正成は一旦軍を引き、後醍醐を比叡山に匿った後、都に引き入れた尊氏を正成・新田が挟撃する戦略を献策しますが、軍事に疎く体面に拘る公家達の容れるところとなりません。
正成“この上は異議を申しますまい”と死出の戦いに臨みます。
嫡子正行との桜井の別れ、弟正季と交わされた“七生報国”の誓いは大忠臣たる証として戦時中大いに喧伝されましたが、永井路子氏は“正成はこの考えを無条件で受け入れている訳でない。むしろ罪深い悪念だとしているのであって、皇国史観の流行した時代の賛美論は全く勝手な解釈だ”とされています。正成を称揚すればするほどに、後醍醐を取り巻く旧勢力の無力頽廃ぶりが見えてきます。
“正成座上(ざじやう)に居つゝ、舎弟の正季に向(むかつ)て、「抑(そもそも)最期の一念に依(よつ)て、善悪の生(しやう)を引(ひく)といへり。九界(きうかい)の間に何か御辺(ごへん)の願(ねがひ)なる。」と問(とひ)ければ、正季から/\と打笑(うちわらう)て、「七生(しちしやう)まで只同じ人間に生(うま)れて、朝敵(てうてき)を滅(ほろぼ)さばやとこそ存(ぞんじ)候へ。」と申(まうし)ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業(ざいごふ)深き悪念(あくねん)なれ共(ども)我(われ)も加様(かよう)に思ふ也(なり)。いざゝらば同(おなじ)く生(しやう)を替(かへ)て此(この)本懐を達せん。」と契(ちぎつ)て、兄弟共に差違(さしちがへ)て、同(おなじ)枕に臥(ふし)にけり”
正成、兵庫湊川に散りますが、何故正成がかくも潔すぎたか、正成はすでに後醍醐政治の限界、時代の趨勢が読み切っていたような気がします。
17.
比叡山にこもる後醍醐側と攻め入る尊氏との戦線は半年も膠着状態、尊氏は偽の起請文(自分は帝に反逆する意志はない、ただ新田が憎かっただけです)を提出、後醍醐に都戻りを懇請する。
後醍醐都還りの噂を聞き、新田義貞の怒りが爆発する。
義貞が如何なる不義を働いたと言って尊氏に心を移されるのか。義貞此までどれ程に帝に忠義を尽くしてきたか。此ほどの大忠臣がかって有ったか。
“抑(そもそも)義貞が不義(ふぎ)何事にて候へば、多年の粉骨(ふんこつ)忠功を被思召捨て、大逆無道(たいぎやくぶだう)の尊氏に叡慮を被移候(さふらひ)けるぞや”
大体 我が方が勝利を納めないのは 自分たちの戦が下手だからではない、あなたの徳が欠けるからではないか。どうしても我々を捨てて都に戻るというなら まずは俺の首をはねるが良い、新田一族の首をはねるが良い。
“然共(しかれども)今洛中(らくちゆう)数箇度(すかど)の戦(たたかひ)に、朝敵(てうてき)勢盛(さかん)にして官軍(くわんぐん)頻(しきり)に利を失(うしなひ)候事(こと)、全(まつたく)戦の咎(とが)に非(あら)ず、只帝徳(ていとく)の欠(かく)る処に候歟(か)。仍(よつて)御方(みかた)に参る勢の少き故(ゆゑ)にて候はずや。詮(せん)ずる処当家累年(るゐねん)の忠義を被捨て、京都へ臨幸可成にて候はゞ、只義貞を始(はじめ)として当家の氏族五十(ごじふ)余人(よにん)を御前(おんまへ)へ被召出、首(くび)を刎(はね)て伍子胥(ごししよ)が罪に比(ひし)、胸を割(さい)て比干(ひかん)が刑に被処候べし”
良いですね。窮地にたった新田義貞、“帝徳なし”とまで言い切る武士の本音というかは太平記作者の“帝徳無ければ国滅ぶ”の本音が出ています。
結局、後醍醐は都に帰り、花山院に幽閉されてしまう。
“さては叡智浅からずと申せども、欺くに安かりけり”とにんまり笑う尊氏。尊氏の本心も出ています。
18.
都に幽閉された後醍醐は又もや神器を携え吉野に脱出、新田義貞は越前にある。
20.
勇将・新田義貞もついに最後を向かえる。
“義貞弓手(ゆんで)の足をしかれて、起(おき)あがらんとし給ふ処に、白羽(しらは)の矢一筋(ひとすぢ)、真向(まつかう)のはづれ、眉間(みけん)の真中(まんなか)にぞ立(たつ)たりける。急所の痛手(いたで)なれば、一矢(ひとや)に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、抜(ぬい)たる太刀を左の手に取(とり)渡し、自(みづか)ら頚をかき切(きつ)て、深泥(じんでい)の中に蔵(かく)して、其(その)上(うへ)に横(よこたはつ)てぞ伏(ふし)給ひける”
なんと 敵に首を捕らわれんが為に、自分の首を埋めてから死ぬ?
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そして 病死とはいえ、敵を滅ぼし帝位を回復する志を得なかった後醍醐の壮絶な死。
“只生々世々(しやうじやうせぜ)の妄念(まうねん)ともなるべきは、朝敵(てうてき)を悉(ことごとく)亡(ほろぼ)して、四海(しかい)を令泰平と思計(おもふばかり)也(なり)。朕則(すなはち)早世の後(のち)は、第七(だいしち)の宮(みや)を天子の位に即奉(つけたてまつ)て、賢士(けんし)忠臣事を謀(はか)り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行(おこなひ)なくば、股肱(ここう)の臣として天下(てんが)を鎮(しづむ)べし。思之故(ゆゑ)に、玉骨(ぎよくこつ)は縦(たとひ)南山の苔に埋(うづも)るとも、魂魄(こんばく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望(のぞま)んと思ふ。若(もし)命(めい)を背(そむき)義を軽(かろん)ぜば、君も継体(けいたい)の君に非(あら)ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細(ゐさい)に綸言を残されて、左の御手(おんて)に法華経(ほけきやう)の五(ごの)巻(まき)を持(もた)せ給(たまひ)、右の御手(おんて)には御剣(ぎよけん)を按(あんじ)て、八月十六日の丑剋(うしのこく)に、遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)成(なり)にけり”
後醍醐は浄土を希求して死ねなかった。“天子は南面す”のしきたりに反し、死しても朝敵に仇なさんが為、北向きに葬られる。後村上天皇南朝を後継する。
年表 http://www.h5.dion.ne.jp/~bey1992/chronicle/chronicle.html より
1333 | 建武の新政始まる。記録所を復活させ、雑訴決断所・窪所・武者所設置。護良親王、征夷大将軍となる。 |
1334 | 詔して新銭乾坤通宝を鋳造、紙幣と併用させる。 |
徳政令発布。 | |
京都二条河原に新政を諷刺した落書が掲示される。 | |
護良親王と足利尊氏の対立深まる。 | |
後醍醐天皇、護良親王を鎌倉に移送する。 | |
1335 | 中先代の乱。諏訪神党諏訪頼重ら、北条時行を擁して信濃国に挙兵。この日小笠原貞宗と戦い鎌倉に向かう。 |
足利直義、護良親王を殺害して西走。 | |
北条時行、鎌倉を攻略。 | |
成良親王を征夷大将軍とする。 | |
足利尊氏、征夷大将軍・総追捕使を望み、勅許を得ず出京。 | |
足利尊氏、征東将軍に任ぜられ鎌倉へ向かって京を出発。矢作で足利直義と合流する。 | |
足利尊氏、北条時行を破り鎌倉を奪回。時行信濃へ逃れる。 | |
足利尊氏、後醍醐天皇の上洛命令を拒絶し、建武新政に反旗を翻す。 | |
足利尊氏、新田義貞誅伐を光厳上皇に奏上。 | |
尊良親王を奉じた新田義貞の足利尊氏・直義追討軍鎌倉へ。 | |
赤松則村、足利尊氏方につき挙兵する。 | |
後醍醐天皇、足利尊氏・直義の官爵を削る。 | |
手越河原の戦い。新田義貞、足利直義を破る。 | |
鎌倉・浄光明寺に隠棲していた足利尊氏が挙兵。 | |
これに呼応して南朝軍の佐々木道誉が足利方に寝返る。 | |
箱根、竹ノ下の戦い。足利尊氏、新田義貞を破り追撃する。 | |
大友貞敏・少弐頼尚、足利直義の檄を受け鎮西諸族を招集。 | |
北畠顕家、義良親王、陸奥多賀城を出発する。 | |
蒲原合戦。越後新田軍、越後足利軍と戦う。 | |
1336 | 名和長年・結城親光ら、近江国勢多で足利直義・高師泰らと合戦。 |
細川・赤松氏、新田軍を破り入京する。 | |
後醍醐天皇、神器を奉じ近江国東坂本に行幸。 | |
足利尊氏、入京。 | |
北畠顕家、近江東坂本へ。 | |
新田義貞・北畠顕家軍、京で足利尊氏を破る。 | |
足利尊氏、丹波・兵庫へ敗走。 | |
楠木正家、佐竹義冬を常陸国に破る。 | |
打出浜・豊島河原の戦いで楠木正成・新田義貞らに足利尊氏敗退。 | |
足利尊氏、厚東・大友氏の船で海路九州へ敗走する。 | |
足利尊氏、西走の途上、光厳上皇より新田義貞追討の院宣を得る。 | |
多々良浜の戦い。足利尊氏、菊池武敏、阿蘇惟直を破り九州を平定。 | |
足利尊氏は箱崎、足利直義は大宰府に陣し、九州諸族が集結。 | |
新田義貞、西国討伐の命を受け赤松則村(円心)を播磨白旗城に包囲。 | |
北畠顕家、義良親王を奉じ陸奥国に赴く。 | |
足利尊氏、博多を出帆し東上を開始。 | |
足利直義、新田義貞軍を福山城に破る。新田義貞、播磨を撤退。 | |
湊川の戦い。足利尊氏、新田義貞・楠木正成軍を破る。正成、弟正季とともに自刃。 | |
後醍醐天皇、比叡山に逃れる。 | |
足利直義、延暦寺を攻撃。南軍の将千種忠顕戦死。 | |
足利尊氏、光厳上皇を奉じて入京。 | |
行在の兵京都を攻撃し、名和長年戦死。このころ『徒然草』完結。 | |
足利尊氏、斯波家兼を若狭守護とする。 | |
光明天皇(北朝第2代)即位。 | |
征西将軍懐良親王九州へ。 | |
新田義貞、恒良・尊良親王を奉じて越前へ。金ヶ崎城に入る。斯波高経・高師泰、これを包囲する。 | |
後醍醐天皇帰京。 | |
後醍醐天皇、光明天皇に神器を渡す。 | |
後醍醐天皇に太上天皇の尊号を贈る。 | |
足利尊氏、京・室町に幕府を開く。 | |
建武式目を制定。 | |
成良親王立太子。 | |
楠木正家の拠る常陸瓜連城、佐竹氏に攻められ落城。 | |
後醍醐天皇、吉野に移る。(南北朝分裂) | |
後醍醐天皇、宸筆勅書を北畠顕家に与え坂東諸国の兵を率いて西上させる。 | |
1337 | 岩切城主留守家任、北畠顕家を離反。顕家、霊山へ移る。 |
高師泰、新田義貞を金ヶ崎城に攻撃する。 | |
陸奥国に幕府軍蜂起、北畠顕家、義良親王を奉じ霊山に拠る。 | |
金ヶ崎城陥落。恒良親王とらわれ、尊良親王・新田義顕自害。 | |
新田義貞、杣山へ逃れる。 | |
北朝関白近衛経忠、吉野に出奔する。 | |
南北両軍が河内・和泉両国各地で合戦、10月に及ぶ。 | |
北畠顕家の軍、陸奥を出発。再び京へ向かう。 | |
赤松則村、摂津国丹生寺城を攻撃する。 | |
足利尊氏、諸国大将・守護の占領した寺社・国衙領および領家職を還付させる。 | |
北畠顕家、鎌倉を占拠。新田義興と北条時行が合流。 | |
1338 | 北畠顕家、鎌倉より西上。 |
美濃青野原の戦い。北畠顕家、高師冬らを破るが桃井直常らに敗れ伊勢に転じる。 | |
新田義貞、国府を攻略。黒丸城を撤退した斯波高経を攻める。 | |
北畠顕家、伊賀より奈良に入る。 | |
般若坂の戦い。高師直、北畠顕家を破る。義良親王は吉野に逃れる。 | |
北畠顕家、摂津国天王寺で幕府軍を破る。 | |
高師直、天王寺に北畠顕家を破る。 | |
北畠顕家、天王寺・渡辺で合戦し阿倍野で敗れる。 | |
石津の戦い。北畠顕家、高師直と戦い戦死。 | |
藤島の戦い。新田義貞、斯波高経と戦い越前・燈明寺畷で敗死。 | |
足利尊氏、光明天皇より征夷大将軍に任ぜられる。足利直義は左兵衛督となる。 | |
1339 | 高師泰・師冬、関東平定のため京都を出発する。 |
一色範氏、深堀時通に筑前博多を警護させる。 | |
光厳上皇、備後浄土寺・肥前東妙寺に塔婆を建立させ、天下泰平を祈らせる。 | |
後醍醐天皇、伊予国より九州を目指す懐良親王に綸旨を下し、九州経営を委ねる。 | |
新田義貞の弟・脇屋義助、黒丸城を落とす。斯波高経、加賀へ逃れる。 | |
後醍醐天皇譲位、義良親王(後村上天皇)受禅。 | |
後醍醐天皇薨去。 | |
後村上天皇即位。 | |
常陸北畠親房、信濃北条時行、越前脇屋義助挙兵。 | |
足利尊氏、天龍寺を創建する。 | |
北畠親房、常陸小田城で神皇正統記を著 |