太平記<読み>の可能性  歴史という物語  
                       兵藤裕巳  講談社メティエ

 

網野先生が発見した中世天皇の持つ“二つの顔”を下地に太平記の持つ2つの論理を検証、

“太平記読み”の作り上げる英雄神話の危険性に言及されています。

“物語”が現実をつくる。

日本の近世・近代の天皇制は太平記<世界>と言うフィクションの上に成立する。

君臣上下の枠組みを飛び越えて天皇に直結する事が既存の法制度を相対化する最も有効な論理となり、日本社会のネガティブな部分が歴史的に見て最もラディカルな“日本的モラル”の担い手になった。

これが繰り返し再生産される“忠臣”楠正成の物語が“解放”“革命”のメタファーとして機能した理由である。

太平記 40巻

@      1318年 後醍醐天皇即位→1333年 北条氏滅亡、建武政権発足

A      建武政権崩壊後 足利尊氏北朝擁立、楠正成・新田義貞戦死を経て

 1339年 後醍醐崩御まで

B      足利政権内訌、北朝方守護大名の抗争、南朝勢力の進出・敗退を経て

   1367年 足利義満登場まで

太平記冒頭に語られる“名分論”

名分論=名分(身分や職分に応じて持つべきモラル・資質)を基準にして

    過去・現在の政治社会に道義的裁定を下すイデオロギー

太平記冒頭では名分論によって不徳の天皇の交替を是認し源平交替史を正当づける。

(北条平家にかわる源氏嫡流を正当とする)

この名分論によって太平記は源氏嫡流である室町幕府・徳川幕府の正史に位置づけられる。

一方 もう一つの“太平記”が太平記読み(講釈師)によって語り広げられる。

“卑賤”の芸能民の手によって源平“武臣”の範疇に入らない人物、源平交替の枠組みからおよそ浮上する余地のない人物達(山野を遍歴する広範な職能民、散所の長者、山ブシ、野ブシ、バサラ、悪党――河内の楠、伯耆の名和、備前の児島等)が極めて好意的、同情的に語られる。

天皇の持つ2つの顔、2つの物語を発見したのは網野先生でした。

律令制ヒエラルキーの頂点に立ちながら、底辺から贄を受け底辺に直結した天皇。

太平記巻1“無礼講の事”で天皇が“武臣”を介さず直接“臣”と結びつく親政の原理が導入される。

天皇後醍醐が源平“武臣”の名分を無化し悪党的武士と“無礼講”的に結びつく。

配下に非人、各種職人、芸能民を従え“無縁”を演出する律宗の怪僧“文観”“恵鎮”が暗躍仲介する。

北畠親房の論理(伝統的家格、家職のヒエラルキー)源平武家の論理をともに破壊する後醍醐の手で“無礼講”“非人”“あやしの民”の論理が生成する。

作為された歴史の枠組みがその内側から相対化される。

これが太平記に重層する二つの論理、“名分論”と“無礼講”の論理である。

後醍醐亡き後もバサラ、僭上無礼の時代風潮は南北朝期の反秩序的時代区分の中で新たに台頭した守護大名により受け継がれていく(佐々木道誉、高師直・師泰兄弟等)

そして中央政権を掌握した織田(平)徳川(源)によって形成される源平交替の名分の歴史に拘わらず、太平記読み等芸能民の手によって民衆の英雄“楠正成”が民衆の中に繰り返し再生産されていく。

忠臣蔵、由井正雪、草莽の革命家・吉田松陰、自らの境遇を楠氏や名和氏の運命に重ね合わせ太平記を語り歩く浪人達。

“正成する”=倒幕の世直し

彼らが愛してやまぬのは既存のヒエラルキー・支配機構の法的(倫理的)源泉として機能する天皇に対して法制の埒外の位相から常に超法規的、超規制的にイメージされる天皇であった。

そして近代になって“読み替えられる”正成。

大衆(民)を天皇に直結させる大義名分の思想が国家が大衆に直接的に(無媒介的に)把握する思想に読み替えられる。

“臣民”を四民(士農工商)全てを等しく天皇に仕える“臣”として位置づける“国体論”タームが形成される。

“太平記読み”“無頼”“アウトロー”が口を揃えて親方への忠孝、兄弟への信義を美化し、天皇一家、擬制血縁日本共同体の先達となる。

幕末脱藩浪人の尊皇運動は地域社会の親方(藩主)を越えて日本という幻想レベルの親方(天皇)に結びつく運動であった。

制度の枠組み(藩或いは官僚機構)を越えて天皇に直結する事が既存の法制度を相対化する最も有効な論理であったが為、それは戦前の右翼また尊皇愛国を標榜する現代アウトロー集団にも通ずる行動の日本的エートスにもなる。

“芸”が“語り”が“アウトロー”が大衆をアジテートし“天皇の赤子”を幻出させ暗闇の歴史を形作る事になる