〜蒼い海と風と〜 |
■諌早駅0番線
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僕が「諌早(いさはや)」に降り立ったのは、夏真っ盛りの7月下旬。薄曇りだったが、すでにかなりの暑さだった。 午前9時過ぎ、駅前をざっと見回してから、島原鉄道の乗り場へ向かう。 JR諌早駅の0番線が島原鉄道の乗り場だ。クリーム地に派手な赤い帯が入った、ちょっともっさりしたデザインの車両が一つ、ぽつんと止まっている。ドアを手で開けて中に入ると、古ぼけた青いボックスシートにはすでに10人ほどの人が収まっていた。
「よかった〜。冷房車ね!」 僕らの斜め前には、外国人の男が日本人女性と並んで座り、身振り手振りを交えながら話しこんでいる。すると、サングラスをかけた外国人男性がまた一人、キョロキョロしながら乗り込んできた。ローカルな路線にロートルな車両だが、車内はなかなかインターナショナルでなのであった。 |
■茫洋たる干拓地帯
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9時51分、くたびれたディーゼルカーは「諌早」を出た。しばらく長崎本線と並んで進み、別れたかと思うとすぐ、次の「本諌早(ほんいさはや)」に着く。たったひと駅だがここで降りる人が意外に多い。駅名の通り、こちらが諌早市の中心なのだろう。 市街地を抜けてしばらく進むと、左窓に水田が広がった。いかにも干拓地らしい真っ平らな土地に、眼にしみるような水稲の緑がどこまでも続く。どこかしら北海道の大地を思わせる。たまに、水田の手入れをしている農民の姿も見える。鮮やかな緑のじゅうたんに浮かぶその人影は、まるでカカシのようにゆらゆらと揺れていた。 空には薄い雲が広がり、遠景は霞んで判然としない。「吾妻(あずま)」を出ると、霞の中から鈍く光る水面が現われた。諌早湾である。 さらにしばらく進むと、海の上に石を積み上げた巨大な堤が出現した。それは海上はるか彼方までずんずん伸びている。堤の上にはパワーショベルが何台も並び、さながら海に浮かぶ要塞であった。
「すごいね。」 これがどんな影響を及ぼすのかは、時間がたたないとわからない。僕には危うい賭けのように思えた。 |
■眉山の麓、島原
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しばらく海から遠ざかり、「多比良町(たいらまち)」を出るころから、再び左窓に海が見えたり隠れたりした。潮が引いた泥の上に漁船が取り残されているのは、いかにも有明海らしい光景だ。鉄道は国道251号線とからまるようにして、島原半島の海岸線に開けた町を丁寧になぞりながら進む。 急に家が増えてきた。右に目をやると、建物の間から城の天主閣がかいま見えた。10時58分、「島原」に着く。さすがに今までのどの駅よりも多くの人が乗り降りし、車内の人が入れ替わった。今まで狭いシートにちょこんと座っていたサングラスの外国人男性も、外国人と日本人のカップルも皆ここで降りた。僕の横にはよく日焼けしたしわだらけのおばあちゃんが座った。インターナショナルな空気はもはやない。 「島原」を出るとしばらくは市街地をゆく。「島鉄本社前」という、かなり手前味噌な名前の駅を出てすぐ左の公園には、蒸気機関車が置かれていた。かつてここで活躍していたC12形というやつで、今は悠々と後輩たちの走りを眺めている。
市街のすぐ裏にひときわ目立つ山がある。眉山(まゆやま)だ。約200年前の普賢岳噴火の際には、この山が崩れて海に没し、それが原因で発生した津波が、島原はもとより、有明海対岸の肥後熊本にまで大きな被害をもたらしたという。山肌には崩落の跡らしき爪でひっかいたような筋が残っていた。
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■災害の爪痕
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「安徳(あんとく)」を過ぎると、車窓は今までののんびりしたものとは一変した。一瞬にして辺り一面、ムキ出しの土に覆われた土地が広がる。真新しい「安新大橋」を越えると、左右にパワーショベルやダンプカーがちまちまと動き回っていた。 この辺りは、1991(平成3)年6月に死者・行方不明者43名を出す大火砕流に襲われ、その後も度重なる土砕流の被害にあった水無川の流域である。 長く続いた普賢岳の噴火活動は収まったものの、復旧・保安工事は今だ佳境という様相であった。霞の中にたたずむ普賢岳は黙して語らず、悠然とその様子を眺めている。懸命に眼を凝らすと、ゴツゴツした平成新山のシルエットがぼうっと浮き出て見えた。 「深江」まで来ると、何事もなかったかのような静かな街並みに戻った。しかし、この区間に再び鉄道が走るようになったのは、1997(平成9)年4月1日からである。4年もの間、不通だったことになる。それまでは「島原外港〜深江」間には鉄道の代わりにバスが走っていたそうだ。 |
■終点、加津佐へ
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「千々和(ちぢわ)」という響きになんとなく聞き覚えがあるような気がしてガイドブックを開くと、「天正遣欧使節の千々和ミゲル」ゆかりの地と書いてあった。昔、日本史で覚えた名だ。 島原地方は、早くからキリスト教を保護したキリシタン大名有馬氏の本拠で、その影響から特に信仰の厚い地域であったという。千々石ミゲルは、有馬氏をはじめとする九州のキリシタン大名らによってローマ教皇のもとに派遣された使節団の一員であった。しかし、日本に帰国したときは豊臣秀吉によってキリスト教が禁止されていたという悲劇に遭っている。 千々石ミゲルを想い、感慨にふけっていると、女子高生が大勢乗ってきた。近くの島原商業高校の生徒たちだろうか。夏休み目前、どの子もはじけるような笑顔で語り合い、閑散としていた車内はいっきに華やいだ。 「原城」を過ぎると、左手に「原城跡」という大きな看板が見えた。島原城の築城にともなって廃城となったが、1637〜38年の島原の乱では天草四郎以下の一揆軍がたて籠り、敗れ去った城として知られる。今は畑が広がるのみでかつての激戦地の面影はない。 短いトンネルを抜けると、眼下にブルーの海が広がった。「口之津(くちのつ)」は駅のすぐ前に港があり、天草鬼池行きのフェリーが大きな口を開けている。島原半島南端のこの地は、戦国時代には南蛮船が来航し、港町として賑わったという。オレンジ色の大きな橋が目を引くが、これは「なんばん大橋」というらしい。 美しい砂浜が左窓に沿う。海が碧い。 12時22分、終点「加津佐(かづさ)」に着いた。ここまで約2時間半。駅のすぐ隣には島原鉄道経営のバンガローが並んでいる。その向こうはもう海だ。 僕とカミさんは、歩いて5分足らずのところにある美しい砂浜で遊んだ。白い砂が目にまぶしく、水も澄んでいて、心ゆくまで水遊びを楽しむことができた。 その夜は島原まで戻り、温泉で汗を流した。名物の具雑煮はほどよくダシが効いていて、温泉でふやけた僕の胃袋にどこまでもしみこんでいった。 *旅行日:1998年7月21日 |