〜九州の鉄路、ここから。〜 |
■九州の北端
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僕が門司港駅を訪れたのは梅雨の合間のよく晴れた日のことだった。駅に降り立つと長いホームが櫛(くし)形に幾本も並んでおり、線路は行き止まりになっていた。この先に駅はない。ここが九州の北端なのだ。 改札口の手前に大きな黒い石のモニュメントが建っていた。「0哩(マイル)」と刻まれたそれは、ここが鹿児島本線の起点であり、九州の鉄路の起点であることを示していた。*1)
「ここから鹿児島本線が始まるんだ。」と僕は同行のカミさんに言った。 改札口の左横には「関門連絡船通路跡」と書かれた看板があった。昭和39年に廃止されるまで、ここから下関までを連絡船が結んでいた…という説明が記してあり、かつての通路らしきトンネルが口をふさがれた状態で残っていた。*2)奥を覗き込んでみたものの、暗くてよく見えない。
改札を出ると、天井が高くて開放的なコンコースが広がっていた。機能重視で味気ない今風の建物とは違って、初めて来たのにどこか懐かしい感じがした。
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■歴史の証人たち
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僕は広い通路を早足に歩き始めた。行き先はトイレである。入口には「幸運の手水鉢(ちょうずばち)」というブロンズの大きな鉢があって、満々と水をたたえていた。中から出てきた人がちょんと手を突っ込んでは去ってゆく。底には一円玉や五円玉などが幾枚も沈んでいた。 トイレのすぐ横には「大正時代の水洗便所」というものがあった。看板がなければ今でも駆け込む人がいそうなほど臨場感がある。時を経て看板付きで紹介されることになるとは、このトイレ自身も想像していなかったに違いない。
この駅舎が建てられたのは大正3年のこと。ここは九州の玄関であると同時に大陸の玄関でもあった。かつて大陸から引き揚げてきた人々が、ここに帰り着いたときにほっと一息ついて喉を潤したという水飲み場が今も残されている。「帰り水」と呼ばれるその水飲み場は、何の変哲もないただの蛇口があるだけのものだが、今まで数え切れないくらい多くの人々を迎えてきたことだろう。 |
■にじみ出る風格
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ホールの柱にはぴかぴかに光った真鋳の台座があり、「切符売り場」や「待合室」などの看板もレトロ調にしつらえてある。待合室にある暖炉は建築当時のものらしい。そこかしこに歴史を重ねたものしか出せない天然の風味がにじみ出ていて、それがまたいい。 凝った装飾の手すりがある階段を上り、ギシギシと音をたてながら二階の廊下を進むと、門司港周辺の昔の写真や新聞記事が展示されている部屋があった。かつての貴賓室である。窓から外に眼をやると、駅の広い構内ががちらりと見えた。昔の人もこの窓から駅の様子を眺めていたのだろうか。 駅前の広場に出るとバナナの叩き売りのおじさんがいた。「門司は〜九州ぅ大都会ぃ〜」と吟じている。カメラを向けるとこのおじさん、照れたのかトチってしまった。ここ門司は「バナナの叩き売り発祥の地」*4)だそうで、その口上を収録したCDも発売されていた。
広場から駅舎を振り返って見ると、銅板葺きの屋根は緑に染まり、それが木造の壁の質感と相まって圧倒的な存在感があった。重厚さと気品とを兼ね備えたその姿は、現役の駅舎でありながら国の重要文化財に指定されているのもなるほどと思える風格が漂う。
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■レトロ街
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駅の周辺を15分ほどかけてぶらぶらすると、そこらじゅうでレトロチックな建物に出くわす。どっしりとした煉瓦造りだったり瀟酒な洋館だったりするが、ほとんどが明治大正、昭和初期の銀行や貿易、船舶会社の建物である。日本有数の港町だった門司港の往時が偲ばれる。
そういえば、この界隈はどことなく小樽や函館、神戸の旧市街と似ている。かつて繁栄を誇った港町特有の気位と、時が止まったようなけだるい空気が、ここ門司港には漂っていた。*5)
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