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”週刊図書館”(2002年)



このコーナーは「週刊図書館」の中の一般書評、 文芸時評「まっとうな本」「本棚の隙間」の中から、おもしろかったもの、引っかかるものを取り上げて いきます。
12/20号 言論の不自由 (「まっとうな本」最終回)
11/22号 これをもって小説は最後にすべし『憂い顔の童子』(大江健三郎)
10/25号 カフカが泣いてる『海辺のカフカ』
  7/26号 「文学少女」高村薫の大いなる勘違い
7/ 5号 ルポルタージュの原点を見た
3/22号 「スター三島」からの離れ方がいい
3/ 1号 『模倣犯』は『罪と罰』の出来の悪い模倣品
2/15号 受賞作を読む 芥川賞 長島有『猛スピードで母は』
2/ 1号 『センセイの鞄』に涙するバカなオヤジたち



12/20号 言論の不自由(「まっとうな本」最終回)
とうとう虫さんの「まっとうな本」も最終回を迎えた。1年間の連載だったと言う。 これだけ身も蓋もないことを週刊誌に書いていれば殊に業界では風当たりが 強かったのだろう、最後は愚痴、本音を含む裏話を今まで以上に低いトーンで語っている。
あれだけ有名処をことごとく粉砕していったかに見える虫評だが、出だしは「言論は本来不自由なものである」だ。 これは”世間の望まないものを書く”自由はほとんどないということを言っている。例に挙げているのが 北朝鮮問題。日本の過去の歴史を棚上げして現在の北朝鮮の酷さだけを伝えるマスコミ、「拉致被害者家族連絡会」の人々への批判などは 全く聞かれない、言えない雰囲気。(別に私自身は批判的意見を持っているわけではないが、これだけマスコミに 顔を出し意見を述べる「家族会」の人々のことを故ナンシー関だったらどう斬るか、と時々思ってみることがある)
出版界でも状況は同じで、しかもこれに"首”がかかっているから余計に自由に ものが言えないということになる。そこにあえて挑戦したのが今回の「まっとうな本」であった。
「匿名で書くのは卑怯ではないか」という批判に対しての弁解も聞かれる。まず自分の”首”を締めることになるというのが本音のようだ。 それと実名にすると人間関係などで詮索されたり、先入観を持たれたりということになり、どちらにしても ”何のメリットもない”ことだったようだ。
この1年間この欄は常に刺激的な内容で出版界は当然だろうが、 私たち読者も大いに刺激を受けまた衝撃も受けた。怖いもの見たさのような面白さがあった。私はその大胆な 超辛口批評を読むにつけ、「”虫”は文学評論界のナンシー関だ」と何度も思ったものだ。
この最後の小論の「世間は自らが読みたいこと知りたいことしか読まない。世間が望むことを言えるものだけが、 言論の自由を持っている」というのも極論だが真実味もあると、改めてその鋭さにうならされた。

11/22号 これをもって小説は最後にすべし
(「まっとうな本」 『憂い顔の童子』(大江健三郎)
虫評)
虫氏の大江健三郎評は私から見ても驚くほど幼稚である。まあ週刊誌の読者に分かり易く書いたということを 念頭においても、あまりに単純な斬り方だ。私はこれまで虫氏の辛辣な批評を面白いと思い、大部分は共感して 読んだのであるが、今までの私の読書体験でもっともまじめに読んだ作家の一人である大江氏に対しての あまりの単純な見方に、私はこれまでの虫氏の各作品への批評も見直さねばならないのではと反省すら した。
まずノーベル賞受賞後、もう小説は書かないと宣言したのに「これが最後」と小説を発表する たびに公言する(本当にそのたびに言っているのか私は知らない)のは、「自分を見捨てた読者に戻って来て もらいたいからである」と書いているのには驚いた(というか笑った)。世界のノーベル賞作家がそんなに セコイか?確かに昔に比べて彼の本は売れないだろう、若者も読まないだろう。そのことを本人も自覚している。 しかし地位も名誉もある作家がこれ以上小説は書くまいと思ったのも、またそれを翻して作品を世に出すのもそれだけの 動機があるはずだ。それを単に読者の気を引くためと書ききるこの虫さんは今までに大江作品からなんらかの励ましや 衝撃や刺激を受け取ったことのない読者なのだろう。虫サン(氏と書くのも似合わないので)の大江観は 「子供のまま成熟することのなかった作家」で、それはどういうことかと言うと「自分の行動と言葉に責任を取らない」「嘘と言い訳で 正当化する(ある時期以降の作品)」と要約している。「ある時期」というのがどこら辺なのかも 知りたい気がするが。そして取り上げたこの作品はその集大成のようなもので、自ら自分の小説に「深い意味」を 持たせようと躍起になるばかりで、作者が「ドン・キホーテ」的として書いた行動も「笑いもユーモアも 感じられない目を覆いたくなるばかばかしいものばかりだ」と書く。
確かに最近の大江作品は昔読者で あった私もそれほどの魅力を感じない。最近の『取り替え子』もちょっと興味を引く内容と思って借りてみたが 結局読み通せずに終わった。彼の作品は『同時代ゲーム』あたりからあまり好きではなくなり、さほど興味も持てなくなった。 が、また『レインツリーを聴く女たち』は久々によかった(ユーモアがあった)し、その後『人生の親戚』もかなりよかった。
大江氏の奥さんの 話だと最初に書き上げた原稿がいいのに何度も何度も書き直して読みにくいものになるのだそうだ。 つまり一般受け(文学好き受けでもいいが)する文章、作品は書けてもそれを壊していくのが彼の流儀なのだろう。 「普通の文章で普通の小説を書いてもしょうがない」みたいなことを書いているのを最近読んだ。 東大時代から才能ある友人たちをうならせる”天才”だったのだ。こういう文や小説しか書けないのでは決して ないということも頭に置いてほしい。
やはり30数年にわたって大江作品と付き合ってきた高橋源一郎氏は 『取り替え子』の書評のとき大江作品との付き合いの歴史を「衝撃と感動があり、それからその停滞(と感じられるもの)への不信と反感があり、それからやがて、また別の不思議な、名状 しがたい感銘がやってくるようになった」と書いていた。その高橋氏が朝日新聞でこの新作を紹介している。(11/10付け) その最後はこう締めくくられていた。「この本は一人の小説家がその生涯を代償にして、読者と作者が 出会える至福の場所を(希望を込めて)秘かに書きこんだ、一枚の広大な森の地図なのである」
虫サンはそういう至福を大江作品には一度も感じたことのない人だから、こういう批評も平気で書けるのだろう。

10/25号 カフカが泣いてる『海辺のカフカ』
(「まっとうな本」
村上春樹著 『海辺のカフカ』虫評)
この作品必ず虫氏が取上げると思いました。
「一言で言うと、分からない、分かった人がいたら教えてほしい。」
新聞、雑誌の書評では 誉められてましたよ。私も村上春樹ファンでないからなんとなく虫氏の訴えが分からないでもない。 村上春樹の作品で読んだものは初期作品と『ノルウェイの森』くらい。いや『羊をめぐる冒険』も読んだような 記憶が・・・。あと『世紀末ワンダーランド』とかいうのも途中まで読んだ記憶が・・・。 (*正確には『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』でした)とにかく記憶が定かで ないほど印象になかったのである。というか茫洋としていて全体像をつかめないというか・・・。その後もさまざまな ”話題作”を書いたよね。まあファンが付いたのは『ノルウェイの森』あたりからでしょう。この作品は 切なくてよかったような記憶がある(タイトルがビートルズの曲ってこと、表紙が上下で赤、緑だったことでも 強い印象があるけど)。今度のタイトルだってカフカに 直接関係ないのかもしれないけど、思わせぶりのタイトルだよね。(いやこの小説の中ではカフカの作品が” 称揚”されているらしい)
そして虫氏の友人から「あの人の小説はゲームのようなものだから」という アドバイスで納得がいったというのだ。ここでこの虫氏一応テレビゲームはやったことある世代なんだと いうことが分かる。しかしそれほどのゲーマーではない。RPGは何度かやったことがある程度なんだと 思う。というのは村上氏の作品をテレビゲームのRPGに例えるのだが、その口振りがRPGを軽く扱って いるということで分かる。「『経験値』というのは誰も本当は何も経験していない」とか「目を瞑っていても 最後には必ずゲームは終わる」とか言ってる。基本的にはそうかもしれないが実際RPGをクリアするのは 結構苦労するものであり、何某かの疑似体験っぽい気持ちにはなるだろう。感動とかもするだろう。 この村上氏の小説はRPGのように辻褄があっているものなのだろうか?読んでないのにこんなこと言うのは なんの意味もないかもしれないが、友人が「ゲーム」って言ったのはRPGではなく、もっと他の広い意味のゲーム のことではないのだろうか。トランプゲームとかその他いろいろな。まあしかしその広い意味のゲームのような 小説にはいろんな文学的哲学的アイテムが出てくるという。
私の持ってる村上作品のイメージは初期の 作品から受けるものだと思うけど、抑揚を抑えた翻訳調の文章、いかにも現代風なべたべたしない男女関係と いったものだ。そのころからみるとずいぶん大きな世界に踏み出しているように見えるが本質は変わって ないだろうな、というのが私の村上春樹観だ。

*追記 村上春樹作品をテレビゲームに例えたのは この欄も担当する斎藤美奈子氏(小林秀雄賞受賞)であったと本人が 11/ 1号の「本棚の隙間」で書いている。(『文壇アイドル論』にて)
そのさいのゲームはやはりRPGという ことだ。いろんなところに謎を散りばめていてそれを解くのに必死の評論家はゲーマーだ、と書いている という。
今回斎藤氏も『海辺のカフカ』を取上げ、結論だけいうと、この作品は今までの作品の歴史を盛り込んだ もので(そこでの例えがキャンディーズの解散前の曲「微笑みがえし」、たしか詞は阿木燿子) 「春樹文学それ自体のパロディのようにみえる」とのこと。(10/30)

7/26号 「文学少女」高村薫の大いなる勘違い
「まっとうな本」虫氏舌好調!
(高村薫著 『晴子情歌』)
まず最初にお断りしておかなければならないのは、ここで虫氏の取り上げる本を読んで私なりの感想を もって虫氏の批評に対しなければ感想として成立しないのでは、という後ろめたさを持ちつつ書いているということ、しかし そんなことをしていてはいつのことになるやらで、今ここで私が取り上げるのはなんと言っても虫氏の書評が 他の”書評子”たちと全く違うことの小気味よさに対しての感想をまず述べたいためである、ということだ。
あの文学賞も取った川上弘美の『センセイの鞄』を粉砕し、ベストセラーの宮部みゆきの『模倣犯』を 罵倒した虫氏が、今度は正統派文学の読み手、書き手と思える高村薫の初めての”本格的文学作品”(サスペンスや 刑事ものでない)に対してまで、批評の刃を向けるとは思わなかった。これこそ最近ではめずらしい 「まっとうな本」ではなかったのだろうか?
私は主に新聞で彼女の最近の事件などに対する論評やまた読書についての 回想のようなものなどを読んでいるだけだが、その論調においても文章においてもとても骨太な感じのする人 だという印象を持っていた。一度彼女の初期の作品に挑戦したけど、まだ中身の形も見えて来ない段階で挫折 してしまった。ということは私の気力や能力にも問題があろうが、それほどすいすい読めるような文章では なかったということだ。その内容にもよるだろうが、とにかく重苦しい文だった。そういう高村氏が書いた 本格的な作品なのだ。虫氏好みかと思いきや・・。
ここから先虫氏の批評を正確に伝えるにはそれなりの 文学史や専門用語を熟知していないと無理なようである。私なりのまとめ方をすれば、高村氏が「日本の近代を 真正面から描こうとした」という他の”書評子”たちの意見に対して「高村氏の『近代』とは引用したり名前 を挙げた小説(近代小説)のことなのである」という極端な見方を示している。そこに引用された小説というのはふた昔 前の「文学少女」「文学青年」なら誰もが読んだであろう「世界文学全集」に堂々と名を連ねている作品や 「日本戦後文学」と呼ばれる作品である。むろん高村氏の愛読書というか文学の素養となっているものだろう。 そういう作品群に対する尊敬の念も込めて大河小説のようなものを描きたかったのかもしれない。
最後に虫氏は「理想主義」「マルクス主義」とともに「近代小説」がやっと退場したのに、それを呼び戻すのは 「文学少女」の勘違いととどめの一発を浴びせている。どちらが正しい批評なのか読んでない私には分かる わけもないし、読んでみてもおもしろいか否かのレベルでしか評価は難しいが・・・。

7/ 5号ルポルタージュの原点を見た(ナンシー関著「信仰の現場」<角川文庫>) (「本棚の隙間」斎藤美奈子著)
著者に電話でナンシー関の訃報を知らせた人が「彼女はちゃんと評価されてなかった」と言って薦めたのが 「信仰の現場」というルポルタージュだったという。「小耳にはさもう」を連載する前から連載開始1年までの 3年間雑誌に連載されたものだそうだ。ナンシー唯一の「取材もの」。ここで「信仰の現場」というのは、あることに 取り憑かれている集団が集まる場所、またそれほど切実なものではないがある種の興奮を味わうための 集団がいる特定の場所、というような意味で使われているようだ。今ならさしずめサッカーW杯の試合会場とか 、いやこの本の中身だとスポーツバーとか大阪の道頓堀周辺とか、いつもは阪神しか応援しない飲み屋での テレビ観戦とかの取材の方が似合っていそうだ。
そこに取材という形でカメラなどを担いで行くのでは なく、その群集に紛れてナンシーが感じたことをレポートしているのだという。この「群集に紛れて」というのが ナンシー関のその後のエッセイなどの姿勢に通じるのではないかと斎藤美奈子は見る。
「小耳にはさもう」や 「テレビ消灯時間」などでの鋭い突っ込みや批判は、その対象に現実に公に近づいていればとても書ける ものではなかっただろう。あくまでも一視聴者、部外者としての無責任発言を通すことで切れ味はいやが上にも 鋭くなっていった。これを推薦するというのは、多分ナンシーの素人感覚の鋭さが一番よく 表されているのではないのかな、と推測する。文庫で出ているそうだし、ぜひ読んでみたい。

3/22号「スター三島」からの離れ方がいい(「本棚の隙間」蜂飼 耳著)
橋本治著『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』という 本について言及している。(この本については初耳だ)橋本治はいわゆる団塊の世代、有名なのが東大紛争の 時代の大学祭のポスター「とめてくれるな、おっ母さん!背中の銀杏(だっけ?)が泣いている」の作者だということ。(まあこのポスターを 知ってる人というのも40歳以上?)そして橋本の文章が読みたいと思ったこの著者は74年生まれ!「東京 オリンピック」も「オイルショック」も「三島由紀夫の自決」も他の歴史的事実と同じことだと言う。一方 橋本氏は三島が死んでからこれで安心して彼の作品が読める、と思ったのだと言う。
そこらへんの心情は この本を読まないとはっきりとはわからない。あの頃の三島というスター作家を真正面からは受け止められない というのが、いかにも橋本治のスタンスー世間との関わり方ーだと思う。それは世間へのデビューがあのポスター だということでも分かる。というかその原点が現在までの橋本治の生き方をほとんど象徴していると思う。 つまり東大紛争というものに真正面から関わるのではなく、裏技的または斜めからの切り方で自己表現したのだ。
その裏技的な関わりは「枕草子」の”桃尻語訳”とか最近の「源氏物語」訳そしてこの著書へと連なって 行く。世間一般が大そうなもの、高尚なもの、と感じている古典や三島由紀夫を橋本治流の解釈で噛み砕き、 より俗っぽく裃をとって「こんなんですよ」と見せてくれる。といっても私は”桃尻語訳”の「枕草子」を 少しかじっただけなのだが。”桃尻語訳”って女子高生の話し言葉だと記憶しているけど、私の読んだ感じでは オカマっぽかった。そんな橋本の文章を読むと自分もなんとなくわかったような気になって来るのだと言う。 この文で評者が例に出している橋本流の解釈、藤原定家の「大空は 梅のにおいに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月」を『「梅の匂いにやられて頭がくらくらした」という歌です。 「くらくらする雰囲気が出ていてよい歌である」がこの歌の鑑賞です』、というのは橋本治の古典への 取り組み方を示す分かりやすいひとつの例であろう。要は文学でも政治でも大言壮語で語っても 本質をつかんでいるわけではなく、分かりやすい言葉、たとえ女子高生の少ない語彙でも語れるものなのよ、と 言いたいのではないだろうか。東大の大学祭のポスターから今日の古典解釈三島解釈まで一貫した橋本イズム だと思う。(ほとんど著者を読んでいない私が決めつけるのはマズイかもしれないがーメディアでの発言には注意していますが)

3/ 1号『模倣犯』は『罪と罰』の出来の悪い模倣品(「まっとうな本」”虫”著)

2/1号で”純文学作品”としてはヒットしている(?)かどうかは 最近のベストセラーの資料を見てないから正確には言えないが、巷の評価も高い川上弘美の『センセイの鞄』 をばっさり斬った(虫)氏が、今度はあろうことかこれは文句なくベストセラーで、書評で星三つとまでは いかなくても、これまでの実績も手伝って評判を取った『模倣犯』をこのタイトル通り、 痛烈に批評している。多くの宮部ファンがこれを読んだら怒るだろうなあ。 なにせ今「ほぼ日刊イトイ新聞」では「本を読む馬鹿が、 私は好きよ」のコーナーで宮部を取上げファンのブックレビューを載せている。今までにこの『模倣犯』と 『龍は眠る』そして2月22日には『火車』を取上げていた。もちろん皆絶賛である。私はこの3冊の 内『火車』だけは読んでいる。というかあまりに宮部みゆきの評判がいいので(書評も売れ行きも)一冊くらい読んでみようと して文庫本の中から選んだのである。(カバーの紹介を読んでこれならがっかりすることはないと予想 して)そして予想以上におもしろかった。さすが数々のベストセラーを生み出す勢いのある作家の作品だと 納得した。その内容は多分に暗くてちょっと怖かったのだがとにかく一度読み出したら止められないような 話の運びのうまさがある。筆致も丁寧でエンターテインメントとしては上等だと思った。ただ事件を解く 休職中の刑事の家庭やその周辺の人物描写からしてちょっと古臭いというか、いかにも人情物という感じが していたのは確かで、その後の登場人物たちにもそういう感じの人が多いというのが気にはなった。 人情味あふれるとか温かな視点というのが宮部みゆきの特徴だというのは知識として知っては いたが。私が率直に感じたのはその描写がなんだかよく出来た劇画の人物描写と同じレベルだと思ったのだ。 劇画といってもそれは幅があってずっと深いものもあるだろうが、ごくごくエンターテインメントの よく出来た劇画、その程度の深さしか見られない。ちょっと作り物めくというか。まあ娯楽ミステリーの 範囲ならそれでいいのだろうが。今の宮部みゆきの読まれ方は、果たしてただの娯楽作品としての扱いかと いうとそうでもない。取上げる題材が社会問題を扱うときはやはりそれなりに受け留められる。今度の『模倣犯』が そのいい例である。
宮部みゆきファンはこの批評は読まない方がいいだろう。読んだら相当ショックを 受けるだろうから。自分の好きな作家の大作を『罪と罰』の模倣というよりむしろ時代劇の『大岡越前』に 似ているなどと書かれたら立ち直れるだろうか。これは宮部の小説観、世界観、人生観にかかわってくるところだろう。 いやそういう「人情や涙」があるから宮部が好きだという 人もいるかもしれない。そういう人にとってはだから何よという感じだろうが。この虫氏も「勿論『大岡越前』 を見て、魂が揺るがされても、それはその人の自由なのだが。」と最後に言い放っている。
それにしても この虫氏、恐るべしである。川上弘美や宮部みゆきのような、評価が定まりつつある人気作家の実に痛い ところを容赦なく突いてくる。作家本人が気づいていない、あるいは面と向かいたくない面、気づいて いるが見て見ぬ振りをしている作家として弱い部分を読者の前にさらすのだから、嫌な奴だろう。でも こんな評者はやはりいてほしいと思う。


2/15号 受賞作を読む 芥川賞 長島有『猛スピードで母は』
(評者 小谷野 敦)

冒頭「夏目漱石と芥川龍之介はどっちが偉いの?」という高校生の 質問に始まって、「どうも世間では芥川賞受賞作というのがその時期の『純文学』の代表とでも思っている らしい雰囲気がある」と芥川賞受賞作をむやみにありがたがったり難しがったりする風潮を、やんわり否定し たい口振りだ。そしてこの賞の傾向を分析している。「あまり物語りになってはいけない」とか「派手派手 しいことが起こってはいけない」「終わりはなんとなく終わらなければいけない」「なるべくなら 社会問題とか戦争とか(中略)そういうものが大げさでなくさりげなく扱われているのが望ましいらしく」 「子供の視点から描く」「同性愛、民族問題とかもいい」とか、ここ二十年ほどの受賞作のテーマを 網羅し小説作法を示してくれる。
そこで今回の受賞作であるが、確かにこの傾向にぴたりと照準を合わせたというほどの 感じではないにせよ、(そこまでミエミエではない、またそうであれば選ばれないだろう)まあ、まあ、傾向に 近いものではあるだろう。(断っておくが私自身はこの作品を読んでいない。大体 芥川賞受賞作品を読まなくなって もう十年以上は経っているように思う。)でもこの受賞作の話題を新聞で読んだとき、いつもよりは 好意的に思えた。というのはそのタイトルが現代詩のようだったし、いまさら”母”を題材に選ぶという ところに素直さとかまじめさとかを感じたからだろう。この評者の感想の「概して、NHKの単発ドラマの シナリオのようだ。」というのでなんとなく中身や作風が想像できてしまう。
でも私としては、変に難解風”純文学”や特殊な環境の登場人物たちが出てきて訴えかけるような小説よりもは まともな生活者が登場する日常生活に根ざした(かといってリアリズムに終始せよというつもりはないが)物語の 方が好ましいように思う。前者のような小説でも小手先だけのものではない作者の思想や力量がそれに見合う ものなら、それもまた面白いだろうけど。
*この「週刊図書館」でも執筆している斎藤美奈子氏が「朝日 新聞」の書評でこれを取上げていて「母子家庭で母親が元気にがんばる(今風に恋愛などしながら?)という 小説なら前からあった。何もいまさらという感じだがこの小説は”車小説”(だったか?)とも読める。 ジープやその他の車のシーンが書き込まれていて、前作も『サイドカーに犬を』というタイトルだったし」というような斜めからの 見方をしていておもしろかった。


2/1号 『センセイの鞄』に涙するバカなオヤジたち(「まっとうな本」”虫”著)

冒頭「近頃つくづく思う。まっとうな本がないのである。まっとうな本とは、その書き手がきちんと対象に 向かい合って、書いている本、のことだ」とある。
それほど本を読まない私でも、ここ10年くらいの文学賞の 傾向とか内容とかを新聞などで読んでうすうす感じていることである。いまや文学を志すなどという日本人の層 は、70年代以前と比べるととんでもなくうすっぺらだろう。レベルもとんでもなく低いことだろう。 そういう中で文学賞だけは確実に増えているだろうから、その受賞作もとんでもなく(とまではいかなくても) かなり質は落ちていると思われる。
この川上弘美の『センセイの鞄』は私の記憶が確かなら(不確かだが) 谷崎潤一郎賞を獲っているはずだ。谷崎潤一郎賞ってその名を冠している作家の作風のような、濃密な小説 世界を作り上げている作品に与える賞かと思っていたが、この作者に与えるということは、他に値する作品がどこにも それほどなかったということなのか、と私はそのとき感じたのだが。
論者の”虫”氏は、川上弘美の 作風、作品を徹底的に簡略化してその舞台裏をあばいている。論者はもともと川上の小説は好きだった と書く。しかし「この作家は、楽をすることを、覚え」てダメになった、と言う。私自身はまだ この評判の本を読んでいないので、ダメなのかどうかは断定できないが、この論者の嘆きがなんとなく 分かる。芥川賞を獲った『蛇を踏む』を含んだ短編集とエッセイを1冊読んだだけだが、この”虫”氏の あばいた舞台裏はまさにその通りだと思ったし、この『センセイの鞄』も読まなくてもその作風、展開が 想像できてしまう。多分、そこには結構趣味の良い言葉が並んでるだろうし、「あちゃ・・」「恥ずかしい・・」 というような表現はないだろう。だから 私も決してその作風、作品そして作者のことが嫌いではない。 作品にも関心はあるし、人間的に興味もある。しかしそうは言っても、虫氏の解説を読むとなおさら、そんな大きな賞をもらい 、書評で誉められ、いいオヤジが「涙を流す」とか「感動する」とかいうのとは違うだろう、という感じは とてもよくわかる。あまりに私の見方とぴったりだったので、川上弘美には酷な感じもするが、ある意味、気持ちよかった。




2000年の「週刊図書館」