山笠略史

     藤田村書上に依れば 「山笠、小供踊類有りて賑々敷御神幸」 と有るも、その形は詳でない。春日神社

     波多野家文書の内 「穴生、折尾、引野ノ宮ニ付答□□」 に依れば享保期前後は藤田村の場合 「御神

     楽斗相勤居甲候」 とあり、いつの頃より山笠が始められたかは明確になし得ない。 山笠の形態につき

     直接示した記録としては、嘉永五年 六月の船町の場合があるが船町の場合それまでは山笠はなく随神

     の像を山車に致し、その次には土祖神(同祖神力)を置き、其後は見合いの物にて御神幸の共をしていた

     のを、 此の年より山笠をかき始めるとしている故、船町は嘉永五年を以って始まったとしている。ここに於

     いては山車と山笠を明確に区別しているが、山笠の詳細は知り得ない。 天保十四年の藤田村庄屋(居村

     熊手村当時入庄屋役)木村源七の日記によれば山笠台ばかりかつぎ、又雨の中をもかつぎ得る事よりして、

     紙張りの岩山や人形飾り山笠ではなく笹山の可能性が高い。 黒崎の場合、藩政時代に於いては、山笠は

     毎年祇園会に限り立てられたものとは言い難く祇園会にも立てられたという方が妥当である。天保十四年の

     八月の祭礼や嘉永五年六月の早天、文久二年 八月の流行病など他の祭礼や行事に際しても立てられて

     いる。 祇園神信仰が本来午頭天王の信仰にもとずくものとすれば、火災、疫病神の節、午頭天王(武塔天

     神、建須佐之男命)が祈りの対象になるのは当然の事であり、前記の如く災厄に対しても山笠が立てられた

     のは山笠自然本来の姿とも考え得る。 因みに天和二年(1682年)の神名帳(春日神社文章)では祇園社

  黒崎祇園の歴史に戻る